『湧き水』



 朝未だき、薫にしては珍しく早い時間に目が覚めた。隣に目をやると息子の剣路がすう、 すぅと可愛い寝息をたてている。もう一方へ目を向けた。夫はまだ起きてはいなかった。 じっとその寝顔を見詰める。中性的な顔に柔らかそうな赤い髪がふわりとかかっている。 ふと、好きな男の寝顔を見るのもいいものだわ、と考える。なんだか、ちょっとした悪戯 をしているみたいで可笑しい気分になった。もっと見ていたくて、彼のほうへ体の横半分 起こす。暫くすると、目尻からつぅっと液体が流れたようだった。薫は一瞬、自分の目を 疑い、彼の寝顔から余計に目が離せなくなった。液体はそれからも数滴流れ、目尻からこ めかみにかけて轍ができた。そのうち薫は彼に悪いと思い、目を閉じて、再び眠ることに した。

 薫が深く寝入った頃、彼女の夫、剣心がゆっくりと目を開けた。そして、ゆっくりと上 体を起こした。涙の轍は既に乾いていて、皮膚を少し突っ張らせていた。
 ――俺は泣いていたのか。
 隣で眠っている薫を見る。それから彼女のほうへ手を伸ばし、そっと頬に触れる。しっ とりとして柔らかく、吸いつくような生温かい肌の触感が彼女がちゃんとここにいること を証明していた。
 それから手を移動させ、彼女の漆黒の髪を梳いてから手を離し、外のほうへ目を向けた。 障子紙を通して、青く薄明るい光が漂っていた。
 ――もうすぐ夜が明ける。そろそろ朝ごはんの支度をするか…。
 剣心は薫達を起こさないように静かに床を出て、朝食の支度のため、着替えて部屋をそ っと出て行った。

 やがて日が昇り、明るい金色の光で一杯になった頃、薫の目が開いた。部屋には既に薫 の他は誰もいなかった。息子の寝巻きが畳まれずに布団の上に放られている。薫はぼんや りとした頭で先程の涙を流していた夫の寝顔を思い出していた。きっと昔のことを夢で見 ていたのだと考えた。平和な世になって欲しいために彼は過去に多くの人を斬った。しか し、どんな理由であれ、人を斬った事実には違いない。彼は斬った命の重さに耐えながら、 その罪をひとりで死ぬまで背負っていくのだろう、と。薫は自分には変えることのできな い過去が、決してなくならない彼の苦しみが憎らしくて、下唇を噛んだ。それから彼女は 若干、いうことをきかない身体を無理に動かして、息子の寝巻きを畳み、床を上げ始めた。  薫の着替えが終わった頃、剣心が彼女を起こすため、部屋に入ってきた。彼はなぜか拍 子抜けたような顔をしている。薫はいつもと変わらない、明るい調子で声をかけた。

 「おはよう。…なぁに?珍しいものを見るような顔をして」

 「いや、薫殿が自分で起きるなんて、珍しいこともあるのでござるなぁと思って…」

 「なによ、失礼ね。たまには自分で起きるわよ」

 ふたりは目を見合わせてにっこりと微笑みあった。

 「もうすぐ朝ごはんができるから、もう少しだけ待っていてくれ」

 そう言い部屋を出て行こうとする剣心に薫は「剣心」と呼び止め、剣心が振り向いたと ころで、両手を彼の背中に回し、ぎゅっと抱きしめた。

 「か、薫殿…!?」

 剣心が驚くのを無視し、薫は彼の匂いを静かに吸い込む。
 ――剣心はいつもと同じ笑顔で接してくれるのに、私はこうすることしかできない…。  一方、剣心は自分を抱きしめる彼女の腕から伝わる温もりが今まで取り付いていたもの を溶かし、浄化させ、身も心も軽くなっていくように感じた。それは幼少の頃、抱きしめ てくれた母を思い出させた。剣心は薫を慈しむように優しく包み込んだ。
 薫はそっと自分を包み込む腕から伝わる体温に心臓を手でぎゅっと握りつぶされるよ うな感覚を覚えた。薫は罪を背負って生きる彼を側で支えていきたい、と決意したものの、 実際は家事など彼に頼ってばかりで、結局は何もできない自分に落ち込むことが間々あっ た。そして今も、自分が彼を抱きしめていたのが、結局は彼が自分を抱きしめていること になってしまって、段々、自分が情けなくなってきて泣きだしそうになった。しかし今は、 それでも何かしなくてはならないと、挫けそうな気持ちを奮い立たせるのに必死だった。
 「…私は側にいるから」薫はやっと喉の奥から声を絞り出した。今にも消えてしまうよ うな声だった。一瞬、剣心は目を見張った。

 それから暫くしてから薫は腕の力を緩めて、手を離し、剣心もそれに合わせて腕を解い た。その後、薫は俯き、剣心は彼女を見つめていた。その瞳は少し潤んでいた。

 「…ごめんね。いきなり、こんなことをして」薫は俯いたまま言った。

 「何か、あったでござるか?」

 薫は俯いたまま、かぶりを振って言った。

 「うぅん、何も」

 剣心は目を細めて、「ありがとう」と言った。
 薫は目を丸くして顔を上げた。彼女の瞳からは涙が今にもこぼれそうだった。
 剣心は更に微笑み、再度、「ありがとう、嬉しかった」と言った。

 「朝から妻に抱きつかれるというのも、いいものでござるな」

 「…もう」

 薫は膨れっ面で彼を睨んだ。そして薫が吹き出して、互いにくすくすと笑いあった。

 「支度、手伝うわ」

 「いや、あとは味噌汁だけだから、ひとりで大丈夫。それより剣路が道場の前で遊んで いるから、ふたりで席に着いていてくれ」

 「わかった」

 剣心が部屋を出ようと振り返ったときに目元に光に反射してキラリと輝くものがあっ たのを薫は見てしまった。同時に、それを親指でこっそりぬぐう仕草も。その様子がとて もいとおしく感じられ、涙の訳を考えることもすっかり忘れてしまっていた。すると、び ぇ〜ん、と泣く声が聞こえた。「あ、剣路」そう言って溢れ出た涙を袖で拭いて、部屋を 走って出て行った。

 台所では剣心が鍋に味噌を溶かし、味噌汁がひと煮たちするのを待っていた。
 ――俺も涙脆くなったもんだ。…もう、歳かな。
薫の前では涙をこぼさないように必死だった。胸に暖かいものがじわじわと滲み出てく るのを感じた。
 ――側にいるから…か。まるで夢と同じだな。
思わず、笑みが浮かぶ。夢の中で薫の腕に包まれながら「あなたをもう独りにさせない わ」それから、「だから…、きっと大丈夫よ」と言われたのだった。
 ――…まったく、敵わない。借りがたまっていくばかりだ。せめて、少しでも美味しい 朝ごはんを。
 鍋底からぶくぶくと泡が出始めた。味見をする。良く出来ている。火を消して、ふたり が待つ部屋へ鍋を持って出て行った。



かめお様、有難うございました。とても暖かい文章にうっとりします。
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