私は家族と離れて生活することを決めた。どうしても対馬の眼科医療をなんとか完結したい。このままではまだ私にとって中途半端な終わり方であった。
家族は、栃木での生活そして私は対馬。この生活は4ヶ月続いた。しかし、少しでもこの距離を縮めるべく、福岡に家族は引っ越してきた。しかし、不便な生活は続く。週末に飛行機で帰って、月曜の早朝対馬に帰るという日々が続いた。
この生活習慣は続く。しかし、何のための人生なのか自問自答の毎日は過ぎていった。3食の病院食と洗濯、掃除、真っ暗な宿舎に帰るときの心の透き間。医局での生活は自然と長くなる。そして、パソコン生活の始まりでもあった。
そして、対馬の休日は美津島町のテニスコートに。夜は宴会とカラオケといった毎日もあった。しかし、そう長くは続かない予感はあった。
確かに対馬での生活は、島出身以外の女性にとっては過酷なものかもしれない。自分でもそう傾いてきた心の流れに、なんとか押し戻そうとするのがやっとだった。しかし、いったん傾きかけた流れは押し返すことはできなかった。
比田勝港 |