Lost Paradise」

佐伯祐司 第四章 「不惑」







顔から赤黒い液体がぼたぼたと伝う………。

葵くんの白いブラウスが血液で固まってごわごわに浅黒く変色している。

「せんせい………」



僕は……一言も発する事が出来なかった。

………指の一本も動かせない。

瞬きすら出来ない自分がそこに…いた。

目は見開いているのだと思う。

この事実から目を逸らす事が出来ないように。

この受け入れられるはずもない状況を、受け入れようとしているように。

そこにいるのは……僕の知っている葵くんではなかった。



血……だけではない。

その目………その表情………口元……

冷や汗が伝う…。

喉がからからになる……。

サキュバスのように淫蕩な目……。

妖艶なまでにつりあがった口元……

何よりもその笑み……。



それは化け物だった…。

それは葵くんの姿をした……・化け物だったんだ。

「せんせい……」 近づいてくる…。

それが……血をたらしながら……

僕は…後ずさりしていた。

「…・……あ………。」

「…せんせい?」

許されない………。

「………く………」

許されるはずがない。

「……く………るな…………・」

僕はその言葉を口にしていた。

「どうしたんですか?せんせい…」

あの葵くんが、こんなだなんて、許されるはずがない。



「私……葵です……」

違う。

「水代……葵です………」

血の匂いをまとわりつかせて……

「せんせい………」

そして、笑っている……。

そんな…葵くんはこの世にはいない。

いてはいけない。

「私……………こんな私でも……」

笑っている………?

「受け入れてくれますか……?」

葵くんが笑っている……?

「ご主人様に……お前はもう役立たずだといわれて……」

ぼたり………赤黒い雫がまた落ちる……。

「捨てられた私を……拾ってくれますか?」

血まみれで………・。



「本当に…………」

顔を傷つけられて…………。

「せんせいは、どんなになっても、水代葵を…受け入れてくれますか……」

それは、ある種、哲学的な命題だった。

本当に、自分の愛する人がどんなになっても、受け入れることができるのだろうか?

この現実をもってして、それが僕に突きつけられている。

………そんな気がした。

しかし……いまのぼくはそれに応える気はなかった。

僕の思考は、まったく違った場所に向いていた。

身体も表情も止まっていたが…頭だけは急速に回答を求めて回っていた。



「せんせい……私を……」

「誰だ……君は……」

僕はその葵くんの形をしたものに言い放った。

すると、そいつは目を潤ませながら、言う。

「水代葵です……せんせい」

「違う!」

僕は拳を握る。

「君は葵くんじゃない!」

断言する。



「葵くんはそんな顔で笑わない。」

「葵くんは………辛い事があったら、表では笑っていても、心では泣くような人だ。」

「本人は隠しているつもりでも、表に出てしまうような人だ。」

「壊れるのは、壊れる心があるからなんだ。」

僕はひとつ息をつく。

「でも、君は心も笑っている。」

「それも……嘲り笑っている。」

毅然として僕はそんな相手を見る。

「葵くんは何があろうが、絶対にそんな顔はしない。人にも自分にも…」

僕は目をつむり、両手を広げた。

そして決然として相手の目を見る・・・。

「そして……僕にも…だ」

その瞬間、そいつの感情が、はじけとんだかのように僕には思えた。

目が烈火のごとく、燃えているような気がした。

それは紛れも無く、憎しみのそれだった。



「君が誰かは僕にはわからない。」

「でも、少なくても君は葵くんじゃない。」

そいつは阿修羅のような形相で僕を睨んでいたが…

ふっ、と一息ついて、その目と気持ちを僕から離した。

「……さすが、先生ですね……」

「心理学をかじっているだけのことはある…。」

そいつは葵君の姿のまま、そう語る。

「理詰めで考えた結果じゃない。」 僕は言う。

「ただ、僕にはそう思えるだけなんだ。」

そいつは再び、ふぅーっ、と息をつく。

「参ったな………。」

「そうですよ。僕は水代葵じゃない。」



「君は何者なんだ? 一体誰なんだ? 何の目的でこんな事を…」

僕は矢継ぎ早に質問を叩き込んだ。

そして、そいつの目を見る。

「いや………、そんなことはどうでもいい。

……………葵くんはどこにいる?」

その瞬間、血まみれのそいつの顔が疑惑のそれに変わる。

「………奇妙な質問ですね。

僕が水代葵について、何かを知っているとでも思っているのですか?」

「そうとしか思えない……。」

「何故?」



「………あれ以来、葵くんの姿を目にすることはなかった。

そうであるのが異常なくらい、前と変わらない平凡な日常が続いた。

恐らく………「遊び」はあの期間だけのものだったのだろう。

そうするほうが当事者にとっても都合がいい。

それ以上の情報を与えない事になるからね。

だが、君はそれにもかかわらず僕にコンタクトしてきた。

それは…何か目的があるからなのだろう?」

僕は、にやっと笑って見せた。

「それも葵くんの事で…だ。

でなければ、こんな演出はしないはずだ。」

「…………………………。」

「そして…当然、君は……EDENの人間だ。」

そいつはその言葉を聞くと、明らかにひるんだ。

「だから、葵くんの所在についても知っている……。」



そいつは目を見開いたまま、息を呑んだ。

「驚いたな……」

「あのおたおた狼狽するしかなかった先生に、まさか、こんな冷静な推理ができるなんて思わなかった。」

(………葵くんを取り戻すためだったらなんにでもなるさ……)

そいつは流れる血を拭った。

葵くんのブラウスの袖が血に染まるのを見て・・・・・・僕は顔を歪ませる。

「………そのとおりですよ。葵の居所は僕が知っています。」

一時は僕に驚きを見せたものの、そいつの余裕は変わらない。

そうだ。主導権を握っているのはこいつなのだ。

葵くんがむこうにいる限り…。

「先生に会わせてあげるためにね……ふふふっ。」

そういったそいつの顔は、本当に悪魔のように思えた。

その顔に…僕は違和感を覚えた。

悪意こそあるものの…無邪気なその顔は…確かにどこかで見た…。

いや、そもそも葵くんにそっくりなのだ。



「…会わせてくれる前に、君が出血多量で倒れなければいいんだけどね。」

僕はわざと余裕をつくり、そう言った。

(弱みを見せては相手の思う壺だ……)

EDENの遊びのターゲットの一員にされた経験が僕を冷静にさせる。

「あぁ、これですか? 安心してくださいよ。 傷ついているのは、ほんの表面だけですから。

これから最高のショーが始まるのに、倒れるわけには行きませんからね。」

「これから?」

僕は不吉な予感に思わず身構える。

「ええ。これからです。」

そいつはまたしても無邪気で残酷な顔をする。

(どこかで………)








Lost Paradise」

佐伯祐司 第四章 「不惑」