おまけ




1. Red Bird
杣野たかし  
 なんとなくどこかで飲みたい気分になった。
 誰も知らない場所で、一人。

 おいしいお酒を出す、ちゃんとしたバーが良い。
 静かで・・・一人でもくつろげる場所。
 行きつけの店、というのを持ったことはないけれど、
 言うなればそういう店だ。
 初めて入っても、そういう感じを抱かせてくれる店。
 僕にとってのそんな店は、どこにあるのだろう?

 いつもの通りから、喧騒を避けて道を曲がる。
 人通りの少ない路地。
 昼かと見紛う光の洪水から一転、
 闇に明かりが浮かび上がる空間へ。

  ああ、もう夜も遅い。

 そんな当たり前のことを思い出したような感じがする。
 所々にある街頭を頼りに、蹴躓かないように足元に注意して歩く。

 ほんのりと明るい光が漏れる小さな窓が、ふと目に入った。
 階段の下、半地下状態になっている店だ。

  昼は喫茶店、夜はバーといったところか、
  それともこじんまりとしたレストランかな。

 それとなく見当をつけて、看板も見ずに階段を下りた。
 古く重そうな、黒光りしている木造りの扉。
 いかにも、な感じににやりと笑ってその扉を開けた。

 花が一輪咲いているのかと思った。

 真っ赤なドレスワンピースを着た女性が、
 こちらに背を向けて奥の小さなテーブルに座っていた。
 抑え目の照明に、赤いオーガンジーのショールが浮かび上がる。
 彼女の頭が少し俯くかのように動くのにつれて、
 肩の辺りで切りそろえられた髪が、さらさらと音を立てるかのように動いた。
 残念ながら、その髪のせいで彼女の顔を窺うことはできない。
 なんとなくその女性から目が離せないまま、右手にあるカウンターへと向かった。

 マスターと思しきバーテンダーにバーボンをロックで頼んでから、そっと店内を見渡した。
 カウンターが10席程と、小さなテーブルが間隔を広く開けて5つ置いてある。
 奥にいる彼女のほかに、手前のテーブルには常連客らしい若いカップル。  カウンターに座っている男性二人と親しげに言葉を交わしている。
 カウンターにはその二人組みと、少し年配の男性が一人。
 さらに奥には若い女性が三人で座って、バーテンダーに声をかけていた。
 平日の夜だからだろうか、あまり混んではいない。
 適度な距離感だ。

 カウンターの中の棚には、色んな酒瓶と並んで、コーヒーポットやミルが並んでいる。
 やはり昼間は喫茶店であるらしい。

  この店で出すコーヒーはうまそうだ。

 この店に関しては、何でもかんでも良い方に評価している。
 何か因縁めいた物を感じてみたいらしい。
 そんな自分に少し苦笑いする。

 ことり、と目の前に灰皿が置かれた。
 はっと気づいてみると、いつとは知らぬ間にタバコを取り出していた。
 随分、ぼんやりしていたものだ。
 少し目があったバーテンダーに軽く会釈をすると、彼の目元がやさしく緩んだ。
 タバコを軽く口に咥えて、火をつける。
 いつもの香りに、軽く口元が笑みを作る。

 視界の端を赤い蝶が掠めた。

  そうだ、彼女がいたんだった。

 本当に自分でも驚くぐらい彼女の存在を忘れていた。
 赤いワンピースに赤いショール、どうも靴も赤いヒールのようだ。
 入り口からよりはまだ顔を見やすい角度のはずだが、
 やはり髪が邪魔してよく分からない。
 ずっとうつむいている。
 目の先にあるグラスをにらみつけているかのように・・・。

  あぁ、お酒も赤いのか。

 あまりに完璧な配色に、少し笑みがこぼれた。
 あれは、なんだろう、ブラッディー・マリーか。

  マリー、マリー、彼女はマリー。
  真っ赤に色づく服着たマリー。
  あの血は一体誰のもの、彼女のものか彼のもの?
  マリー、マリー、血だらけマリー。
  その血を嘆いて泣いている。

 適当に自分の心の中で節をつけて歌ってみた。
 なんとなく自分でも気に入って、何度も繰り返す。

  マリー、マリー、彼女はマリー。
  一度も顔を上げぬまま、

 かたん、とそこで彼女の椅子が鳴った。
 なんとなく僕が店を出るまで彼女はずっとそのままのような気がしていたから、
 彼女が動いたというそのことに僕は驚いていた。
 ふっと顔を上げた彼女の横顔に、テーブルを照らすスポットライトが当る。
 彼女の頬に涙の後はなかった。
 口紅が少し落ちてきているせいか、疲れた感じがした。
 街中で会って美しいと振り返る程ではないかもしれないが・・・
 こちらを振り向いた彼女の目に惹きつけられた。
 一歩、一歩、こちらに向かってくる彼女から目を逸らせない。
 あまりにも体が動かないので、頭では、少し飲みすぎたかもしれない、と変に冷静に考えていた。

 「どうもご馳走さま。おいしかったわ」
 彼女がカウンター越しにマスターへ話しかけ、千円札を二枚、カウンターに置いた。
 その手にマニキュアが塗られていないのが、妙に不自然に思えた。
 「どうもありがとう。」
 マスターからおつりを受け取って彼女は去って行く。
 ちょうど彼女が店を出ようとしている時に、

  鞄は白いんだな。

 と、ふと思い至った。

 どれくらいぼんやりしていたのか、
 彼女が出て行った扉を見つめているうちにタバコがずいぶん短くなっていた。
 そのことに気付いて、少し慌ててタバコを灰皿に押し付けた。
 自分の体が動く、そのことにちょっと不思議な感じを覚えた。
 マスターに水を頼む。
 冷たく冷えた水を半分ぐらい一気に飲み干す。
 そんな当たり前の動作、一つ一つがくっきりと意識に刻み込まれるかのようだ。

 マスターに声をかけ、勘定を支払って夜の町へ出た。
 例え彼女がいなくなっても、あの店の独特の居心地のよさが失われたわけではないが、
 今夜一晩は、彼女のいた時のあの店の雰囲気をそのままに眠りたいと思う。
 体は火照っているが、胃の中の冷たい水の感覚が、妙に神経を落ち着かせていた。
 薄暗い路地を抜けて、もうすぐ明るい通りに出る。
 明るい通りに出ても、今の僕には夜の空気が本来暗いものであることがわかる。
 そのことが嬉しかった。

  また、あの店に行こう。

 初めて行きつけの店を見つけた。
 自分の中で、そのことがひそやかな勲章のように輝くのがわかった。