YOMODA YASHIKI




「既成事実」の続編になります。


【太陽がくれた季節】





































「イ〜ルカせ〜んせ〜!早く、早く!」

 子供のようにはずんだ声で、自分より30mばかり先を行く青年が、こちらに向かって大きく手を振って叫んでいる。
 空は青く、真っ白な入道雲が浮かんでいて、海は強い真夏の日差しを受けて眩いばかりに輝いている。夏まっ盛りの今、海水浴を楽しむ人々が集った浜辺に、その嬉しそうな声は非常によく通った。
……は、恥ずかしい…。
 これが男女のカップルだったら、微笑ましく映ったりもするだろうが、自分達は男だった。しかもお互いいい年をした大人。
 さらに言うなら、前方の銀髪の青年は顔に白い布を巻き、さらに眼帯までしている怪しい風貌。
 なまじ青と黄色のアロハシャツなど着ているものだから、目立つことこの上ない。しかも自分は、これまた似合いもしない赤と黄色のアロハシャツを着ていて…。
 そう、ペアルックなのだ。
 どう見たって暑苦しいホモのカップル…。
 周囲の視線が痛くて消え入りたい気分のイルカの気持ちなど全くおかまいなしに、カカシは大声をはりあげながらこちらに向かってくる。
「もぉ〜!遅いですよ、イルカ先生!
早くしないと日が暮れて泳げなくなっちゃいますよ〜!」
 そう言ってイルカの手をとって走り出した。
ううっ、お願いだからこれ以上目立つことはしないでくれ〜!
 イルカのその願いは、天にもその男にも聞き届けられることはなかった。




あの時、はっきり断ればよかったなぁ…。
 イルカは数日前のことを思い出していた。

「イ〜ルカ先生〜。海に行きませんか〜?」
 カカシはアカデミー職員室の窓の外から、窓際の机に座って作業しているイルカに向かって、突然そんなことを言い出したのだ。
「はぁ?ちょっと、やめてくださいよ。またそんなとこから出入りして…いくら忍でもですねぇ、入り口から入るのが礼儀というもので…」
「海行きましょ、海!」
 ちっとも人の話を聞かないで、尚もそんなことを言う。イルカは深いため息をつきながら、いつもマイペースで傍若無人の男の話を聞いてやることにした。一応こんなのでも恋人なのだ。どうして恋人になってしまったのかいまだによくわからないのだが、なぜだか周囲も容認(黙認)している男同士のカップルなのだ、自分たちは。
「海って?オレ、当分休みないから無理ですよ」
「イルカ先生は有給休暇、たんまり残ってるじゃないですか。休みなんてムリヤリとっちゃえばいいんですよ〜」
「そうはいきません。アカデミーの方だけじゃなく、受付の方も今忙しいんです。オレが勝手なことすると、みんなに迷惑がかかりますから…」
「あんただけでしょ?休日返上してまで仕事してんのは。バカみたいに一人でそんなに仕事かかえることなんてないですよ。他の連中は家族サービスだとかなんとかで、あんたに仕事押し付けて、けっこう休んでるってのに」
 チロリと周囲を見渡しながら、銀髪の上忍は冷たく言った。
 それまで二人の様子を見ないふり聞かないふりをしていたイルカの同僚達は、真っ青な顔をして、すごすごと職員室を後にしはじめる。
「ほら、図星なもんだから、みんな逃げやがった」
 そう言いながらカカシは窓から身体を乗り上げ、職員室に入り込む。いつのまにか職員室はイルカとカカシ二人っきりになっていた。
「そんな言い方ないでしょう。家族のいる者なら時間をみつけて子供達を遊びに連れて行きたいと思うのは当然で、オレだって都合が悪い時は断ってます。なんでもかんでも引き受けてるわけじゃありませんよ」
 バカみたいとはなんだ。バカとは…。自分でも多少利用されてるかな〜と思う節があるだけに、イルカはカカシの言うことが腹立たしかった。
「気に障ったらあやまりますけど、イルカ先生は働きすぎなんですよ。ここらへんで少しくらい息抜きしたって罰は当たらないでしょ?それとも海、嫌いなんですか?」
 そんなイルカの怒りをさらりとかわして、カカシは優しい声色で問いかける。
 突然恋人モードになったカカシにどきりとしながら、イルカはカカシから目をそらす。こういうカカシは苦手なのだ。恋人同士ということになってから時々、カカシはこんな甘い声で囁く。普段がへらりとしているだけに、そのギャップに戸惑い、そして、どうしたらいいのかわからなくなるのだ。
 イルカは目をそらしたまま、今までとりあわなかったカカシの話を真面目に考え始めた。
―――海…か。当分行ってないなぁ。
 ジージーと五月蝿く鳴く蝉の声が、暑苦しい職員室にこだまする。
「海の水って冷たくていいですよね〜。海辺で食べるかき氷とか焼きソバも格別で…」
ああ、いいなぁ。美味いんだよなぁ、泳いだ後のメシって…。
「それに海辺の近くの温泉旅館、予約できたんですよ。夏の温泉ってのも、これまたいいもんですよ〜」
温泉?海の近くの温泉??そんなの行ったことないぞ。
い、行きたい…っ!
 イルカは湯治が大好きなだけに、その言葉の効力は絶大だった。言葉にしなくてもイルカの顔には大きく「行ってみたい」と書いてある。その様子を見ながら、満足げにカカシは笑い、イルカにメモを渡した。
「んじゃこの日に有給申請二日間、出しといてください。当日の朝、オレが迎えに行きますから」
 そう言って窓から帰ろうとする上忍のベストの端をつかまえて、慌ててイルカは言った。
「ちょ、ちょっと!まだ有給が取れると決まったわけじゃ…!それに、カカシ先生はちゃんと休みがとれるんですか?二日間もあなたが休んだら、ナルト達は…」
「アスマと紅に後のことは頼んどきます。オレも有給たくさん残ってるから大丈夫ですよ」
いや、上忍が、とくにカカシクラスの人間が、二日間も連続で休みがとれるとは思えない。自分だって有給申請が通るかどうかわかったもんじゃないのに。
「カカシ先生、なら二人ともこの日に休みがとれなかったら、この話はなかったことにしましょう」
「わかりました。でもだーいじょーぶですよ♪」
 明るく上忍はそう答え、手をふってその場を離れた。イルカはなんのかんの言いながらも、すっかりその旅行を楽しみにしている自分に気がつき、おかしくなって笑う。
海か…、ひさしぶりだな。カカシ先生と二人きりの旅行かぁ…。
―――え…?
 その時はじめて、イルカはことの重大さに気がついた。

と、いうことは…つまり、あれだよな。恋人同士の旅行ってことで…つまり、夜――――

「うわあぁぁぁぁっ!!」
 一人っきりの職員室で、イルカは奇声をあげた。
 つ、ついにこの日が来てしまったのだ。カカシと恋人という関係になって、はじめての、夜…。
 いや、正確に言うとはじめてではない。自分では覚えていないのだが、先日自分はカカシに好きだと告白し、二人は愛し合ったというのだ。その時は酒に酔っていたせいで、記憶は一切なかったのだが、翌朝全裸で同じベッドに寝ていたカカシが嬉しそうにそのことを話すのを見て、どうやらそれは事実なんだと観念した。やっちゃったのなら仕方がない、と。ずっと好きだと言い続けていたカカシの言葉が冗談でなかったのなら、それもまぁいいかと。自分がカカシのことを前から好きだったというのは、今もどうも自覚がないのだが、酔うと本音が出るという。きっとそれが自分の本心なのだろう。イルカが二人の関係を認めたその日から、二人は木ノ葉の里の公認カップルになってしまったのだった。
 あの時から、実はイルカは内心ドキドキしていた。カカシがいつ、その気になるかと…。
 正直、自分にはその日の記憶がまったくなかったので、男と寝るのは初めてのようなものだ。
 それにどうやら女役は自分のようだし…(自分がカカシを押し倒してどうこうできるという自信もないのだが)、ど、どうすればいいんだろう。ただ丸太のように寝っころがってればいいのかな?などと、カカシが夜、自分の家で食事した日など、意識してガチガチになっていた。
 だが、不思議とカカシはキス以上は手を出そうとせず、「んじゃ、また明日〜」と、いつも何事もないように帰っていく。肩すかしをくらったような、ホッとしたような、そんな気持ちで見送ったことも少なくなかった。
 そんな恋人同士というには奇妙な日々が過ぎていき…きっとカカシは、この日を待っていたのだろう。変に意識しすぎるイルカを思いやって、旅行先でリラックスした状態で…と。だから、あんなにしつこく海、海と言ってたんだ…。
 そこまで考えて逃げ出したい気分になったが、ともかくまだ有給が本当にもらえるかどうかわからないわけだし…と、有給申請書を握り締めたイルカは、判決を待つ被告人のような神妙な面持ちで、火影の執務室に入っていった。




「…よかろう。二日間じゃな」
「えええっ?本当にいいんですか?」
 イルカの気持ちに反して、火影はやけにあっさりと承認してくれた。
そんな、こんなに簡単に認めてくれるなんて…。
「お前は働きすぎじゃ。たまにはゆっくり羽をのばすがいい」
 三代目はにっこりと微笑みながら、申請書に判を押した。
 その承認印を恨めしく見て、イルカは深いため息をつく。
…ああ、これで断る言い訳ができなくなった…。
「ん?どうした。嬉しくないのか?」
 浮かない顔をしたイルカを不審に思い、里長は心配げに問いかける。
「あ、いえ、ありがとうございます!」
 今の自分の態度は褒められたものではないことに気づき、イルカは背筋を伸ばして礼を言った。
 そうだ、こんなことぐらいで弱気になって、三代目に心配をかけるなんてもってのほかだ。しっかりしろ、イルカ!
「では、頑張ってきます!!失礼しました!」
…何を頑張ると言うんじゃろう?
火影はやけに気合の入ったイルカの後姿を見送り、そうつぶやいた。

観念しろ、うみのイルカ!
お前は男だろう!
男だったら、こんなことぐらいでびびってどうする。
どうせやらなきゃいけないのなら、早いか遅いかの問題だ。それに覚えてなくても一度はちゃんとやってるわけだし、うまくいくはずだ。大丈夫だ。
 ともすれば弱気になって逃げ出したくなる気持ちを押さえ、イルカは自らを鼓舞し、カカシの連絡を待った。
 翌日、カカシの「オレも休みがとれました〜♪」というはずんだ声を聞き、イルカは今度こそしっかりと腹を据え、覚悟を決めたのだった。





―――でも、こんなことまで覚悟してなかったぞ…。
 泣きそうな顔をして、イルカは自分の着ているアロハシャツをみつめる。
 今朝、いつもの忍服を着て、旅行支度を整えて待っていたイルカを迎えたのは、いかれたアロハシャツを着たカカシだった。
「イルカ先生、なーんてカッコしてるんですか!任務に行くわけじゃないんですよ?」
「ええっ?でも、忍たるもの、どこに行くにも制服で…」
「そんな規則守ってる奴なんてそうそういませんよ。はい、着替えた、着替えた」
 そう言いながら、カカシは抵抗するイルカの衣服を軽々と脱がしはじめる。
「そ、そんな、ダメですよ。忍服を着用しない場合でも、額当てだけはしておかないと…規律違反はできませんっ!」
「そーゆーのは腰か腕にでも巻いて、シャツの下に隠しておけばいいんです。皆そうしてますよ」
 イルカがわたわたと焦っている間に、カカシは手早くおそろいのアロハシャツを着せてしまった。
「ちょっ、なんですか、こんなハデなシャツ…!オレ、自分のに着替えますから…!」
「うーん、見惚れるほど似合ってる!さすがオレのラバ〜♪」
 ラバーだかレバーだか知らないが、この男の目は腐っているんだろうか?どう見たって、この地味顔のオレに、この黄色と赤の極彩色が似合っているとは思えない。それに自慢じゃないがこんなど派手な服、生まれてから一度も着たことがないのだ。嫌だ。こんな服で出かけるのなんか、絶対に嫌だ。
「カカシ先生、いくらなんでもこのシャツは、忍としては派手すぎます。あくまで忍は目立たず…」
「ハイハイ、そこでアカデミーの講義をはじめなーい。
あのね、イルカ先生、オレ達が行くのは海ですよ?海水浴場。
 そこで暑苦しい長袖の忍服なんか着ていったら、その方が目立つに決まってるでしょ?このくらいの服でちょーどいいんですヨ」
 そう言いながら、カカシは嬉しそうにお揃いの麦藁帽子をイルカにかぶせ、有無を言わさず手を引っ張って走り出そうとする。イルカは慌てながらも、なるほどそれもそうかと納得し、とりあえず脱いだ忍服は荷物の中に押し込んで出てきたのだが…道中、とてつもなく恥ずかしかった。
…これって、海に着いてから着替えれば良かったんじゃないか?オレ、また体よく騙されたんじゃ…?そう考えて落ち込んで、それでも海水浴場に行けば…と思っていたのに、ここでもこんな派手なペアルックを着ているのは自分達だけだったなんて…哀しすぎる。
―――目立ってる…誰より目立ってるじゃないか。何がこのくらいでちょーどいいだ。
ああ、また騙された。どうしてオレって、いつもこう…。
「さ、イルカ先生、泳ぎましょう!」
 深く落ち込むイルカに、いつの間にかビニールシートやパラソルを借りてきて、とっとと浜辺の準備を終えたカカシが、満面の笑みで声をかける。
…ホント、こーゆーこと、マメだよなぁ、この人…。
 ため息をつきながら恨めしげにカカシをみつめるイルカに、カカシは苦笑しながらこう言った。
「イルカ先生、もうくだんないこと考えるの、やめましょう。
ほら、見てくださいよ、あの海。綺麗でしょ?」
―――目前に広がる澄んだ水の色をした海。
 ざざん、と寄せる白い波が引くと、白い砂浜にキラキラと桜色の小さな貝殻が光って見える。
 そこはカカシが真剣に選んで決めた場所だけあって、とても美しい海岸だったのだ。
「…本当に、綺麗ですね」
 カカシはどんな気持ちでここにさそってくれたんだろう。
「あなたは働きすぎだから、日頃の疲れを癒してゆっくり休んでほしいんです」――そう言ったカカシは、本当に自分の身体を案じていたようだった。
そうだ、こんなところまで来て、うじうじ落ち込んでいたってしょうがない。旅の恥は掻き捨てと言うし、ここにはこんな姿を見られて困る知り合いもいないのだ。
そうだよな、しっかり楽しまなきゃ、ここまで連れてきてくれたカカシ先生にも失礼だよな。思い切って羽をのばすとするか。
 イルカは潮の香りを思いっきり吸い込んで、潔く気持ちを切り替えた。
「じゃ、泳ぎますか!」
 思い切りよくシャツを脱ぎ、水着姿になって、イルカは海に走り出した。
「ははは、遅いですよ、カカシ先生!」


ま、眩しい…っ!
ひ、久しぶりに見たイルカ先生のセミヌード…!!!
こんな明るい日差しの下で、こんなにじっくりと愛しの人の裸体を眺めることができるなんて…!
嗚呼、神様、ありがたう…vv (注:カカシは神教ではない)
 目を細めてイルカを眺めながら、自分も服を脱いだカカシは(眼帯とマスクはそのままだが)、海の中で自分を呼んでいるイルカに向かって、ゆっくりと歩きだした。
さっきまで暗い顔をしていたかと思えば、もうあんなに明るい顔で笑ってるなんて…。なんて単純、いや、純粋で可愛い人なんだろう。
可愛いな〜、このまま食べちゃいたいな〜vv
いや、もう焦らなくても、今晩にはあの健やかな身体がオレのものになるんだよな〜vvv
 そう考えると心臓の音が跳ね上がる。
 ついでに下半身まで跳ね上がりそうになる。
いかん、いかん。こんな時間にこんなところまで元気にしていては、イルカ先生に引かれてしまう。平常心、平常心、とカカシは心を抑えるのだが、ついついニヤける顔だけはどうしようもなかった。
ふっふっふっふっふ…。

 カカシのまとった邪まなオーラが見えるのか、周囲の者は眉をひそめ、カカシからだんだんと離れていく。『おかーさん、あの人こわーい』『しっ。見るんじゃありません!』そんな親子連れの会話や、『ホモだ』『あれ、ホモよね?』などというヒソヒソ話も聞こえる。皆、触らぬ神に祟りなしとばかりに場所を移動して、いつのまにか二人の周り半径20mには誰もいなくなっていた。
「…あれ?なんだか遠巻きにされてません?オレたち…」
「きっと一般人には、オレたちの身体の傷が怖いんでしょう。けっこうすごい傷跡ですもんね〜」
 いや、あんたの水着に眼帯白マスクという変質者っぽい姿のせいじゃないかな?と、イルカは思ったが、あえて口には出さなかった。どんな理由であれ、こんな混んだ海水浴場で、周囲が貸しきり状態になるのは嬉しい。
「カカシ先生、あっちの島まで泳ぎません?」
「お、いいですね。じゃ、競争ですよ」
「あっ、ずるいですよ。まだスタートって言ってないじゃないですか!」
 二人は笑いながら、かなり遠くの小島に向かって泳ぎだす。
良かった、イルカ先生の機嫌、すっかり良くなったみたいだな。このままなら絶対上手くいく。
 カカシはこれまでのことを思い出して、ニヤニヤと笑った。


――「イルカ先生、もしかして昨日の夜のこと覚えてないんですか?あんなに激しく二人で愛し合ったじゃないですかっ!」――

 そんな自分の言葉を頭から信じて、イルカは自分たちはそういう関係になったと思い込んでいる。もちろん本当にやっちゃったわけじゃない。酒を飲んでぐーぐー寝てしまったイルカを裸にむいて、朝まで一緒に寝ただけで、手は出していないのだ。
 最初は軽い冗談のつもりだったのに(少しばかりつれない相手に対する報復の気持ちもあったのだが)、思わぬイルカの「こうなったこと、後悔しません」という言葉に、天まで昇る気持ちになった。多少後ろめたい気持ちもないではないが、それでもイルカを自分のものにできるなら、嘘も方便。手段を選んでいる場合ではない。チャンスをフルに活用して、木ノ葉の里中に自分たちは恋人同士だと言いふらし、イルカの逃げ道をふさいだのだ。
 それからは「オレたち恋人同士だから〜」と、イルカの家にしょっちゅう入り浸り、イルカの手料理を味わうなどして、甘い幸せな時間に浸っていた。イルカがいつ自分が手を出すかと、びくついていたことも知っている。ある程度覚悟してくれているのはわかっていたので、実のところいつでも据え膳状態だったのだが、それでもカカシはイルカの家では手を出したくなかった。
―――オレにとっても、イルカ先生との初めてって大事なんだよね〜。
 カカシにとってイルカは、これまでの人生で一番好きになった人だ。いや、こんなに本気で惚れた相手は、イルカしかいない。だからこそ、イルカとの初体験は大事にしたかった。海の近くの静かな温泉旅館で、二人っきりの時間をゆっくりと過ごし、イルカに良い思い出をつくってほしかったのだ。
…だって、『はじめて』って、後々まで響くって言うもんな〜。
 はたして超現実主義なのか、ただのロマンチストなのか…。カカシはそんなことを真面目に考えて、実行に移してしまう男だったのだ。





 そして、ついにその夕方。

 満足のいくまで泳ぎを楽しみ、なぜだか貸しきり状態になった海辺ではしゃいだ二人は、海水浴場より少し離れた、小高い崖の上に建っている広大な敷地の温泉旅館にやってきた。

「カ、カカシ先生、ここって…」
「良いところでしょう?」
…良い。良すぎると言ってもいいくらい高級な雰囲気の旅館だ。
 イルカは旅館の名前を聞き、それってたしかガイドブックにも載ってない、知る人ぞ知るって旅館じゃなかったか?と思い出した。少しだけ温泉通の自分にとって、憧れの旅館。
―――でも、めちゃめちゃ高いぞ、ここ…。
 そう考えてしまうのは庶民の悲しさだろうか。自分をこんなところに連れてきて、慣れた感じで案内人に荷物を持たせ、ずんずんと先に行く上忍の背中には余裕すら感じる。何度も来てるのかな、こんなとこに…。そう思うと、上忍と中忍の収入の違いをみせつけられたようで、少しばかりくやしい気がした。
 そして自分たちが案内された部屋は、その旅館の中でも最奥の、茶室までついている離れであったことに気づいて、イルカは倒れそうになる。
―――ほ、法外な値段じゃないか?こんな部屋…!
「では、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」
 仲居がこれまた高そうなお茶を出し、部屋を後にするまで、イルカはその高級感に圧倒されたまま、呆然と部屋の真ん中で立ち尽くしていたのだった。

 そう、カカシは上忍の財力にモノを云わせて、その高級旅館の、さらに高値の離れを貸しきったのだ。
 ここはイルカの思った通り『一見サンお断り』の由緒正しき旅館で、本来ならいかに上忍であろうと、どんなに財力があろうと、そう簡単に借りられるような宿ではないのだが、以前懇意にしていた花街の女性――かなりの高級娼婦なのだが――に口を利いてもらって予約したのだ。
 そうまでしてここを選んだ理由は、べつだんカカシがブランド志向であるから、というわけではない。
 なぜだか旅館というものは、高級になればなるほど、ラブホテルとよく似通っているからなのだ。
 至れり尽せりのサービスもある代わり、部屋係の者は「ご用があればお呼びくださいませ」と、さっと引き下がり、非常に個人のプライバシーを尊重してくれる。
 泊り客が同性だろうが、年の差の開きのあるカップルであろうが、世を忍ぶ間柄だろうが、余計な詮索などいっさいしないで、閑静な佇まいの離れに二人っきりにしてくれるなんて、やりたい放題じゃないか〜とカカシは不届きなことを考えていた。
ま、金持ちも庶民もやることは同じだからねぇ。
とくにここは露天風呂が絶品なんだよな〜、ふっふっふ…。
 カカシのニヤケ笑いは止まらなかった。

「イルカ先生、そんなきっちり正座なんかしてないで、足崩して座ってくださいよ。誰もいないんだから、もっとリラックス、リラックス〜」
 そうカカシに言われて、ようやく現実にもどったイルカは、ほっとため息をついた。
「はぁ…、こんな高級なところだと、オレみたいな庶民は緊張しちゃってダメですねぇ。このお茶だって高いんだろうに、味なんて全然わかりませんでしたよ」
 ははは、と困ったような顔で笑うイルカを見て、カカシの目じりは下がる。
 さっきから、廊下や庭や部屋を見て、いちいち目を大きく見開いて驚くイルカの姿は、とても新鮮で可愛らしかった。この程度でそんなに驚くのなら、もっと他にもいろんなところに連れて行って驚かせてみたいな〜などと、まるで金持ちの好々爺が貧しい少女を連れて歩くような、怪しい感想を抱いているとは、そのだらだらと自宅のようにくつろぎきったカカシの姿からは想像もつかない。
…さすがカカシ先生、どこにいても自分のスタイルを崩さないなんて、大したものだな。上忍というのはそれだけ常に平常心でいるということか…。
 イルカは妙なことに感心しながら、だらりと寝そべったカカシをみつめる。
 ふと、寝っころがったままの体勢のカカシが、ちょいちょいと、指で手招きをした。
 なんだろう、とイルカが近づくと、突然ガバッと下から抱きしめられる。
「なっ!」
「へっへー、つーかまえたっ♪」
「ちょっ、ちょっと、なんですか、いきなり…!」
「…やっと、二人っきりになりましたね」
 そう目を覗き込むカカシは、またしても恋人モード。イルカの一番苦手とする顔になっていた。
「おっと〜、逃げないでくださいよ」
 とっさに自分の手の中から逃れようとするイルカの腕を、しっかりとつかんで、カカシはゆっくりと顔を寄せていく。
 イルカは思わずぎゅっと目をつぶった。
―――まだ、こういうのに慣れないんだなぁ。
 カカシは苦笑しながら、安心させるようにそっとイルカの頬をなで、触れるだけのキスをする。
 え?これだけ?と、目をわずかに開けたイルカの顔を覗き込み、カカシはニッと笑うと、すかさずまた唇を押し付け、今度はすばやく舌で口をこじあけて、イルカの舌をからめとった。
「…んっ」
 重ね合わせる度に、どんどん深くなるカカシの口付けは、こういうことに淡白なイルカにとって、何度経験しても慣れないものだった。
 カカシはゆっくりと舌を動かし、イルカの口腔内を探る。
 カカシの舌が方向を変えるたび、イルカの身体はビクッと震え、くぐもった声がもれる。その敏感な反応が心地よくて、カカシはもっとイルカの‘イイトコロ’を探ろうと、深く貪った。耐えられなくて逃げようとするのを、追いかけ、また口付ける。イルカは何かにすがっていないと倒れそうになるため、無意識にカカシの腕を掴んでいるのだが、その手の力の入れようで、全身で感じているのが伝わってきて、それがカカシをさらに興奮させた。
―――イルカ先生って、本っ当にキスに弱いよな〜。も、全部性感帯なんじゃないの?
 そんなことを考えながらも、カカシ自身、余裕があるわけではない。
 はじめて口付けを交わしてからというもの、こんなイルカとのキスはやみつきで、遠出している時以外、毎日かかさずしてしまうのだ。イルカがどんなに恥ずかしがっても、嫌がっても、これだけは譲れなかった。
「…はっ、…んんっ」
 うまく息継ぎができず、苦しそうにもらす声も、普段の真面目で清潔なイメージのイルカとは違い、とても悩ましく、淫らに聞こえる。口付けたあと、このまま押し倒してしまいたいと何度思ったことか…。それを今までぐっとこらえてきたなんて、自分でも大した自制心だと褒めてやりたい。
 だが、もう我慢するのは今夜で終わり。カカシはそう思うと、踊りだしたくなるくらい嬉しかった。
…これだけ感じやすいと、身体の方はどのくらいすごいんだろう?…
期待は高まるばかりだ。
 最後の一線越えちゃうと、歯止めがきかなくなってしまうかもしれないなぁ、溺れちゃいそうだなぁ、そんなことを考えていて、カカシはついついいつもより長めに唇を味わってしまった。
「んんん〜っ!」
 どんっ!と、イルカが力の入らない身体でカカシを押しのけた。はぁっ、はぁっ、はぁと、呼吸も荒い。
「…はっ、かっ…かかひへんへぇ、やりすぎれすっ」
 呂律の回らない舌で、涙目で睨みつけているのだが、怒っているのはわかっても可愛いだけだった。
「ごめんなさい、イルカ先生。つい調子にのっちゃって〜」
 カカシが思わず頭をなでてしまったので、イルカは子ども扱いしないでくださいと、さらにむくれてしまった。そんなところが子供っぽいのだが、これ以上言うと本気で怒らせてしまいそうなので、カカシは違う話をふることにした。
「まだ夕飯には時間あるみたいなんで、一風呂あびましょうか?海水浴場の水のシャワーだけじゃ、気持ち悪いでしょ?」
「風呂…」
 喜ぶかと思ったのに反応が薄い。どうやら今のキスで警戒してしまったらしい。
何もいきなり風呂場で押し倒したりしないって…とカカシは思ったが、さっきのキスで少し興奮してしまった今の自分の状態では、一緒に入るとちょっとばかりヤバイかもしれない…。
 苦笑しながら、
「イルカ先生、先に入ってください。オレはそこらへん散歩してますから」
 と、イルカを内風呂に案内して、自分は外の空気を吸って平常心をとりもどすことにした。
 イルカはカカシが自分と入るつもりがないことを知ると、明らかにホッとした様子で、
「それじゃ遠慮なく、お先に入らせていただきます」
 と、内風呂の引き戸を開けた。
 その離れ専用の内風呂は、予想以上のかなりの広さの檜風呂で、見事な造りをしていた。広い窓から見える夕焼けも美しい。
 こんな檜の香りが漂う、上等の泉質の湯に、まだ早い時間にゆっくりと浸かることができるなんて…イルカは心の中でカカシに礼を言った。いつものこの時間なら、自分はまだアカデミーか受付で、バタバタと仕事に追われていることだろう。
 カカシのくれた思わぬ贅沢な時間を、イルカは充分堪能することにした。
 適温の湯が気持ち良い。さっきまでの緊張や、昼間の疲れが癒されるようだ。

…はー。 しかし、カカシ先生って、本当にスケベだよなぁ…。
 カカシが聞いたらこけそうなことを、イルカは思った。
 さすが愛読書がイチャパラなだけはある、というかなんというか…。キスくらいでこんなに相手を翻弄できるなんて、達人の域かもしれない。自分が人より感じやすいなどと微塵も思っていないイルカは、そんな風に思っていた。
―――今晩、あの人と、やっちゃうんだよな、最後まで。
 ゆっくり湯につかりながら、イルカはぼうっとしながら考えた。
 そう思うと、あれほど覚悟したのに、やはり怖い。
 怖いのは何も痛そうだからとか、どうとかいうのではなくて(そりゃ痛いのは当然嫌だけれども)、それよりも一線を越えることによって、自分の中で何かが変わってしまいそうな…そのことの方が恐ろしかった。
これって、初体験前の女性心理と同じなのかな〜、それとも男の場合、自尊心やアイデンティティー崩壊の恐怖というかなんというか…などと小難しいことを考えていたら、だんだんと頭が痛くなってきたので、それ以上考えるのは放棄した。イルカの頭は元来体育会系なのだ。
ま、なるようにしかならないだろ、はじめてじゃないんだし。後はカカシ先生に任せりゃいいさ。
 そう思うと少しだけ気が楽になった。
 そしてふと、カカシのことを思う。

…なんでカカシ先生って、オレなんかが良いんだろ…?
 ルックスだっていかにも風采の上がらない感じだし、背格好も十人並み、とりたてて秀でているところもなければ、ただ真面目なだけが取り柄だと評される融通のきかない朴念仁。
 それが自分だと思っている。
 それに対してカカシの方はといえば、里の誇る優秀な忍者で、その実績は里の内外に知れ渡っており、本来ならイルカのような一介の中忍が馴れ馴れしく話をすることさえ憚れる相手だ。
 それは大げさでもなんでもなく、忍の社会は厳然とした縦社会であり、上忍と中忍の間には大きな隔たりがあって当然なのだ。さらにこの世界では「強さ」が最も重要視されていて、実績のある強い忍者は皆の羨望の対象であり、近寄りがたい存在でもある。
 したがってカカシはその圧倒的な強さから、あのだらだらとした物腰さえも実力のある者が持つ余裕の表れとして、多くの忍が憧れ、目標とする人物でもあったのだ。
 しかも彼は額当てと口布で顔を隠してはいるものの、その輪郭や鼻筋、唯一おもてに出ている右目から、わりと端正な顔立ちであることがわかり(実際、素顔はかなりの男前で、はじめて見た時は世の中の不平等さを嘆きたくなったものだ)、均整のとれたプロポーションに、普段猫背ではあるが、わりと長身であることも加えて、女性達に非常にもてていることもイルカは知っている。
 極端に言えば木ノ葉のスーパースター、イルカのような中忍から見れば雲の上の存在だ。
 そのカカシが、だ。
 なぜか自分のような取るに足らない人間のことを「好きだ」と言うのだ。
 しかも自分は、どう見ても可愛い女性ではない。
 立派な平凡な男性だ。(変な表現だが…)
 カカシが同性愛好者であるかどうかはこの際置いておいて、どう考えたって変な話である。
 最初は冗談だと思っていたし、自分のような色恋沙汰に縁の無い人間をからかって遊んでいるだけだと思っていたのだが、そうではなかった。
 どうやらカカシは真剣に自分を好きでいてくれているようなのだ。
 いまだに信じられないことだし、カカシにとって自分のいったいどこが良かったのか、どんなに考えてもさっぱりわからないのだが、それは本当らしい。
「まぁ、蓼(たで)食う虫も好き好きって言うからなぁ…」
 ざぶりと顔を洗いながら、イルカは自分のことを蓼と評して、とりあえずそう納得することにした。



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