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気まぐれ日記Author Diary
日常生活で感じたことをエッセイにしてみました。
 
 
博多祇園山笠(2001年7月)/梅雨(2001年6月)/みどりの季節(2001年4月)/別れ(2001年2月)/今世紀最後のクリスマス(2000年12月)/どうなるのか21世紀(2000年11月)/日本シリーズ(2000年10月)/オリンピック(2000年9月)/生命とは(2000年8月)/タイタニック(1999年11月)/テレビ(1999年10月)/ 秋の運動会(1999年10月)/ (1999年8月)
 
 
  博多祇園山笠
 
 梅雨明け2日目の日曜日、追い山を見に行った。まだテレビでしか山笠は見たことがなかったので、一度本物を見てみたいと思っていた。4時に起きて行くつもりだったが、起きて時計を見たらもう4時40分だった。あわてて自転車に飛び乗った。もう夜は明けて明るくなっている。早朝は車も少なくて気持ちがいい。
 櫛田神社には5時20分に到着。しかし、現場は凄い人の数で身動きがとれない。 それに体臭と熱気で蒸し暑い。頭がぼーっとしてくる。あわてて出てきたのでデジカメを持ってくるのを忘れてしまった。しかし、なんとか山を3つ見ることができた。またこの次は、余裕を持って見に行きたい。
 
 
 
  梅雨
 
 今年も梅雨の季節がやってきた。この季節は1年のうち、最も長く感じる月である。不快な蒸し暑い日が毎日続くこともあるが、祝日が無く勤務日数が多いことが、子供の頃から、最も長い月と感じていた。しかし、庭のソテツの葉はこの頃勢いを増してぐんぐん成長していく。昨年の暮れに、葉をみんな切られてしまって、丸坊主になってしまっていたソテツも新葉が成長してきた。この梅雨の季節、雨が降らないと、夏場の水不足で生活に影響が出てくる。とくにここ福岡の水事情は厳しく、常に断水の危険と背中合わせである。豪雨による災害も困るが、空梅雨というのも困るという時期が続く。そして、私の診療所も開院5年が過ぎ、いよいよこれから地域に密着した生活が求められていく。地道な努力を続けていきたい。
 
 
 
  みどりの季節
 
 新緑のまぶしい季節になった。庭の木々もこの季節が一番美しい。
カイドウのピンクの花は終わってしまったが、紫のモクレン、満開になったヤエザクラの花が目にまぶしい。ピンクや赤紅色のツツジの花も満開に近くなった。紫のあやめの花も咲き始めた。エビネランやスイートアリッサムの赤紫の花群、カラーの白も目につく。
 快晴の空に新緑の生命の美しさが映える。この季節の風は陽光をたくさん吸って体に心地よい。今年は私にとって試練の年になりそうだけど、この素晴らしい植物の生命力を見習って何とか乗り切っていきたいものだ。
 
 
 
  別れ
 
 この季節は、別れの季節だろうか。ともに働いてきたスタッフたち、そして調剤薬局の薬局長が退職する。
 出会いは別れのはじまりとも言うが、別れは出会いのはじまりでもある。今度の別れは、私にとって非常につらいものであった。
 スタッフの意見のちょっとした食い違いが、スタッフを退職に追い込んでしまった。また、新しい人生を目指して退職するものもいる。新しい職場でさらに発展していって欲しいものだ。彼らの幸せを願わないではいられない。
 今まで、スタッフの在職期間が短いのに頭を悩ませてきた現実から、今度は新たな方法を模索している。もちろん、採用の人選も大きな要素となる。
 今回、面接試験が慎重になったのも仕方がないといえばそれまでであるが、20名もの面接試験を行った。しかし、なかなか思うような人材が集まらなかった。
 2次試験も、その中の6名に実施した。やっとスタッフの目途はついたが、果たしてこのスタッフが期待にこたえる仕事をしてくれるか、その経過を見たい。
 
 
 
  今世紀最後のクリスマス
 
 20世紀の終わりのクリスマスを迎えた。クリスマスも2000年という歴史が流れた。
 私は人生の前半を20世紀に生きてきた。
 私の生きてきた20世紀後半は私にとってどんな時代だったのだろうか。
 そして今、日本で福岡で生活している今という現実はどうしてできたのだろうか?
 西暦2000年という人類の重みからすると私の生きてきた数十年はたいしたことはないのかもしれない。また地球という星の寿命からすると、この2000年という年月は、ほんの一瞬の時間にすぎない。
 しかし、この短い時間でさえ神様からいただいた大事な時間である。
 そのなかで、自分がいかに生きるか真剣に考えていきたい。自分に与えられた時間の中で何を考え何を行動すればいいのか。生きてきて良かったといえる21世紀をまた生きていきたいと思う。20世紀と21世紀をつなぐ橋をひとつ渡れることをひとつの喜びにしたい。
 
 
  どうなるのか21世紀
 
 どうなるのか21世紀
 20世紀もいよいよ押し詰まってきた。
 20世紀の後半に生きてきた自分としては、過去の歴史を振り返ってみると、非常にいい時代にいい国に生まれ、過ごしてきた感はある。
 しかし、21世紀までこの状況が続くとはとても思われない。
 日本経済は、まだトンネルのまっただ中にあるし、出口は一向に見えてこない。借金地獄の日本国はいつ破綻が来てもおかしくない状況である。しかし、この状況は、この10年間で膨らんだものであって、10年前までは、日本の経済は発展しつつあったのだ。バブル崩壊とともに、坂道を転がるように転落してしまった。
 この状況を打開するのは容易ではないだろう。21世紀を目の前にして明るい話題はなかなか見えてこない。
 来年早々には老人医療費の個人負担が増える。この背景には、日本経済の破綻や少子化など、深刻な問題が潜んでいる。これからは、自己防衛しなければ生き残れない状況が続くかもしれない。
 21世紀、それは自由競争の時代ではあるが、今までのような社会保障はあまり期待できない過酷な社会なのかもしれない。
 
 
  日本シリーズ
 
 日本シリーズ
 10月というと日本シリーズというプロ野球のセパ両リーグで優勝した球団同士の対戦がある。
 この日本シリーズも、西鉄ライオンズの3連覇や読売ジャイアンツの9連覇など輝かしい過去の記憶は今も鮮明に残っている。
 この時期にスポーツ紙のトップを飾るのは毎年この日本シリーズである。
 プロ野球は、日本のスポーツの中で最も人気のあるスポーツであろう。人気選手の年棒はどんどん上がり、他のスポーツを圧倒している。
 私の記憶によればこの日本シリーズを意識し始めたのは西鉄ライオンズの黄金期であった。それからまもなくジャイアンツの時代になり、西武ライオンズの時代が来て混沌とした状態になってきた。セリーグは4年前から毎年優勝球団が変わっている。
 昨年、福岡の地元球団ダイエーホークスが初優勝し、西鉄ライオンズの優勝以来の賑わいが戻ってきた。そして今年は2年連続のリーグ優勝を達成し、地元福岡は盛り上がっている。しかし、親会社ダイエーの台所は火の車である。優勝したのに身売り説などが飛び出し、怪しげな雰囲気が漂う。
 それはともかくとして、今年は世紀末のON対決が見物である。素晴らしい日本シリーズを期待したい。
 
 
  オリンピック
 
 シドニーオリンピック
 今年は今世紀最後のオリンピックの年である。
 4年に1度しか来ないオリンピックだが、オリンピックがやってくるとテレビに釘付けの毎日となる。
 オリンピックをテレビで見るようになったのはいつごろからだろうか?そもそも、オリンピックという競技を意識し感じ始めたのはいつのことだろうか?
 私の記憶では、1960年のローマオリンピックの時だろうと思う。私自身オリンピックの年に生まれ、その前のオリンピックも生きてきてはいるのだが記憶にない。このローマオリンピックの年は8歳だったわけだが、記憶にあるのは裸足のマラソンランナーアベベ選手くらいなものである。それほど彼は印象に残っていたし、マラソンという競技が国民の注目の競技であったことに違いはない。
 そして、カラーテレビを初めてみた東京オリンピック。このとき私は12歳。日本は金メダルの数は第3位だったと思う。この頃日本が強かったのか世界のレベルがまだ低かったのかはわからないが、このときも圧倒的な強さのアメリカを見てすごい国だと感嘆していた。
 それから、時代は変わりソビエト連邦と東ドイツの強さばかりが目立つようになってきた。しかし、政治の流れとともにこの2強の時代は終わった。アメリカと中国は相変わらず強いがいろんな国が台頭してきた。日本も並の国になってしまったが応援をやめるわけにはいかない。
 
 
  生命とは
 
 今世紀の夏も終わろうとしている。
 今年の夏は異常に暑かったが、その夏も終焉に近づくと花火大会の終わったような、なんともわびしい寂しさが漂う。
 肩の障害が半年になるに及んで、命には限りがあるとつくづくと思う。
 今まで何の不自由もなく、スポーツや普段の動作や生活をやっていた毎日が突然中断され、障害を負う。そして、それがもうもとに戻らないとわかったとき人は何を考えるのだろう?障害を背負って、障害と向き合いながらの生活を考えていくのだろうか。
 私の場合は、まだ障害の程度が軽いのだが、これが重度になったとき、人は死との対面生活を余儀なくされる。いつかは死ぬとわかっていても普段は死と向き合った生活はしないものだ。
 しかし、死にいく患者を看取った医師も看護婦もやがてはその時が来る。長い長い地球の歴史から考えたらその時間はほんの一瞬だ。早く死ぬ人も長生きする人も時間的にはあまり大差がない。そう考えると、この時間をいかに大切に有効に楽しく生きるかが求められる。
 もう人生は下り坂。しかし、今生まれた赤ん坊と生きる時間は大差がない。
 
 
  タイタニック
 
 昨年から今年にかけて世界中で空前のヒットをした映画がある。
 1912年4月に沈んだタイタニック号の映画化”タイタニック”である。
 20世紀始まって以来の大ヒットとなった背景にはいろいろな要素が含まれているが、沈んでいくタイタニック号の迫力と死を間際にした人間の生き様。さらにその上で展開されるロマンチックな激しい恋物語に感銘を受けるのであろう。
 制作費も興行収入もすごいが、そのスケールの大きさには度肝を抜く。
 20世紀の超大作として、次の21世紀にも語り継がれるのであろう。ネット界にもタイタニックのサイトが続々と登場し、その人気はもう1年になろうとするのに衰えをみせないでいる。私は、11月21日に初登場したテレビを見てやはり感動してしまった。世界中のみんなと同じように。やはり大作だった。
 今頃、タイタニック号は海の底でその歴史を語っているのだろうか?
 
 
  テレビ
 
 10月10日は体育の日である。この祝日は1964年の東京オリンピックを記念してできた祝日である。
 1964年10月10日、私はまだ小学生であった。小学校の図書館で生まれて初めてカラーテレビを見た記念すべき日だった。東京オリンピックの開会式、日本の選手団の朱が目にまぶしかった。
 小学生時代は、やはり私もテレビっ子だった。しかし、その大部分は白黒テレビである。私の実家は、かなり早くからテレビを買っていた。老舗の理髪店で、その当時お客さんがテレビを見るのを楽しみに散髪に来ていたのだった。いつも黒山の人だかりになるのは、力道山のプロレスと相撲だった。私の記憶では、相撲は朝潮、栃錦、若乃花の横綱時代であった。例によって、私は日曜日午後7時からの月光仮面を見るのが楽しみであった。現在の天皇陛下の皇太子時代の御成婚はまだ目に焼き付いている。お店がテレビを見る人たちで溢れていたからである。
 テレビのチャンネルも当時は、NHKとRKKの2チャンネルしか映らなかった。RKKは熊本放送だが、私が住んでいた諫早市は長崎県でありながら、長崎市との間に山があるため電波が届かなかったのだ。
 その当時はまさにテレビは、遠くの映像が家で見られる宝の箱であった。しかし、それから35年という年月が経つと、テレビは一人一台が当たり前のような時代になり、カラー、多チャンネルが当たり前のような時代になった。もう宝の箱ではなくあって当たり前の道具でしかない。
 21世紀を前にして、20世紀にパソコンも宝の箱と思われていた時代があったと懐かしく思い返す日が21世紀には来るのであろう。
 
 
  秋の運動会
 
 秋になると運動会の想い出が返ってくる。快晴の秋晴れの空を見るといつも思い出すのは運動会の記憶である。
 小学生の頃、赤と緑と黄色のリボンが3位以内に入ると貰えた。しかし、確か6年間で1回しかもらった記憶がない。足は決して遅いほうではなかったのだが、3位以内にはなかなか入れなかった。そのリボンが私にとっては、まぶしく見えた。胸にたくさんのリボンをしている友達を見ると凄いやつだという敬意の念を抱かずにはいられなかった。
 運動会の時は、まずい給食ではなく、手作りのお弁当が楽しみだった。母は、食べきれないほどの手作りの海苔巻きと卵焼きを必ず持ってきた。それに梨や栗や柿。秋、運動会、海苔巻き、果物という組合せが私の頭の中では、自然とかたちづくられている。しかし、その記憶も小学生まででとぎれている。
 最近は、運動会も秋ではなく5月か6月にやるところが多くなった。私の子供の学校もそうだ。それに私が見学に行っても大きくなると子供は喜ばない。ビデオとカメラを片手に親ばかぶりを発揮するのも小学低学年までのようだ。秋の大運動会といった昔の感覚は自然となくなっていくように、かすかな記憶の片隅からも消えていこうとしている。
 
 
 
 
 今年も夏はやってきた。毎年梅雨の季節の後には暑い夏がやってくる。
 しかし、今年九州は湿度が高く雨の多い日が続いた。福岡市では6月29日に水害に襲われた。樋井川のバス道路が陥没し約1ヶ月半不通になった。そのため隣のバス道路が慢性的な大渋滞が続くようになった。今年の夏ははついに一度も泳ぎに行かなかった。毎年、1年に1回はプールか海か川に行っていた夏もすっきりした夏が来ないままもう終わろうとしている。
 昨年まで私と一緒についてまわっていた小学5年生の次女悠菜(はるな)が、今年の4月に5年生になった途端に、まったく私と一緒に行動しなくなった。休みの日も母親にはべったりだが、私とは距離を置くようになった。一緒に入っていたお風呂も入らなくなった。私は、寂しいので時々近づこうとするのだがそうすると嫌がられる。次女は3人兄弟の末っ子で上の2人とは年齢が離れているため、いつも両親のそばにいた。休みの日は必ず悠菜が一緒だった。静かな長男と長女に比べ、1日中おしゃべりしている悠菜がいなくなると家の中は火が消えたように静かになる。そばにいるとうるさいが、いなくなるとふっと寂しさが襲ってくる。
 昨年の夏は、その悠菜に頼まれて、ホームページを立ち上げてやった。はるぴょんホームページだが、昨年は悠菜と一緒によくHPの更新をやっていた。はるなは掲示板の書き込みやポストペットも熱心にしていた。
 しかし今年になって、ホームページも興味がなくなったのか更新も途絶えがちである。女の子は、思春期に入り、父親との間に一線を画すのだろうか。
 昨年、愛犬セナが家に来たことも影響があるのかもしれないが、これも成長過程の通るべき道なのだろう。