私は自治医大の1期生で、現在眼科医を続けているのは、清水先生の影響が大きい。逆に言うと、清水先生と出会わなかったら、おそらく眼科医にはなっていなかったであろう。それが良かったかどうかはわからないが…。
昭和52年(もう20年も前の話になるが)、たまたま6年生の臨床実習で眼科を選択したのがそのきっかけとなった。その当時は、嶋田、山本、内藤、内野、柳沢、青木、小暮先生という顔ぶれで、窪野、坂西、福崎先生がレジデントという時代であった。医局旅行に連れて行ってもらい、当時流行っていた電線音頭を踊ったのは、皆さんの記憶に新しいところであると思う。
しかし卒業してからは、自治医大卒業生であるが故に、眼科を選択するのは何かと冷たい目で見られ、内科医とならざるを得なかった。ところが実際は、内科外科小児科のオールマイティ屋であった。卒後4年目にようやく母校での眼科の研修が始まり、清水先生の手ほどきを受けることとなった。
眼科の手術は外科の手術と違い、顕微鏡下では動きが大きい。慣れるのに大変な労力を要した。メスを持つ手が震え、清水先生の大きな手がスムーズに動くのを見て、果たしてこのような手術ができるようになるのか不安と焦燥感にとらわれたものである。とくに手術の時は慎重な性格が災いして、なかなか前に進まなかった。白内障手術は嚢内摘出術の時代で、水晶体をクライオで摘出するときのスリルが心臓に悪かった。しかしこの経験が、開業した現在も白内障手術を続けている原動力になっていることは確かである。まだ、開業して1年にしかならないが、手術患者さんは着実に増えているように感じる。
眼科の発表や原著に関しても、そういうことが苦手な私であったが、機会があるごとに続けてきた。臨床に関するものが多かったのは、清水先生の影響を多少なりとも受けているからなのだろう。しかし、基礎研究ももう少しやっておけばよかったと今になって後悔している。開業してから日々の生活に追われる毎日を過ごしているととくにそう思う。学会にもなかなか出席できず、年々、学会の最新情報から取り残されていくのは寂しいものだ。学会に行かなくても最新情報が手にはいるように、インターネットの勉強は続けているが。
時代は変わり、清水先生に始まった自治医大の眼科の歴史も、また、変わっていくのでしょう。
97.5.31清水昊幸先生退官記念