私が厳原病院(現対馬いづはら病院)に初めて赴任したのは昭和57年(1982年)6月のことである。院長(内科)、副院長(外科)と外科と小児科のドクターが一人づつ、合計5人であった。そして、曲がりなりにも私は眼科医である。しかしこのような医療状況の下では眼科だけをやるわけにはいかない。もちろん、眼科の器械といっても視力計と細隙灯顕微鏡が置いてあるだけである。入院ベッドは100床だが、この年ICUと透析室が増設され、厳原野戦病院の幕は切って落とされたばかりだった。未熟児、脳動脈瘤破裂の患者さんのヘリ搬送は日常茶飯事のことだった。大村の国立長崎中央病院へ運ぶのである。 整形外科医がいないため見よう見まねでする骨折の治療はストレスだった。また、お産の時、母子センターに呼ばれるのも産科の経験の無い(学生の時はあるが)私にとってつらいことだった。内科や小児科の治療はまだましだったが、夜と無く昼と無くあらゆる患者に対応しなければならなかった。当直は4日に1回だが、緊急手術があるとどうしても手が足りないので、ほとんど24時間拘束されていた。眼科診療は週に3日の外来診療のみだった。眼球破裂などの緊急患者さんはヘリまたは飛行機で内地に送らざるを得なかった。ストレスの毎日は続いた。 半年ほど経って、ようやく眼科の顕微鏡を買ってもらった。それ程、高価な顕微鏡ではなかったが、やっと白内障手術や外傷の角膜縫合くらいはできると喜んだのだ。週3回の眼科外来だったが患者さんは日を追うごとに増えていき、外来が夕方になっても終わらなくなってきた。また、内科の入院患者さんも主治医となる息がつけない毎日だった。
玄海つつじ |