恍惚の人の白内障手術


 痴呆の人の白内障手術を経験した。私にとっては、開業して初めてのことであったが、勤務医時代にも何度かそれらしい経験はあった。

 その患者さんは老健施設に入所中だったが、最近、痴呆が進み他の患者さんを蹴ったりするということで、退所させられた人だった。ほんの少し前の記憶がなくなるという事で、診察券やお薬も本人には渡さないで家族に渡さなければならなかった。左眼は5年くらい前に、まだ精神状態がいいときに他院で手術されていた。今回は右眼の視力障害である。

 これ以上先に延ばすと、白内障はますます進行するだろう。そして、痴呆も進行していくかもしれない。そうなると、局所麻酔での手術はできなくなる。全身麻酔の手術となると入院が必要になり、家族にとっても、本人にとっても大変な負担になる。もう、手術の適応からはずされてしまうかもしれない。これが、私が手術を決意した理由だった。しかし、不安とストレスはつきまとった。決意してからも眠れぬ夜があった。とにかく、手術当日の患者さんの状態で手術をするかどうか決めよう。当日に手術を中止すればよい。と思いつつ手術の日になってしまった。

 患者さんと家族の人は、約束の時間の2時間前から来院した。気が変わったらいけないから早めに連れてきたというのである。手術を中止するわけにはいかなくなった。患者さんに手術室に入ってもらい、消毒を始めた。麻酔はいつものように点眼麻酔のみで他の薬はいっさい使わなかった。外来手術なので、いつもの手術を心がけた。手術を始めて5分後に目が痛い、顔にかぶせているドレープが苦しいと言い始めた。このまま途中で手術を中止するわけにはいかない。子供をあやすように声をかけ、家族にも手術室に入ってもらって、手をにぎっててもらった。ところが、こんどは、顔を動かし始めたのである。とにかく、眼内レンズを入れて手術を終わらなければいけない。再手術は絶対にできない。という私の信念が天に通じた。途中で手術を中断したものの、虹彩を一部かじった程度で手術は無事に終わったのである。手術終了とともに疲れがどっとやってきた。もう、2度とこういう手術はやりたくないなと思いながら、その長い一日は終わった。