2003年「waiwai隊」 晩夏の山歩きの記録

 

 

 

・9月 8日(月)    一の森ヒュッテ〜剣山〜三嶺避難小屋

  

 

 今朝も朝陽を狙って、名(迷?)カメラ“オバサン”がスタンバイなのだが、空が白み始めるにつれてガスが上がってきた。6時半に出発である。昨日と違い、今日はロングランとなるので、写真撮影だけには時間を割けない。ガスは“ほら貝の谷”から次々と吹き上げて来ている。二の森を過ぎてやがて、笹を守るために作られた木造の階段を昇ると、剣の山頂だ。今まで誰にも出会わなかったが、頂上にはカメラを構えた人がいた。

 

 

 

 頂上は7時10分に着く。ここは写真だけにした。太郎から次郎へのコルは、ガスが吹き抜けていた。今日の縦走の水は、この先の水場で確保する予定だ。ジローギュウーと巻き路との別れに、三嶺まで19Kmの案内板があった。「ジローまで一時間ぐらいじゃ!」の内田さんの言葉のとうり、水場で小休止して、ありったけの水筒に水を詰め込んで8時に出発である。

 丸石へのコルへ近づくころには、ガスが飛んで行って縦走路が見えて来た。しかし、コルからは今までと違って、路が見えないぐらい笹が覆っている。ズボンが露に濡れ、直ぐにビショビショとなる。丸石の頂には、忘れ物(落し物?)らしい、キー(家の鍵やスズキ車の鍵)がぶら下がっていた。9時前に腰を上げた。

 ここからが、この縦走の核心部である笹薮歩きである。頂きから下がった林の中に小屋が見えてきた。そして、“奥祖谷かづら橋”からの路が右手から合わさっていた。丸石小屋の中を覗いてみると、小綺麗に掃除されていた。丸石の取り付きから、路は笹に隠れていて歩き方に工夫がいる。足の裏で路の状態を確認しながら進む必要がある。眼での確認が出来ないのだから・・“しょうがない!”のだ。路はところどころで、獣路(いのししか?)と交錯していて、歩き難い場所もある。林の中に朽ちかけた小屋が現れた。避難小屋は使用不能の様子だった。

 

   

  

 

 右手の視界が開ける場所では、奥祖谷の家々が眼下である。高の瀬を眼前にして、左手の石立山へ続く山並みを眺めながら小休止である。内田さん手製の“おにぎり”を腹に収めて10時に腰を上げた。高の瀬の取り付きは、間もなく岩交じりの尾根へと続いていた。程なく左手へと“水場”への案内があった。伊勢の岩屋はこちらの路を辿るのだろう。尾根の路は、踏み跡は確かで、“四国の岳人に守られてきた路”だなあ〜、と感じる。ここまでは、不明瞭な処では目印のテープが巻かれていて、戸惑う箇所は無かった。木の根っこや、岩にすがりながら木々を潜って進む。高の瀬の頂は、ひっそりと佇んでいた。〇△山にある、騒がしいほどの“登頂記念のプレート”も、無い。

 石立分岐は直ぐ先の筈である。「いつか行ってみたいなあ〜」との想いで、石立へと続く路を見ながら進む。分岐の標識は、ひっそりと佇んでいた。分岐を左へと採れば、“徳島の岳人のあこがれの縦走路”は、中東山を経て石立山へと続いている。三嶺への路は、右手へと尾根筋を上がっていた。腰を下ろせる場所を探して小休止し、11時に出発である。潅木の林を抜けると、前方に笹原が広がるピークが見えて来た。路は笹原を縫うように付いている。もう三嶺に手が届くかのように近くに聳えて見える。 

 

 

 

  笹の海原の中で、「コーヒーでも飲もうか?」と、遥か遠くとなった“剣とジロー”を振り返りながら、前方に聳える三嶺の雄姿を望みながら腰を下ろした。11時40分である。「この調子だと、三嶺まで行けそうだ」と相棒と話しながら、先程から、ちらちらと見えていた白髪の小屋へ向けて足を踏み出す。まもなく左手に別府峡へと続く林道が見えてきた。そして、鞍部に佇む白髪の小屋へと着く。12時50分だった。「もう先が見えて来たから、中を覗いて行こう」と、相棒と中へ入った。

 

 

ザックを降ろして寛ごうとしていると、相棒の「waiwaiさんに、書置きがあるよ!」と、小屋のノートを差し出した。その書置きは、讃岐富士さんだった。日付は9月7日になっていた。ノートには「名頃へ下ります。waiwaiさん、千代さんガンバッテ下さい。残りはスーパーハイウェイです・・・」などと書き残されていた。ノートに感謝の言葉を書き添えて、netの仲間の温かい気持ちに感謝して、小屋を後にした。

 

 

 心地よい空気が体中を包んでいる。急坂の登りも、重い足を後押ししているかのように感じるから不思議だ。白髪分岐は直ぐだった。残暑の陽射しが疲れた体に照り付けて来る。堂床分岐を13時35分に通過する、ここは先を目指す。韮生超えは13時50分だが、ここは休憩ポイントには適していなかった。「暑い!」と、陰と風が当たる場所を探して進む。少し降りた所で、“おにぎり”をほうばる。14時だった。

 グーンと降りるのはいいが、その分登りがあるのは当然で、三嶺へ取り付くと見上げる程に首が痛い。汗を風がさらっていく間もない程、汗が出てくる。そんな登りである。クサリやロープで整備されてはいるが、ザレた路はいっそう足を重くする。今日の最終地の三嶺に15時着だった。それは、測ったような時間だった。内田さんに連絡をとって、小屋へ荷を置き、まずは“水場”へ急行である。平日の小屋は二人で独占した。小屋のノートの讃岐富士さんの書置きの後に、一言書き残して、ノートを読み疲れた頃、もう眠っていた。夜中(朝方)にトイレへと小屋を出ると、“まあるい・お月様”と火星が耀いていた。

 

  

 

・9月 9日(火)    三嶺〜天狗塚〜いざり峠〜登山口  見の越  大阪

 

 

 昨日と同じ様に、朝が近づくと雲に包まれて行く。今日も朝陽は拝めないのかなあ〜、と小屋を後にした。三嶺でとりあえず記念写真である。今日も朝露に濡れながらの歩行となる。待ち合わせの時間が決まっているので、とりあえず先を目指す。5時45分だ。

 強い風が雲を動かして、ゴーゴーと雲が鳴いている、前方の雲が飛んで行き、一瞬の間“天狗塚が現れた。相棒にカメラをセットするよう伝える・・・が、厚い雲は視界を遮ってしまった。振り向けば、三嶺にかかる雲が動いていた。急いでカメラを抱えて、相棒は走る。・・・それが、次の写真である。

 

 

 

 

  写真の出来はともかく、出発した。朝露に濡れた笹で直ぐにズボンは、びしょ濡れになった。前方の視界は利かないが、路は確かで間違う事はない。晴れていれば、東祖谷の山々や、集落や、天狗塚と綱付森から土佐矢筈へ続く山並みが見渡せる筈だが、今日は叶わない。適当な休憩場所を見つけられないままに、西熊山まで足を伸ばしてしまった。7時20分には、相変わらずの雲の只中で小休止である。

 

 

 

 7時45分に“おかめ岩”を通過して、最近改名した“天狗峠(旧名:いざり峠)”に着いたのは8時15分だった。久保の林道にある登山口には、11時の待ち合わせなので、9時半の下山開始を予定していたので“天狗塚まで行こうか?”と、空荷でのピストンとした。

 相変わらずの雲の中での歩行で、ただ歩くのみである。天狗塚の頂上でシャッターを押し、再びの天狗峠は往復30分だった。小休止の後、下山は9時前である。滑り易い足元に気を使いながら、高度を下げる。

 

 高度が1600mを切る頃、雲の下に出たようで、陽が射してきた。気分屋は、相棒だけでは無いようだ。ビショビショに濡れたズボンや靴を乾かすために、適当な場所を捜しながら降っていると、相棒の携帯が鳴った。今日は、役場の迎えを頼んだのだが、忙しくて来れないとの事。しかし偶然、内田さんが所要で山を降りるという事で、送迎サービスとなった。

 

 

 

 

 内田さんから、「今リフトに乗っている」との連絡だった。林道の手前に格好の“乾かし場”を見つけて、休憩とした。ズボンを脱ぎ、陽だまりで寛ぐ。相棒も私に倣って“あられもない格好”である。

 30分ほど休憩していると、何か声がした。急いで、ズボンを履いて、靴を履く。その一行は、6〜7名で「讃岐富士クラブ」の印がある団体だった。林道の登山口には11時前に着いた。

 

 

 今回の縦走は、計画どおりに実行する事が出来た。天候にも恵まれて、又、内田さんの厚意にも助けられての完走だったが、懸案の縦走路を走破出来た。そして締めくくりは、内田さんの案内での、「かやぶきの廃屋」の撮影だった。

 

 

 

 

 

 一日違いで、昨日が今日のような天気だったら、疲れだけが残っただろう。

 一の森〜三嶺の縦走は、適当に風が吹いて、ほんとうに快適な尾根歩きだったんじょ。\(^o^)/

 三嶺の避難小屋は、木の香が残るいい小屋だな〜。思い起こせば、二代前の小屋には泊まった事があったな〜。(「千代のこだわり」の、思い出の山’80年代)

 平日という事で、剣山頂上でカメラマン一人に出あっただけ、濡れたズボンを乾かす為に、おっちゃんが大丈夫って言うので、二人してパンツ一枚になったwaiwai隊、(@_@;) 誰も見たくないやろね〜 オイオイ!

 真相(?)は、水が余ったし、ズボンが汚れていたので、お迎えの車が汚れてもいけないし〜と思って、洗い流す為に・・なのよ〜 私は絞って直ぐはいたんじょ。登山口が以外に近く、車の音がしたので、耳はそばだてておったんじょ。

 長い間、実行したかった縦走を成し遂げたとたん、おっちゃんは「残るは槍〜穂高の縦走やねぇ」だった。私はキレットが怖いから・・どうでもいいわ!