座ると感じる、柔らかい草の弾力。

その上の、さらさらしたハンカチの感触。

木陰の澄んだ風を感じながら、わたしは幼い足を伸ばす。

隣りに座りながら、少年はランチボックスを開く。


「病院の辺りは、あのお店しかなくて……」


「おにいちゃんは、ハンカチしかないでいいの?」


「え? ……ああ、良いんだよ。男の子だから」


「えー? おとこのこはハンカチしかないでいいのー?」


「レディは敷かなきゃダメなんだ」


「キョウコ、れ、れでぃ……なの?」


「フフ、そうさ。どこに出しても恥ずかしく無い立派なレディだよ」


「ふーん……」


「だから、レディはお行儀良くしなくちゃ」


髪を撫でる、優しい手。

上目遣いに、見つめる。


「……れでぃだと、かんらんしゃのれる?」


「え?」


「まどからみえるの。やまのうえに、かんらんしゃ」


「……そうか」


「よるとか、ひかりがぴかぴかひかって、くるくるまわってるの」


「レディらしく、お行儀良くしてたら乗せてあげるよ」


「うん! キョウコおぎょうぎいいもん!」


「みんなと仲良くやってるかい?」


「うん! なかよくやってる!」


「よし、じゃあ、今度乗ろう」


「きっとね!」


「ああ」


涼やかな陰に浮かぶ、少年の笑み。

どこか寂しそうな、哀しそうな、笑み。


陽の光とのコントラストが、そう見せていたのかも知れない。

いつまでも目に焼き付いているその笑顔を、わたしはそう補完していた。

その約束が、少なくとも、あの瞬間は本気だったと信じたかったから。


青白い顔の少年の運命が、閉じ始めていたとしても。

わたしたち兄妹の運命が、壊れ始めていたとしても。









































The third day











































繋がっていた。

まだ、『回線』は繋がっていた。

彼と、わたしの間に繋がった、見えない『回線』。


彼はわたしの記憶を読んだ。

わたしに激痛を与えながら、彼は『思い出した』のだ。

あの、『観覧車』を。

まだ繋がっていた。

まだ、『回線』は繋がっていた。


……恐ろしい。恐ろしいことだ。

あのセカンド・インパクトで世界中に飛び散った『コア』。

ゲヒルンの予測では15個……その内、我々が回収出来たのがひとつ。


そのコアが、それぞれ『回線』を開いてしまったらどうなるであろう?

人々の記憶、妄想、幻想、幻覚を具現化してしまったとしたら……?


いや、その『回線』がひとつとは限らない。

もしも、多方向に開かれたとしたら?


イメージは混ざり合い、干渉し合い、反発し合って

『アダム』はまるで、不気味なシュールレアリズム絵画か

グロテスクな深海生物の様なフォルムで成熟するだろう。


そして、その、強大な力を持つ『永久機関』は、

同じく、混ざり合い、干渉し合い、反発し合った、

混沌とした『人格』『記憶』『気質』『思考パターン』……

……それら、狂気にも似た『魂』を元に、活動を開始するだろう。


『魂』……そう、『魂』。




















わたしの、『魂』。




















湿った風。

潮の匂い。


空が見えて来た。

暗い雲の垂れこめる空。

波打つホワイトノイズが、耳を埋める。


乾いた砂から頭を起こすと、揺れる水に映る光の輪が見える。

それは、鮮やかにまばゆく、絶え間無くくるりくるりと回る。


海の上の『観覧車』。

その、非現実な、光景。


……同じだ。


腫れた瞼、切れた唇、痛むアザを押さえ

嗚咽を堪えながら施設のトイレに駆込むと

いつも窓から見えた、山の上のイルミネーション。


それが今、打ち寄せる波を飛沫を上げて遮り、佇んでいる。


砂浜に寝かされた自分の身体を見ると、毛布が掛けてあった。

隣りには、ひざを抱えて座る、少年の横顔。


「おはよう」


海を見たまま、少年は云った。


「おはよう」


半身を起こし、わたしは答えた。


「……どれくらい経ったの?」


「一晩」


「そう……」


痛みが去った後の、頭の中の気だるい疼き。

力無く微笑み掛けても、少年は、まだ、海を見ている。


「……毛布、掛けてくれたのね」


「夜になって冷えて来たからね。クルマの中を探して」


「……、あ」


「探したんだ」


「……、あり」


「トランクとか」


「……、ありが」


「ダッシュボードとか」


「!」


自分の手の感触に気付き、毛布から出して見る。

握らされていた、古び、汚れた布のかたまり。


端切れ布の簡単なカラダ。

詰め物のデコボコな顔。

毛糸くずの髪の毛。

ボタンの目。

フェルトペンで描いた口は、薄く笑みを……


「……もっと早く気付くべきだったよ」


噛みしめる様な、横顔の声。


「瞳の色も、髪の色も、……顔だって、同じなのに……」


「……」


「キミだったんだね……」


ゆっくりとわたしに向く、寂しそうな、哀しそうな、笑み。

……そう、あの時と同じ、笑み。




















「……キョウコ」




















『魂』。

わたしの、『魂』。


「……二十四年」


今度は、わたしが海を見る。


「え?」


「……あんたが、あの森で、あたしを置いて行ってから……二十四年よ」


「……キョウコ……」


「あたしが居なくなった?……とんでも無いわ」


ゆっくりと立ち上がる。


「……居なくなったのはあんたの方よ、カヲル……」


「あ?……くっ!……キョウコ!?……」


「……あたしがそれからどれだけ哀しみ、どれだけ苦しみ、どれだけ寂しい思いをしたか……あんたには判るの!?」


「ううっ!……くぅぅ……」


カヲルは頭を抱えると、うずくまった。

……『回線』は一方向では無い。『双方向』に開かれている。

『わたしが』『カヲルを』『読んでいる』。


「観覧車になんか乗らなかったわ。乗らない内にオトナになった」


雲の垂れこめる暗い空に、何かが弾ける音が響く。


「……今じゃ見るのもイヤよっ!」


『観覧車』のイルミネーションが、破裂し、消えて行く。

海の波に降り注ぐ、無数の火花。


「フッ、下らないわ、カヲル……あんたが何で森に行きたがってるのかが、今やっと判るなんて……」


「うっ……キョ……キョウコ……」


跪き、背中を丸め、額を砂に押し付け、震える。

わたしの自嘲の笑みを、カヲルは見ない。


「……やり直そうと思ってるのね、『ピクニック』を……」


地響きがする。


「いえ、……あたしがやり直したいのよっ! 『ピクニック』をっ!」


朽ちた骨組みだけとなった『観覧車』が、がらがらと海に崩れ落ちる。

水柱を上げて、元の姿へと戻って行く。


「……だって、あんたはあたしの『魂』なんだものっ!」


さっきまでの非現実な光景が、何事も無かった様に、消え去る。


うつろな目が、わたしを見上げる。

肌を染めている、脂汗。


「はぁはぁ……キョウコ……」


襟首を掴むと、華奢な身体を立たせる。


「さ、行くわよ、カヲル」


口元を笑みで歪め、わたしは紅い瞳を見つめる。


「……『森』へ」





下らない。

本当に下らない。


この『バケモノ』。


研究所を消し、

橋を落し、

ヘリコプターを墜落させ、

観覧車を蘇らせた

『バケモノ』。


……でもそれは、全て、わたしが望んだことだ。

わたしの『魂』が。

あの『森』へ、行くために。

『ピクニック』を、やり直すために。


下らない。

本当に下らない。


……『バケモノ』は、わたしなのだ。

自らの『想い出』に、『願望』に、うろたえる『バケモノ』。

鼻白むほど情けない『科学者』であり、『バケモノ』なのだ。




















透き通る丸い輪が、フロントガラスに現れる。

走るクルマにとつとつと音を立てて、無数の水滴が咲く。


低い雲が、濁った斜線で淡く視界を遮る。

重い雨粒が、暗い風景を激しく騒がせる。


「ピクニック日和ね」


助手席で、カヲルは朦朧と俯いていた。

……まるで、あの日、タクシーの中でふと見た兄の様に。

いけないモノでも見てしまった気がして、目を逸らした幼いわたしに、

それでも兄は、気が付くと、微笑みながらやさしく髪を撫でてくれた。


ぎゅうぎゅうと鳴るワイパーに、景色は塗り替わっていく。


侵食された大地。

枯れ果てた草木。


およそ、『自然』は死に絶えていた。


赤茶けた丘の広がりは、かつて山だったろう。

朽ちた倒木の重なりは、かつて森だったろう。


「これが『森』よカヲル。あんたが来たがった場所」


「……こ、これが……」


苦しそうな息をわたしに向ける。

クルマを停めると、雨音に包まれる。


「驚いた? ……伐採、開発、酸性雨、山火事、そしてセカンド・インパクト……二十四年は、この森にも長い年月だったのよ」


「……キ、キョウコ……」


「苦しそうね? ……ふん、そうよね。あんたこの森で死ぬんだから」


「……」


「あの日みたいに、あの樹の下でひとりで死ぬの」


「……」


「……それがあたしの『願望』よ、カヲル」


クルマのキーを抜く。


「さ、降りるわよ……あたしと『ピクニック』するの」


人形を掴むと、ドアを開けて、雨の中に身を晒す。

たちまちと貼り付く、ぬるく濃い湿り。

ぼたぼたと、髪を伝わり、身体を流れる。


助手席を開ける。

最早、生気の無いカヲルの手を掴んで引き出す。


「ほら、おべんと忘れないでよカヲル」


ランチボックスを掴み上げ、押し付ける。


「さ、行きましょ。楽しいピクニックへ」


片手に人形、もう片方にふらふらと佇むカヲルの手。

わたしは、クルマを停めたアスファルトの道路から

どろどろとぬかるんだ赤土の道へと踏み込んだ。





立ち枯れや倒木の原を抜けると、見渡す限りの泥の地。

かつての草原は、やはりゆるやかな斜面に在った。


そして、その先に見える、灰白色に枯れた巨木。

枝も葉もことごとく消えた、その痛々しく寂しいシルエット。


笑みが込み上げてきた。


下らない。

本当に下らない。

こんな下らないことを、わたしは……


「……はあはあ……キョウコ……聞いてくれないか……」


青白い額に貼り付く銀色の髪。

長いまつげに乗る細かな水滴。

カヲルは、苦しそうな表情に幾筋か雨を流し、重い息をつく。


「……僕は、ココで死ぬために、帰って来たのかい?」


「そうよ」


「二十四年もの時を越えて、帰って来たのかい?」


「その通りよ。あたしが云うんだから間違いないわ」


激しく上下する薄い肩。


「……あんたは、あたしなんだから、カヲル」


ぐずぐずと泥に沈む足には、もう感覚は無かった。

ただ、あの枯れ樹へと進むことしか考えなかった。


力無いカヲルの手を引く、自嘲の笑みを浮かべた、科学者。


「もうすぐゴールよカヲル。あの日と同じ、あの場所」


ぬかるんだ地面にふたりの足跡が続く。

水がたまると、波紋の狭間に暗い雲を映す。


巨木の前に来ると、カヲルをその根元に放り出した。

あらがう力も無く、背中を幹に当て、ずるずると座り込む。


「ほら、着いたわよ、あんたの墓場に」


「……」


「……その前にピクニックしなきゃね」


ポケットからびしょ濡れのハンカチを取り出すと、カヲルの隣りに敷く。

その上に腰を下ろすと、ハンカチごと尻が泥に沈んだ。


「これでいいんでしょ? ……さてと、では、おべんと食べましょうか」


あの日と同じ赤いランチボックスは、濡れ光っていた。

カヲルの手からそれを取ろうとすると、それは逃げる。


「?」


高く掲げられたランチボックス。

伸ばした手で追いつこうとすると、反対の手に回り、さらに遠くなる。


「なによ……おあずけ?」


カヲルの顔は見れなかった。

カヲルの目を見れなかった。

背けた顔で、さらにランチボックスを追う。

しかしそれは、わたしの手に収まらない。


「……どうして? ……あんたは、あたしなんだから……」


「ダメだよ、キョウコ……」


「何でよ!? ……あたしはピクニックがやりたくて……」


遠い手を追うために、座ったままカヲルにしがみつく。

アゴをそらせ、手を目一杯伸ばす。

そのまま視線を落せば、目の前にカヲルの顔が有るはずだった。


「どうして!? ……何でよ!? ……何故なのよっ!」


指先に、ランチボックスが触れる。


「ダメなんだよ、キョウコ……」


そして、それは、崩れ始める。





















バカだ。

わたしはバカだ。


それが『ランチボックス』であるはずが無い。


ましてや、その中に

塩辛いだけで不味いソーセージサンドの紙包みや、

シアン化合物の入ったぶどうジュースのビンが

入っているはずが無いのだ。


『コア』に『アポトーシス』を命令された『ランチボックス』は

『自死』を起こし、その細胞の残骸がゆっくりと崩れ落ちて行く。




















「キョウコ……僕は、死ぬためだけに帰って来たんじゃないと思う」


「……お……」


「……僕はきっと、……謝りたかったんだ……」


「……おにいちゃん……」


兄の顔を、やっと、見る。

優しい微笑みが有った。

疲れ、やつれ、諦めた表情の中に、それでも優しい微笑みが有った。


「……あたしが悪かったの……おにいちゃんが、怖い顔して……キョウコのジュースの紙コップを握りつぶしたから……」


「キョウコ……」


「だからあたし、怖くなって、逃げだしちゃったの……」


「違うんだ、キョウコ……」


「ごめんね、おにいちゃん……ひとりにして、ごめんね……いっしょに行けなくて、ごめんね……」


鼻の奥に沸き上がる熱さ。

目頭から流れ出るそれを拭う様に 兄の首筋に頬を寄せる。

懐かしい匂い。

流れる雨にも失われない、幸せの記憶。


「キョウコ……僕はキョウコを連れて行けなかったことを謝りたいんじゃない……」


「……え?」


「僕はね、キョウコ……キョウコを連れて行こうとしたことを謝りたかったんだよ」


「おにいちゃん……」


『ランチボックス』が崩れ去ると、そのまま兄の指先が崩れ始める。


「だって、キョウコは、こんなにキレイになったんだから」


紅もひいていない女。


「キョウコには、素晴らしい未来があったんだから」


その唇をそのまま、兄の唇に押し当てた。

その細く冷たい身体を、抱きしめた。

もう、失いたくなかった。


なのに

わたしを抱き留めるはずの腕は

もう無かった。








































「泣かないで、キョウコ」









































「僕はね、幸せだったんだよ」








































「青い空の下で、死にたかったんだから」








































最初に起こったのは、ごく小さな、風。

それは、わたしたちを中心として、ごく小さく渦を巻いた。










雨が、地面に染み込んだ雨が、土から湧き出して、天空に昇って行く。

風が、轟音をまき散らす風が、上空の雨を孕んだ雲を薙ぎ払って行く。

まるで唐突な出番に戸惑う様に、強烈な陽射しが地面を照らし始める。










空気は一瞬に乾く。

泥は土となり、赤い色は黒ずみ始める。










遠くに見える枯れ木の群れが、ぐいぐいと若い枝を伸ばす。

みずみずしく青い葉を付け始める。










土の中から、柔らかい草々が芽吹く。

その、萌える草いきれの匂い。

清廉な風が、若い草原に波を刻み始める。










その中心の大樹には、枝が複雑に茂り、葉が陰を作り始める。

木々は鬱蒼と風景を埋め、草原は青い色で陽光を受け止める。










『森』は、今、かつての姿を取り戻した。

……まるで、『あの時』から何も変わらなかった様に。








































草原の大樹の木陰に、わたしはひざまずいていた。


確かに、誰かを抱きしめていたはずだった。

でも、もうわたしの腕の中には、誰も居ない。

わたしの唇には、何も触れていない。


ただ、手の中に

小さな、赤い、球体が、有った。


さらさらと、風が肌に流れる。

きらきらと、葉の透き間が目に焼き付く。

幹に背を預け、風に目を閉じ、網膜の模様を眺める。









































ふと、視線を感じる。

隣りを見ると、幼い女の子。


麦わら帽子の下の紅い髪。

ワンピースに伸び切らない身体。

ふわふわとした布の人形を抱え

ハンカチを敷いて、ちょこんと座っている。

怪訝そうに青い瞳の光を向けている。

その愛らしい唇が開く。




















「おにいちゃん」


「え?」




















「おにいちゃん……どうしたの?」


「……あ、ごめんキョウコ。ちょっと考え事してたんだよ」


「ふーん……」


「何だい? キョウコ……何か話すことが有ったんじゃないのかい?」


「うん……あのね、おにいちゃん……おねがいがあるの」


「お願い?」


「……おにいちゃん、あのね……キョウコとけっこんしよ!」


「え? 結婚? ……何故だい、キョウコ?」


「そうすれば、おにいちゃんがパパで、キョウコがママで、こどもがいて、みんなでピクニックできるでしょ」


「フフ、そうか……それは名案だね」


「じゃあ、このおにんぎょうがこどもね」


「それじゃあママ、子供のお世話、頼んだよ」


「もー、パパ。だめじゃない」


「何がだい?」


「ちゃんとこどものなまえつけてくれなくちゃ」


「名前か。そうだね。名前を付けなきゃね。僕とキョウコの子供の名前」


「……ねー、はやくー」


「うーん、じゃあ……ママは『今日子』で」


「うん」


「パパは『香』だから」


「うんうん」


「……『明日香』、にしよう」


「あ、す……か……あ・す・か……アスカ!」


「そう、アスカ」


「うん、アスカちゃん! ほら、アスカちゃん、パパにこんにちはは?」


あれ?


「……おにいちゃん?」


どこに  いっちゃったんだろ




















ちっちゃな  あかい  たま




















そう  だね

また  あえる  から


おにいちゃん  に  また  あえる  から




アスカ  も  いる  から








もう  さびしく  ないよ

















































































and...