宗盛の威厳

大臣らしい貫禄とたたずまい

 宗盛といえば、『平家物語』では清盛亡き後の平家の棟梁でありながら、常に兄重盛や弟知盛と比較され、無能、腰ぬけ扱いされているかわいそうな人物である。もっとも、事実を曲げてまで悪人扱いされている清盛に比べて、宗盛の場合は誇張はあるにせよ実像に近いところが悲しい。
 しかしながら、上級貴族らしい雅さや公卿としての威厳は、それなりに備えた人物だったようだ。『建礼門院右京大夫集』によると、安元3年(1177)、重盛が左大将と内大臣を兼官し、お礼言上のために参内した際、右大将だった宗盛も供として参内したが、その様子は「いきほひゆゆしく(威光は素晴らしく)」見えたという。
『平家物語』にも珍しく宗盛をほめている部分がある。巻十「大嘗会之沙汰」で、寿永元年(1182)10月、安徳天皇の大嘗会御禊(大嘗会の前に鴨川で行うみそぎ)にしたがう宗盛の様子を「冠のかぶりぐあいや衣服を着た袖の風情、袴の裾までことにすぐれて見えた」と記している。同書は、その二年後、同じく後鳥羽天皇の御禊に供奉した源義経を「平家の中のえりくずよりもなほおとれり」とこき下ろしているくらいだから、大臣にふさわしい貫録、洗練された宗盛のたたずまいは、武骨な源氏の御曹司などとは比べものにならなかった。

右京大夫に恋歌を贈る

 宮廷貴族らし雅さも備わっていた。宗盛が中納言だった頃の五節の折、右京大夫は宗盛に櫛をくれるようと頼んでいた。大嘗会で行われる五節では、舞姫が櫛を畳紙に包んで天皇に奉るが、臣下の間でも親しい人の間で櫛を贈る習慣があった。宗盛は紅の薄様(薄くすいた鳥の子紙や雁皮紙)に、繁った葦の間を分けて行く小船の模様をあしらった櫛を贈ったが、並々ならず立派だったという。この時、宗盛は押しつけるように、次の歌を右京大夫に贈った。
「あしわけのさはるをぶねにくれなゐの ふかき心をよするとをしれ」(繁る葦の間を分け障害を押しのけながら進む小船の文様に、紅のように燃えるあなたへの思いを託している私の心を分かってください)
 対する右京大夫は「あしわけて心よせけるをぶねとも くれなゐふかきいろにてぞしる」(葦を分けて進む小船のように心を寄せてくださる心の深さは、紅の色の深さで知りました)という、気乗りのしない歌を返すだけだった。
 雅な櫛と燃えるような恋歌で洗練された貴族らしさを演出した宗盛だったが、最後は右京大夫に軽くあしらわれてしまうところが彼らしい。実は前述の安徳天皇御禊についても、次のような話が残っている。この時、宗盛は節下の大臣(儀式に建てる旗の下で式を執行する大臣)として儀式を取り仕切ったが、途中で旗が倒れるという失態があったほか、宗盛自身、行幸の途中で待賢門前と三条京極で二度までも落馬したという。
 落馬など武家の棟梁としてあってはならない失態だが、源頼朝の死因も落馬が原因だったといわれているから、宗盛だけがふがいないわけではない。それにしても、せっかく『平家物語』が、珍しく宗盛を立派に人物を描いてくれていたのに、何とも無様な逸話を残してしまったものだ。どうも宗盛になると、良い話にも変なオチがついてしまうようである。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/ 高橋昌明著『平家の群像』(岩波新書)/ 井上嘉子著『五常楽 平家公達徒然』(シースペース)