暗く高い天井に響く胴鳴りのしなり。
窓から降り注ぐ夏の焼きつくような熱。
静かに目を開けると、艶のある床に暗い壁が染み着いて伸びる。
シンジはパイプ椅子から立ち上がると、チェロに滴った汗をクロスで拭う。
誰もいない体育館にがたりとケースに当たるチェロの鳴りが漂う。
開け放された戸口にその少女は影を切り取る。「やっぱりここだったの碇君。今日は練習無いって連絡行って無かった?」
アスカの長く赤い髪が逆光で映える。
「あ、い、いやあ、誰も体育館使って無いみたいだからさ、ちょっと練習してたんだ」
「へえ。こ〜んな暗いとこでねえ。まったく練習熱心なことで」
「そ、惣流さんみたいに飲み込み早く無いから。四重奏だからさ、みんなについていけないとマズイでしょ」
「ま、そりゃそうね。それより、もう終わったんでしょう?一緒に帰らない?」
「え・・・僕と?」
「そうよ。他に誰もいないでしょう」
「う・・・うん。じゃあちょっと待ってて。これ置いて来るから」
シンジはケースを抱えて歩き出す。
涼やかな風は夕暮れの河を走る。
夕陽に染まりながらアスカの横顔はつぶやく。「碇君、ちょっと話があるんだけど・・・」
横を歩くシンジの顔は見ない。
「え・・・は、話って?」
それには答えず、アスカは土手に降りて行く。
小走りに追掛ける。「僕に・・・何?」
くるりと振り返ると真直ぐに見つめる青い瞳。
今までに無い真剣な表情。「碇君・・・わたしのこと・・・好き?」
「え?」
ただ見つめるしかなかった。
やがて呪縛は少し解ける。「何?・・・え?・・・ど、どういうこと?」
「わたしのこと・・・好き?」
再び訪れる呪縛。
そしてさらに強く。「わたし・・・知ってたの。判ってたのよ・・・碇君がわたしのこと・・・」
「え?え?・・・ええっ!?」
驚愕のシンジの顔にアスカの微笑む顔がゆっくりと近づく。
「・・・碇君から云ってくれそうもないもんね。云っちゃうわ」
青い瞳は閉じられる。
「・・・わたしも・・・碇君のこと・・・好き」
シンジは混乱の中でもアスカの両腕を掴めた。
そっと顔を寄せる。
アスカの頬の温度。
香り。
睫の細かな震え。
そっと柔らかい唇の肉をくわえる。
吸う。
目を閉じる。
アスカの味。
アスカの息。
アスカの喉の鼓動。
自分の興奮がもどかしかった。
目を開けるとうつむいた少女の髪の香り。
ぎこちなく手を下ろす。
頬を染めたアスカの言葉。「・・・こうなるって思ってた」
「そ、そう・・・」
シンジの微笑み。
「あの時から」
「あの時?」
訝しむ顔を再び見つめる青。
「わたし、碇君に謝らなくちゃならない・・・」
「・・・何?」
「ずっと前から知ってたの。碇君の気持ち」
「・・・そうなんだ・・・」
「そして、自分の気持ちも。でもだめだった」
「・・・だめ?」
「逆らえなかった・・・」
「どう云うこと?」
「あのひとに」
「あのひと・・・って?」
「・・・碇君が好きなのは本当よ。でも」
「でも?」
そのはにかむような微笑み。
「・・・あのひとに抱かれたの」
「・・・え」
凍ったシンジの表情を可笑しげに見る。
「やさしいの、彼」
「・・・カヲル君?」
「キスも。その先も」
「・・・カヲル君なんだね」
「夢見てるようだった。あのとき」
「・・・僕の気持ちを知ってたのに」
「まるで自分じゃないみたい」
「誰も僕なんか受け入れちゃくれないんだ」
「気持ちいいの」
「・・・僕はいつも裏切られて、棄てられて」
「何にも判らなくなるの」
「いつもひとりぼっちの僕ひとりだ」
「・・・幸せだった」
「・・・死んじゃえ・・・」
「・・・このまま死んでもいいと思った」
「・・・みんな死んじゃえ!」
下ろされた手は目標を変える。
アスカの白い首。
その息づく皮膚。
両手で掴むと顎を押し上げる。
そのまま両の親指を気管に突き立てる。
先端が埋って行く。
筋肉が歪む固さ。
仰向けに倒れた彼女に馬乗りになり、シンジは全体重を親指に掛ける。
皮膚が破れる感覚。
ぬるぬると指が鮮血にぬめる。
わずかに開いたまぶたから白目が見える。
口から夥しいピンク色の泡と、舌が覗く。
その舌が言葉を作ろうと蠢く。「・・・こ・・・」
「しゃべるな!何も云うな!」
「・・こう・・な・・るって・・お・・もって・・た・・」
「黙れ!」
「・・あの・・と・・き・・から」
「うるさい!うるさい!・・・うるさいぃっ!」
やがて訪れる静寂。
失禁に濡れた土の上に、だらりと屍を落とす。「・・誰も僕を受け入れてはくれないんだ・・」
血に濡れた手の平を顔で埋める。
「僕はひとりぼっちなんだ!」
「やっと判ったの?」
「ハッ」
自室のベッドの上で寝ているシンジ。
横に制服姿のアスカが腰に手を当てて立っている。
アスカ「よぉうやく、お目覚めね、バカシンジ」
シンジ(寝ぼけ眼で)「なんだ、アスカか」
アスカ「なんだとは何よ! こうして毎朝遅刻しないように起こしに来てやってるのに、それが幼なじみに捧げる感謝の云葉ぁ?」
シンジ「うん。ありがとう。だからもう少し寝かせて」
アスカ「なに甘えてんの! うんもぉ〜〜、さっさと起きなさいよ!」
ぱっと布団をはぐアスカ。
真っ赤になる。
部屋に響くビンタの音。
アスカ(OFF)「キャー!! エッチ! バカ! ヘンタイ! 信じらんない!」
シンジ「仕方ないだろ! 朝なんだから!」
アスカ「ふん、どうだか。どうせいやらしい夢でも見てたんでしょ!」
シンジ(開き直って)「ああそうだよ。アスカみたいなお子様とは違うからね」
アスカの表情が怒りから蔑みへと変わる。
嘲笑と共に云う。
アスカ「あたしがお子様?」
哀れみと共に見下すアスカの目。
アスカ「あんた、なあんにも知らないのね・・・」
シンジ「な・・・何をだよ・・・」
アスカ「あたしねえ・・・もう大人なの」
シンジ「え・・・」
アスカ「大人になったのよ」
シンジ「それって・・・どういうこと?」
アスカの肩を掴むシンジ。
アスカ「抱かれたのよ・・・大人になったの」
微笑むアスカ。
シンジ「まさかそんな・・・」
アスカの肩を掴む手に力が入る。
真剣な表情でシンジの目を見つめるアスカ。
シンジ「相手は・・・誰なの?」
アスカ「ふふ・・・おじさま」
シンジ「父さん?・・・そんな・・・うそだろ? ねえアスカ! うそだろっ!」
すがりつくシンジにアスカは吐き棄てる。
アスカ「本当よ。お子様のシンジ君」
シンジは手を下ろす。
アスカ「おじさまってやさしいの」
シンジ「・・・止めろ・・・」
アスカ「キスも。その先も」
シンジ「・・・聞きたくない・・・」
アスカ「夢見てるようだった。あのとき」
シンジ「・・・僕の気持ちを知ってたのに」
アスカ「まるで自分じゃないみたい」
シンジ「誰も僕なんか受け入れちゃくれないんだ」
アスカ「気持ちいいの」
シンジ「・・・僕はいつも裏切られて、棄てられて」
アスカ「何にも判らなくなるの」
シンジ「いつもひとりぼっちの僕ひとりだ」
アスカ「・・・幸せだった」
シンジ「・・・死んじゃえ・・・」
アスカ「・・・このまま死んでもいいと思った」
シンジ「・・・みんな死んじゃえ!」
下ろされた手は目標を変える。
アスカの白い首。
その息づく皮膚。
両手で掴むと顎を押し上げる。
そのまま両の親指を気管に突き立てる。
先端が埋って行く。
筋肉が歪む固さ。
仰向けに倒れた彼女に馬乗りになり、シンジは全体重を親指に掛ける。
皮膚が破れる感覚。
ぬるぬると指が鮮血にぬめる。
わずかに開いたまぶたから白目が見える。
口から夥しいピンク色の泡と、舌が覗く。
その舌が言葉を作ろうと蠢く
「・・こう・・な・・るって・・お・・もって・・た・・」
「黙れ!」
「・・あの・・と・・き・・から」
「うるさい!うるさい!・・・うるさいぃっ!」
「・・・違う・・・」
キッチンの冷ややかな空気。
がしゃんと大きな音を立ててコーヒーメーカーが床に転がる。
灼熱の感覚と香ばしい香りが倒れ込むシンジを濡らす。
見下ろすアスカ。「哀れね」
シンジがゆるゆると床から伸び上がる。
目の前のひとを見ない。「ねえ・・・誰か僕を助けて・・・助けてよ・・・僕を助けてよ!ひとりにしないで!僕を見捨てないで!僕を殺さないで!」
裏返されるテーブル。
壊されるイス。
動かないアスカ。「・・・イヤ」
沈黙。
静止する時間。
静止するシンジ。
俯く立ち姿。
急激な殺意。
シンジの手は目標を捕える。
「違う」
アスカの白い首。
その息づく皮膚。
両手で掴むと顎を押し上げる。
そのまま両の親指を気管に突き立てる。
先端が埋って行く。
筋肉が歪む固さ。
「これは僕じゃない・・・」
仰向けに倒れた彼女に馬乗りになり、シンジは全体重を親指に掛ける。
皮膚が破れる感覚。
ぬるぬると指が鮮血にぬめる。
わずかに開いたまぶたから白目が見える。
口から夥しいピンク色の泡と、舌が覗く。
その舌が言葉を作ろうと蠢く。
「こんなのは僕じゃない・・・」
「・・こう・・な・・るって・・お・・もって・・た・・」「・・あの・・と・・き・・から」
「うるさい!うるさい!・・・うるさいぃっ!」
「だって、僕は何ひとつ失いたくないんだもの」
「・・誰も僕を受け入れてはくれないんだ・・」
「失うコトが怖いんだもの」
「僕はひとりぼっちなんだ!」
「そう。これは君じゃない」「え?」
「誰でもあって、誰でもない・・・これは君たち人間の創造主だからね」
「・・・じゃあ」
「そう呼びたければそう呼べばいいさ・・・神様ってね」
「これが・・・このひとが・・・」
「でも、たかが人類の創造主が神を名乗るなんて思い上がりもいいところだよ」
「・・・」
「この脆弱な精神の持ち主は、自分を受け入れない者をかたっぱしから消していったのさ」
「・・・この宇宙の生命たちを?」
「そう。彼は愛されないことを恐怖した。自分を愛さない者たちを全て滅ぼしたんだ」
「じゃあ、人類は何故・・・」
「・・・結局自分を愛せるのは自分しかいなかった。最後に残ったのは自分だったんだ。純化された自分。自分の理性としての『リリス』。自分の欲望としての『アダム』」
「・・・リリンは欲望を欲したんじゃないの」
「理性なんてそんなものなんだよ。『理性』を司る知恵なんか『欲望』の源である生命の営みの前では昇華してしまうのさ」
「・・・」
「そして彼は自分の本質を知った。自分の中の理性や感性の探究が、単なる欲望を探り出す旅でしかなかったことに彼は絶望したんだ」
「・・・絶望・・・」
「この宇宙に。自分が夢見たこの世界に絶望したんだよ」
「・・・ゆめ・・・」
「彼もまた、自分の夢を嫌悪する『大人』になってしまった」
「・・・おとな・・・」
「夢の嫌いな大人たちに」
「・・・ゆめのきらいなおとなたちに・・・」
「・・・彼はもう夢を見ない。『現実』に生きるんだ・・・『現実』という夢にね」
「ええっ!じゃあこの宇宙は!」
「終わって行く。終わる世界に君はいるんだ」
「だから完全であるべきなんだ」
「カヲル君?」
「コアを取り戻し、全ての魂を
「じゃあ、僕たちが新しい神になるの?」
ひとつのATフィールド体にするんだ」
「そうさシンジ君。
「それは死と同義だ」
この宇宙そのものへとなるんだよ」「そうなの?・・・カヲル君!」
「彼は渚カヲルではない。ガフの部屋はATフィールド体で満たされている」
「君は誰だ」
「・・・そう呼びたければそう呼べばいいさ」
視界は突然爆発した。
風の如き光りが降り注ぎ、吹かれるシンジを貫通する。
極彩色の星たちが元の輝きに戻ると、
月面の静寂は沈む。
シンジは傍らの少年を見る。「・・・カヲル君ではないんだね」
「シンジ君・・・君の中にいくつかの魂があるように、僕の中にもいくつかの魂があるんだよ」
「でもカヲル君ではないんだね」
「君もシンジ君ではないのだろう・・・碇」
「議長」
「何故だ・・・何故こんな人類を救いたいのだ。欲望を欲し、地に墜ちてサルと交わるような堕落したリリンを・・・サルさえ自然と云う神が創りたもうたものだ。我々はサル・・・いやゴキブリ以下だ」
「そうです議長。我々には神になる資格は無いのです。そして、神にさえこの宇宙を終わらせる資格は無い」
「なぜ幼年期を終わらせない?大人へとなるんだ。階段を上がろう。新しい宇宙を創造するんだ」
「大人は夢を見ない。いや、見たくないのです。そこには本当の自分がいるからです。我々の創造主も創造され、放棄された夢なのです。そしてその創造主も・・・果てしない流れの中に我々はいます。そんなつまらない大人たちの夢の連鎖に」
「・・・碇・・・」
「今こそ断ち切るのです。あなたがたゼーレがひとのかたちを捨ててまで神になろうとするのは滑稽なことです。ATフィールド体はもはやひとではありません」
「・・・使徒か・・・」
「あなたがたが忌み嫌ったものです。ATフィールドを中和出来るのはエヴァと使徒だけですから」
「・・・このまま滅ぶのを待つのか。この宇宙の終わりを・・・」
「いえ議長。創造主が放棄した夢を、再び紡ぐのです」
「・・・そんなことが我々に出来ると思うのか」
「我々ではありません。この者たちです」
白き月の土を幾筋もの亀裂が舐める。
強大な振動が山を揺らす。
巻上がる輝く煙。
そして立ち上がるぼうと光るひとがた。
巨大なひとがた。「これは」
「フフッ、神様だよ。
虚ろな瞳には、微笑みが感じられた。
そう呼びたければね」
そして次々と立ち上がる何体もの光る巨人。「ファースト・インパクトで月面に散った、オリジナル・リリスたちです」
「リリス!」
リリスたちは自分たちのコアを掴むと体から引きずり出した。
たちまちLCLとなって溶け出す輝く巨体。「一体何を」
「コアをこの宇宙に放つのです。命の輝きをこの星空へと」
「命の・・・種・・・」
「もはやこの宇宙は彼の夢ではなくなるのです。メイカーは抹消されます」
「そして・・・リメイクされるのか」
「彼の影響は及びません。平和で安らかな新しいオリジナルたちの物語が始まるのです」
光る月面に広がるLCLとコアの光景。
「・・・これが君の補完か・・・碇」
「いいえ。ある少女の魂の導きです」
「君がアダム・クローンに移植した魂か」
「人類を産んだ欲望の無い天使の魂です」
「・・・リリスの魂・・・」
「・・・さあ、我々の役目はここまでです」
「やはり槍を使うのか」
「それは若いものに任せようと思います。彼の判断に」
「使うと思うか」
「・・・確信しています。彼はもう逃げない。判るんです」
「そうか。ATフィールド体も全て消滅するな」
「・・・ええ、博士。あなたの理論通りに」
「碇君・・・私は間違っていたのだろうか」
「あなたはこの宇宙を愛していた。それだけで充分です」
「そうか。ひとのかたちを失なってまで南極の地獄を生き延びて良かったのか悩んだこともあったが・・・今の言葉で救われたよ。ありがとう、碇君」
「博士・・・」
「・・・わたしは家族を不幸にしてきた男だ。妻も、娘も」
「娘さんはあなたを尊敬していますよ」
「ははっ、いいよ碇君。あれには恨まれてもしょうがないと思っている」
「・・・」
「君には信頼できる息子が居る・・・素晴しいことじゃないか」
「・・・はい、博士」
「・・・やっと休める。人類の夢を見ながら。何ひとつ心配すること無しに」
「・・・」
「さようなら、碇君」
「さようなら、メシア」
「フッ・・・ありがとう」
碇シンジ