重盛と賀茂祭
誠実・温厚な人柄はホンモノ
『平家物語』では嫌味なほどに聖人君子然とした重盛だが、実際はそれほど品行方正ではなかった。非法を働いて興福寺に訴えられた家人をかばったり、息子の資盛ともめごとを起こした摂政藤原基房に報復したりした。平家に「おごり」があったとすれば、重盛にもその責任の一端はある。もっとも、そんな重盛を非難するつもりはない。武家としてにらみをきかすべき時ははっきりと態度を決めなければならず(資盛の件がそれに該当するかはともかく)、父清盛もそのような重盛を頼りにしていたのだ。
ただし、重盛が思慮に富み、沈着冷静であったという世評は、あながち誇張というわけでもないらしい。慈円の歴史書『愚管抄』でも「小松内府ハイミジク心ウルハシクテ」と述べられており、鎌倉後期成立の歴史書『百錬抄』にも、「武勇は人にすぐれているが、心ばえはとても穏やかである」とある。実際の重盛も誠実・温厚な人柄であり、人望も厚かった様子がしのばれるのである。
賀茂祭の一等席を“予約”
鎌倉時代中期成立の道徳的説話集『十訓抄』にも、重盛の思慮深さを語る逸話がある。あるとき、重盛は賀茂祭をみるために車を4、5両したてて一条大路に繰り出した。ところが、すでに見物の牛車は沿道にすきまなく立て並べられていたため、人々は「いったいどの車がどかされるのだろうか」とハラハラして見ていた。重盛の人にらみで車をどかすなど造作もないほど、平家の権勢が大きかったころだ。
人々がかたずをのんでみていると、果たして重盛の一行は見物によさそうな場所に立っていた車を引きのけ始めた。だが、よく見てみるとその車には誰も乗っていない。人々がわざわざ場所を空けなくてもすむよう、あらかじめ無人の車を置くように命じてあったのだ。『源氏物語』で六条の御息所が、光源氏の正妻である葵上と車争いをして辱めを受けて生霊となった話を教訓にしたものであり、重盛の思慮深さとともに、教養の高さが垣間見える逸話である。
家人に対する清盛の優しさを描いた『十訓抄』の逸話からもうかがえるように、同書が成立した鎌倉中期は平家への懐旧の念が強い時代だったといわれている。聖人君子のような『平家物語』の重盛像が浸透する以前から、すでに重盛の賢明さ、温厚さは広く知られていたのだろう。『平家物語』が描く虚構の重盛像とは一味違った趣深い話である。
参考文献
浅見和彦校注・訳『新編日本古典文学全集51 十訓抄』(小学館)/上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)