◇◇◇◇◇

 神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
 人はこうして生きる者となった。
 主なる神は東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置き、生けとし生けるものありとあらゆるものを従わせた。
 そして、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた 。
 ただ一つ、主なる神は人に命じて言われた。
 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」
 やがて、主なる神は人が独りでいるのは良くないと彼に合う助ける者をお造りになった 。
 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
 そこで主なる神は、人を深い眠りに落とされ、人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、女を造り上げられた。
 人は女をイシャーと呼び、男(イシュ)は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

 (中略)

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 蛇は女に言い、女もまたそれに答えた。
 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 蛇は言った。
 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
 アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 彼がそう答えると、神は言われた。
 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 アダムは答えた。
 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 女は答えた。
 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
 主なる神は、蛇に向かって言われた。
 「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
 神は女に向かって言われた。
 「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
 神はアダムに向かって言われた。
 「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられ、言われた。
 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 (旧約 創世記 2章−7節〜25節・3章−1節〜24節)

◇◇◇◇◇


―second day (Tue)―
〜1〜
 「…君、起きなさい」
 霞がかった意識の中、凛とした声音が僕の耳元を刺激した。
 「早見君、起きなさいってばっ!」
 「…っ!? んぁっ!!?」
 睡眠中、という無防備な状態のせいだろう、先程よりも数段強い声音による刺激が鼓膜どころか脳天までモロに突き抜けたようだ、反射的に軽いひきつけが起こる。
 同時に、瞳に張り付いていた両の瞼までが開き、瞬発的に覚醒を促した。
 と、不意にシャッという音と共に眩い光が僕の視界を遮った。言われなくても判る。
 僕に呼びかけていた声の主がそのまま部屋の中へ上がり込み、窓を覆っていたカーテンを開いたのだ。
 「…っ、誰……?」
 僕は腕を目の前にかざして言った。
 今の今まで微睡みの中に居たせいか上手く頭がまわらない、僕は呻きながらも何とか上半身を起こし、光を背にした人影に向かって恨みがましい視線を投げかける。
 正直、とても清々しいとは言えない状態だった。
 意識の覚醒と共に自律神経が機能し始めるのは道理、別にそう言う自覚がある訳では無いけれど、頭が冴えて来るに連れて今の今まで感じる事の無かった酷い頭痛と耳鳴り…果ては体中の節々と筋肉の悲鳴を上げる感覚が揺さぶり起こされ、苦痛が絶え間なく僕を襲って来ていた。
 「…誰って……。ちょっと何寝惚けてるのよ? ココが何所だか判ってるっ?」
 ―寝惚けてる? ココが何処だ? 何言ってんだ、こいつ? 此処は僕の部屋、僕の家……。
 ただでさえ、あちこちが痛くて堪らないって言うのに、人影の他人を小馬鹿にしたような口振りにムッとなってしまう。
 やがて、陽光に目が馴染んで来たので、一言文句を言ってやろう、と視線を向けようとしたのだが、そこで僕はある重大な事実に気が付いた。
 …そう、其処は僕の知っている自分の部屋と比べて明らかに間取りが違っていたのだ。
 更に言うと其処に立っていたのは僕の家だったら居る筈の無い女性だった。
 「ぅあっ! 音川さん!! …どうして此処に!?」
 つい、驚きで目を向いてしまう。其処に居たのは同級生にして寄宿舎の寮長でもある音川沙織だった。
 僕はすっかり忘れていたのだ。親父の転勤の都合で、自分が此処、聖アルカディア学園に転校し、その寄宿舎に引っ越してきていた事を…。
 「音川さんって…何を今更。いつまで経っても降りて来ないから様子を見に来たのよ。全く…もう8時を過ぎてるって言うのに、呑気に熟睡しちゃって。君は初日早々遅刻でもするつもりなのかしら?」
 音川さんは僕のだらしない姿を非難するように言った。
 「大体、自覚が足りないのよ。自覚が…。キミが遅刻するのは構わないの。でも、朝食をが片付かなくて困るのは私なのよ」
 「………」
 その対応が頭に来ない訳じゃない。でも、現実にそうなので僕には何も言い返す事が出来なかった。
 と、音川さんの表情がいきなり不機嫌そうな物になる。
 「…何よ、人の顔ジロジロ見て」
 「…えっ?」
 別にそんなつもりは無かったのだが、彼女はそうは思っていないようだ。
 何か言った方が良いと思った僕は、彼女の服装が昨日とは違う事に気が付いた。
 黒と白の生地をベースに黄色地をアクセントとした奇抜なデザインのセーラー調の制服。自然、僕は、
 「いや、なんか昨日と随分感じが違うなぁ…て」
 こんな事を口にしていた。…途端、彼女の表情がより一層歪む。
 何がそんなに気に入らないのか、眉間には皺が寄り、眉までが釣り上がっているではないか。
 「悪かったわね、制服が似合わなくて……」
 音川さんはそう言って、そっぽを向いてしまう。
 僕は単に事実を言ったつもりなのだが、完全に誤解を招いてしまったらしい。
 「い、いや、そういう意味じゃないよ。十分にキマってる」
 僕のせいじゃないのに、すっかり臍を曲げてしまった同級生に向かって、慌ててフォローを入れる。
 「何て言うのかな…そうじゃなくて……そうっ、雰囲気……!雰囲気が違うんだよっ!! ほら、必要以上に優等生気取ってる感じがしたんだ。昨日と比べて」
 「…っ!?」
 と、何を思ったのか、其処でいきなり音川さんの表情が一気に沈んだ物に変わった。
 先程までつり上がっていた眉毛は八の字を象り、心なしか頬の辺りには影が挿している。
 過去、彼女が居た経験が無い訳ではないのだが、それでも女の子の心理がまるで判らない僕には何も言えなくなる。
 いや、何を言ったらいいのか判らない、と言う表現の方が適切かもしれない。
 「…そ、その、昨日はごめん!」
 すっかり場の雰囲気に緊張してしまった僕は、無意識の内に居住まいを正すと反射的に謝っていた。
 「?」
 音川さんが驚いた顔をして僕の方を見つめる。
 当然だ、今、こうして頭を下げている僕でさえ、その行為をするまで気付かなかったのだから。

 ―先日、風呂に入ろうと脱衣場へ向かった僕は、故あって、風呂上がり…全裸の音川さん他一名と遭遇した。
 しかも不慮の事故とは言え、その豊満でとろけるような弾力を誇った乳房をじかに揉み込んでしまうという珍事件を起こしてしまったのだ。
 当然、男の僕に痴態を晒した音川さんは激怒。完全に怒らせてしまう事となる。
 その後、風呂場で僕を待っていたのが、すっかりお湯を抜かれた浴槽と、ガスの元栓を締められて水しか出なくなったシャワーだけ…という有様を思えば、ソレが相当のものだという事が理解頂ける筈だ。―

 「決してワザとやった訳じゃない。…だけど、その、僕が直接キミに不快感を与えたのは事実だし…なのに、まだ面と向かって謝ってすらなかったろ? 本当に、ごめんよ…」
 再度僕が謝罪の言葉を述べると、
 「…あ、ああ、なんだ。その事ね」そう言って一拍間を置いた後(のち)、音川さんが口を開いた。
 「…もう良いわよ。早見君、頭を上げて……。どうせ宮岸達に騙されたんだろうし…今回は水に流してあげるわ。私も…少しやりすぎたと思うから……」
 「…ぇ? 本当?」
 何と表現すれば良いのだろうか? 呆れた顔をしつつも、そう言って苦笑いする音川さんの姿に、僕は少なからず感動を覚えていた。
 どういう経緯であれ、彼女には僕を非難する理由がある。
 昨日の今日だし、その場に居合わせた他一名であるところの金田さんも言っていたが、何日かは口も聞いて貰えないだろうな…と、ある程度の覚悟もしていたのだ。
最悪の場合『転入早々変態の汚名を被る事になるのでは…』とまで考えていた僕にとって、今の言葉は正に『天の思し召し』と言っても過言ではない。
 「ありが…」
 「ちょっと待った、そこで安心しない。言っておくけど、騙される方も騙される方なんだから…これからは、もうちょっと気を付けて行動してよ? 共同生活に馴れていないのは判るわ。でも、君以外はみんな女の子なの。その辺だけはちゃんと把握して貰わないと…いざ何かあった時はこっちが困るんだからね!」
 礼を言おうとしたのも束の間…矢継ぎ早に釘を刺されてしまった。
 とは言え、彼女の言が最もである事も確かである。
 他人(ひと)が寄り集れば衝突を避けるのは難しい…けれど、あんな見え透いた罠程度であれば、僕の器量次第で回避する事は十分に可能だったとも言えるだろう。
 原因を他にばかり求めていては同じ事を繰り返すだけだ。
 「…はい。骨身に染みてます……」
 「君の当面の問題は早く彼女達のペースを掴む事。いつまでものほほんとしてると格好の餌食にされるわよ。今回は私が当事者だったけど、これから先もそうとは限らないんだし…その時は私だって万能じゃないんだから、フォロー出来る事にだって限界があるのも忘れないでね!」
 先刻までの暗い表情どころか、慈悲深い聖女の様相までが一転…勢いに乗った音川さんの口からは、決壊したダムのように次から次へと説教の言葉が溢れ出て来る。
 前半はともかく、後半は話が逸れ始めている気がしないでもないが、その様子に呆気に取られた僕は無言で頷くより仕方なかった。
 「判ればよろしい。じゃあ私は行くけど、キミも早く降りて顔を洗って来なさい。急ぐのと慌てるのは違うし、けじめだけは付けておかないとね」
 そして、最後に『僕の』次の行動に指示を出すと、音川さんはようやく部屋から出て行った。
 「………」
 表情をくるくる変わらせて…朝っぱらからハイテンションだよなぁ。
 ようやく緊張感から解放された僕は、思わず溜め息をついて、再びベッドの上に寝転んだ。
 正直な感想を言わせて貰えば「僕はキミの何なんだ?」と、言いたい所なのだが、其処はそれ…流石にあそこでは面と向かっては言えなかった。
 衝突を避けるのは難しいと言ったが、わざわざ自分から波風を立てる程、馬鹿じゃない。
 しかし、何ともはや…音川さんには先天的に仕切り癖があるようだ。
 寮長を務めている上、ローテーション制であるにも拘らず、毎日人数分の料理を作り…確か学園ではクラス委員までやっているという話だった。
 当初の見解では<人が良いから押し付けられているんだろうか?>と、考えていた僕であったが、わざわざ僕を起こしに来る辺り…案外、彼女は望んでやっているのかもしれない。
 「まあ、そのおかげで仲直り出来たんだから良しとす…ん?」
 無意識のうちにぼやきを口にしてしまったが、そこで僕に新たな発想が浮かんだ。
 ひょっとして音川さんが部屋に来たのって仲直りのきっかけを探す為…だったのかな? …って事はどんどんテンションが高くなって行ったのは照れ隠しって事も……?
 「…な訳ないか」
 僕は脳裏に浮かんだその発想をすぐさま打ち消した。
 <やり過ぎたと思うから…>という言葉から、多少は自分の行動に気不味さを感じていたと取る事は出来るが、最初から仲直りを目的としていた…というよりは、寮長という立場から責任上、様子見に訪れたついで…と、考えた方がより適切な感じがする。
 <食卓が片付かないから…>と、言う言葉も、これまで寄宿舎の台所を預かっていた彼女としては嘘偽りの無い言葉なんだろうし、流石に僕も全てを自分の都合の良いように解釈した上でソレを本気で信じ込む程御目出度い性格ではないつもりだ。
 まあ、一つの可能性としてそういう捉え方をした時に嬉しいと思う気持ちが沸き上がって来るのは否定しないが……。
 複雑な気持ちで苦笑を浮かべながらベッドを降り、僕は換気をする為に網戸が付いている方の窓を開く。
 外は昨日に負けず劣らず快晴だと言えた。
 燦々と煌めく太陽…空は柔らかい水色で、庭のけやきの梢が、透き通った風によって気持ち良さそうに揺られている。
 照り輝く太陽の光が頭痛と格闘している僕には少々眩しすぎるきらいがあるものの、部屋に吹き込んで来る乾燥した風は肌に心地良い。
 今日から初登校…か。
 早速、朝からドタバタしてしまったが、状況が変わったからといって日常をだらしなく過ごして良い理由にはならない。
 連休前とはガラッと環境が変わってしまうのに、中途編入だからすぐに授業とかもある。
 二年以上の時間を学友として共有している団体の中へ加わる新参者としては、うかうかしていられないのだ。
 音川さんに言われたからではないが、僕は緩んだ頭をしっかりさせるべく両頬を叩いて気を引き締めると、予(あらかじ)め用意しておいた糊の利いた真新しい制服に手を伸ばす。
 気が付けば、胸の辺りがムカムカし、いつの間にか筋肉痛だけは消えていたのだが、その事に思い立ったのはもう少し後の事だった。


 制服に着替えた後、鞄と洗顔用具を持って脱衣場、兼洗面所に赴いた僕は、早速洗面台へ向かってから鏡と顔を向き合わせると、首に掛けていたネクタイを締めて、寝癖交じりの髪の毛を櫛で整える。
 正直、卸し立ての真新しい制服は余り着心地の良い物とは言えなかったが、こうして改めて眺めてみれば、中々様になっているようにも思えた。
 襟の部分だけが黒く、黄色の生地で縁取りがなされている白い厚手のYシャツ。学生服にしては珍しくツータック入った黒のスラックス。…そして、白をベースに先端部分のみがYシャツ同様、黒と黄色でデザイン装色されているネクタイ。
 元がお嬢様学校と言うだけあって、生地は良い物を使っているみたいだし、デザインも個人的に気に入っている。
 まあ、その分、値段が張ってしまうのが難点だが、其処はそれ親父様の懐から出ている物であるし、別に僕の預金から減って行く訳ではないので痛くも痒くもない。
 実の父親とは言え、人のお世話になるのは、そんなに好きではないが、それでも学生である以上、先立つ物が無いのも又事実…まあ、その分、自分の小遣いくらいは自分でバイトでもして稼ぐつもりだ。
 「さて、と。…ん?」
 一旦鏡から視界を逸らし、ようやく洗顔に取り掛かろうとした時の事だった。
 新しく買い揃えた洗顔用具から取り出した歯ブラシへ歯磨き粉を乗せていると、何所からか水の流れる音が聞こえて来た。
 僕は水道のカランを捻ってなどいないのだから当然蛇口から水が出る道理はない。
 別の水道が緩んでいるのかな?と 他の洗面台も確認してみたが、やはり水の出ている気配はなかった。
 歯ブラシを口の中に突っ込みながら、音がどの辺りから出ているのかと周囲を巡らす。
 と、浴室へ通じる引き戸の辺りで視線が止まった。
 音はどうやら浴室の中から出ているらしい。
 「何だ?朝っぱらから誰か掃除でもしてんのか?」
 漠然とそんな事を考えながら引き戸を開け…ようとした所で手を止める。
 「…いや、待てよ。この状況……」
 嫌な予感がした。引き戸に向かって右隅にデンと突っ立っている脱衣入れの方へ…恐る恐る視線を向ける。
 上から二段目、右から三番目の場所…籠の中に案の定、女性の物と思しき衣服が入っていた。
 昨日、音川さんに気持ちの良い鉄拳を喰らった情景が僕の脳裏を掠める。
 口の中をスースーした食感が広がり始めたのは、決して歯磨き粉のせいだけではないだろう。
 僕はすぐさま回れ右をして洗面所を出ようとしたのだが、次の瞬間…後方から勢いよく引き戸の開かれる音がした。
 時既に遅し…とは正にこう言うときの事を言うのだろう。
 …が、そんな事を考えている辺り、僕もまだ余裕があるのかもしれない。
 「はぁ〜っ、さっぱりしたぁ♪」
 その声に顔を引き攣らせ、まるでSF映画なんかでよく出て来る壊れたロボットのような仕草で後方を振り返る。
 …其処には、昨晩、時計の針をいじって僕に迷惑極まりない歓迎を施してくれ、且つ引越しの荷物を運ぶ際には、手伝った謝礼だと3千円もぼったくってくれた、寄宿舎四人娘の内の一人である宮岸勇気が、全裸という破廉恥極まりない格好《…嫌、風呂上りだから当然なのだが》で立っていた。
 「…? あら、たっくんじゃない、おっはー♪」
 無意識に口の中に溜まった歯磨き粉を嚥下してしまう程、動揺しまくっている僕とは裏腹に、宮岸さんは自分の格好など、まるで気にも留めていない軽い口調で言った。
 弾みで、西瓜(すいか)か何かが詰まってるんじゃないだろうな? 等と思わせる程、見事に発達した豊乳が弾む。
 とても、僕と同級生の女子とは思えないくらいハイグレードな大きさから、流石に上向きとは言えないが、格闘技をしている為だろう、張りと艶は本当に素晴らしく、腰から臀部に掛けてのラインも愕くほど引き締まっていた。
 また…水滴のアクセサリーを纏った肢体は、男だったら思わずむしゃぶりつきたくなるらいの艶かしさだった。
 このような状況だ。つい、僕の視線が、じわじわと下がって行き、彼女の股間を包む手入れの行き届いたデルタ地帯へと向かってしまうのは、決して避けられない男の本能から…と、言うのはやはり、言い訳がましいだろうか?
 「ねぇ…ボーっとしてないでさ、其処に置いてあるタオル取ってくれる?」
 「え…?あ、はい」
 暫し、その鮮やかな肢体に見惚れていた僕は、まるで食事中にしょうゆ差しでも取ってくれ…と、言わんばかりの自然な物言いに、つい条件反射で洗顔用に持って来ておいた自分のタオルを手に取り……、
 「…て、そうじゃなくて……。前を隠すとか…他に反応あるでしょう!」
 「お…上手い上手い、ノリ突っ込み♪」西瓜女は僕の行動を茶化すかのように、手を叩きながら喜んでいる。
 「でも、ほらほらっ♪ どうせ突っ込むならこっちの方が良いと思わない?」
 尚且つ、両足を僅かに開いて誘うような素振りを見せた。
 僕は口元を引き攣らせつつも、しっかり其処を拝見した後、
 ―こ…この女は……。
 と、無言のまま、手に持っていたタオルを放り投げる。
 「な〜に、怒ってんのよ…」タオルを受け取った西瓜女が、僕の反応に対して、のほほんとした表情で嘯(うそぶ)く。
 「大体、そんな慌てなくても良いじゃない。裸見られたくらいで気にする誰かさん程、私は心の狭い人間じゃないわよ」
 「僕の方が気になるんですっ!」僕は声を荒げて言った。
 逆ギレだというのは僕自身判っていた。
 しかも、本来なら、こっちが糾弾されるべき立場であるのに、どうにかして自分の正当性を見出そうとしているのは、明らかに卑怯者の理だと言える。
 正直、恥ずかしい限りなのだが、それでもやっぱり、中々すぐには自分の非をどうしても認められなかった。
 「…その、こうなったのは確認しなかった僕に非があるんで謝りますけど、顔洗うつもりなんで服を着たら教えて下さいよ?」
 ようやく、それだけ口にすると、僕は再び振り返って入り口の方に歩き始める。
 今しがた音川さんに忠告されたばかりだと言うのに、舌の根も乾かぬ内この有様では…別に努力して奔走した訳ではないので大きな口じゃ言えないが『元の木阿弥』となってしまう。
 取り敢えず、この場で事無きを得る為には、さっさと退散するのが吉だ。
 しかし、そんな僕の動向を眺めていた宮岸さんは、
 「けつの穴の小さい男ねぇ…。無料(ただ)で見せてあげてるんだからゆっくり眺めて行けば良いじゃない。ほらほらぁ、サービスしちゃうよ、旦那♪」
 一旦、足を止めてから横目だけで振り返る僕に向かって、挑発するようなポーズ《西瓜乳を両手で寄せて上げながら、身体をしならせてウィンク》を取る。
 更には、世に言うモンローウォーク(臀部を振って歩く)等をしながら、その豊満きわまる肢体を近付けて来るではないか。
 ―ど、どー言う理屈なんだよ、それは…。
 そもそも言い方が一々恩着せがましいし、ここの連中はこんなんばっかりなのか…?
 本来なら昨日と同じように偶然のハプニングを喜んでいたのかもしれないが、段々と腹の立って来た僕は、とてもそんな心境にはなれなかった。
 大体、此処まで来ると動揺や興奮したりするよりも、呆れてしまう気持ちの方が強い。
 「と、とにかく…後で又来ますから、その時はちゃんと服…着といて下さいねっ!」
 僕はなるべく彼女の方を観ないようにして言い、そのまま扉に向かって歩き出した。
 昨日一日の経緯から、いくら言っても話が噛み合わないのは承知済みだ。
 まともに取り合っていたら、いつか気が変になってしまうのはこちらの方だろう。
 相手のペースに惑わされる事無く、あくまでも自分主導で動くように心掛けておけば大抵の事は切り抜けられる…そんな風に甘く考えていた僕であったが、
 「あ、何よ! せっかく私が好意で観て良いって言ってるのに無視する気? 良いわよ、そっちがその気なら……」
 「…え? ぅわっ!?」
 予想外の展開に、僕は本当に呆気なく取り乱してしまった。
 ソレと言うのも…引き戸を開こうとした寸前で、いきなり宮岸さんに後ろから羽交い絞めにされたからなのだが、体が密着した拍子に、ほのかに届くトリートメントの甘い微香が僕の鼻先を刺激して来た上、
 ―…こ、この感触わっ……!?
 昨夜手の平に感じたあの何とも言い難い柔らかな感触…それに優るとも劣らない弾力が、先端にある2つのこりこりした物体を支点にして、今度は背中の上を縦横無尽に這いずり回って僕の思考を中断させる。
 改めて実感した女体という存在のせいで、頭に集まった血液が沸騰しまくり…僕の脳内は最早爆発寸前だった。
 「どぉ♪ 音川と比べてどっちが…き・も・ち・い・い?」
 既に、僕の耳に西瓜女の声は届かない。
 ただ、調子に乗った彼女が息を耳の側で吹き掛けて来…その刹那、とうとう僕の思考は吹っ飛んでしまった。
 「んぎゃあーーーっ…むぐっ」
 冗談抜きの悲鳴を上げた瞬間…宮岸さんは、即座に僕の脇から肩へ回した左手を離し、その口を塞いだ。
 「馬鹿っ! 何デカい声上げようとしてんのよ。みんなに気付かれて困るのはあんたの方でしょうが…」
 流石に彼女もまずいと思ったのだろう。声を押し殺して言った。
 彼女の言葉に我を取り戻した僕は、喉から零れようとする声をどうにか飲み込んで、ゆっくりと気を静める。
 そうだ、確かにこんな所を音川さんに目撃される訳にはいかない。
 元々それを避ける為に洗面所を出ようとしていたのに、自分から災難を呼び込んでしまっては、それこそ『本末転倒』というものである。
 「ったく…ちょっと胸を押し付けたくらいで、そんな情けない程取り乱さないでよ。男の子でしょ?」
 「そんな事言ったって、女の子にはあまり免疫が無いんです。そもそも、急にこんな事されて取り乱すな…って方が無理ですよ……」
 無茶苦茶な屁理屈を捏(こ)ねている宮岸さんの身体を何とか振り解いて弁明する。
 弱冠の理性は取り戻したものの、僕は自分の顔が堪まらなく火照っているのを感じた。
 鏡のある方とは反対の方向を向いているので、自分がどんな顔色をしているのか確かめる事は出来ないが、おそらくは熟したトマトの如く真っ赤に染まっている事だろう。
 「ん、ふふ〜ん♪ じゃあ、たっくんわぁ…今まで彼女とか居た経験ないんだ?」
 一方、僕に無理矢理振り解かれて調子を崩したかと思いきや、先程よりも更にご機嫌宜しく…とばかりにいやらしい笑みを浮かべて宮岸さんが言った。
 「な、何をいきなり…。僕に彼女が居たかどうかなんて…別に貴女に関係ないでしょう?」
 未だ頭が正常に機能していない僕は、その質問に対して答えなくとも良いのに、条件反射で言い返してしまう。
 「じゃあ、居たんだ?」
 「………」
 今更考えるまでもない。誘導尋問である。
 と、言ってもそれが判ったところで『後の祭り』…気が付けば、僕はすっかり彼女のペースに嵌まってしまったようだ。
 「…そうですよ。…プラトニックな間柄のままだったから免疫はつかなかった…てだけの事です……」
 仕方がないので僕は仏頂面をして言った。
 ここからは余談になるが、

 ―そう…僕の周りは女っ毛の多い方ではなかったものの、水泳部に所属していた中学生時代の折には、地区大会とかで割と良い成績を残していた経緯から、それを観に来ていた校内の女の子に告白されて、その、何と言うか…『彼氏? 彼女?』のような関係になった事があった。
 『彼氏? 彼女?』等と、曖昧に表記するのは、それが然して長く続かなかったからである。
 何しろ、当然そんな経験は生まれて初めての事だったし、『彼女』と言っても『友達』と何が違うのか判らなかった僕には、意識するあまり、どう接していけば良いのか、更に判らなくなってしまった。
 その上、当時は家で家事を担当、休日なんかも悪友と遊ぶ方が気が楽だった僕にとって、その娘とは学校以外での時間が殆んど合わなって行く。
 やがては、徐々に話す機会も減って行き、結局いつの間にか『自然消滅』のような感じで終わってしまった、―

 と、言う訳だ……。
 まあ、それでも、その経験がまるっきり無駄だったのか? と、問われるとそうでもないのだが、それは又別の話である。
 「ふ〜ん、プラトニック…ねぇ? それじゃ、やっぱり……」
 僕の答えを聞いて、何やら呟き始める宮岸さん…と、不意に僕の全身を怖気が走った。
 よく見ると、彼女は僕の顔をジッと見つめて、何やら意地の悪い笑みを浮かべていた。
 ―何だ…今度は何を企んでるんだ?
 僕はもう無意識の内に身構えていた。
 この表情から察するに『何か良からぬ思案』を巡らせているのは、まず間違いない。
 昨日からの彼女の動向を顧みれば容易に想像が付くというものだ。
 「それじゃあ、さ。ちょっとお願いしたい事があるんだけどなぁ……」
 「そ…その手には乗りませんよ。どうせ、又僕を嵌める気でしょう……?」
 予想通りの展開に、僕は少々後退りながらも断固とした口調で返す。
 こうなって来ると、流石に痛い気持ちが交錯した。
 先程、羽交い絞めにされていたのを振り解いた折、僕と宮岸さんの位置は入れ替わってしまっていたからである。
 つまり、この部屋を出るには彼女を押し退けてでも、その背後にある入り口を潜(くぐ)り抜けねばならない…という訳だ。
 けれど……、
 「お・ね・が・い♪ キミにしか頼めないのよ…」一転、西瓜女が今度は縋るような目付きで猫なで声を使って来る。
 「…そ・れ・と・も♪ 早見君はぁ、私にぃ、今すぐぅ、此処で大声を出される方をお望みなのか・し・ら?」
 「そ…それは“お願い”じゃなくて“脅迫”って言うんじゃ……」
 「あら、そう? まあ、良いじゃない…どっちでも♪」
 全裸の西瓜女は、本当にどうでも良い様な口振りで言った。
 どう思案しても、僕に選択肢は残されていなかった。
 ふざけ半分で言う<たっくん>ではなく<早見君>と言い替える辺り、宮岸さんの本気がモロに窺えるからだ。
 何より…目が笑っていない。
 情けない事ではある。しかし、彼女の躯(からだ)を押し退けて通るだけの突破力が僕に無いのは荷物運びの件で既に立証済みだ。
 その挙げ句、もしもこの状況で彼女に悲鳴でも上げられたら、僕の立場は悪くなる一方、昨日の今日で改善する術を見つけるなんて至極困難な事であろう。
 それどころか、こんな事態が学園側に知られたら、僕は転入早々停学、下手すれば退学処分になる事だってあるかもしれない。
 「彼女の性格上、悲鳴を上げて逃げ回るなんて有り得ない!」或いは「腕力だって僕より彼女の方が遥かに強いんだ!」とか言って逃れれば良いだろう、と言われるかもしれないが、マズイのは僕が裸の女性と、この場に居る事実であって、彼女の本心や腕っ節の強さがどうであるかなど現実では考慮されないものなのだ。
 「き…聴くだけなら……」
 一通り考えた末…僕は首をがっくりと落としながら言った。
 「物分りが良くて私も助かるわ♪」対して、西瓜女は見るからに上機嫌である。
 「それじゃ、早速言わせて貰うけど…ちょうどシャワーを浴びて喉が渇いてたところなの。それで今、猛烈にミルクとか飲みたい気分なのよねぇ……」
 「へ…?それだけ?」
 宮岸さんの言葉に、僕は自分でもそう思うくらい間の抜けた返答を返していた。
 何を言い出されるか…内心冷や汗ものだったのだが、蓋を開けてみれば、正直拍子抜けした気分だったとも言える。
 とは言え、やっとこの場から開放される事に、僕は至福の喜びを感じた。
 「わ、判りました」
 僕は気を取り直して言った。そう言えば、確か牛乳が冷蔵庫にあった筈である。
 「あ、ちょっと待ってて貰えます? すぐ取って来ますから」
 「待てないわ、今すぐ飲みたいの」
 「…ま、待てないって……走って行けば1分も掛からないですよ?」
 「パックのじゃ嫌なの。絞りたての新鮮濃厚…成分未調整のヤツ」
 言いながら、彼女は僕の全身を舐めるように見つめて来る。
 「…は?」
 喜んだのも束の間…僕は何処からか溢れ出した冷や汗が、自分の頬をゆっくりと伝い落ちて行くのを感じていた。
 それもその筈…ソコからは、獰猛な肉食獣が獲物を発見し「どう料理してやろうか?」と舌舐めずりしているような気配しか窺えない。
 そもそも、その標的とはおそらく…この僕である。
 そう、彼女の言っている『ミルク』とはもしかして……。
 「ほら、ソコにあるじゃない。キミの身体に溜まった新鮮なミ・ル・ク・が♪」
 西瓜女はそう言って、今度は僕の股間へと露骨な視線を送った。
 よく見ればその瞳は少々潤んでおり、明らかに陶酔した感じの雰囲気を漂わせている。
 「…ぁ」
 『開いた口が塞がらない』とは正にこの事を言うのだろう。
 この余りに常軌を逸した展開に僕は二の句を告げられないでいた。
 「どうせ、今夜にでも私の裸をオカズにして抜くんでしょ? それなら今ここで私が抜いてあげても問題ないじゃない♪ キミはすっきりして、私はおいしいミルクが飲める。ほら、利害関係だって一致してるわ♪」
 ―してないしてない…利害関係なんか全然一致してないっ!!
 大体、何処をどう考えたら、そういう結論が出て来るんだ!?
 相変わらず言葉を発する事が出来ない僕は、首を思いっきり左右に振る事で彼女の言葉に完全否定の意を示す。
 「絶対に後悔させないわよ。オナニーなんかでは到底味わえないような快感を味あわせてア・ゲ・ル♪」
 そう言いながら、じわじわとにじり寄って来る全裸の西瓜(すいか)娘。
 彼女に対して、既に僕は抵抗する術を持たなかった。


〜2〜
 「遅い!」
 服装を整え、洗顔…及び無精髭を剃り終えた僕が食堂に入るなり、音川さんが目を吊り上げて言った。
 しかし、食卓に目をやれば寄宿舎を出ている者はまだ一人もおらず、朝の連続ドラマ等を見るくらい余裕の表情で食事を摂っている最中だった。
 ちなみにメニューは、トーストとハムエッグ。取り敢えず…周りは音川さんの機嫌程には切羽詰まった状況ではないらしい。
 「一体何やってたのよ。顔を洗いに行っただけなんじゃなかったの…?」
 「…ごめん……」
 呆れ果てている彼女に…しかし、僕は抑揚のない声で答えながら、ある1つの席へと視線を向ける。
 その席の主…西瓜娘こと宮岸勇気は、先程までしていた僕との行為等まるでなかったかのように、何喰わぬ顔で食事していた。
 マーガリンと蜂蜜を塗りたくったトーストを齧りながら、コップに並々と注がれた真っ白なミルクを音を鳴らして嚥下していく。
 そうした一連の動作を見ていると、
 <…やっぱり朝は搾り立てミルクが一番ね♪>
 いつしか僕の脳裏へと、アノ時の光景がまざまざと甦って来た。

***

 <絶対に後悔させないわよ。オナニーなんかでは到底味わえないような快感を味あわせてア・ゲ・ル♪>
 ―何を言ってるんだ? この娘は…。
 はっきり言おう。僕にとって、それが素直(そっちょく)な感想だった。
 女子ばかりの学園。何だかんだ言って、こうした事態を想像しなかった訳じゃない。
 いや、それどころか淡い期待感がなかったという方が嘘だろう。
 けれど、<今夜にでも私の裸をオカズにして抜くんでしょ? それなら今ここで私が抜いてあげても問題ないじゃない>との言いようは、余りにも人を馬鹿にした台詞ではないだろうか?
 『据え膳喰わねば男の恥』という言葉がある。他の男は知らない。
 しかし、少なくとも僕は、出されたからといってほいほい喰いつく方が余程恥だと思っている。
 人間と言う者をそれ程特別視している訳ではない。
 しかし、『盛りのついた犬』ではない…と、思ってしまうのが僕の本心なのである。
 …それなのに、
 <こんなに大っきくしちゃって…本当はすぐにでもこうして欲しかったんでしょ?>
 僕のソコは、自分の意図とは正反対の方向へと向かっていた。
 情けない話だが、朝シャン後で全裸のままの西瓜女…もとい宮岸勇気に良いように弄ばれ、これでもか…と言うくらい、ペニスをスタンディングオべーションせているのが現実だった。
 流石に自身を持って言うだけの事はあり、彼女の愛撫は男のツボをしっかりと押さえていた。
 息も吐かさない早業でトランクスもろともズボンを引き下ろしてしまう手際も然ることながら、みっともなく勃起した僕のイチモツを丹念に…まるで我が子を慈しむかのように、柔らかく包み込む感じで撫で上げてしまう様は、正に「お見事♪」と言う他はない。
 更には、滑(ぬめ)りを帯びた舌を使って余った包皮を捲り、剥き出しになった亀頭へ間段無く刺激を加えられたその日には、今ある僕の体たらくを非難する事が出来る人(男)など居ない筈だ。
 <何よぉ、たっくん♪ 何だかんだ言って、本当はシタくて堪らなかったんでしょ? 大きくなった男の子以外にも…ふふ、こんなに先走りの液が……出てるじゃない>
 勃起して尚且つソコへ刺激を与え続ければ、本人の意思とは関係なく、牡としての本能によって生産された精子を押し出そうと、カウパー氏腺液が尿道口から溢れ出すのは道理。
 けれど、宮岸さんは自分の思い通りに事が運んでいるのが、さぞ嬉しかったのだろう。満面に笑みを浮かべて喜んでいる。
 すっかり膨張して硬くなったペニスを握りながら、まるでその硬度と形状を確かめるかのように丁寧に、且つ優しく撫で回す…と、いった具合に上機嫌だった。
 <別れた彼女とはプラトニックな関係のみって言ってたわよね? 当然こんな事して貰うの初めてなんでしょ?>
 <………>
 何を今更…と、思ったし、何より彼女の人を見下した態度が癪(しゃく)に障るのだが、本当の事なので返す言葉もない。
 <ふふ、童貞クン…かぁ……>僕の反応に更に機嫌を良くしたのか…西瓜女は続ける。
 <何てラッキーなのかしら。無垢な男の子を汚していくのって最高に気持ち良いのよねぇ♪>
 <…悪趣味>
 <なんか言った?>
 <いいえ…別に>
 ささやかな抵抗だった。当然そんな言葉を口にした所で、最早何の意味も成さない事など承知済みだ。
 それだけならまだしも、頭だけはさっぱりと冷え切っているにも関わらず、胸はムカムカ、体は更なる快楽を求めて容赦なく僕の理性を押し退けようと抵抗を始める。
 おそらく、僕の脳下垂体ではひっきりなしに性腺刺激ホルモンが分泌され続けている事だろう。
 だが…僕にも男としての意地があった。西瓜女の良いように弄ばれてばかりではいられない。
 せめて気休めでも何でも良い…<望んでいない>と口にする事で、何とか自分を保とうとしていた。
 <…そう言う態度を取っちゃうんだ? だったら…>
 とは言っても、何だかんだで、完全に主導権を握っている宮岸さんは、そう口にして次の行動へと移って行く。
 今度は右手で竿を支えつつ、そのまま器用な舌使いで鈴口から裏筋を辿り、陰嚢へと至るや否や睾丸ごと音を出して啜り始めた。
 「…っ!?」
 明らかに自分ではする事の出来ない初めての感覚に、僕は自分の背筋が震えるの感じた。
 宝塚で主役を張っている男装の麗人のような出で立ちでありながら、高校生とはとても思えない豊満な身体の持ち主。
 しかも、風呂上りのせいで立ち上る芳香も相まって、僕のイチモツは更に昂まり、みるみる内に反り返っていく。
 当初の…いや、一段に大きさと硬さを増した状態になるまで時間は然してかからなかった。
 <凄い、こんなに大きくなるなんて…>
 先刻まで余裕の表情をしていた西瓜女の呼吸がどんどん荒くなって行くのが判る。
 どういう訳か、それを感じた僕自身、興奮を抑えられない。
 しかも、彼女は僕の股間に鼻を寄せると、うっとりした表情で匂いを嗅ぐのだ。
 鼻息が僕の敏感な先端部分にかかって、股間から背中にかけて震えが走り、無意識の内に腰が浮いてしまう。
 と、次の瞬間、彼女の柔らかい唇が、亀頭の先端をゆっくりと呑み込み始めた。
 <…っ!?>
 うろたえまくりの僕とは対照的に、彼女は上目使いに僕の反応を楽しみながら…やがてその『全て』を一気に喉の奥まで内包していく。
 必死に堪(こら)えていたが、生温かい口腔に包まれ、咽輪に締め付けられる感覚に、思わず腰が震えてしまう。
 正直に言ってしまうと、それだけで、射精(だ)してしまいそうだった。
 気持ち良い、と言うのも無論ある。
 しかし、それ以上に…『自分でして昂めて行く』のとは明らかに違う『されて否がおうにも昂めさせらる』感覚が、僕の体をどこかしら酔わせてしまっていた。
 <んっ…んぐ……んぷっ………>
 そんな僕の心の葛藤などお構いなく、宮岸さんは素っ裸の状態で一心不乱でペニスにむしゃぶりついてくる。
 僕のモノは、ナマコのように滑(ぬめ)った彼女の口腔を行ったり来たりし、同時に唾液を絡めた生ぬるい舌によって弄ばられる。
 頬をすぼめ、啜るようにきつく吸い上げられたペニスと彼女の唇の間から、唾液の湿った粘膜のいやらしい音が漏れ響いて来た。
 相手が僕であるか、そうでないかなど関係なく。そう、既に彼女は自分の世界に陶酔していた。
 ただ、自分の一挙一動によってペニスが…相手の体が素直に反応を返す事を純粋に喜んでいるかのようだった。
 そして、僕の目にはソレこそが彼女の求めている最高の恍惚感(エクスタシー)であり…又、至上の幸福感であるかのように映って見えた。
 <ふぇぇ…時間がはいんでしょ?意地になっへ我慢ひてるんでひょうけど、さっさと出ひちゃいなふぁいって……>
 喋りながらも口唇愛撫は決して止めようとはしない為、途切れ途切れに言葉が意味を失うが、彼女の言いたい事は何となく判る。
 『自分の意思とは関係なく気持ち良くさせられているのが悔しいんだろうけど、安っぽい自尊心(プライド)なんかさっさと捨てなさい』と、僕の心中を見透かし、余裕の態度で嘲っているのだ。
 要するに僕の事を高みから見下ろしている訳である。
 正直、何か言い返してやりたい所だったが、この時の僕にはその言葉に対して何か意見出来る状態ではなかった。
 喉から零れるのは荒い息と、必死で押し殺した喘ぎ声だけ…と自分で考えても情けない有様だ。
 最初から自身ありげな口調だったし、彼女は『こう言う事』に慣れているのだろう。
 その舌の愛撫は、僕の脳天に次々と間断なく堪らない快感を注ぎ込んで来る。
 別に拘束されている訳ではないのから嫌なら押し除ければ良い。
 けれど、理性はそれを望んでも、本能が拒絶してしまう。
 いや…それは単に僕が認めたくないだけで、心のどこかではこの淫らな奉仕を望んでいるのかもしれない。
 …その内に、宮岸さんの唇の両端からは熱い唾液が溢れ、それが潤滑油となって滑るような摩擦に変わって来た。
 出し入れする度に、口元からは透明の唾液が顎を伝って流れ落ちて行く。
 僕はと言うと、体を震わせながら性懲りもなく歯を喰いしばって耐えていた。
 最早それが意地によるものなのか…それとも出来るだけ長くこの快楽を持続させようとしているからなのか…僕自身でも判断出来なくなっていた。
 <ふごい感じふぁたへ♪ こひがビふビふ震えへ…ふふ、可わひ♪>
 <…く、これ以上続けられたら、で…出ちゃいます……>
 寄せては返す波のような快感。その気持ち良さから、とうとう僕の口から弱音の声が零れ落ちた。
 それほどまでに彼女の口唇愛撫は過酷であり…又鮮烈でもあった。
 既に僕のモノは限界寸前…むしろ、ここまで保(も)っているのが不思議なくらいである。
 <良ひわひょ、口の中に出ひへ♪ 遠慮は…ひふぁはいわ♪>
 僕の反応を観てその臨界点を悟ったのだろう。宮岸さんがラストスパートに入る。
 まるで、熱病に浮かされたかのようにペニスを吸い続け…際限なく続けられるピストン運動によって、彼女の吸う空気が洩(も)れるだらしない音がこれまで以上に室内に反響する。
 そして、彼女が勢いよく僕のペニスを吸い込んだ瞬間…、
 <あーーーっ、だ…駄目だ! 出ますっ!!>
 気が付いたら、僕は自分でも情けないと思う悲鳴を上げていた。
 同時に頭の中は真っ白になり、その感覚と共に爆発するような勢いで宮岸さんの口腔へ射精が開始される。
 彼女の方もそれを催促するかのように、凄い力で僕自身を吸い上げ始めた。
 まるで吸い取られるかのようなその感覚に、僕の膝はどうしようもなく震え、溜まっていた大量の液体が彼女の喉の奥へと注がれて行った。
 全裸の少女は「待っていた」と言わんばかりに、そのむせ返るほどの特濃ミルクを、喉を鳴らしながらおいしそうに呑みくだしていく。
 やがて…、
 <相当溜めて込んでたのね。ドロリ濃厚の上に匂いも強烈……。でも、やっぱり朝は搾り立てミルクが一番だわ♪>
 その殆んどを嚥下し、ようやくペニスから口を離した宮岸さんが満足そうな顔をして言った。
 その後、ゆっくりと口の周りにこびりついている白い液体を舌で舐め取ってみせる。
 なんとも言えないくらい淫靡で…且つ低俗な仕草でもあった。
 逆に僕はと言えば、全てを搾り取られた脱力感からか…すっかり腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
 下半身が麻痺したかのように痺れ、足腰にまるで力が入らない。
 文字通り、僕の持つ殆んどの精力を彼女に吸い取られた感じだ。
 <ごちそうさまでした♪ とっても美味しかったわよ、又今度飲ませてね♪>
 僕が呆然と息を吐いている合間にも吸精鬼、もとい宮岸さんは笑いながらそう言い残して颯爽と風呂場を後にした。
 無論昨夜と同じく全裸のままで堂々と…だったのは言うまでもない。

***

 それが、今を去る事数分前の出来事だった。
 「どうしたの?早見君」
 依然、テーブルの前でぼーっと突っ立ている僕に、音川さんが不審そうな眼で見ながら声を掛けて来た。
 「早く食べないと、本当に遅れちゃうわよ」
 「いや…ちょっと食欲が……」
 言葉を濁す感じで僕は言った。
 せっかく用意してくれた彼女には悪いと思う。しかし、今すぐ食事をする気分には到底なれなかった。
 自分の意思とは関係なく無理矢理に奮い起こされる快感。
 時間にすれば、わずか数分程度の出来事ではあったけど、それでも僕は自分の中にも存在していた『依存する悦び』の一端を垣間見た感じがして、どうにも遣(や)る瀬無い気分に滅入っていた。
 男のプライドのせいか、残念ながら“出す物を出してスッキリ♪”と言う訳には行かなかった。
 更には、その場にいる女子全員が喜々として飲んでいるミルクがいけない。
 今の僕にはあの白い飲み物が自分の放出した白濁液に見えてしまうのだ。
 17歳の健康男子が今更良い子ぶるつもりは無いけれど、少なくとも今だけはあの液体を喉に通す気にはなれない。
 食欲どころか、観ているだけで吐き気すら催して来そうだった。
 「ちょっと大丈夫?なんか顔色悪いわよ…」
 「…だ、大丈夫だよ」
 不審そうな目つきから一転、心配そうな顔で覗き込んで来る音川さんに向かって軽く微笑む。
 正直、上手く笑えたか自信はないが……。
 「朝っぱらから、この世の終わりみたいな悲壮感漂わせちゃって…景気悪いわねぇ。」
 其処へ宮岸さんが横から口を出してきた。
 「そんなんじゃ女の子にもてないわよ。…それとも、たっくんには鬱病の卦でもあるのかしら?」
 ―誰のせいだ…誰の……。
 全てを知っていて…というか、僕をこんな状況に追い込んだ当の張本人のくせに、その事を意に解した素振りすら見せない彼女の姿に、僕は心の中で毒吐いた。
 口に出して皮肉らなかったのは、彼女のせいだ…と思う反面、自分にもその原因があったと思うからだ。
 全ての責任を自分以外の何かに着せるのは容易いし、それ程楽な事はないのだろうが…。
 今更ながらに、自分がつくづく損な性分だと言う事を自覚してしまう。
 「登校初日からそんなんじゃ、ここでの生活はやっていけないわよ…」
 再び宮岸さんが言った。
 「それって、どういう……」
 「『百聞は一見に然ず』よ。その身で確かめなさい♪」
 横から口を出しておきながら、僕の問いに対し明確な答えを示す訳でなく…それどころか更に意味深な言葉を言い残し、彼女は残りの食事を片付けに掛かった。
 …全く持って不可解な人だ。
 ―しかし、どういう意味だろう? ひょっとして又何か企んでるんじゃないだろうな……。
 「ねぇねぇ、タックンは私達と同じ学年なんだよね?」
 否が応にも『疑心暗鬼』に捉われてしまう僕を余所に、不意をついて…これまた寮生の一人である野々宮瑠璃が話し掛けて来た。
 満面に笑みを浮かべ、くりくりした眼で僕の方を見上げている。
 「…え? あ、ああ…そうみたいだね」
 僕は考えを中断すると、野々宮さんの方に向き直って言った。
 彼女と同じ学年…。正直、僕としてはにわかに信じ難い事実であり、その幼すぎる容姿と未発達な体型、頭に付いた2つの尻尾を観ては改めて思う。
 「じゃあさー、コースは何処を選んだの?」
 「ああ、一応進学の文系コースを希望したけど…」
 相変わらず屈託のない笑顔で続ける野々宮さんに、僕は自分の選択したコースを伝えた。
 ここで、『コース』について説明しようと思う。
 聖アルカディアでは2年生へ進級するに当たり、卒業後の進路に応じたコース分けが為(な)されるらしい。
 当然、クラスもそれを視野に入れて編成されている事から、その後はクラス替えも行われないという事になる。
 よって、3年生で編入した僕にも自分の適性に応じたカリキュラムを選択する必要が出て来るという訳だ。
 数学はともかく、化学や物理が不得手な僕は、どちらかと言うと国語や英語と言った語学関係…あとは歴史なんかの暗記科目を基調にした教科の方が点数が良かった。
 だから書類の希望欄にはその旨を記しておいた。
 成績に関しては前の学校だと上の下くらいをキープしていたので問題はないと思っていたのだが……、
 「…え゛?」
 しかし、どういう訳か…僕の答えを聞いた野々宮さんがおかしな声を上げる。
 心なしか、一瞬他のみんなの動きまで止まったように感じた。
 「…ご愁傷様」
 「うわ゛…、よりにもよってB組を選ぶとはね……」
 「早見君…」
 それだけではない。みんな口々に意味ありげな言葉を発し、音川さんまでもが表情を曇らせている。
 ―一体何なんだ!?
 思いがけない展開に、僕はもう一度周りの顔を見渡す。
 「でもでも、サオリンと同じクラスでもあるって事だよね♪」
 重苦しい空気の中…呆然としている僕を横目に、野々宮さんが話を再開した。
 「はぁ〜…それにしても残念だね。理数系コースを選んでたら、ノノミや金田と同じA組だったのに……ねぇ、金田」
 「そうね…」
 野々宮さんの隣に座っている無表情な勤勉少女…金田麻衣子が表情も変えずに答える。
 勿論、昨日と同じく参考書を片手に、目は本・空いた手で朝食…という事を器用にこなしながら……。
 だが、そんな事はおろか…先に僕の心中を満たしていた2つの疑問まで打ち消す程に、野々宮さんの今の言葉は僕に取って聞き捨てならなかった。
 「り…“理数系”なんだ?野々宮さん……」
 「…ノノミ」
 「へ?」
 「『野々宮さん』じゃなくて『ノノミ』だよ」
 「………」
 正直「呼び方なんかどうでも良いじゃん」などと思ったが、何がそんなに気に入らないのか…野々宮さんは風船みたく頬を膨らませ、表情を強張らせている。
 実際そういう所が彼女を余計に幼く見せているのだが、僕としてはそんなくだらない事で臍を曲げられても困る。
 顔を引き攣らせながらも、仕方なく訂正して同じ事を尋ねた。
 「の、ノノミちゃん…理数系なんだ?」
 「そうだよ。A組が理数系コースで、B組が文系コースなんだ♪」
 ゲンキンと言うか何と言うか…とにかく呼び方を替えると忽ち笑顔で答える野々宮さん。
 ただ、そのおかげか…先程までの重苦しい空気はいつの間にか霧散していた。
 しかし、なんともはや…どう表現すれば良いのだろう……。
 とにもかくにも『驚いた』と言う一言に収束していく事だけは間違いない。
 軌道計算が特技だと平然な顔で言ってのける金田さんが理数系だと言うのは判る。
 だけど無邪気で、常にあっけらかんとしている野々宮さんまでがそうとは……世の中判らないものだ。
 僕の中では世界七不思議に又一つ新たな不思議が加わったような気分だった。
 一方、僕が心の中で微苦笑している内にも会話は続いて行く。
 「ちなみにC・Dが総合でE組が就職コースなんだよ。あとねぇ、他にも留学生や帰国子女なんかが入ってる特別クラスもあるの。ねぇ、金田」
 「そうね…」
 「もうっ、金田返事に全然感情こもってないよぉー!」
 「そうね…」
 「むむむむむ…むっきぃぃぃーーーっ!!」
 参考書から一切目を離さず空返事…と言う金田さんの相変わらずの応対に、野々宮さんが目尻を奮わせながら凄い勢いで立ち上がった。
 その拍子に、卓上にある料理の乗った皿と、彼女のツインテールが軽快に弾む。
 …実際、彼女の気持ちは判らないでもない。
 いや、昨夜半に起きた金田さんとの問答―何を思ったのか真夜中にアンプの音量をガンガンに上げてハードロックを掛けまくり(しかもパンツ一枚という格好で…)、仕方なく注意をしに向かえば今度は逆ギレされる―と、いう経験をした今の僕なら、むしろ判り過ぎるくらいに彼女の気持ちが理解出来る。
 だけど…、
 「ちょっとぉ、ノノミが話し掛けてるのに真剣に答えてよぉっ!!!」
 「そうね…」
 「全然話聴いてないでしょ!」
 「そうね…」
 「金田って腋毛も下の毛も手入れしてないから、ボーボーだよね?」
 「全然…」
 「聴いてるじゃないのぉっ!!」
 やはり役者が違った。野々宮さんの勢いどころか…緩急をつけたフェイントまでをも、金田さんは一言で一蹴してしまう。
 金田麻衣子…彼女のペースを崩す事の出来る人間なんて果たしてこの世に存在するんだろうか……?
 出会って間もない相手に対して言い過ぎだ…と、思われるかもしれないが、少なくとも僕には彼女が慌てて取り乱している様子など、とても頭に思い浮かべる事が出来ない。
 僕が何とはなしにそう思った矢先、
 「もぉっ、あったまきた!こうなったら、今ここで金田の自殺したくなるような恥ずかしい秘密ばらしてやる!!」
 野々宮さんが遂に『奥の手』を出して来た。
 僕もその自信ありげな言葉に「『起死回生』成るか?」と、期待を込めた眼差しを向ける。
 しかし、残念ながら彼女の勢いもそこまでだった。
 「あなたの恥ずかしい話もばらされる事になるけど良い…?」
 金田さんの思わぬ切り返しに、野々宮さんの怒りに染まった赤い顔が目に見えて蒼褪めていく。
 余程の覚えがあると言った所か……。
 「…じょ…じょうだんだよ。ちょっとしたじょーく、てやつ? やだなぁ…かねだったらすぅぐほんきにしちゃうんだから……」
 「御馳走さま…」
 愛想笑いを浮かべながら機嫌を取ろうとする野々宮さんを無視し、金田さんはさっさと食器を流しにかけると、席の脇に置いてあった鞄を手に取って食堂を出て行った。
 金田さんが自殺したくなるような話なんて本当に存在するのか?
 …疑問に思いながらも、僕はその話が聴けなかった事を少しばかり残念に思った。
 と、そこへ…
 「…で、あんた“達”の恥ずかしい話ってどんなの?」
 金田さんが去った途端、その後を食事を終えた宮岸さんがあっさり引き継いだ。
 彼女の性格上、野々宮さんの方へ向かって、意地の悪い微笑みを浮かべているのは言うまでもない。
 「それは、ノノミに死ねって言ってるの…?」
 『身から出た錆』とはいえ『泣きっ面に蜂』…蒼褪めたまま表情を引き攣らせている野々宮さんに、宮岸さんは満面の笑顔を保(も)って頷く。
 だが、そこで今まで静寂を保(たも)っていた音川さんの横槍が入って来た。
 「もうっ、いい加減になさい。食べ終わったんならさっさと学園に行ったらどうなのっ!」
 「そ…そうだよ、ユッキー。サオリンの言う通りじゃん。こんなくだらない話してたら遅刻しちゃうよ〜♪」
 これまで行き場を失っていた野々宮さんは、音川さんの言葉をこれ幸いと、通学用の帽子と鞄を引っ掴む。
 そして、そのまま、
 「い…いってきま〜っす!」
 帽子をぶっきらぼうに頭に乗せながらも、両脇から覗く尻尾を振り振り、逃げるように退散して行った。
 その光景を笑顔で見つめながら宮岸さんも又、食堂を出ようと立ち上がる。
 と、急に僕の方に向き直り、思い出したように耳打ちして来た。
 「そうそう、たっくん♪ さっきの話の続きだけど…あんなに濃いのが出るんだもん。ここでやっていける素質は充分あるわ。あとは、キミの頑張り次第なんだから…期待してるわよ♪ あ、それから、“姫”と同じクラスだからってのも、そう悲観する事は無いわ…。私は信じてるから♪」
 突然話を振って…しかも、早口で捲くし立てるので瞬時には理解出来ず、僕が目を白黒させていると、
 「…っと、今はそれよりも……ちょっとぉ〜…瑠璃、待ってよ。まだ恥ずかしい話が終わってないでしょう?」
 その内に、宮岸さんは次の行動…野々宮さんへと関心の対象を戻して食堂を後にした。
 当然、後には僕と音川さんだけが残されたのだが……。
 「全く…、朝くらいゆっくり落ち着かせて欲しいわ……」
 溜め息を吐きつつ、テーブル上に残された空の食器の数々を片付けながら、音川さんが愚痴を零す。
 確かに、前半はともかくとして後半は嵐のような展開だった。この寄宿舎では毎朝こんな感じなんだろうか?
 「…僕達も行こうか?」
 ようやく気を取り直した僕は、突っ立ったまま音川さんを促してみる。
 「良いけど…本当に朝食はいいの?」
 「…ああ。本当に食欲がないんだ」彼女の問いに、僕は苦い表情のままで言った。
 「それに、いくら校舎が目と鼻の先と言ったって、時間的にも、もうのんびりしていられないし…さ」
 左手首につけた腕時計を観れば、既に8時半を回っている。
 「…そうね、じゃあ行きましょうか」
 結局、最後まで手をつけられる事のなかった僕の朝食を冷蔵庫の中にしまい込み、僕と音川さんは揃って寮を出た。


〜3〜
 音川さんとの会話でも口にしたが、寄宿舎から学園までは殆んど目と鼻の先。
 通りに出て少し目を凝らせば、すぐに視界に捉えられるくらいの距離だった。
 きっと、歩いても5分と掛からないだろう。
 以前、学校の向かい側の住宅に住んでいる友人を見て「ラッキーなヤツだな」と羨ましく思った事もあったが、実際自分がその立場になってみると結構味気ない物だと感じてしまう。
 距離が近ければ近いほど、下校の際、寄り道して買い食いしたり、友人の家にちょっと寄り道したり、といった楽しい道草ライフは成立しない。
 あまつさえ、もし彼女が出来た時の登下校等…この距離は致命的に短か過ぎると言えた。
 まあ、彼女が出来るかどうかなんて今考えたところで詮無い事ではあるし、然して意味のある事だとも思わないが…それでも、一抹の寂しさがよぎってしまうのを誰も責めたりはしない筈だ。
 学園に向けて歩いている途中、僕が漠然とそんな事を考えていると、音川さんが声を掛けて来た。
 「そう言えば学園に直接出向くのは初めてなんだっけ?」
 「ん…ああ、手続きはみんな電話や郵送で済ませたからね。実際この目で見るのは今日が初めてになるかな」
 「じゃあ、学園の現状も知らないんだ……」
 途端、音川さんの表情が曇り始める。
 ―何だろう? 他人を試すのが好きそうな宮岸さんだけならともかく、最も良識を持っていそうな音川さんまでが、こんなにもったいぶった発言を零すとは……。
 疑問に思った僕は、
 「現状って…元々女子高なんでしょ?華やかなんじゃいの? HP(ホームページ)や資料用のパンフだと“自由な校風”“厳格な教育方針”がキャッチフレーズになってたし……。おまけに女子が多いから、今なら男子の数を増やす為に編入試験も免除。そもそも『聖アルカディア』なんて、額面通りに受け取れば聖なる高み…『理想郷』じゃないか」
 現時点で自分の持つ知識を総動員してみせる事により、何とかこの暗いムードを払拭させようと試みたつもりだった。
 しかし、音川さんは僕の話を聴いて今度は深い溜め息を吐いた。
 「いるのよねぇ。そうやって毎年騙されて入って来る男子が年に十人以上…。あんまり楽観視してると、少なからず失望する事になるわよ。そういった考え方で入って来た男子はみんなそうだったから……。」
 「失望って…そんな大袈裟な……。それ程この学園ってマズイ所があるの?」
 「外面だけは取り繕ってるけどね…中身は酷いものよ」
 ―自分の通う学園をココまでボロクソに貶すとは…一体どういう了見なのだろう?
 しかも、よりにもよって、それを宮岸さんや金田さんではなく、音川さんの口から…である。
 そのただ事ではなさそうな雰囲気に、僕は不安になった。
 自分の拙い経験からではあるが、相対的に観て男性よりも女性の方が協調性を重んじる傾向がある。
 殆んどが女子生徒の学園だという話だから、何の脈絡も無しに荒れる心配は少ないと睨んでいた僕であったが…。
 まあ、協調性の欠片もない寄宿舎の住人を見る限り…もし、アレが平均レベルだと仮定すれば、妙に説得力がある感じもしないではない。
 今時スケバンもないだろうけど…世の中には、結果が出ていない出来事・もしくはそれを定義付けて(形にして)いない以上、『絶対』なんて事はないからな〜。
 改めて考えれば、妙な納得の仕方ではある。
 けれど、情報が少ない上で相手の意見を尊重するならば、どうとでも取れる…と言う事だ。
 と、そこで音川さんが感慨深げな口調で語り始めた。
 「私も中学生の頃、体験入学で校内を見学に来た時は、先刻キミが言った通りの良い学園に見えたんだけどね。実際、当時から通っていた先輩達の言でもそうだったと聞いているから、その印象はあながち間違ってもいなかったみたい。早見君は、私達の代で丁度理事長が変わったの知ってる?」
 「…?、いや」
 「まあ、良いわ、要するに経営者が変わったって事。表向き、その方針自体は然して変化ないんだけど、それでもたった1年で結構改革された方だと思うわ。そして、それだけならともかく…決定的だったのはある人物の出現ね。それを境に全てが一変してしまった……」
 音川さんは言い終えると先程よりも更に深い溜め息を吐いた。見るからに意気消沈している。
 僕はと言えば、彼女の零した『ある人物…』と言うフレーズについて考えていた。
 すぐに、僕の脳裏を食堂での様子が駆け巡る。
 「そう言えば、僕のクラスがどうとか…みんな言ってたよね?宮岸さんは確か最後に“姫”がどうとかって言ってたし……。それと何か関係でもあるの?」
 「それは…」
 会話がようやく確信へと迫りつつあった刹那、不意に彼女が言葉を切った。
 「あ…もう着いたわね」
 ―はやっ…!
 見ると、もう少しで正門を通り過ぎる所だった。
 僕は、すっかりその花を落として、今では緑と茶のコントラストを描いている葉桜の並木道へ向けられた視線を、慌てて正門の方へと向ける。
 正面、僕達と同じ制服を着た幾人かの学生が向かう先、そこには3階建ての立派な学び舎が大きく展開し、そびえ立っていた。
 想像はしていたが…これでは話に夢中になっても盛り上がる前に着いてしまう。
 頭で理解はしてはいたつもりだったが…改めて経験してみると、本当に味気ない。
 「じゃあ…ここでお別れね。職員室は東校舎の2階だから」
 僕が感傷に浸っていると音川さんが言った。
 「え…音川さんはついて来てくれないの? 野々宮さんの話じゃ僕達同じクラスなんだろ? それに今の話の続きは…?」
 「知らなかった? 元々ここはカソリック―正確にはギリシャ正教なんだけど―の流れを汲んだ高校だから、毎朝礼拝があるの。今日は色々と時間喰っちゃったし、ギリギリなのよ。これ以上余計な時間を摂る訳には行かないわ。それに…今年でもう18になる男の子に保護者は必要ないでしょう?」
 確かに正論だ。僕はその言葉に納得させられ頷く。
 音川さんは僕の返事を確認すると、あっさり踵(きびす)を返して校舎の方へと消えて行き、僕も彼女の言う東側の校舎へと向かって足を踏み出した。
 ―しかし、やっぱり気になるな…。良好な学園運営が、一人の人物の出現を機に破綻するなんて、実際に起こり得る物なんだろうか?
 まあ、その理由を決定付けるには情報が少なすぎるし…或いは、職員室に向かえば何か判るかもしれない。
 僕は捉え方を替える事で自身を納得させ、一先ずその事について独りで考え込むのは止めにした。


 音川さんの教えてくれた先、職員室の前で僕は一旦息を吐いた。
 掃除の担当…もしくは、何か委員でもやってるのならともかく、職員室なんて何か悪さでも起こさない限り、一般生徒には縁遠い場所である。
 基本的に滅多に訪れる場所ではないので、つい緊張して構えてしまう。
 「失礼します。早見拓郎、入ります」
 目の前の扉を開き、ゆっくりと室内を窺う。
 と、僕の姿を確認した一人の女性教師らしい人が、手を挙げて手招きする。
 音川さんが言っていた“礼拝”とやらに行っているのか、他には誰も居ないみたいだ。
 取り敢えず招かれるまま、僕はその女性の方へと歩(あゆみ)を進めた。
 「あなたが今日編入してきた早見君ね。話は聞いてます。ようこそ、聖アルカディア学園へ。初めまして、私があなたを受け持つ担任の松野香織です。よろしくね」
 背中まで伸ばしたロングヘアーを掻き揚げながら女性教師は言った。
 若くて優しそうな顔をした先生だった。なかなかの美人だとも思う。
 目鼻立ちは整っているし、雰囲気もたおやか…おそらく殆んどの男子生徒に人気を誇っているのは間違いないと思われる。
 何と言っても、赤いタイトミニの下から除くガーターベルトが大人の色気を醸し出していて艶かしい。
 「その…こちらこそ、よろしくお願いします」
 僕が頭を下げるのを待って握手を求めた後、美人教師は説明を再開した。
 「あなたのクラスは3年B組。男子生徒が少ないから最初はちょっと戸惑うかもしれないけど、あなたなら大丈夫! 先生、期待してるからね♪」
 「は…はぁ……」
 いきなり肩透かしを喰らったような気分だった。
 その発言からは、有無を言わさず責任を押し付けているような感じを受けるのだが、僕の気のせいだろうか?
 ―…何が大丈夫なのか判らないが、何の根拠もなしに期待されてもなぁ……。
 「ちょっと変わったクラスだけど、みんな良い子ばかりだから」彼女はそこまで口にすると不意に視線を逸らし、「例外も居るけど……」言って、あからさまに溜め息を吐いた。
 その様子に、僕はだんだんと不安になり始める。
 初見では優しそうだと感じたが、それ以上に頼りなさそうな印象の方が強くなって来た。
 大体『矛盾』しているではないか。ちょっと変わっているのに、<みんなが良い子>というのは明らかにおかしい。
 そして、最後の一言を発する間際の『妙な間』と溜め息を吐いた時の『表情』。
 何故に、逐一言葉の端々へ絶望の色をやんわりと混ぜ込んで来るのだ?
 初登校で右も左も判らない転入生を追い込んだりして、この人は一体何を考えているんだろう?
 「とにかく頑張ってね。先生も頑張るから!」
 女教師は僕に…と言うより、まるで自分を奮い立たせるように言った。
 ともすれば、まるで巨大な何かに立ち向かおうとしているかのようにも見える。
 同時に僕の脳裏を音川さんの言葉が掠める。
 <あんまり楽観視してると、少なからず失望する事になるわよ。そういった考え方で入って来た男子はみんなそうだったから…>
 「………」
 僕は、そもそもの選択肢―編入先―を誤ってしまったのかもしれない……。
 「じゃあ、クラスに案内するわね」僕の気も知らず、松野先生が笑顔を浮かべて言った。
 「…え?なんか礼拝があるとか聞いたんですけど、そっちに行かなくて良いんですか? 今、教室に向かった所で誰も居ないんじゃあ……」
 「…へ?」
 僕が当然の如く沸き起こる疑問の声を発すると、女教師は何を思ったのか…素っ頓狂な声を上げた。
 「あ…ああ、礼拝ね。時間的に今行ったところで間に合わないし、元々そう言う風に話も通してあるから、今日は出なくても構わないわ。あなたは何も心配しなくても良いのよ」
 「は…はぁ……」
 僕は自分が得た情報から推測出来得る事体を述べただけであって、別に何かを心配している訳ではない。
 むしろ心配しているのは彼女の方に見える。それに僕の不安は、もっと別な所に存在していた。
 ―こんな人が担任で本当に大丈夫なんだろうか?
 と…。
 直接学園の裏事情は聞けなくとも、職員室に来て、その雰囲気を味合えば何かしら察するは出来る筈…などと考えていたが、実際は疑問を解くどころか、新たな悩みが増えただけな気がした。


 ともかく…すぐに教室に向かった所で生徒が居ないのでは話にならない。
 結局、僕達は暫く職員室で、僕自身の転校の経緯や寄宿舎生活初日の感想などについて話し合った。
 とは言え…数々の思わせぶりな発言によって、今もって燻り続けている様々な疑問について尋ねる機会は残念ながら得られなかった。
 女教師の身体からそれを許さないオーラのような物を感じたからなのだが…それについての言及はここまでにしておこうと思う。
 そして今、僕と松野教諭は此処…職員室から連絡通路をえた西側校舎の3階にある教室、3年B組の前に居る。
 その時間を見越して来たのだから当たり前といえば当たり前なのだが…既に礼拝から戻って来た生徒達のざわめきが、壁一枚を通したこの場所にも聴こえて来る。
 「ここが教室よ。さ、入って入って」
 先生が扉を開けながら言う。しかし、僕はつい躊躇してしまった。
 色んな人から散々不安感を煽られていたせいなのだが、彼女は勿論そんな僕の心境など知る由もない。
 「どうしたの、早見君? さ、早く」
 動かない僕に業を煮やしたのか、松野先生が背中を押して来る。
 こうなって来ると僕としても為す術がなく、教室の扉を潜らざるをえなかった。
 と、僕が教室に足を踏み入れた途端、室内が更にざわめき始めた。
 きっと「転校生が来るらしい」と言う話はとっくに行き渡っていたのだろう。クラス中の視線が僕に絡みついて来た。
 そして、室内に入ると同時に、女子の間から何気に押し殺した話し声―おそらくは僕の事を品定めでもしているのだろう―が聞こえて来る。
 「みんな席に着いて。もう噂で気付いている人もいるかもしれないけど、今日付けでこの学園に編入する事になった早見拓郎君です」
 松野先生がチョークで黒板に僕の名前を書いてそのように紹介し、僕を黒板の前に立たせた。
 「は、早見拓郎です。宜しくお願いします」
 お決まりの挨拶を終え、教壇の上から全員の顔を遠慮がちに眺める。
 改めて見ると本当に男子の比率が少ない。
 40人前後居ると思われる全体の1割弱…たった5人しか居ない。
 『進学クラスの文系コース』という事がそれに拍車をかけている感じもしないではないが、ともかく一人一人の顔を見ていく内に、ようやく其処に居る筈である人物の姿を確認した。
 僕はその人物…音川さんの顔を見てほっと胸を撫で下ろす。緊張感も弱冠和らいで来た。
 予め知っていた事とは言え、初めて訪れる場所に見知った顔があるというのは安心するものだ。
 ただ、これが宮岸さん辺りだと、今朝の経緯から<セフレならぬフェフレよ♪>とか<私の活力源。愛する乳牛、ミルクタンクよ♪>なんて、ロクでもない事を喧伝しかねないから、別の意味で逼迫(ひっぱく)した感じになってしまいそうだが……。
 ふと、そんな事を考えて苦笑する。
 その刹那、音川さんの視線と僕のソレが絡み合った。彼女の表情がにわかに歪む。
 明らかに“良くない兆候”を感じさせるその表情に、またも朝食時に反応したみんなの姿がダブった。
 ―おいおい…もう止めてよ。僕が一体何をしたって言うんだ……。
 せっかく安心し始めたのに、これでは先が思いやられてしまう。
 「席は確かこの前転校して行った木村さんのものが…て、そう言えばこの前片付けてしまったんだわ。それじゃあ、次の休み時間までは空いている席に……」
 松野先生が言いながら、視線を空中に浮遊させた。音川さんから目を離し、僕もその視線の先を追う。
 やがてそれは後ろから3番目…窓際にある、1つだけ持ち主の居ない空席に止まった。
 しかし、そこで彼女はやけに渋い顔をしてしまう。
 「そ…そこしか、ないの?…ど、どうしましょう……」
 先生はそう言ったきり…暫くの間、その空いている席を眺めている。
 ―何を迷っているんだろう?1つ空いているんだからソコをあてがってくれれば良いものを……。
 実際訳が判らなかった。何かいわくつきな出来事でもあるんだろうか?
 「し…仕方ないわ。取り敢えず1時限目だけでも、其処に座って貰うしかないわね。森本さんは…どうせ今日も欠席だろうから……」
 意を決した感じで先生が言う。
 しかし、どうした事か…教師の言葉を聴いた瞬間から、生徒の間で少なからずざわめきが大きくなった。
 どよめき、と言い替えても差し支えがないくらいだ。
 空いている席の子は森本と言うらしい。
 ―森本…か。はて…?どこかで聴いたような名前だな……。
 然して珍しい名字ではない。どちらかと言えば、割合に聞く方だと思う。
 それなのに、僕は凄く大切な事を失念しているような気がした。
 何より、場の雰囲気が尋常ではない気配を醸し出している。
 「じゃ…じゃあ早見君。あの席に座ってくれるかしら…?」
 「は…はぁ……」
 「そ…それじゃあ、後はよろしくね」
 先生は何処か遺言めいた感じで言い残すと、まるで逃げ出すかのような勢いで教室を出て行った。
 僕は首を捻りながらも、クラスメイト達の間を縫うようにして“森本”の机へと向かう事にした。
 ―…別段、何もおかしい事はないけど……。
 その空席の前に来て僕は思った。タブーとされるにはあまりにもありきたりな席だと言える。
 別に落書きされている訳ではないし、ステッカーの類が貼り巡らされている訳でもない。
 一瞬、もうこの世には存在しない人間の机じゃないだろうなぁ…とも考えたが、花が飾られている訳でなし、松野先生が言った<どうせ今日も欠席だろう>という台詞から、そうじゃないのは明白だ。
 取り敢えず、このまま突っ立っていたところで仕方がない。僕は鞄を机の横に掛けると、椅子を引いて腰を下ろした。
 横を見れば、通路を隔てた向こうの席に音川さんの姿がある。
 認識不足の僕が視線を送ると、彼女はいたたまれなくなったのか、声を掛けてきた。
 「その席に座ってると呪われるわよ……」
 その言葉に、僕はとうとう机の上に突っ伏してしまう。
 ―…もう、嫌だ。勘弁して下さい……。
 「クラスに来て第一声目がソレかい!?まさか、本当に誰か死んだ人の席だって言うんじゃないだろうね……っ!!」
 自棄(やけ)になって言う僕に、音川さんは不思議そうな顔をして返した。
 「?何言ってるの…? その席はね。今朝言った学園の全てを一変させた人物。この学園では“悪魔”と呼ばれている女の席なのよ……」
 「…へ? 悪魔?」
 一体何を言い出すかと思ったら…僕はその台詞の方にこそ拍子抜けしてしまう。
 「そっちこそ何言ってんだよ。散々他人の不安感を煽っておいて、結論が悪魔だなんて…そんなオチじゃ子供だって驚かす事は出来……ない………よ?」
 鼻で笑うようにして言葉を発した僕であったが、次第にその勢いが弱まる。
 それと言うのも彼女の眼が全く笑っていなかったからだ。
 「…本気で…言ってるの……?」
 「あの女には一般常識なんてまるで通用しないわ。今までもキミみたいな人が何人も酷い目に合わされてきてる。もし目をつけられてみなさい。君…学校生活は言うに及ばず、人生まで狂わされる事になるわよ」
 …随分な言われようだ。いくら問題児とは言っても、そこまでけなされるなんて言い過ぎだと思う。
 それに、少々気になる事もあった。
 「ちょっと待ってよ。“キミみたい”て言うけど“僕みたい”…てどんなんだよ? キミは僕の事を一体どういう眼で観てるんだ?」
 「だって早見君、見た目軟弱そうじゃない。昨日だって宮岸達に良いように扱われて…。あの子達さえあしらう事の出来ないキミが、彼女を相手にして対等に張り合えるとはとても思えないわ」
 「………」
 音川沙織…結構言ってくれる。まさかそんな風に思われていたとは……。
 「…とにかく、そう言う事だから、なるべく関らないのが吉だって事。男子の転校生なんて、彼女にとったら格好の獲物だもの。彼女が知ったら、まず放っておかないわ。幸い、最近は全く姿を見せていないし、彼女の場合、登校して来たとしても授業すらまともに出て来ないから当面は心配ないと思うけど……。それも、その席を使ったりしたら安全の保証をしかねるわ。例え一時でもその席を使えば、何処から彼女の耳に入るか判らないもの。これは別に不安感を煽ってるんじゃなくて“忠告”って奴。判った?」
 「え? ちょっと待ってよ。授業にも出ない…て、それじゃあ出席とかはどうなってるの?」
 僕の問いに対し、彼女はきっぱりと言い放った。
 「“特別なのよ。彼女は”」と。
 何がどう“特別”なのかは判らない。そもそも<学園を辞めて行く者が多い>と、言っていたのは音川さん本人である。
 ―本来なら、そういった問題児こそが真っ先に辞めて然るべきだろうに……。
 そう考えると、とんでもない席をあてがわれた物だと思う。
 とは言え、そこまで欠席が続いているのであれば、僕がその御尊顔(ごそんがん)を拝し奉る事になるのは、きっと当分先の事になるだろう。
 …そんな風に僕は悠長に構えていた。
 しかし、この時僕は気付いていなかった。暫く休んでいたと言う事は『学園に変化がなかった』と言う事だ。
 つまり、其処に『退屈を凌ぐだけの出来事がなかった』とも言える。
 だけど、今…この学園にはソレを引き起こした者が居た。
 その者は『転校生』として学園…しかも、同じクラスに訪れていた。
 そう、他ならぬ『僕自身』が問題児にとっての『待ちに待っていた変化に成り得た』事に……。
 僕がその事に気付かされたのはもう少し後の事ではあるのだが、それでも次の瞬間から事態は大きくは動き出していた。
 「お、おい…っ!!ヤツが…悪魔が来た。森本レオナがやって来たぞっ!!!」
 …この、男子生徒が発した悲痛な叫び声と共に……。