「Lost Paradise」
第一章 佐伯祐司 「思索」
僕は研究室に一人いた。
カタカタとタイプする音がやけに響く。
明日までに、論文を完成させねばならない。
最も、完成はしているので、後は見直すだけなのだが…。
一呼吸すると、僕は何のためらいもなく、煙草に手を伸ばした。
その内の一本を口にくわえると、買ったばかりのライターを近づけそれに火をつける。
「ふぅー……。」 息を吐く。
……至福のとき。
煙が灰の隅々まで行き渡ると、胸にたまったもやもやが洗われるようだ。
不意に笑いがこみ上げてきた。
この前まで禁煙していたのが嘘のようだ。
なぜ禁煙しようとしていたのかも、今の僕には分からない。
パソコンが煙草に弱いと聞いて何となく…だったか…。
健康のため?…………だとしたら、それは笑止だ。
それが何になろうか。
「小ざかしいな……。」
そんなちっぽけな事にこだわって、この至福の時を無駄にしていたとは、
自分のことながら馬鹿げている……そう思った。
人生から楽しみを取り上げ、その上、我慢して自分を削って何になろうか…。
人が欲望を押さえる事には意味がない……。
そう思って……僕は、はっとなる。
それこそ、EDENの連中の考えている事そのままじゃないか……。
僕はかぶりを振ると、手にした煙草を灰皿に押し付ける…。
………足りない。
僕は再び煙草に手を伸ばした。
こうしてじっとしている時は、煙草がないと何か落ち着かない。
いいか………自分の精神の健康のためだ…。
僕はそう思うと、一瞬の躊躇の後、煙草を口にくわえた。
煙草に火をつけ、煙を吸い込むと心地よいひとときが訪れる。
自分が大胆になれるような、自信がつくような気持ちになれる。
それも強ければ強いほど…。
僕は今では、以前は吸わなかったような強い洋物の煙草を愛飲している。
草薙先生もこんな煙草を吸っていたな…。
ふと思い出す。
彼女は葵くんや桧山くんや天野とともに消えてしまった。
そこにEDENの連中が関わっている事は想像に難くない。
いや……僕は思う。
天野………。
草薙先生にご執心だったあの異常な性格の男がEDENの連中と共に、何かを画策したのは疑いないことだと。
彼女もこんな気持ちで煙草を愛飲していたのだろうか……。
僕も今は煙草が離せない。
彼女が、煙草をあれほど片時も離さなかったのは、今の僕と同じように耐えられない経験があったからなのじゃないか…。
僕は知らず知らずのうちにそう思うようになってきた。
自分の中にある、やりきれない濁った気持ち…。
それを煙草の煙は塗り替えてくれる。
「毒をもって毒を制す……か」
昔から使いまわされた陳腐なセリフを思わず口にする。
本当には塗り替えられはしないのだ。
ただ、煙草はそれを覆い隠してくれるだけ。
その証拠にその効果が切れると、それは再び顔を出す。
それでも僕にはそれがありがたかった。
あの出来事を記憶から無くす事など出来ない。
でも、気持ちだけでも…例え一瞬でも、それを忘れる事ができるのならば……。
解放されるのならば……。
僕はじっ…と煙草の箱を見つめる。
そして三たび、そこに手を伸ばした。
悪びれる……。そういう言葉がある。
自分の中の濁った気持ちを消化する人間の心の機能。
いわゆる不良少年が社会悪に走るのは、主にこういう心理から来るものだ。
毒に毒されない自分。
自ら毒になることによって、それに支配されない自分を感じたいのだ。
濁った気持ちに支配されるのではなく、自分自身の手で毒を求める事で。
今の僕も気持ちもそれに近い……。
分かっている。これは精神的なごまかしだ。
でも、僕はそれを求めずにいられない。
ごまかしでないなら……そんな自分を肯定する事ができるのだろうか……。
それを自分の意志としてできるのなら。
求めるものを求めている。
ただ、そうしているだけ。
それのどこが悪い…と。
そこまできて、草薙先生が煙草を吸っている姿が頭に浮かぶ。
「ふふっ、彼女ならそういうだろうな……」
思えば彼女も悪びれていただけのかもしれない。
求めているものを求めているだけ。
そこに疑問など感じない。罪悪など感じない。
例えどんな……そう、例えば、犯罪行為であっても。
それが出来たのならば……。
EDENの連中のように。
ふと、きらきらとした水面が頭に浮かぶ。
僕は頭を振った。
煙草を灰皿に押し付けると、再びワープロに向かう。
カタカタ……規則正しい音は妙にこの部屋に響く。
僕は論文をまとめながら、想起する。
…………突然ノックの音がして、扉が開く。
…………まず聞こえてくるのは葵くんの明るい声だ。
…………僕がそちらに振り返ると、予想を裏切らない彼女の生き生きとした表情がある。
…………そして彼女と2、3言葉を交わしていると、
…………控えめにドアを閉めている桧山くんの姿に僕は気づくんだ。
どこまでも明るい葵くんと控えめな桧山くん……。
僕は葵くんに比して、おどおどとした桧山くんの態度に煮え切らない思いをしたこともあった。
今ではそれすらも、求めても得られない甘い遠い昔の残影でしかない。
この静寂が打ち破られる事はもうない……。
変わってないのは僕のこのワープロぐらいのもの……。
あの日…………葵くんがEDENの連中に連れ去られた時から…。
桧山くんが身も心も壊れたおもちゃのようになって、捨てられた時から。
あれ以来、すべての人が消えてしまった。
僕の周りのすべての人が…。
天野も、桧山くんも、草薙先生も、そして葵くんも……。
僕はいいようのない喪失感と、時折、襲ってくるやりきれなさと共に、ひとり取り残されて、前と同じ生活をしている。
………………いや………
きっと………葵くんなのだろうな………。
僕のこの絶えがたい喪失感の原因は…。
僕はそう思う。
もし……今のこの現実とは別の、非現実の中に彼女がいて…
……僕に再びその扉を開くチャンスが巡ってきたならば、
……僕は…きっと………そこに飛び込む。
そのあと、どんな結果が待っていようと。
そう。
僕は、自ら望んで非現実な世界に足を踏み入れたいと思っている。
僕を笑うかい? 兄さん……。
いままでそんな自分を否定しておきながらと…。
やはりそれがお前の本性だと。
それでも僕は構わない。
僕は兄さんになってもいい。
葵くんを取り戻せるならば………。
僕は自分の欲望に忠実になる。
それが欲望と言うのならば、僕にとってそれは嫌悪すべき事ではない。
そうだ…。
僕が煙草を吸わなくなった理由……。
……きっと、葵くんが…………だと聞いたからだ…。
「Lost Paradise」
第一章 佐伯祐司 「思索」
完