「歴史の建て直し              2002.2. 


1)最初は「処罰しない」方針だった

1995年12月5日。朝日新聞の見だしに「全元大統領ら処罰可能に」という
大きな文字が躍った。

これを見て、わたしは思わずうなってしまった。

まさかできないだろうと思われていたことが、
できるようになってしまう・・。

もっと、はっきりいうと、

不可能が可能になる、

韓国ならではの事態だった。

「チョン・ドゥファン(全斗煥)元大統領らの処罰」が正式に司法の場にとりあげられた
のは、この2年半ほど前の93年7月だった。いわゆる「粛軍クーデター」で逮捕された
当時の陸軍参謀総長ら陸軍幹部22人が、これを指揮したチョン・ドゥファン元大統領、
ノ・テウ(廬泰愚)前大統領ら34人の中核メンバーを、軍刑法の反乱罪や刑法の
内乱罪にあたると最高検に告訴したのだ。

「粛軍クーデター」というのは、1979年10月、パク・チョンヒ(朴正煕)大統領暗殺後、
この暗殺事件の合同捜査本部長だったチョン・ドゥファン将軍が、12月、配下の
軍人たちとともに、暗殺に関与した疑いがあるとチョン・スンファ(鄭昇和)
戒厳司令官を逮捕し、陸軍本部や国防省を占拠。ほかの軍幹部も連行、
軍の実権を握った。この過程で銃撃戦が起き、死傷者が出た事件である。

キム・ヨンサム(金泳三)大統領が第14代大統領に就任したのが93年2月だから、
告訴は、政権交代から半年後のことだった。

これに先立ち
93年5月、キム・ヨンサム大統領は
「クーデター的事件であった」と見解を明らかにする一方、
法的追求などは行わないことを示唆
していた。

これに対し、ソウル地検は、「粛軍クーデター」については、94年10月、
「軍刑法の反乱罪」と認定しながらも

「起訴すると、国家の分裂と対立を招くおそれがある」

として起訴猶予処分とし、「粛軍クーデター」に続く光州事件についても一括して、
95年7月、

「成功したクーデターは司法判断の対象にならない」

として不起訴処分にした。

光州事件というのは、1980年5月、チョン・ドゥファン将軍が戒厳令を全国に拡大し、
キム・デジュン(金大中)氏ら有力政治家を一斉逮捕。これに反発するデモが
チョルラド(全羅道)のクァンジュ(光州)で起き、戒厳軍と衝突。多数の死傷者を
出した事件である。

「チョン・ドゥファン元大統領らの処罰」の問題は、これで終わったはずだった。

ところが95年10月、ノ・テウ前大統領の秘密資金問題が起こって、
状況が変わった。

2)ノ・テウ前大統領の秘密資金問題で急転回

95年10月19日、国会で野党議員がノ前大統領の300億ウォン(約40億円)の
借名口座を暴露。大問題となった。

ノ前大統領の
かつての側近たちが自主的に検察に出頭、事実を認め、次々に
秘密口座を明かし
て急展開。これらの秘密口座は、「金融実名制」の実施で
凍結され、あぶりだされた。

25日、与党はノ前大統領に国民に謝罪するようもとめた。

ノ前大統領は、27日、
涙をぬぐいながら自宅で記者会見。

在任中につくった秘密政治資金が総額5000億ウォン(約666億円)に上ることを
明らかにし、国民に謝罪した。

「韓国政治のながいあいだの慣行で、政治文化と選挙風土を考慮すれば、
避けられない面もあった」
と釈明もした。この模様はテレビで全国中継された。

ところで、東亜日報の連載企画「秘話 文民政府」の35回(98/4/3)と
36回(98/4/8)は、大統領以下、並々ならぬ意気込みで万全を期して実施した
にもかかわらず、けっきょく骨抜きになり、なんとも皮肉な結果をもたらした
金融実名制をとりあげている。

金融実名制は、93年8月12日、「大統領緊急命令」として電撃的に発表された。

金融実名制は、文字どおり、預金、株式、債権など、すべての金融取引を
自分の名前のみでするようにする制度で、韓国の金融界にうごめく膨大な
アングラマネーを閉めだし、不透明な会計を一気にガラス張りにするという
キム・ヨンサム政権の「改革中の改革」だった。

が、その導入にあたって、キム・ヨンサム大統領は
「実名制を『経済制度』と
見るよりは司正、社会正義など、『政治的視角』で
把握して」
(36回)
いて、
経済が破綻してしまうと口を極めて反対する実務陣とのあいだで大きな軋轢を
ひき起こしたという。

97年末、キム・ヨンサム政権の末期に、韓国は国家破産の危機に瀕し、
IMFから緊急融資を受けるに至る。このとき、IMFの調査団は
「危機を招いた
責任の一端は政府にある。韓国の金融当局には早期に明確な行動をとる
政治的能力が欠けていた」
と報告書に記した。

危機のまっただなか、キム・ヨンサム大統領の経済分野における唯一かつ
最高の業績になるはずだったこの金融実名制は、経済界から「危機」の
主要因と指弾された。

目前に控えた大統領選挙の主要候補たちも全員一致。

急遽、成立した代替立法により、事実上、「失名制」となった(ハングル表記では
「実名制」と「失名制」はまったくおなじ。シルミョンジェとなる)。アングラマネーを
金融市場に呼びもどすべく、
資金出所を問わない長期債権制度が導入された。

現時点で金融実名制という試を総括するなら、アングラマネーを一掃して
クリーンな金融システムを実現しようというキム・ヨンサム大統領の理想と、
韓国社会の現実とのギャップがあまりにも大きすぎたということが
できるかもしれない。

さて、「皮肉な結果」というのは、次のようなことである。

「司正」(過ちを正すこと)に熱心なキム・ヨンサム大統領は「資金追跡」に
情熱を傾けた。そして、この流れからノ・テウ前大統領の秘密資金と大統領の
次男ヒョンチョル(賢哲)氏が管理してきた92年の大統領選挙資金の残金が
露になった。記事の最後は

「実名制は、キム大統領にブーメランとなって
 大変な打撃を与えた」


と結ばれている。

つまり、
キム・ヨンサム大統領は、けっきょく自らを「司正」する結果と
なってしまった
というわけである。

11月16日、ノ前大統領が収賄容疑で逮捕されると、キム・ヨンサム大統領は、
「資金問題」を離れ、
「軍事政権の歴史的評価は後世にゆだねる」という
これまでの立場を180度転換。「歴史的評価」を自分の政権で
やってしまうことにする。

いわゆる「歴史の建て直し」であった

「建て直し」は、パロ(正しく)セウギ(立てること)の訳。

21日、韓国政府は、大統領経験者への年金の支給などの特権を定めた
「前職大統領礼遇法」を改める。弾劾で退任したり、禁固以上の刑が
確定した場合には特権を剥奪することを盛りこんだ改正案を国会に
提出することに決めた。

22日、キム・ヨンサム大統領は与党・民自党の名称変更を指示。
党執行部も大幅改編することにする。

民自党というのは、もともと「3党合同」の産物。
この「寄りあい所帯」から次期大統領候補に指名されたのが
キム・ヨンサム氏だったのである。

3)キム・ヨンサム氏の大統領へ至る歩み

ここで、キム・ヨンサム政権がどのように誕生したのかを見るために、
この「3党合同」について説明しておく。

1988年4月、ノ・テウ政権最初の選挙である第13回国会議員選挙が行われた。

結果、全299議席のうち与党・民正党が獲得したのは125議席。
過半数の議席獲得に失敗した。

これは韓国憲政史上初のことだった。

平和民主党(キム・デジュン総裁)が70議席、
統一民主党(キム・ヨンサム総裁)が59議席、
新民主共和党(キム・ジョンピル(金鍾泌総裁))が35議席、
その他10議席。
つまり「与小野大」となった。

ここから3党合同が模索されはじめた。
もともとノ・テウ氏とキム・ジョンピル氏は和合志向の人。
2人は「議院内閣制への改憲」で合意した。

ノ氏としては退任後の政治報復を避けるためにも内閣制が望ましかったし、
キム・ジョンピル氏はもともと内閣制に強く執着していた。

しかし、キム・ヨンサム氏とキム・デジュン氏は大統領になるのが夢だった人たち。

この時点で、キム・ヨンサム氏が次期大統領になる道はふたつあった。
ひとつはキム・デジュン氏と組んで野党の大統領候補をキム・ヨンサム氏で
一本化する道。
いまひとつは与党・民正党と連合して与党の大統領候補になる道。

キム・ヨンサム氏は後者を選んだ。

キム・デジュン氏もキム・ヨンサム氏も互いに譲らない、自分が先に
降りるのなどはまっぴら
だった。

90年2月、与党・民正党に、野党第2党・民主党(キム・ヨンサム総裁)系議員と、
野党第3党・共和党(キム・ジョンピル総裁)系議員が合流し、民自党が誕生した。

ちなみに「民自党」という名称だが、出帆前は、ズバリ、「自民党」とする案も
あったという。日本政界の「55年体制」のようなものをイメージしていたようだ。

90年10月、3党合同時にノ・テウ大統領、キム・ヨンサム氏、キム・ジョンピル氏で
合意した「1年以内に議院内閣制に改憲する」という覚え書きのコピーが
マスコミに暴露され、大騒動となった。

このとき表向き一貫して「議院内閣制への改憲はしない」と発言してきた
キム・ヨンサム氏はピンチに立つ。するとキム・ヨンサム氏は
「為にする暴露だ」と反発。「もう党務はしない」とケツまくって馬山に下った。

そんなキム・ヨンサム氏を助けたのは世論だった。世論も大統領制維持の
ほうが優勢だった。改憲はむずかしいと判断したノ大統領は改憲しないことにし、
キム・ヨンサム氏を党務に復帰させた。ノ大統領が民正党系から後継者を
準備できなかったことと、文民大統領を望む世論が、キム・ヨンサム氏に
有利に働いた。

以後、キム・ヨンサム氏は与党の次期大統領候補として足場を固める。

大統領就任へ執念を燃やすキム・デジュン氏も、大統領になる道を完全に
ふさがれる内閣制には猛反対。ちょうど時をおなじくして、ひとりの脱走兵が
「国軍・保安司令部が軍人以外の政治家や民間人を調査している」と暴露。

キム・デジュン氏は「保安司令部の解体、軍の中立化」などを要求し、
国民運動を展開すると宣言、
断食に入った。そして13日目に、
保安司の政治不介入と内閣制への改憲留保の約束を
ノ・テウ政権からとりつけ、断食をやめた。

保安司令部というのは、軍の監察統制機関。現在は、機務司令部という。
79年10月、パク・チョンヒ(朴正煕)大統領暗殺に際し、犯人、キム・ジェギュ(金載圭)
8代中情部長を逮捕、処刑したのが、チョン・ドゥファン(全斗煥)保安司令官。

チョン・ドゥファン氏は、その後、中情部長代理を兼任、大統領の座まで手中に
おさめた。


92年の第14代大統領選挙は「文民時代への幕開け」だった。

与党からキム・ヨンサム氏、野党からキム・デジュン氏、これに、突然、
政界に進出した韓国最大の財閥、現代グループの総帥チョン・ジュヨン
(鄭周永)氏が加わり、選挙戦は3つ巴となった。

結果は、キム・ヨンサム氏の圧勝だった。
キム・ヨンサム/994万3510票(42・0%)、
キム・デジュン/802万5488票(33・90%)、
チョン・ジュヨン/384万6787票(16・2%)。

選挙後、キム・デジュン氏は政界からの引退を表明した。
(のだが、いま、この人が大統領であり、やがて任期を終えようとしている)

93年2月、キム・ヨンサム政権出帆。

「歴史の建て直し」に先立ち、95年2月、キム・ジョンピル氏は民自党を脱党、
3月、自民連(自由民主連合)を結成した。3党合同で、キム・ジョンピル氏らが
夢見た日本の自民党のような安定保守政権はけっきょく実現しなかった。
首相の顔は変われど延々と続いてきた日本の自民党の「息のながさ」とは
まったく対照的だった。

4)「中央突破」で、みんな建て直してしまえ!

キム・ヨンサム氏の大統領への道のりは、こういう流れだったのである。

したがって、ノ前大統領の資金のかなりの部分が民自党に流れていて、
それはキム・ヨンサム氏の当選した92年の大統領選挙資金としても使われた
はずだと見るのが自然なのだった。

まさに、この点が野党の攻撃材料になった。

それからこの当時は、与党内には依然として旧民正党系の議員が多く残って
いて(党全体の3分の2)、チョン・ドゥファン氏とノ・テウ氏、この2人の
前職大統領を処罰するには、キム・ヨンサム大統領としては、まず党内部を
ひきしめなければならない状況だった。

このむずかしい局面を、キム・ヨンサム大統領は果敢な「中央突破」で
乗りきっていく。

チョン・ドゥファン氏とノ・テウ氏の責任を追及する声は、被害者や
関係者のみならず、世論においても激しかった。

どうせいつかは通過しなければならなかった関門。

ここでへたに尻ごすれば、自分が火の粉をかぶる。「災い転じて福となす」と
ばかりに、この機会に、次の大統領選挙に向けた新態勢づくりまで一挙に
やってしまおうと、キム・ヨンサム大統領は、
ながかった野党時代の
強硬姿勢とまったく変わらぬ、思いきった勝負
に出た。

そして「歴史の建て直し」となった。

要するに、「歴史の建て直し」というのは、もともとは大統領の
秘密資金問題から出発し、同じ与党で、ノ・テウ前大統領から政権を引き継ぐ
形になっていたキム・ヨンサム大統領が、この秘密資金問題に自分が
つながってしまうのを回避するために、世間の目を「歴史」のほうに誘導した、
というふうに解釈できるのである。

「なあ、みんな、ノ・テウにはカネのことより、もっとずっと大事なことが
あったじゃないか」
というふうに。

「この際、チョン・ドゥファンもいっしょにやってしまえ」

95年11月23日、憲法裁判所は、「7月にソウル地検が光州事件の不起訴を
決めたのは違憲だ」と主張する被害者家族らの審査請求の第7回審理で、

「成功したクーデターといえども、違法性は問える」

という判断を固めた。

24日、キム・ヨンサム大統領は光州事件の関連者を処罰するための「特別法」の
制定を与党に指示。26日、大統領は、「特別法」で処罰するのは「事件を直接、
首謀した人物」に限られると旧民正党系の幹部に語って疑心暗鬼になった
旧民正党系の議員たちの動揺を抑えたが、その一方で、大統領系の幹部に
「新たな党名で臨む次期総選挙の公認作業で、チョン・ドゥファン、ノ・テウ両政権の
核心勢力、不正・腐敗人士たちは徹底的に排除される」と語らせ、処罰と公認は
異なることを示した。

30日、ソウル地検は粛軍クーデターと光州事件に対する特捜部を発足させ、
翌12月1日、チョン元大統領の取り調べに翌2日から入ると発表。

大統領は、同日、就任以来はじめて統合防衛中央会議を開き、
国内の混乱に乗じ、北朝鮮が挑発してくる可能性があるとし、

「鉄のような警戒体勢と完璧な軍事準備体勢をとらなければならない」

と指示した。

チョン・ドゥファン元大統領は出頭を拒否。
キム・ヨンサム大統領を批判する「国民談話」を発表。
対決姿勢を示し、国立墓地を参拝したあと、故郷にひきこもる。

が、「傲慢だ」「反省していない」と世論の反発をかい、
孤立したまま、3日、逮捕された。

容疑は79年12月の粛軍クーデターでの反乱首謀。検察は当初、「特別法」が
成立してから、捜査にとりかかるつもりだったが、その前に、特捜部を設置すると、
もう4日目に逮捕してしまった。

このスピードには検察自体がとまどっていた。

12月4日、与党・民自党は8年5月に起きた
光州事件の関与者を処罰する
ための「5・18特別法」案
をまとめる。憲法秩序を破壊するような犯罪に
ついては「時効を一定期間停止する」というもの。

これによって、79年のクーデターから93年のノ・テウ前大統領退任までに
行われた犯罪の時効が停止されることになる。

6日、与党・民自党は党名を「新韓国党」と改称。

19日、与野党が合意して「特別法」が成立した。

チョン元大統領とノ前大統領は刑法の内乱首謀の罪(時効は15年)で
処罰されることになった。チョン元大統領は

「特別法」は憲法の刑罰不遡及の原則に違反する

と猛反発。収監されるやいなや
抗議の断食を始め、憲法裁判所に
違憲審査請求を出す。

チョン元大統領は弁護士に

「歴史清算の名を借りた政治報復は、
 決して受け入れられない。

 
すべてをかけても、
 わたしの政権の正統性を守ってみせる」


と語った。

断食は29日午前
昏睡状態に陥るまで続けられた。

キム・ヨンサム大統領も83年5月に、当時のチョン政権に抗議して断食した

ことがあった。
そのときは、じつに22日間がんばった。それで、韓国のマスコは
断食期間中、「キム・ヨンサムは22日続けた。チョン・ドゥファンは何日目に入った」
と折々、断食の進行状況をレポートしていた。

27日、ソウル地検と光州地検は、事件後初の現地調査を実施した。
当時の戒厳軍の発砲の経緯を中心に調べ、被害者の証言もとることになった。

まったく、息をつく間もない展開だった。過去の軍事政権の犯罪を清算し、
歴史を建て直すというキム・ヨンサム大統領の意志を世論も支持していた。

韓国は、
社会全体が巨大な渦に巻き込まれたかのような異様な熱気
つつまれていた。

5)猛スピードで進められた裁判、そして赦免

翌96年2月16日、憲法裁判所は光州事件に関する「特別法」を合憲とした。
この結果、ふたりの大統領経験者は
合法的に処罰されることになった。

そして、すぐ、3月に、裁判開始。

一審判決は8月、チョン元大統領が死刑、ノ前大統領が懲役22年6月。

二審判決は12月、チョン元大統領が無期懲役、ノ前大統領が懲役17年。
一審判決をくつがえすような証拠や証言は出ず、事実認定においては
一審同様きびしいものだったが、在任中の業績が認められ、
「情状酌量」となった。

三審は97年4月、二審を支持、これで判決確定。

裁判は一年ほどですべて終わった。

この2人の大統領の「正統性」は否定された。

「正統性」というのは、ルールに則った正式の手続きを経て
大統領になったのかどうか、あるいは、民主的な手続きを踏んで
国民の承認を得て大統領になったのかどうかということで、
その有無が判断される。

どうやって大統領になったか、この一点で決まる。

「特別法」を合憲とした憲法裁判所の決定について見ておく。

韓国の憲法には「刑罰不遡及」の原則が明記されている。
したがって、法律制定以前の犯罪を裁くことはできないはずだ。

新しい法律をつくることはできるが、その新しい法律で過去の事件を
裁くことはできない、ということ。

チョン元大統領側も、そこが憲法違反だとして違憲審査請求を出した。

この点をめぐっては9人の裁判官の意見がまっぷたつに割れた。
合憲に賛成が4人、反対が5人。
じつは反対のほうが多かった
のである。
しかし、
反対が違憲判断を下すのに必要な6人に
満たなかったので、結論は合憲
となった。

じつに、ぎりぎりの決定だった。
しかし、9対0であろうと、4対5であろうと、
結果は、合憲か違憲かのふたつにひとつ。

合憲となれば100%合憲。違憲となれば100%違憲なのだ。

とにかく裁判は終わった。

一審は週2回の猛スピードで進行した。
その過程で、弁護団が「週2回では準備できない」と抗議し、途中で退廷したり、
欠席したりするトラブルがが相次いだが、法院は国選弁護人をつけて
裁判を続行した。

判決が確定すると、すぐ、マスコミは2人とも遠からず赦免されると予想した。

そして、その通りになった。

97年12月、第15代大統領選挙でキム・デジュン氏の当選が確定すると、
キム・ヨンサム大統領は、キム・デジュン次期大統領と協議し、
拘束中だったチョン・ドゥファン、ノ・テウ両氏の赦免を決めた。


この措置について、大統領府は
「国民統合をなしとげ、経済危機の克服へ国家の力を総結集するため」
と説明した。

キム・デジュン氏は、以後、地域対立の解消をはかり

「政治報復はしない」

と断言した。

深刻な「韓国病」である慶尚道と全羅道の地域対立は光州事件で激化した。
この措置に対し、光州事件の関係者から強い反発はなかった。
全羅道出身で
光州事件の首謀者として死刑判決まで受けた
キム・デジュン氏が合意したものだけに、
「遺族会」なども反発しづらかった
ようだ。

12月22日午前、服役していたチョン・ドゥファン、ノ・テウ両氏は、
約2年ぶりに釈放された。

この2人の軍人出身大統領と、キム・ヨンサム氏、キム・デジュン氏の
文民大統領のおよそ20年に及ぶ壮絶なバトルは、
ここにいったん終止符が打たれた。

このキム・ヨンサム政権の行った「歴史の建て直し」というのは、
「歴史にけじめをつけた」ともいえるかもしれないが、体裁を整えただけの
政治ショーだったような感じも否めない。

わたしは
「三権分立の、その上に君臨する、いわば超法的存在が
韓国の大統領だ」
と、だれかがいっていたのを思いだした。

韓国の「政治文化」が、「法治」ではなく「人治」だと
いわれる所以である。



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