Lost Paradise」

佐伯祐司 第二章 「幻影」







今日は取り立て何もすることなく、大学の研究室に来ている。

昨日、仕上げた論文は、来週の学会で発表の予定だ。

あれから後に僕の書いた論文は、評価がうなぎのぼりに上がりはじめた。

ある教授からは、僕の論文は単なる頭の論理だけで形作られたものではなく、非常に現実的で、実利があるという評価をもらった。

今までの僕の論文にも目を通したらしいが、それらは、幾分か知に偏っていて、いわば数学的だったというのだ。

それに比べて、今の僕が書く論文には、その骨組みに肉が付き出していると言う。



大抵の人は、自分の論理を肯定するために、そのための新たな論理を作り出し、埋めこむ。

でも、それではいけないとその教授は言う。

骨組みに、更に線の細い骨組みを重ねても、説得力は生まれないし、具体的でもないという。

論理と言う骨組みに肉付けするものは、より現実に密着した物でなくてはいけないと。

自分の論理の正しさに拘泥するから、大抵の人はそうなるのだという。

重要なのは、自分の論理の正しさを肯定することなどではなく、研究により導き出された自己の推論から、その論理を主張する事なのだと。

僕の論文にはそれがあるそうだ。

自己肯定のための論理ではない、現実的かつ説得的な論理が。



「現実的………か。」

EDEN……。

そう、あれは非現実的ではあるが、非現実ではないのだ。

そこには、確実に腐敗した人間のどろどろとした欲望が、現実に存在する。

およそ、頭で考えている異常性・非現実性・非日常性……。

それらが現実に現れるということを認識している人は少ない。

ところが、今の僕は逆に否定する事が出来ない。

皮肉なもんだ……。

「ふぅ………」

僕は息をつくと、椅子から立ち上がった。

それにしても…………さみしくなったもんだ。

数年前までは、それが当たり前だったのだが、ついこの前までは、用もないのに葵くんたちが出入りしていた。

ああ……と言うより葵くんが、だな。

時には、それを騒がしく感じたこともないわけじゃない。

そもそも、僕は二人きりというのが苦手だった。



……僕は扉を開けると、研究室を出た。

(今から考えれば、あれも贅沢な感情だったのかもしれないな…。)

廊下を歩き、休憩所へと向かう。

(用もないのに来ていたんじゃない。)

(用もないのに来てくれていたんだ。)

窓から木漏れ日が差し込む。

その中を僕は歩いていた。

(そう思うのは、きっと僕の気持ちが変化したからなのだろう。)

(葵くんに対する、僕の気持ちが。)

「こんにちは」 ぼくの講義を取っている学生が、僕にあいさつしてくる。

「ああ、こんにちは」 軽く会釈をする。

僕は、今の学生をふと振り返る。

別に何も感じない………。

以前の葵くんにも、そうだった。

そう考えると、不思議なものだ…。

僕にとって、どうでもよかったはずの人が、どうでもよくなくなり……

……そして……突然、消える。

いや………奪われた。

…僕の中では、そういう感情の方が強い。

(本当に皮肉なものだ。世の中と言うやつは…。

自分が何を望んでいるかに関係なく、与え、奪い、絶望させ、希望を与える。)

僕は休憩室に辿り着くと、椅子に座った。

(所詮、世の中は自分の都合よくは行かないのか…。

どんなに自分でそれを望んでも…。)

僕は懐からおもむろに煙草を取り出し、口にくわえる。

そして煙草に火をつける。

「ふぅー。」

(いや、違うな……。) そう僕は思う。

(自分にとって重要なものなら、自分の手で守らなくてはいけないんだ。)

だから……奪われた。

EDENに……葵くんを…。

失ってはいけないもの、失いたくないものは自分の全力を持って、守らねばならない。

そのためには、冷静でいなくては…。



僕は最近、以前とは違って、積極的に兄さんのことを考えるようになってきている。

兄さん……。

そのために、兄さんのような気持ちが必要ならば……

僕は………その気持ちを使うよ…。

もう一度、失われたEDENへの扉が開くのならば…。

葵くんを取り戻すチャンスが現れたのならば……。

僕は吸っていた煙草を灰皿にねじ伏せた。

そして立ち上がる。



研究室へ戻る途中のことだった。

ふと………何かが耳に障った。

「…………」

何だろう………。

「……………ぁ……っ」

…………?……かなり遠い。

話し声のようには聞こえなかった。

「…………ゃ………………ぁ…」

この声は……まるで…

僕は虫唾が悪くなった。

「……………ゃ………………………・」

まだ……まだいるのか……。

こういう連中が!

あの天野のように…人目もわきまえず、こんな事をしている連中が…。

僕はさっさと研究室に戻ろうと、早足で歩き始めた。

僕には関係ない。

誰が乱交に走ろうと、常識を外れた行動に出ようと。



研究室の前に来ると、僕はノブに手をかける。

(それが葵くんにかかわることでない限り!)

僕の動きがぴたっと止まった。

…………………葵くん……。

同時に考えも止まる。



…………………………………。

そうだ………。

この常識外れの行動に、葵くんが関わっていないという保証はない。

思えば………、あの時、以来だ。

こうした非現実性を、現実の生活の中に、垣間見るのは!

そう思うと、突如、僕は駆け出した。

その声のする方向へと。

(葵くん!)



「先生、こんにちは………きゃっ!」

僕は通りすがりの学生を跳ね飛ばすような勢いで走る。

声は、西校舎の方から聞こえてきた。

そうだ! あの時もそうだった。

紫苑といた時……聞こえた。

そして、僕が呼び出されたとき、天野と桧山くんがいた場所。

一度は閉ざされたEDENの扉が……そこにあるような気が僕にはした。



僕は西校舎に入る。

「はぁっ……はあっ……どこだ…」

僕は耳を澄ます。

………しかしもう何も聞こえない。

「どこなんだ…。」

息を整える……。

しかし、もう何も聞こえない。

(…………くそっ。頼む!……ここまで来て!)

僕が毒づいた、その瞬間…………

「……・あっ……!」 今度ははっきりと聞こえた。

もう逃がさない。 その一言で十分だ。

場所もつかめた。

そして………その声に確信が生まれた。

葵くん……

………そうだ。間違いない。

……葵くんだ。

これは葵くんの声だ!

葵くん……葵くん!

僕は走る。 ありったけの気持ちとともに。

なんでもいい。どうなっていてもいい。

葵くんともう一度、会えるのなら。

どんなに変わっていても…。



そして、僕はその場所にたどりついた。

そこは空き教室…。

……息を整え、……そっとノブに手をかけた。

ゆっくりと扉を開く。

中に………一つのシルエットが浮かび上がった。

黒い髪の長い女性……。それは………









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佐伯祐司 第二章 「幻影」