|
インチョン(仁川)空港の白タク取締りに遭遇 2001.8.
2001年8月10日、午後1時半、うだるような暑さのなか、
インチョン空港に到着したわたしは大きな荷物を抱えていた。
日本から椅子型の電気按摩器(マッサージチェア)をもってきたのだ。
それは縦1・5メートル、横2メートル、高さ1・5メートルほどの
巨大なダンボール箱に、購入店で梱包されたまま入っていた。
これひとつで重量が85キロ。これ以外に、シートまでもちこめる
制限いっぱいの大きさのトランクに換算して7、8個くらいの荷物が
あった。さらに、背中にはリュックサック、腹にはウエストポーチと、
体にも30キロほどの荷物をまとっていた。
この量は、まあ、そうですね、若い独身者の引越し荷物くらい
にはなるでしょうか。
電気按摩器はやや高額だったので、関税を払わねばならず、
その手続きと、両替などを終えて、到着ロビーに出たわたしは
疲労を覚え、まず、ひと休みすることにした。
待ち合いの椅子がたくさん並んでいるところへ、山積みのカート2個を
ひいていった。そして、リュックを肩からはずし、いちばん隅の椅子に
のせ、その隣の席に腰を下ろし、腹のウエストポーチを解いた。
「はー」(ため息ひとつ)
と、そのとき、40歳くらいの背の高い男がわたしのところへ
やってきて、こう話しかけた。
「サジャンニム(社長さま)、どちらまでいらっしゃいますか」
白タクのおじさんだ。わたしは男の顔をぼんやりと眺めながら答えた。
「江南の高速ターミナルまで」
すると、男は「では、8万(約8000円)でどうでしょう」と提案した。
わたしは、もう韓国生活がながいので、どこからどこまでなら
だいたいいくらという見当がつく。
「高いね。6万にしてくれ」
わたしが、ほぼずばり、模範タクシーを利用したときの料金を提示した
ので、男はしばし黙った。それから、あいまいな微笑を浮かべて
立ち去った。
この荷物をどうやって運搬するか。ヨンダル(用達。引越しなど、
荷物の運搬を専門にするサービス)を呼んで、
ボンゴ(中型のワンボックス)か小型トラックを使おうか、
そうしたなら、料金はいくらくらいだろう、
8万くらいになるかもしれないな、8万ならあの男に
頼んだ方が簡単だし、いまから用達を呼ぶよりは時間も短縮できる、
そうしたほうがいいかな、大型タクシーを使うこともできるかも
しれないが、模範タクシーの待っている列の最後部につけて
待機している大型タクシー乗り場までいくのも大変だしなあ、
やっぱりあの男に頼もうか・・
と考えていたら、男がまたやってきた。
この間、5分くらいだったが、10分くらいだったか、いま記憶が
はっきりしない。
「このヒョンニム(お兄さま)が6万でお連れするといっています」
6ときいて、わたしはすぐそのヒョンニムにお願いすることにし、
立ち上がった。
ヒョンニムは男の隣に立っていた。
65歳くらいの小柄なおじさんだった。黒ぶちのメガネをかけていた。
やや佐野浅夫似の、まあ、東アジアではきわめて平凡な顔立ち、
どこかで会ったとしてもあまりにも同じような顔の人が多いため、
なかなか思い出せない、はっきり言って、そんな感じの容貌でした。
わたしはヒョンニムにたずねた。
「高速料金は?」
ヒョンニム「それは、別でお願いします」
わたし「では、込;みで6万5000」(高速料金は6100ウォン)
ヒョンニム「はい」
わたし「車はどんなのですか」
ヒョンニム「ボンゴです」
わたし「じゃあ、この荷物は全部載りますね」
ヒョンニム「はい」
交渉は簡単に終わり、わたしは、ヒョンニムとともに地下一階
駐車場に荷物をひいていくことになった。
背の高い男がわたしたちの背中に声をかけた。
「ヒョンニム、では、よろしくお願いします」
ヒョンニムは後ろを振り向かず、右手を軽く上げて答えた。
地下駐車場に降りると、ヒョンニムは車を回してくると言って、
ぎっしり並んだ車の列に入っていった。
わたしのもとを一時的にヒョンニムが去ると、どこからともなく
大学生くらいの私服の青年が5人現れて、わたしを取り囲んだ。
リーダー各の青年がわたしに言った。
「失礼します。あなたは、あの人の車に乗りますね。
あなたがあの人を呼んだのですか」
この質問で、わたしはピンときた。白タクの取り締まりだ。
青年たちは、義務服役中の警察官のようだった。
「いや、それは・・」
わたしが口ごもると、青年は言った。
「あの人の方からあなたに接近してきたのでしょう。
わたしたちは、到着ロビーのところから見ていました。
そして、あなたたちについてきたのです」
「・・・。いや、正確には、もうひとり別の男がいて、その男が
あの運転手さんを紹介してくれたんです」
「そんなにお時間はとらせません。取り調べにご協力ください」
青年の説明をきいていたら、ヒョンニムがわたしのところへ車で
乗りつけた。グリーンのわりと新しいボンゴだった。側面に大きく
ハングルでヨンダル(用達)と期されていた。
ヒョンニムは車をとめると、サイドブレーキをひき、ドアを開け、降りて、
わたしのほうへ歩いてきた。なにも気づいていないようだった。
ヒョンニムがわたしのところへやってくると、青年が横から声を
かけた。
「失礼します」
ヒョンニムは意外そうに青年のほうを向いた。
どうやら取り締まりにひかかるのは初めてのようだった。
取り締まりに慣れている者なら、車を回してきてとめる前に、
注意深く確認する。そして、いまわたしといっしょにいる、
ついさきほどはいなかった青年たちを目にすれば、
状況を察知し、走り去ったはずだ。
「どうやって、このお客さんと接触しましたか」
ここでヒョンニムは状況を理解した。
「このお客さんから依頼を受けたんだ」
これに対し、青年は言った。
「あなたが先に声をかけたんでしょう」
ヒョンニムは、ちょっと興奮し、高い声を出した。
「ちがうよ、この方のほうから連絡してきたんだ」
青年は「まあ、いいでしょう」とそれ以上自分が追求するのはやめて、
無線でどこかへ連絡し、現在地を伝えた。
「担当の刑事がきますから、少し、お待ちください」
待つこと、5分ほど。
その間に、わたしとヒョンニムは同じごみ箱のところでタバコを
一本すった。青年たちがすぐ近くにいるので、相談したりすることは
できなかったが、ヒョンニムは終始しきりにわたしの表情を
うかがっていた。
やがて保安課の刑事がやってきた。背は低いが、がっしりした
40歳くらいの人だった。
刑事は、わたしではなく、ヒョンニムにこう質問した。
「この方は、あなたの名前を知っていますか」
ヒョンニムは答えられない。
「この方は、あなたの電話番号を知っていますか」
またもやヒョンニムは答えられない。
「名前も、電話番号も知らない人が、どうやってあなたに
連絡したのですか」
追いつめられたヒョンニムは、喉をしぼるようにして、小さく言った。
「ほんとだよ。この人がおれに連絡してきたんだ。
この人にきいてみてくれ!」
すると、刑事はこのように言った。
まず韓国語で。
「ナイ・チャプスシン・ブニ・イレショソヌン・アンデジョ」
日本語訳。
「お年を召した方が、このようにされては、ダメでしょう」
低く太い声だった。ていねいだが、うむを言わさぬ響きがあった。
わたしと刑事はほぼ同年代だったが、ヒョンニムは父くらいの年齢だ。
ヒョンニムは目線を落とし、無念そうにちょっと唇をかんだ。
その無念さは、この状況を超え、過ぎ去った彼の人生に向けられて
いるような気がした。無念な思いをかみしめているヒョンニムの顔は、
思いがけず童顔だった。腕白であっただろうヒョンニムの幼き日の
顔が目に浮かんだ。わたしが生まれるはるか以前、戦前、
日帝時代・・。
「いっしょに来てください。あなたにもご協力をお願いします」
そう告げると刑事は、先に立って、歩き出した。青年が2人ほど
わたしたちに同行した。あとの青年たちは、この場で、わたしの
巨大な荷物の番をすることになった。手続きが終わったら、
この青年たちが、大型タクシー乗り場まで、荷物を運んでくれる
ことになった。
刑事に連れられて、わたしたちは空港3階のやや奥まったところ
にある警察の事務所に入った。「捜査3係」とあった。
わたしとヒョンニムは並んで腰を下ろし、刑事と対面した。
30歳くらいの若い刑事がわたしの作成する証言調書の書式を
もってきた。日本語で記された文章のところどころに空欄があり、
下線がひいてあった。個別の事項をそこに記入する。
文章はこうなっていた。
「わたしは何年何月何日何時頃インチョン国際空港一階ロビーで、
空港からどこそこまで、いくらで行くという申し出を受けました」
ヒョンニムに科される罪名は「軽犯罪法違反」とあった。
「6万5000ウォン」という実直な金額を記入しながら、わたしは、一瞬、
左隣に座っているヒョンニムの横顔を見た。
若い刑事は、つたない英語でわたしに指示した。
「プリーズ・ライト・ディス・アンダーライン」
わたしが韓国語で「はい、わかりました。ペンをください」というと、
ちょっと驚いて「韓国語がお上手ですね」と言って笑った。
調書への記入が終わると、パスポートのコピーをとった。
わたしの手続きは2、3分で終わった。
わたしが腰を上げると、ヒョンニムの取り調べが本格化していた。
刑事は、このヒョンニムよりも、わたしとヒョンニムとのあいだを
とりもった男に関心をもっていた。しきりに、ヒョンニムにその男に
ついて尋ねていた。
ヒョンニムは、その男の名前も、電話番号も知らない。ただ、空港で
知り合っただけだ、と答えていた。
刑事は言った。
「そんなはずはないでしょう。その男からあなたへは携帯で連絡して
きたのでしょう。男はあなたの電話番号を知っている。ならば、
あなたも男の電話番号を知っていて当然でしょう」
ヒョンニムは答えた。
「いや、ほんとに電話番号は知らないんだよ。顔を知ってるだけの
間柄だんだ」
刑事はさらに追求した。
「では、なぜ、その男がこのお客さんに接近してから、あなたが
来るまでに時間がかかったのですか。電話連絡を受けたから
でしょう」
ヒョンニムは答えた。
「いや、ちがう。おれはちょっと遠くにいたんだ。あいつはおれを
呼んでくるのに時間がかかったんだ」
警察の事務所を出ると、青年がわたしを大型タクシー乗り場まで
案内してくれた。歩きながらわたしは青年に尋ねた。
「あのおじさんはどのくらいの刑を受けるのか」
「罰金ですね」
「いくらくらい?」
「それはよくわかりません。が、だんだん重くなります。もう一回
取り締まりにひっかかると空港への乗り入れができなくなります」
青年の説明では、このヒョンニムのケースの場合、法外な料金を
ふっかけるということはなかった。通常はもっと高い料金を要求する。
しかし、無許可で営業し、数時間も客待ちしている認可タクシーに
乗るべきお客さんを、横やりに奪うことは、やはり問題だ、
とのことだった。
空港建物を出ると、また、むっとくる暑さに包まれた。
体中の細胞からわっと汗が噴き出す。
青年は無線でわたしの荷物の番をしている仲間に、荷物を
大型タクシー乗り場まで運ぶように指示した。
わたしはちょっと気になって空港建物をふりかえり、
心のなかでつぶやいた。
「ヒョンニム、きょうは運が悪かったですね」
TOP 山本あつし
|