維盛の舞
平家一門中、随一の美男子
平家の公達の中で、もっとも容姿に恵まれていたのは誰だったのだろうか。この答えは実に簡単である。というのも、平資盛の恋人としても知られる歌人の建礼門院右京大夫が、自身の歌集の中でその問いに答えてくれているからだ。「平家の公達は今の世の人々を見渡しても、とても際立っていた一門であったが、維盛は特に容貌、心配りがたぐいまれで、古今の中で比べる者もないほどであった」。そう、資盛の兄維盛こそ平家随一のハンサムさんだったのだ。
どれほどの美しさだったのかというと、右京大夫いわく「ありがたかりしかたち(たぐいまれな美貌)」は昔も今も比べるほどがないほどであった。たとえば、賀茂祭における維盛のりりしい警固姿は「絵物語に書かれている人物のように美しく見えた」という。一緒に見ていた西園寺実宗(公経の父)は「うらやまし見と見る人のいかばかり なべてあふひを心かくらむ」と詠んだ。「うらやましいことだ、維盛を見る女性という女性はすべて、恋人になれる日をどれほどひそかに思っていることか」というのだから、男でもほれぼれするほどの男ぶりだったのだろう。男もうらやむルックスに加え、立ち居振る舞いも優美だったという維盛は、当時の宮廷のアイドル的存在だった。
光源氏にたとえられた青海波の舞
その維盛の一世一代の晴れ舞台となったのが、安元2年(1176)、法住寺殿の南殿で催された後白河法皇の50歳を祝う賀宴であった。2度の試楽(予行演習)を経て迎えた本番。3日目の後宴に登場した維盛は、藤原成宗(成親の次男)とともに艶やかな「青海波」の舞を披露した。この日の賀宴の様子を描いた『安元御賀記』は、維盛の舞姿を次のように記録している。「維盛朝臣の足の運びや袂を振って舞う姿は、この世にまたとない様子で、入日の影にいちだんと美しく映えて見えた。それはほかに比べる者もないほど艶やかだった」
右京大夫によると、維盛の舞姿を見た人々は「光源氏のためしも思ひ出でらるる」といいあい、「花の美しい色つやも、この君の美しさに圧倒されてしまいそうだ」と褒め称えたという。光源氏のためし(先例)とは、『源氏物語』「紅葉賀」で、光源氏が頭中将とともに青海波を舞って賞賛された故事をさす。平家嫌いで堅物の九条兼実さえ、維盛の舞姿を見て「維盛は容顔美麗、嘆美するに足る」と日記に記したほどだから、その優美さはいかばかりであったろうか。
後年、維盛は富士川の戦い、倶利伽羅峠・篠原の戦いという、平家にとって大事な合戦において総大将を務め、いずれも大敗を喫した。ともすれば平家没落のA級戦犯のようにいわれるが、平家全盛期の平和な世においては、立派に平家のブランドイメージを高める広告塔の役割を果たしていたのだ。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/ 高橋昌明著『平家の群像』(岩波新書)/ 井上嘉子著『五常楽 平家公達徒然』(シースペース)