立山・裏剣を歩く   

  

 ≪waiwai隊夏山行2000年≫  

  

 

 

 

【1日目(松山〜松本〜信濃大町〜室堂)】

 

  

 厚く重なった雲の中に一瞬、山の塊と思える日本アルプスの一部が顔を見せた。程なく、私たちを乗せた小さな日本エアシステム機が、雲に突っ込んで行くと、そこが松本である。一時間半の空の旅は、十人足らずの同乗者と親切なスチュアーデスとともに松本空港に降り立った。まずは、明日からの山行に備えて、ガスを調達するために松本までタクシーに乗る。

 

 

   

 松本発12:35分発のJRに、駅弁と缶ビールを買って乗り込んだ・・・が、事件が発生するのは二時間後である。信濃大町でバス、扇沢からトロリーバスに乗り継ぎ一般観光客と一緒に“黒四ダム”の展望所まで歩いている時に事件は起きた。展望台までの階段で、脚が上がらなくなった。“ビール”が効いたのだった・・・二時間も経ってである。そこで(黒四ダム)、予定外の時間潰しと相棒の“叱咤”の言葉を聴き、ケーブルカーに乗り込んだが、この事件が今回の山行の序曲だとは、思いもよらなかった。

 

 とにかく、黒部湖駅でザックの運賃を払って、室堂に無事到着だ。今日の宿泊場所は、「室堂山荘」である。真っ白のガスの中に、山荘は建っていた。(00.7.22)

 

 

【2日目(室堂〜雄山〜室堂〜地獄谷〜天狗平〜弥陀が原〜室堂)】

 

 今日は、地獄谷周辺への散歩を予定していたが、“朝早く出たら雄山まで行ける”と、雄山へのピストンを・・・と予定変更だ。

 

 

 

   六時半に山荘を出る。準備を整え“いざ、出発”周りの山々は皆、雲の帽子を被っている。峪筋に残る雪は、HPなどの情報と比べても同時期より多く感じる。未だ陽が昇る前の雪渓を慎重にトラバースして、一の越へと一歩一歩と歩を運ぶ。下方を望むと、数パーティーが上がって来ている。一の越は、風が吹き抜けていた。私達には山名は判らないが、北アルプスを望む事が出来た。小休止の後、雄山へ向けて出発である。

 

 

 

    しかし、私はピッチが上がらない。背負っている荷物は、サブザックなのだが・・例の“体調不良の虫”がとりついたのか?・・次々と後続の人に道を譲りながら、まるで“カタツムリの如し”の歩みである。だが、9時前には雄山に着く。初めての3000m峰だが、感慨は無い。雄山神社での“神主のお払い”は相棒に一任して、今日のところは雲に覆われた剣岳を“明日の楽しみ”とし、下山である。

 

 

 

 

 室堂への降りでは、早くも観光客の列が続いている。もちろん、室堂は人でごったがえしていた。雪の間から姿をあらわした“ミクリガ池”を後にして、私たちは、一路“地獄谷”を目指す。やがて、雲の隙間からその姿を現した剣岳を見ながら、硫黄の噴き上げる“地獄谷”を通り過して、花が咲き揃う(約一人、頬がユルム昔の娘がいた)場所で昼休とした。足の踏み場が無いほど“コイワカガミ”が咲き揃う、お花畑の遊歩道の中を弥陀が原へと歩く。ここらあたりでは、誰にも出会わない・・何故?

 

獅子が鼻岩の降りも“ガイドブックの記述”程ではなく、まもなく弥陀が原ホテルに着く。16:20分発の連絡バスで、室堂へと戻る。(00.7.23)

 

 

  

 

【3日目(室堂〜雄山〜大汝山〜真砂岳〜別山〜剣沢小屋)】

 

未だ明けきらないうちに、部屋を出る。朝の冷気が心地よい。6:40分出発である。昨日とは違い、ザックの重みが肩に伝わってくる。今日は、立山三山の縦走で剣沢を目指す。

 

 

 

 

 

  ザックの重さに比例して、昨日よりはスローペースである。一の越から雄山までは経験済みで、昨日に続いての雄山である。今日は剣沢泊まりなので、休憩の時間は“ユックリ”である。なにしろ私たちにとっては、初の3000mの稜線歩きなのだ。立山三山の最高峰である“大汝山”は、大岩が重なった上にあった。右手の深い谷は、黒部川に切れ込んでいてガスが湧き上がっている。3015mの岩の上に立ち記念撮影だ!・・が、「空しか写らんから、しゃがんで!」と、変な格好の写真の出来上がりだ。

 

 

  大汝山を後にして、一路“富士の折立”を目指す。ここから岩屑の中の降りである。前方に“内蔵助カール”の雪渓を望みながら、直近に迫る山々に胸を躍らせる。“大走りコース”を左手に分けて、真砂岳への昇りだ。所々で“ミヤマキンバイやミヤマクワガタ”などの花々の小群落が姿を現す。“別山”への昇りをクリアすると、眼前に剣岳が姿を見せた。それは息を呑む風景だった。傍らでは20歳前後のカップルが、大きなザックを背にして楽しそうに談笑している。その姿を見て「うらやましなあぁ!」と“オジサン達”は、感じている・・・筈である。時計は、未だ10時を少々過ぎた時間を指している。そして足元には、豊富な雪渓の中に悠然と剣沢小屋が建っている。

 

  

 別山から乗越しへと降り、右手の剣沢への小尾根へと道をとると、雷鳥の親子がウロチョロしている。相棒は、直ぐ近くまで近づきカメラを構える。全く動じない親鳥と、その周りを忙しく駆け回るヒナ鳥がいる。近年、個体数も減る一方だそうだ。

 

   

 

地球上から、絶滅の危機と叫ばれている植物や動物が、数え切れない程ある・・・それは私たちの身近にも、存在する・・・

 

    遥か下方に見えていた小屋が大きくなってきた頃、スキーを担いだ青年が上がってきた。剣沢雪渓を滑っていた青年である。暫くの間videoを回したのだが、彼はあっという間にテント場に滑り降りた。そのテント場には、10張り余りのテントが色を競っている。雪渓を横切って小屋の入り口を入ると、佐伯友邦氏の受付で2階の部屋へ通された。未だ昼前の時間である。今日は、ゆっくりしよう・・・山を眺めながら(00.7.24)

 

 

 

 

 

【4日目(剣沢小屋ー停滞)】

 

目覚めると外は雨だった。「予備日があるから今日は停滞としよう!」と、あっさり停滞と決め込む。・・・この決断が予定変更となる“事件”の引き金となる(数時間後だ)

 とにかく今日は、談話室で本を読みながら時間を潰そう。窓から“別山のトラバース道”の雪渓を剣山荘へと歩く人が次々と現れる。videoを回したりカメラを取り出したりと、今は雨に煙る剣岳への道を指をくわえて見る・・事しか出来ない。(もどかしい〜)

 

 今日は、友邦氏は室堂へ降りた(忙しくなる夏休みの、準備の為だろう)。小屋の留守番は、おかみさんと“三代目となる息子”だ。談話室のストーブには、薪がくべられ炎がつきない。昼ころに中高年のグループがやってきた。「剣沢を降りようとしたのだが、上がってきた人に『道が崩れていてこの雨の中では危険だ・・』と云われて、引き返してきた」との事だ。

 

 

 小屋にいると、いろんな事がある。三代目がvidroを見せてくれるという、「爺さん(初代の佐伯源次郎氏)が映っている・・」との事で貴重な映像だ。源次郎尾根の主である。

 

 

 

 

 video鑑賞の後、ふと外の気配に眼を移すと、雨は上がっていた。そして、間もなく陽が射して来た。前剣の後ろに悠然と聳える主峰=剣岳は、右方に“ゴジラの背”を思わせる八つ峰を従えて、いくら見ていても見飽きることは無い。

 

 

 

 

 やがて雲が飛び、夕焼けと漆黒のシルエットに包まれて、山々は眠りに落ちた。私たちも、夕食の後、明日の旅たちに向けて眠りに着くべく、トイレを済ませ階段を上がり、横になる・・・が“眠り”につけない。心臓の鼓動が聞こえてくる。・・・何かおかしい?“息苦しくなってきた”相棒に「息苦しい・・・酸素吸入器が下にあったから、買って来て」・・・が“事件の始まり”だ。相棒が“おかみさん”と共に部屋に・・・そして、お向かいの金沢大学医学部の“女医=見習い?”さん、そして息をきらして、県警の山岳救助隊の方まで駆けつけた。ナンジャコリャ・・そして、変な器具で診察が始まった。「おかしぃ、高山病じゃあないですネ」

 

 救助隊の人が無線でなにか喋っていた。半時間程の問診後、「降りるんだったら、担いで降ります。室堂に救急車を用意しますか?」とか、このまま様子を観ても、明日の行動は「奥さん、解っていますネ」と釘を刺される。(00.7.25)

 

 

 私は見た! こんな事になる前に、たばこの火がつきにくいのか、何度も変に吸って火をつけているのを・・

 他の人に迷惑にならないように抜き足差し足でトイレに行き、息を詰めたのもいけなかったのかもネ・・・

 

 

 

 

【5日目(剣沢小屋〜一服剣〜剣沢小屋〜南又〜仙人峠〜仙人池)】

  昨晩は大騒ぎだったが、私が震源地なので肩身は狭い。四時過ぎには、出発である。もちろん無理をするつもりは無い。剣山荘の前を通って、“一服剣”には五時前に着く。未だ登山者は少ない。私は?というと、やはり、万全の体調では無い。相棒の冷たい視線や“叱咤”に構わず私は「今回は、ここまでだ」と結論を下した。気落ちした相棒は、花を撮った後のレンズ交換でレンズを落として、割ってしまった。動揺は隠せない・・・「あんな年寄りが行っているのに?」しかし、一度決めた事は覆らない。・・もちろんそのことは、相棒が一番良く知っている。そして、相棒の無念さも・・私は承知している。

        

   何度も剣岳を振り返りながらの、下山である。「山岳救助隊に寄って行こう」と、剣沢の詰め所に寄って、剣沢を降りるルートを伝えて下山にかかる。剣沢小屋は、八時過ぎに出発。

 

  剣沢の雪渓は、豊富な残雪が峪を埋めている。平蔵谷を過ぎたあたりで、大きなザックの若者グループとすれ違う。そして、長次郎谷である。「音に気をつけて、落石の音に・・」の隊長の忠告を思い出しながらの下山も、間もなく“真砂沢”の出合いに建つ小屋に着く。

 

  小屋の主は不在だった。そして、小屋からの道は最近整備した様子で、暫く降りるとその主に出会った。自然と頭が下がる。雪渓は、日一日その姿を変えルートを変える。“南股”の高巻き地点は、十時過ぎに慎重に通過して一服つける。二股手前の“近藤岩”では昼休みとし、十三時には二股のつり橋を渡る。眼前に広がる三の窓雪渓が“カッコイィ〜”が、仙人新道への表札が判らない。が、暫くでテープを発見である。

 

 

   仙人新道は、急勾配の尾根の道だった。右手にあるだろう“幻の剣沢大滝と十字峡”と、左手に垣間見える三の窓雪渓が遠のくほど、目指す仙人峠が近づくはずだ。汗が噴出す昇りに“ハクサンシャクナゲ”の白が涼しげだ。仙人峠では、“アカモノやコイワカガミ”が迎えてくれた。そして、目の前に仙人池ヒュッテが見えている。

 

 

  ヒュッテの“おかみさん”の志鷹静代さんは、雑誌で見たのと同じ笑顔で迎えてくれた。常連さんとの会話にも、その人柄が顕れている。・・・こんな瞬が私は好きだ。

  

 夕餉は、同宿となった方たちの話を聞いている時間が好きだ。結婚前の、山に入れ込んでいたときの“合宿”の話や、30年前の山行の話だ。今夜は、ゆっくり眠れるはずだ。(00.7.26)

 

 

 一服剣での顛末は、おっちゃんの被害妄想と違いますか? 私は剣岳のカニノヨコバイが心配だったので、内心ホッとしていたくらいですから・・・

 おもいっきりやさしく(いつもの何倍も?)なぐさめたんじょ。

 

 

 

【6日目(仙人池〜池の平〜仙人池〜阿曾が原峠〜阿曾が原)】

 

 

   朝陽が昇る前に、裏剣の「朝焼け」の撮影会だが、もちろん私たちはアーマチュアである。今日は、阿會が原までなので時間に余裕があり、池の平へ寄ることとした。一度は観たかった“池の平の小屋”と剣への岩峰群である。その小屋には、誰も泊まっていなかった。トンカチの音が響いていた。休憩しようと準備していると、昨晩仙人池で同宿の人がやってきた。「嫁さんは、小屋で留守番だ」そうである。

 

  と、棒切れを掴んで池の平へと“グリセード”である。この場所では、“昔の合宿”が思い出されるそうである。「いまは、谷から谷へと歩いている、ピークは追わない」・・・そういう登山もあるんだ!仙人峠から“鹿島槍・五竜・唐松・白馬”へと続く山並みを、又裏剣の鋭鋒群を瞼に刻んで下山とする。“おかみさん”と記念撮影をし、小屋を後にした。9時40分である。

 

 

 仙人谷の降りは、慎重を要した。雪渓の中の踏み跡は、不明瞭な箇所もあり、的確なルートファインティングが必要だ。やがて、仙人温泉の手前の崩壊箇所に着く。雪渓の向こうに人が見える。「ルートが判らなくて、降りてくる人を待っていた」そうで、テントを担いで縦走しているそうである。十字峡への道と出合い昼食とした。阿會が原峠を過ぎると、まもなく阿會が原温泉小屋に着いた。ヒゲの佐々木泉さんが迎えてくれた。13時である。仙人池のおかみさんが、既に私たちの事は、伝えていてくれていたようで。温泉にゆったりとつかった。(00.7.27)

 

  

 

  

 

7日目(阿曾が原〜オリオ谷出合〜欅平〜宇奈月温泉

 

  今日は旧日電歩道=水平歩道で、欅平までのトレイルだ。同宿の全員が集合して、佐々木さんの案内で黒部専用鉄道のトンネルへと導かれた。そして間もなく岩盤を「コ」の字に削った“例の水平道”の始まりだ。右手の黒部の谷は、遥か下に見えるが道はしっかりと整備されており、不安は感じない。やがて、左手から水量豊かな滝が落ちてきており、ここで小休止である。再出発後、直ぐに“オリオ谷”出合いである。ここは、堰堤のトンネルを使う。9時である。 

 

 水平歩道は沢に出合う度に蛇行を繰り返しながら、岩をえぐった道が続いている。やがて、本降りの雨となった。そして、志合谷のトンネルを、ヘッドランプを点けて抜ける。しばらく進むと中高年のグループが上がってきた。この長く続く水平道を歩こうという“気持ち”が、好ましい!・・・私たちも10年後、20年後に歩けることが出来ればいいが・・など考えながら歩くと、道は下り始めた。

 

 

  下方は、今回の最終地点でありトロッコの駅である。長い急坂を降り立つと、今回の出発地点の室堂と同じ風景(?)の欅平だった。昼過ぎの旅の終わりは、トロッコに乗り宇奈月温泉でゆったり風呂に浸かり幕を閉る。一週間前の喧騒の世界へと戻るのである。(00.7.27)

 

 

  

 

  【後日談】

 この頃の“体調不良”の虫は、翌年の3月の人間ドックまで続いた。体調が戻るのは、01年の夏である。