Lost paradise」

水代紫苑 第四章 「偽善」







その…足音が近づいていた。

僕が憎んでやまない人物…。

僕から姉さんを奪った人物…。



ふと…教壇の上に置いてあったカッターナイフに目が行った。

(佐伯先生…)

(佐伯先生…)

(さ・え・き・せ・ん・せ・い…)

沈思して………僕がふと気づくと…

…目の前には驚愕に打ち震えた姉さんの表情があった。

あれ?どうしたのかな…?

姉さんに僕は何もしていないと思うけど…。

ボタリ…床に何かが当たる音がした。

つぃ…とそちらを見る。

…赤い液体が落ちていた。

(血だ……)

僕はそれを不思議そうに眺めている。

何で血が落ちているんだろう。

ぽたっ…。また血が流れ落ちた。

(何か、頬が痒いな…)

僕は頬をかこうとした。



そして、ふと、気が付く。

僕の手にはカッターナイフが握られていた。

そして目の前には姉さんの驚愕した顔。…おびえる顔。

(たまんないな…理由はわかんないけど)

僕は嬉しさに顔を歪める。

その時、ずきっと顔に電流のような刺激が流れる。

(…あれ? 痒いのが少し…痛くなってきた・・・かな)

僕はそっと自分の顔に触る。

手は…血で濡れていた。

(ははぁ………そうか……)

僕は自分の手に握られたナイフを見る。



どうやら、僕は衝動的にカッターナイフで自分の顔を…傷つけていたらしい。

姉さんの前で…。

姉さんと同じ顔を…傷つけていた。

いく筋もの傷を…。

ぼたぼたと血が流れる。

ははっ、ぼくは何でこんなことしたのかな…

まぁ、いいや…。



足音がだんだん近づいて来た。

「姉さん、ここでじっとしているんだよ。 声を上げてはいけないからね」

姉さんは、恐怖に怯えながら、コクコクと返事をする。

僕は教壇から離れ、教室の中央に出る。



足音が、不意に止まった。

(佐伯先生………)

僕は窓の方を向いた。

僕はいま、大学に通っていた頃の姉さんの格好をしている。

白のブラウスにワンピース…。

あ、もう白じゃないか…ははっ。

それは、血がたれて浅黒く変色しつつある。



姉さんと同じ髪型のかつらまで身につけている。

あっ…化粧は…………いいか…。

元々、姉さんはそんなに化粧をする方じゃない。

したとしても、うすく口紅を塗るぐらいだ。

元々、顔の造詣が似ていることもあって、同じ格好をすると、

こうして窓ガラスに移るぐらいなら、ほとんど見分けはつかないと自分でも思う。

「ふぅ… 」 息をつく。

(ははっ )

…余裕だな…。もうすぐ先生を交えたパーティーが始まろうって言うのに。

僕は…元々、姉さんだったのかもしれない。

姉さんの一部だったのかもしれない。

そう思えさえする。



僕はふと、思ってみる。

僕は姉さんが好きだ…

だから、姉さんが好きな佐伯先生も好きだ…。

僕は、自分にそういい聞かせる。

姉さんになれる方法。 姉さんに近づく方法。

姉さんになる事。 ユカリになること。

いま、それをしてみる。

僕は……姉さんだ。

姉さんを手に入れるか、自分がなるか。

そうすることでしか、姉さんは僕のものにならない。



扉が開いた。

…彼が入ってきた。

「葵くん……。」

紛れもなく、佐伯先生の声だった。

(くくっ、会いたくてたまらなかったかい? )

僕は忍び笑いをこらえる。

先生…それを意識すると、僕の心からは邪悪な喜びがあふれ出てくる。

姉さんになりきった心など、あっという間にその感情の濁流に流されてしまう。

「葵くんだろ・・・・・・? 」

「……………………」

あえて期待させてやるのも、悪くはない。

それが壊れる時の顔が、見ものだからね…。



「葵くん……………………葵くん。 」 

何を興奮しているのか、彼は息も絶え絶えに呼びかけてくる。

くくっ。滑稽だな。 僕なのに。

おっと…いまの僕は姉さんだった。

あいつが相手だと、つい、地が出てしてしまうなぁ…。

「今まで、どうしていたんだい?」

「……………………」

「あ、いや、そんなことはどうでもいいんだ。ははっ。」



僕は無言でいる。

下手にしゃべるよりは黙っていた方がいい。

「……待っていた………。ずっと待っていたよ、葵くん。」

「………………ぅっ……」

少し……嗚咽のような声が聞こえた…。

(?!) 僕は思わず身体を動かした。

教壇に隠れている姉さんが…

(くそっ! ばれたら台無しじゃないか…。あおいのやつ…)



「ずっと待っていたんだ。君が帰ってくるのを・・・。」

「………………ぅぅっ……」

また姉さんがすすり泣いている。

それを聞いて、僕は無性にいらいらしてくる。

静かにしていろといったのに…後で思い知らしてやる必要がある。

しかし、幸いな事に佐伯先生は、それが僕の口から漏れたものだと信じて疑わない。

この教室は音が反射するようだからな…。

僕は、ふと天井を見上げる。



「この大学で、ずっと…。いつもの生活で……。」

「……………ぐすっ……。」

今更、姉さんを止めることもできない。

僕は仕方なしに、姉さんの声に合わせて泣くまねをする。

さりげなく…あくまでもさりげなくだ…。

「いつでも帰ってきていいんだ。葵くんがそれを望むなら。」

「………………………ぅぐっ…………・…・。」

「例え………桧山くんや……草薙先生…その他の誰もいなくなっても……僕が待っているよ、葵くん。」

なんて臭いセリフだろう。聞いちゃいられない。

あんたは姉さんの何だと言うんだ? 姉さんは僕のものだ。

あんたに口説く許可を与えた覚えはない。

「せ………んせい…………」 僕は佐伯先生に呼びかける。

いい加減にしろ…。 黙れ…。



佐伯先生がそんな僕に近づいてきた。

抱きしめてくる。

やさしく、羽毛を抱くように、先生は僕を抱きしめてくる。

くっ…・・・姉さんを抱いたつもりになりやがって…。

更に、それが姉さんに向けられたものである事にも、僕は無性にいらだってくる。

僕は姉さんになりきれな…ばちっ!!

……そこで気持ちがショートする。



あれ……?

…………僕は姉さん…だよな…。

なら…姉さんに向けられた気持ちは僕に向けられたものでもあるんだ。

姉さん…。先生…。

「せんせい………」

「葵くん………」

「せんせい……は私がどうなっても……」

自然とそのセリフが口に出る。

そうだよ…。姉さんはもうぼろぼろにされたんだぞ。

EDENの連中にも僕にもね…。

あんたはその一部始終をビデオを見ているはずだ。

「………………………」



「私が………こんなになっていても……」

僕は繰り返す。

姉さんはもうあんたの知っている水代 葵じゃないんだぞ。

「葵くん……………いいんだ。 」

「でも、私は………」

何がいいって言うんだよ。 わかっているのか?

姉さんはもう、あんたには受け入れられない。

姉さんも受け入れられないさ。



「いいんだよ、葵くん。君がどうかわろうが、葵くんは葵くんなんだ。」

「……………………………」

はっ! 何を偽善者めいた事を…。

「…なら、僕は君を受け入れるよ。」

反吐が出る…。この人は…。

本当に分かってはいない…。

姉さんがどんな風になったのか。

どんな風に変わったのか。

そんな綺麗事で姉さんを受け入れられるとでも思うのか・。

姉さんが受け入れるとでも思ったのか!



「……せ………………」

「もっとも、君がそれを許してくれたらの話だけどね。」

あいつが、僕の言葉をさえぎってくる。

気に入らないな…。 完全に自分に酔っている。

「せんせい………」

僕はそういうと、そっと自分の体にかけられた佐伯先生の手を外した。



はっ、たまらない。 これ以上、聞いてられるか…。

(ん? )

………そうだった。

ははっ、そうだよ。

これから、こわしてやるんじゃないか。

佐伯先生の、女学生も憧れる、ご立派な大学助教授様の清らかなお心を。

僕はうつむいて笑いをこらえていた。

この僕の顔を見たらどう思うだろうか。

それが楽しくてたまらない。

それが始まりなんだ。

いまからそれが始まるんだ。



自己陶酔の極致にある先生を…

徹底的に壊してやる。

葵を、姉さんを使って、ぼろぼろにしてやる。

その始まりの瞬間が楽しみで…楽しみで…

僕は振り向くのをもったいぶっている。

きっと、先生は僕を……ははっ! 僕なのに。

温かい眼差しで見てるんだろうな…ははっ!!

姉さんをぼろぼろにした僕なのに!



砂時計の砂が尽きるほどの…時間がたった。

僕は……ゆっくり先生のほうを向いた…。

そして、ゆっくりと顔を上げる……。

……先生の顔は……スローモーションのように…

…笑顔から、驚愕のそれへと変わっていった。

………期待通りの反応。

僕の顔がにやりとにやけるのがわかる。

引き締めなくてはと思うが、それもままならない。

それぐらい先生の顔は傑作だったんだ。 ははっ!

絶頂から、どん底に突き落とされたかのような顔。

「あ…・…あ………葵………く……。」

「せんせい……………。」

僕は初めて、本当の好意をこめてそう言った。







Lost paradise」

水代紫苑 第四章 「偽善」