◇◇◇◇◇

 最初に神ありき。
 初めに、神は天地を創造された。
 地は混沌にあって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神は言った。
 「光あれ…」
 こうして光が生まれ、神は光を見て、良しとされた。
 神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
 夕べがあり、朝があった。
 第一の日である。
 次に神は大空を造り、大空の上と下に水を分けさせられた。
 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。
 第二の日である。
 神は天の下の水を一つところに集め、乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
 神はこれを見て、良しとされた。
 神は地に草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。
 神はこれを見て、良しとされた。
 夕べがあり、朝があった。
 第三の日である。
 第四の日に、二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。
 神はこれを見て、良しとされた。
 第五の日には、水の中を生きるもの、天の大空を飛ぶものをお造りになり、神はこれを見て良しとされた。
 そして、それらのものを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
 第六の日には、地上に獣、家畜、土を這うものを造られた。
 そして、最後にそれらを支配するものとして、自分にかたどって人を創造された。
 男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」
 そのようになった。
 神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
 「見よ、それは極めて良かった」
 天地万物は完成された。
 ご満足なさった神は、第七の日にすべての創造の仕事を離れ安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
 これが天地創造の由来である(旧約 創世記 1章−1節〜 2章−〜4節)



◇◇◇◇◇



 「ふうっ…こんなことならタクシー拾っとけば良かった」
 余りに余った疲労につい弱音が零れ、僕は荒くなった息遣いを整えた。
 春の日差しとは言え、雲一つない青空の下…もろに落ちてくる太陽光が恨めしい。
 ふと振り返って、眼前・眼下に広がる景色を眺める。
 道路を挟んで右方向は、今歩いている道より数段高く、その為に要壁が嵌め込まれており、その上にある公園と木々が壁になって視界を阻んでいたが…正面から左方向にかけては、住宅街やビルの群れが広がっていた。
 その右奥には山、左奥には何の工場だか知らないが、いくつもの煙突が煙を吐き出しているのが見え、更に向こうには海までが見渡せる。
 高い場所から見下ろす街並みというのはいいものだ。
 普段は見上げなければならない筈の建物や山々が小さく見える物だから、まるで自分が世界の中心になった感じがして気持ちがおおらかになる。
 本来ならこれらの景色を見て、何か思う事もあったろう。
 しかし、今の僕にとってそんな事はどうでも良く、ただうんざりした気分だけが心を満たしていた。
 改めて今まで登って来た坂道を見下ろす。
 もう、どれくらい歩いたのだろう。それを考えるだけで、どっと疲れが押し寄せてきた。
 それほど急な坂と言う訳ではない。しかし、それでも距離だけは驚くほどあった。
 日頃の運動不足が祟っていることもあったろう。だけど…
 「問題はこいつだよなぁ…」
 手に持った地図に視線を移す。
 それには単純な線で構成された…簡素な道に申し訳程度のランドマークがいくつか描き込まれていた。
 全く持って腹立たしい。何しろここに辿り着くまでに役に立ったためしがないし、今自分が何処にいるかさえ判らない程ちゃちな代物だった。
 そもそも、この地図を見て、駅から大した距離じゃない…と勝手に考え、タカをくくったのがケチの付け始めだ。
 ともかく急な事だったので、ろくな準備は出来てないわ…地図もFAXで送って貰ったコレ一枚きりだわ…etc.etc.
 …まあ、ここで愚痴っていても始まらない。僕はその無意味な紙を握り締めると、そのまま無造作にジーンズのポケットに突っ込んだ。
 どうせもう必要ない、道はこれで合ってるんだ。ここに来るまで交番で三回も聴いたんだ…。
 そう、ゴールはもう目の前。この坂さえ登りきれば……これからお世話になる予定の寄宿舎と学び舎がある。
 今日は晴れてそこの住人となる記念日だった。



DISCIPLINE
−The record of a Crusade−

―first day (Mon)―
〜1〜
 「はぁ…はぁ…やっと……ついた」
 ようやく坂を登りきった僕は、大きく深呼吸すると目の前にある寄宿舎らしき建築物をジッと眺めた。
 その西洋風の白い建物は、アルカディアの名に相応しい堂々とした風格を醸し出していた。
 …実は僕こと、早見拓郎にとって、校舎も寄宿舎も実際にこの目で見るのは初めて…。
 急ごしらえの荷物は、先に着いている筈だが…当然一緒に共同生活を送る住人とは今日が初対面となる。
 僕に一人暮らしの経験はない。勿論不安がないといえば嘘になる。
 だが自分には、他に選択肢がなかった。
 …そう、その日は突然やって来た。
 急に父のロンドン転勤が決まり、小さい頃に母親が他界して父親と二人暮しとなっていた僕も当然一緒に…と言う事になったのだ。
 だが、僕はそれを断って日本に残ると言い張った。
 海外生活に魅力を感じなかった、と言う訳ではない。
 複数の文化を実際に見て回るだけで、僕自身の世界が広がるのは間違いないだろうし、常々(つねづね)日本での生活には漠然とではあるが窮屈さも感じていた。
 本音を言えば願ったり叶ったりだった筈なのだ。筈なのに僕はそれを選ぶ事が出来なかった。
 今もってそれが何故かは判らない。何かやり残した事がある…何の脈絡もなくそんな心境だけが、僕の首を縦に振らせなかった。
 だが、そんな事を言ったところで「はい、そうですか」と父が認めてくれる訳もない。
 僕は進学したい大学が日本にあるんだ、とか…ない知恵絞って嘘八百を並べ、父と一晩じっくり話し合い、その日は父が折れる事で一応の解決を見る。
 一応…と言うのは、話がそれだけで済まなかったと言う事だ。
 次の日、僕は「同じ一人暮らしならどこか寮のある所に編入しろ」という条件を出されてしまった。
 父の方では愛する女性の忘れ形見である僕を心配して…と言う事なのであろうが、僕にとってはいい迷惑だった。
 僕も何とか食い下がろうとしたのだが「それじゃあ、日本に残るのはなしだ」と、一度解決した筈の話を蒸し返し始める始末。
 その上、あろう事か…父は最後の手段として代わりに向こうからやって来る同僚に家を貸す事にしてしまった。
 既に向こう三ヶ月分の家賃も受け取っていると言うから、堪らない。
 事実上、僕は住み慣れた家を強制的に追い出される事になってしまった。
 日本に残る為には転校しかない…と言う事で、結局僕はその条件に首を縦に振るしかなかった。
 だが、いきなり編入と言っても、それこそ混乱の極みだった。
 何しろ「手始めに全て自分でやってみろ」とか言い出して来たからだ。
 慌てて学校やインターネットなんかで資料を漁りまくり…やっと見つけた最有力候補が、この『聖アルカディア学園』だった。
 名前から判るようにミッション系の学園らしい。
 寄宿舎つきで共学…付け加えるなら女子の数が非常に多い。
 …まあ、それはここを選んだ後に解った事で、実際下心があってそうした訳じゃない。
 どうやら、共学になったのがつい二年前だとかで、男子の数が女子のそれに追いついていないと言うのがその理由だそうだ。
 実の所入れればどこでも良かったのだが、上記の理由で記された『編入試験免除』という言葉が僕の目を惹き付けた。
 問い合わせてみれば、内申だけで入れるという事なので、早速その手続きを踏んだ。
 無事手続きが終わり、その旨を報告した僕に、父は渋い顔で頷くのみだった。
 案外、父は突き放せば僕が諦(あきら)めて追(つ)いてくると思っていたのかもしれない。
 結局、理解は出来なくとも納得するしかなくなった父の寂しげな背中を見送り…僕は連休最後の日に入れ替わりに入って来る父の同僚一家を待って家を預けると、手持ちの荷物を持って電車に乗った。
 そうして、今に至る訳だが……。
 「今日から…ここが我が家になるのか」
 改めて門や建物…そして周りに植えてある木々なんかを眺める。
 一応資料に写真が載ってはいたが、それを見たときは他人事のように思えて仕方なかった。
 だが、こうやって実際目の前にすると…何だか感慨深いものがある。
 そんな事を考えながら、何とはなしに「ここなら上手くやっていけそうな気がする」という思いが僕を満たしていった。
 うん、きっと他の住人も良い人ばかりに違いない。
 そう言えば女子が多いという話だから、もしかすると住人は女の子ばかり…なんて事もあるかもしれない。
 高校で…しかも三年生になってからの編入と言う事もあり、最初はかなり不安だったが、今はいい学園生活が送れそうな気がしてきた。
 こうなってくると期待感ばかりが募ってきて、全ての事柄に都合の良い解釈が添えられていく。
 一体ここでどんな生活が僕を待っているのだろう。
 「よし」
 僕は服の乱れを整えると、気合を入れて玄関へ向かった。


 気合を入れて中に入ったものの…いきなり僕は途方にくれてしまっていた。
 何度呼んでも誰も出て来ないのだ。
 取り敢えず近くに有ったスリッパに履き替え、上がってから受付へ向かう。
 其処はひっそりと静まり返り、全く人の気配を感じさせなかった。
 窓口を覗き込むが…当然誰も居ない。
 「すいませ〜ん。あの…誰か居ませんか?」
 ここでぼうっと突っ立っていても、単に時間を浪費するだけだ。
 仕方なく奥に向かって声をかけたが、又も返事は返ってこない。
 一体どうなってるんだろう?
 そこで今度は大声で呼んでみた。
 内心、誰も出てこなかったらどうしようとか思ったが、やがて奥から人の気配が感じられた。
 「もう〜…一体誰よ。大声出したりして……」
 奥の方から姿を現した少女は、訝しげな視線で僕を見つめる。
 歳は僕と同じくらいだろう…いかにもしっかりしていそうな優等生タイプに見えた。
 黒髪のロングヘアーをワンレングスにして後ろに流し、頭には真っ白なヘアバンドをしている。
 服は七分袖のシャツに、ジーンズ生地のミニスカート…と休日に相応しくラフな格好をしていた。
 並以上のルックス…いや、はっきり言って美人だった。
 見た所管理人って感じではないが……。
 ただ、それよりも…。
 お…大きい。
 思わず視線がそこに釘付けになる。
 そう、少女の胸元はシャツを窮屈そうに押し上げ、明らかに自己主張していた。
 「…で、何か用?」
 …と、少女がいきなり不躾な質問を投げつけて来た。
 慌てて視線を上げると、心なしか目が据わっている…ようにも見える。
 まさか僕が何所を見ていたのかバレた?
 い…いやあまり露骨にしたつもりはなかったから、そんな筈は……。
 「…え、えーと、僕は明日からここには入る事になった早見卓郎って言います」
 …とは言え、ここで何か突っ込まれてしまうと色々と不都合がある。
 彼女が先に何か言い出す前に僕は自分の紹介を始めた
 「ふ〜ん、早見拓郎君…ねぇ……」
 …ほ、心の中で安堵の息を吐く。
 少しだけだが、彼女の警戒心が解けたように見えたからだ。
 なかなかどうして、僕も結構機転が利くじゃないか。
 「だけど、そんな話聴いてないわよ…?」
 そうそう、そんな話は聴いてないから…って、…え?
 僕は思わず自分の耳を疑った。
 …き、聴いてないだって?そんな馬鹿な!
 ちゃんと荷物だってこっちに送ったし、手続き用の書類だってちゃんとここに持ってる。
 「…で、でもこれ!」
 『一難去ってまた一難』
 僕は鞄の中から大慌てて諸々の書類を取り出すと、恐る恐る少女に手渡した。
 彼女はそれを受け取ると、手早く目を通して行く。
 「確かに…今日付けでここには入る事になってるわね……」
 「そ、そうだ!! 僕の荷物は…?
  確か今日中に届いている筈なんですけど…」
 「…え?荷物? おかしいわね…そんなの届いてないと思うけど……?」
 僕の言葉に、少女は怪訝そうな表情をしながら少し考え込む。
 「…あ」
 …と、少女の顔が急に強張り、微妙に僕から視線を逸らしながら、何か非常にマズそうな表情を浮かべた。
 「に…荷物って、アレ…じゃないわよね?」
 僕は彼女の指差す方を眼で追っていく。
 その指は、玄関脇に積み上げられたゴミの山を指していた。
 「あーーーっ!!」
 僕はそこにある物を見て唖然となった。そこには、ゴミと一緒に僕の荷物が乱雑に放り出されたていたからだ。
 大急ぎでその場所に駆け寄り、それが本当に間違いないかを確認する。
 「…う、嘘だ……」
 そう、やはりそれ等は昨日僕が自分で梱包した物だった。
 もしもの事がないように、ちゃんと名前を書いてあったので間違えようがない。
 …何で…何で来た時すぐに判らなかったんだろう?
 今更ながら、自分が舞い上がっていた事に気が付く。
 「ご…ごめんっ。ちょうど大型ゴミの回収日だったから、退出者が置いていったゴミだと勘違いしちゃって。つい……」
 「…酷いですよ。ちゃんと名前とか書いてあるのに……」
 後を追いて出て来た少女に向き直ると僕は涙目で訴えた。
 「事故よ…そう事故っ! 何も聞いてなかったから、まさか新しい人の荷物だなんて思いもしなくて……ね?」
 ね?…じゃないよ。ちょっと考えれば判りそうなものじゃないか…。
 …大体、こんなたくさんのダンボールを確かめもせずにゴミに出すか…普通?
 開き直って言う彼女に、つい心の中で毒吐いてしまう。
 「休みの日はここ…殆んど無人になるから、事務的な事って伝わってこないのよ。
  そ、そうだ♪ちょっと待っててね。あなたの入寮届け…すぐに確認して来るから」
 尚も僕が憮然としていると、彼女はさも妙案が浮かんだ…と言うように、手で相槌を打ち、再び宿舎内へと取って返した。
 くそ…逃げたな。何てちゃっかりした女なんだ。『可愛さ余って憎さ百倍』とは正にこう言う事を言うんだろうな。
 僕は取り敢えず、ゴミと荷物を振り分ける事にした。このまま回収されては叶わない。
 無意識の内に溜め息が口を吐いて出た。
 さっきまでの期待感は既に何処かへぶっ飛んでいた。


 「はい、お茶」
 先刻(さっき)の彼女…音川沙織と名乗った少女がそう言って…食堂・兼談話室のテーブルに二人分の湯飲みを置き、熱いお茶を注いでくれたのは、入寮手続きの確認を取って、一通り寄宿舎の中を案内してくれた後だった。
 彼女は僕と同じ三年生で、現在はここの寮長をしているらしい。
 今、この寄宿舎で寝泊まりしているのは、彼女と…今日から使う事になる僕を入れて計5人。
 なんと驚く事なかれ、最初に妄想していた通り、僕以外は全て女性だそうだ。
 …しかし、総勢50名弱入れる筈の寄宿舎にたった5人とは……。
 僕と入れ替わりに一人辞めて行ったとか言う話もあったし…そもそも、5人しか使っていないでよく保(も)っているものだ。
 その事を口にすると、彼女は表情を曇らせながらも丁寧に教えてくれた。
 話によれば、彼女が入学した当初は、満室だったらしい。
 だが、ここの学園は中退や退学者が多いらしく…あと、せっかく抽選で入れたこの寄宿舎にしても、「体に合わない」とか言う不可解な理由で去って行く人まで出てきた。
 結果、今の状態になってしまったそうだが……。
 僕の方でも少し考えて、勉強が厳しいのかな?とか思ったりしたんだけど、編入試験が免除されるくらいだから…という理由ですぐに思い直した。
 …まあ、いずれにしろ、いきなり訪れた編入者に対して寄宿舎に空き室があるなんてそうはない。
 その点に関して僕は本当にラッキーだったと思う。そもそも寄宿舎がある高校自体そう多くはないのだ。
 「だから、君も頑張って早くここでの暮らしに慣れてね。途中で辞められたら、私も責任感じちゃうから」
 「ああ、それなら心配要りませんよ」
 僕はどういう経緯(いきさつ)で編入してきたかを彼女に話した。
 「ふぅん、君も大変ね」
 感心して頷く彼女を見つめながらも、僕の頭はそれとは違う理由によって回転している。
 そう、頼まれたって出て行くつもりはない。
 女子ばかりに囲まれた生活…こんな素晴らしい環境に、全く不満などなかった。
 傍(はた)から見れば正に男冥利に尽きると言うものだ。
 でも、実際他の娘(こ)はどんな人達なんだろうか?残りの娘も彼女のように美人だと良いんだけど…。
 淡い期待を胸に、僕はその所在を聴いてみることにした。
 「他に三人居るらしいけど、その人達は今何所に居るんですか?
  案内して貰った時にも会いませんでしたけど…」
 「ああ、最初にも言ったけど、休みの日は大抵こんなものよ。
  親元に帰ったり、外出していたりで、普段残ってるのは私くらい…」
 そこまで言って言葉を止めると、彼女は外へ視線を向ける。
 「…まあ、色々あるのよ。実家もかなり遠いしね」
 そう言いながらも、彼女の瞳が寂しく翳っていたのを僕は見逃さなかった。
 …彼女には、親元へ帰りたくても帰れない理由があるのだろうか?親との間に何か含むところでも……。
 「と、とにかく…連休も今日で終わりだし、今日中には戻って来ると思うわ
  何かとクセの多い子ばかりだけど…共同生活なんだから上手くやってよ」
 僕の様子を見て何か勘付いたのだろう。彼女は急に明るく喋り出し、且つ他の寮生達を弱冠揶揄しながら忠告してきた。
 そうだな…彼女の家庭に関してまであれこれ詮索するつもりはない。
 僕は新参者だし、彼女と親しい間柄と言う訳でもないのだから、彼女が何も言わないのならそれで良しとしよう。
 「頑張ります」
 そこで僕は一言そう答えると、少しは冷めたであろう彼女の煎れてくれたお茶に、口をつけた。
 ………。
 ……。
 …。
 「それじゃあ、私はそろそろ部屋に戻るわ
  君も、早い所荷物の整理をしないといけないだろうし…」
 やがて話す事も無くなり、互いにお茶を飲み終わった頃、音川さんがそう言って立ち上がった。
 「私は部屋に居るから、何かあったら遠慮なく聴きに来て」
 「確か音川さんの部屋は、ドアに向かって僕の部屋の左隣…で、いいんでしたよね?」
 先程自分の部屋を案内してもらった時に聴きはしたが、それでも一応の確認を取る。
 もし間違ったりして、醜態を晒すような事だけは避けたいからな……。
 「ええ、そうよ。あ…それから、私に敬語は使わなくて良いわ。
  元々同級生なんだし…と言うか、お互い一番上の学年だしね。
  それに、これから共同生活して行くんだもの。常時そんなに畏まってると、余計な所で疲れちゃうわよ」
 「は、はい、判りま…じゃなくて……うん、判ったよ」
 音川さんが心良くそう申し出てくれたにも拘らず…つい、習慣で又も敬語が零れそうになる。
 それを見て、彼女は軽く微笑むと、
 「それじゃあ、片付け…頑張ってね」
 湯飲み茶碗をお盆に乗せてから流しへ向かった。
 さ〜て、僕もこうしてはいられない。取り敢えず今日中に荷解きを済ませて、何とか形だけでも造っておかないと……。
 僕は音川さんの後姿を見送くると、肩を鳴らしながら玄関へと向かった。


 〜2〜
 「なに人の胸をエアバック代わりに使ってんのよ」
 口元に笑みを浮かべなら色っぽい女の子が言ったのは、いくつかのダンボールを2階にある自分の部屋に運び込んで…再び次の荷物を取りに戻ろうとした時の事だった。
 部屋を出ようとした途端、突然の立ち眩みに襲われた僕は、思わず前のめりに倒れそうになったのだが、その女の子の胸に弾き飛ばされ、何とかバランスを立て直す事が出来たのだ。
 …いや、これがなんか漫画みたいな話なんだけどね。実際本当なんだから仕方が無い。
 「あんた誰?ここは部外者立ち入り禁止よ。
  …はは〜ん♪さては、あなた…下着ドロね」
 僕がぶつけた鼻の辺りを押さえていると、女の子は疑問の言葉を投げ掛けたその刹那に、合点が行ったぞ…というような顔をして突然突拍子もない事を言い出した。
 「ちっ…違いますよ!!」
 会って、いきなり変態扱いされては堪らない。
 当然僕の方でも、慌てて否定しながら、自分がどういう事情でこの寄宿舎に居るのかを説明する。
 「へぇー、じゃあ転入生…て訳だ。
  でも、男がこの学園に入ってくるなんて、余程の物好きか命知らずね。それとも単なる馬鹿?」
 結構ずけずけと物を言う女の子だなぁ…そんな事を思いながらも、僕は目の前の…おそらくは音川さんが言っていた寮生残り三人のうちの一人であろう女の子の様子をじっくりと観察してみる。
 その背は僕よりも少し高いくらいだろうか。髪は割りと短く纏(まと)められており、少々ボーイッシュな印象を受けた。
 だが、男っぽいかと言うとそうではなかった。
 先程『色っぽい』と表現したように、その身体には「自分が女である」とばかりに主張して止(や)まないはちきれんばかりに成長した胸が、白のタンクトップの下から誇らしげに揺れていた。
 音川さんを見た時も大きいと思ったが、この娘(こ)はそれ以上だった。
 よくよく考えれば、先刻は僕の顔がこの胸に当たって跳ね返ったんだよなぁ…。
 僕が先程の弾力を反芻していると、
 「まあ、どちらにしろ…私はあなたの命を救った訳ね」
 「は?」
 いきなり訳のわからない事を言い出す女の子…はっと我に帰った僕も、つい惚けた声を出してしまう。
 「わかんないの?つまりねぇ…」
 彼女の言い分はこうだった。
 もし僕があのまま、おぼつかない足取りで廊下をよろめいていたとする。
 すると、やがてそこには急勾配の階段が迫って来て…運悪く倒れ込んだ僕は、そのまままっ逆さま。
 その結果、見事にあらぬ方向へと曲がった僕の首が「こんにちは」
 …だそうだ。
 「いやぁ、ホント危ない所だったわぁ。君がこうして生きていられるのも全て私のお・か・げ、ね♪」
 そんな訳があるか。
 僕の部屋から階段までは、どう見繕っても、5メートルは優にあるのだ。
 どう考えても、あそこから落ちる可能性など殆んど無い。むしろ、「落ちろ」と言う方が無理な話だった。
 「…と、言う事で、これからは私を命の恩パイとして崇め称えよ」
 しかし、そんな理屈とは裏腹に、彼女は更に言葉を付け加える。
 何を言ってるんだろう、この娘は…そもそも命の恩パイって何?
 「まあ、そんな訳で紹介が送れたけど私の名前は宮岸勇気。キミには特別に女王様って呼ばせてあげるわ」
 その訳の判らない言葉について考えていたら、今度は一転…彼女は全く別の話題を振って来た。
 ちょっと待て。何で女王様?…しかも、そんな訳ってどんな訳だよ?さっきの話はもう完結なのか?
 一体何所から沸いて出てくるのか…次から次にマイペースで奇天烈な言葉に翻弄され、僕は正直閉口してしまった。
 「何よ、嫌なの?じゃあ、ユウキでいいわよ」
 彼女はつまらなさそうな顔をして言った。
 ただ、それでも妙に恩着せがましい物言いは相変わらずのままだったが……。
 それにしても、う〜ん…良いとか嫌とか言う以前の問題だと思うんだけど……好意から言ってくれてるんだとしたら、お礼を言った方が良いんだろうか?
 ともかく、これ以上この娘のペースに振り回されるのは御免被りたかった僕は一言「どうも」と言葉を返す。
 「じゃあ呼んでみて」
 次いで急いでいる事を述べ、すぐさまこの場を辞そうと思っていたのに、残念ながら彼女はそうさせてくれなかった。
 今度は一体何を考えてるんだろう…そんな思いが一瞬脳裏を掠める。
 だが、名前を呼ぶだけだから何も構える事はないだろう、とすぐに不安を打ち消した。
 「ユ…ユウキ?」
 「いきなり呼び捨てとは馴れ馴れしいわね」
 「………」
 どないせぇっちゅーんじゃ?キレるぞ、終まいには!!
 僕は自分の額に青筋が浮かぶのを感じた…が、ここは押さえねば……と、何とか気を持ち直す。
 「冗談よ」
 そこへ軽いノリの台詞が降って来た。
 これってやっぱり…おちょくられてるんだよな。完璧に……。
 どっと疲れが押し寄せてきた。
 実際朝から歩き詰め、そして昇りは荷物を持っての階段往復…と、僕のモチベーションはかなり下がっていた。
 そこへ今度は目の前の少女に良いように翻弄され、精神的にも四苦八苦。
 既に怒る気力も失せてしまった僕は、心の中で深く溜め息を吐いた。
 「今日来たって事は今から荷物を運ぶ所なのよねぇ…良かったら手伝ってあげようか?」
 僕が暫く凹(へこ)んでいると、宮岸さんが急にまともな事を言い出してきた。
 そのありがたい申し出を少し思案してみる…が、自分で思っていたよりも意外に荷物は重く…女の子の力で簡単にどうこう出来る物ではない筈だという事に思い至る。僕がその事を説明すると、
 「まかしときなって。キミが持てる物を私が持てない訳無いでしょう?」
 彼女は平然とした顔で、そう言葉を返してきた。
 …なんか思いっきり馬鹿にされている気がしたが、まぁいいだろう。そんなに言うなら思い知ってもらおうではないか。
 弱冠の対抗心と、女の子とは言え、それでもないよりはマシだろう…と、いう考えから、僕は遠慮なく彼女の好意に甘える事にした。
 「私が手伝えば百人力よ。まあ、君も大船に乗ったつもりで安心したまえ」
 得意そうに言って、彼女は自分の胸を威勢良く叩いた。でもって、叩いた拍子にその巨大な胸が派手に揺れた。
 勿論その様子に、再び僕の目が奪われたのは言うまでもない。


 …驚きだった。
 大口を叩くだけあって、宮岸さんの腕力は大したものだった。
 実際荷物運びを手伝ってくれる、という申し出を受けた時には、どこまで役に立つか半信半疑だったものだが、はっきり言って…僕なんかよりも遥かに勇ましい活躍を見せてくれた。
 玄関に着いて後(のち)、彼女はどれを持って行くのか確認を取ると、早速その重そうな荷物に手を掛け、それを軽々と持ち上げてみせた。
 おまけに、僕が顔を真っ赤にしながらやっとこさ一つ運ぶのに対し、彼女は同時に二つのダンボールを持ち運びながら尚余力を残している…というからたまらない。
 彼女の力が異常なのか、単純に僕が非力なのか…どちらにしろ僕は自分の情けなさに結構凹んでしまった。
 あと、これは腕力とは関係ないのだが、彼女が荷物を持ち上げる際、その勢いに乗って胸も一緒にたわわに揺れて…それも驚きだった事を添えておく。
 「ふぅ、終わったわね」
 最後の荷物を部屋に運び終え、宮岸さんは言った。
 彼女のおかげで瞬く間に荷物は僕の部屋へと運び込まれた。
 結局、僕はあれから一つの荷物を運んだだけで、残りは全て彼女が運んでしまった。
 …我ながら、情けないと思う。
 「じゃあ、はい」
 誰に言うともなく呆然としていると、不意に宮岸さんの手が僕の前に差し出された。
 何だろう?
 少し考えた僕は彼女の手を握ってみる。
 「何やってんのよ。手伝ってあげた謝礼をくれって言ってるの」
 「えっ…か、金取る気なの?」
 彼女によるいきなりの要求に、聞き間違えではないのかと確認を取った。
 「決まってるじゃない。この不況時に誰が無料(タダ)で人助けなんかしてくれるもんですか。
  そんな甘い考えじゃ、この厳しい世の中渡って行けないわよ」
 この不況時って…君、学生じゃん。
 …けど、まぁ…あれだけ働いて貰ったんだし、少しくらいならお金を払ってもも構わないか。
 彼女の言い分には納得し難(がた)いものが有ったが、それでも世話になったのには違いない。
 僕は仕方無くポケットから財布を取り出した。
 「ちょっと貸してみ」
 「え!?」
 僕が財布を開いて、いくらか渡そうとした時だった。
 彼女は、それこそ鳥が獲物を取るときのような勢いでその財布を引っ手繰ると、中から夏目漱石を三枚ほど引き抜いた。
 「まいどありー」
 言って、残った財布を僕に投げてよこす。
 「ちょっと、待ってよ。そんなに取るの?」
 「キミの命を救ってあげて、あまつさえ荷物運びの重労働も手伝ってあげたのよ
  これくらい安いモンでしょ♪」
 そ、そんなぁ…5百円も出せば事足りると思っていたのに。大体、命は助けてもらってないじゃないか!!
 三千円と言ったら、僕のような仕送りが全ての貧乏学生にとって、決して安いとは言えない金額だった。
 落ち着いたら生活費の足しにバイトくらいしてみようとは考えてはいたが、当然越してきたばかりの僕には今の所当てはない。
 しかも、もっと言うなら今月は入校手続きに入寮費…他にも学費やら何やらで色々と出費が嵩んでいるので、父親に小遣いを催促するのも忍びなかった。
 「じゃあねー♪」
 「あっ、まだ話は…」
 そんな僕の心境など何所吹く風、彼女はそう言い残すと、僕が呼び止めるのも無視してスキップしながら自分の部屋へ去って行った。
 な…納得いかんぞ!!三千円もボラれるって判ってたら、苦労してでも自分一人で運んだよ。
 全く持って騙された気分だった。
 そこで、音川さんから聞いた「何かとクセの多い子ばかりだけど…」と言う言葉を思い出す。
 …落としたと思って諦めるか……。
 ここで簡単に泣き寝入りするのは癪であったが、着いて早々諍(いさか)いを起こし、これからの共同生活が気まづくなるのは尚本意ではない。
 何より忠告を受けていたにも拘らず油断していた自分にも非はあった。
 これからの勉強代だと思う事ににすれば良いか…と、気分を入れ替えることにする。
 僕はがっくりと肩を落とすと、現実は考えているほど甘くない事をしみじみと痛感しながら、自分の部屋に入った。


〜3〜
 取り敢えず…と言う事で、大雑把に荷物を片付けた僕は一息吐着く事にした。
 まだダンボールの一つ二つは、そのままだけど、後はおいおい整理すればいい。
 「とにかく、何とか形だけは出来上がったな」
 ベッドに腰を下ろしながら、室内を眺める。
 狭いけど、個室ってのは気が利いている。
 普通寄宿舎と言えば、2人部屋…場所が場所なら5人部屋とかいうのもあるらしい。
 女ばかりと聴いた時は、一瞬女子と相部屋かも…等という疚しい妄想も浮かんだが、流石にそんな事はなかった。
 まあ、一人部屋だと誰かに気兼ねする必要はないので、そういう意味では嬉しかった。
 そうそう、前の住人が使っていたらしいパイプベッドや本棚…机などはそのまま残っていた。
 音川さんの話によると「前に住んでいた人が残していった物は好きにして良い」と言う事なので、僕はそのまま利用させて貰う事にしたのだ。
 大きい物は後で買い揃えようとか考えていたので、これらの置き土産については本当にありがたかった。
 時計を見ると、針は既に6時を指していた。
 三千円の出費は不本意だけど、宮岸さんに手伝ってもらったおかげで、かなり早く片付いた気がする。
 「さて、片付けも一段落着いたし、そろそろ下に降りてみるか…」
 僕はそう思い、疲れた身体に鞭打って、重い腰を上げる事にした。
 …と、ノブに手を掛け、ドアを開けようとした時だった。
 「ぅわっ」
 部屋を出ようとした途端、誰かとぶつかりそうになる。
 宮岸さんの時みたく貧血に襲われた訳ではなかったから、咄嗟に避ける事が出来たが、それでもやっぱり慌ててしまう。
 しかし、そんな僕に対し向こうは表情一つ変えず…また微動だにすらせずに平然としていた
 僕は改めてその女の子の容姿を確認してみる。
 この娘も寄宿舎の人間だろうか?
 栗色のロングヘアー…前髪が目に掛からないように二つの金色の髪留めを使って留めていた。
 眼鏡を掛けているからだろうか、先刻の宮岸さんとは違って、この娘は遥かに真面目そうな印象を受けた。
 それは偏見だ、と言われるかもしれないが、その表情からも、勉強が趣味です…というような雰囲気が窺えたのであながち間違ってはいないだろう。
 しかし、服装は何と言うか…結構大胆かもしれない。
 ノースリーブのシャツを着ているのだが、胸の辺りだけがぱっくりと口を開け…胸元がくっきりと現れている。
 下に履いている黒のタイトミニも浅めだが両側にスリットが入っているせいで、太腿がばっちり露わになっていた。
 宮岸さんは別格としても音川さんも身体のラインがくっきり出るような服装を気にせずしていたし…女性ばかりだと服装にだらしなくなる、という話を聞いた事があるが、実際目の当たりにしてみると、目のやり場に困ってしまう。
 勿論、それが嫌…と言う訳ではない。
 むしろ、僕も男だから色々と目の保養になって大歓迎ではあるのだが、今まであまり女性と縁の無かった僕にとって、これらの格好は少々刺激が強過ぎる。
 一度指摘してみる…と、言うのも有りだと思うが、もしそんな事を言って、逆に過剰な反応を示されても困るし…どうなんだろう?
 「気を付けてよね」
 「あっ、ご、ごめん」
 僕が色々と考えていると、無表情な顔のまま女の子が言った。
 「…あなたが今日からここに住むっていう人?」
 「あ、はい…」
 僕はここに来てもう何度目かの簡単な説明をし、頭を下げる。
 「ふ〜ん… 私は金田麻衣子よ。よろしくね」
 やはり、表情を崩さず儀礼的な言葉を返す金田さん。
 普通ならそれでも良いのだが、一応一年間一緒にここで暮らす事になる訳だし、心を許し合うほどの仲にはなれないまでも、気軽に挨拶くらい交わせるようにはなりたい。
 こういうのは第一印象が大切だから、僕が少しでも気の利いた言葉を返そうと思案していると、
 「一つ言っておくけど、私の部屋はあなたの右隣なの。
  部屋が近いから夜はうるさくしないでね。気が散るから」
 「き…気を……付けるよ」
 「それじゃあ」
 彼女は自分の言いたいことだけ言ってしまうと、さっさと自分の部屋にへ入ってしまった。
 なんか冷たそうな人だなぁ。
 真面目そうなのは良いんだが、度が過ぎるというのは考え物だし…果たして気軽に話せるような関係になれるんだろうか?
 僕はそんな事を思いながら階段を降りて行った。


 食堂・兼談話室に入ると、コップを手にとって浄水器から水を注ぎ、一口ほど口に含む。
 今まで作業に熱中していて何も口に入れてなかったから、それだけで 何処かすっきりした気分がする。
 キッチンの方に目を向けると、音川さんが一人で夕食の準備をしていた。
 そう言えば、ここの寄宿舎は自炊しなければならないという事だった。
 以前は専門の料理人も居たらしいのだが、いかんせん今は住人が殆んど居ない…そういう経緯もあり、社会教育の一環として、当番制による自炊が決まったらしい。
 …しかし、奇麗事を言っても、要はお金の倹約。正直この話を聞いた時は呆気に取られたものだ。
 まあ、家事の一切出来ない父親との二人暮し、自然そっち方面を全て担当するしかなかった僕にとって、その件は然して問題があるという事も無かった。
 僕の一人暮らしに際しアレコレと心配していた父だったが、正直僕の方では逆に単身赴任した父の方こそが大丈夫なのだろうかと、不安なくらいだ。
 「手伝おうか?」
 キッチンの方に向かって一声掛けてみる。
 「あら、早見君…片付けはもう終わったの?」
 「うん、宮岸さんに手伝って貰ったおかげで何とか、ね」
 「ふぅん…彼女が手伝うなんて珍しい事もあるわね」
 一旦包丁の手を止めてから問い掛けて来た音川さんにその一件を説明すると、彼女は如何にも意外そうな顔をしながら呟いた。
 宮岸さんて…やっぱりそういう娘なんだ。
 音川さんの顔を見て確信する。この際、お金を取られた事に付いては言わないでおくことにした。
 「それより…ひょっとしていつも音川さんが一人で作ってるの?」
 「そうよ。大変だったけど、もう慣れたわ。
  元々料理するのは好きだしね」
 そこで、僕は部屋を案内して貰った時に聞いた話を思い出す。
 『食事についてはローテーションで担当する事になってるんだけどね。以前他の子が作った時、人間の食べ物とはおよそ言えないくらい逸脱した物を出して来たのよ』
 確か彼女はそう言っていた。
 それがどういった具合に逸脱しているのか、少しだけ気にはなったが…まぁ、それは置いておいて、他に3人も居るんだから誰か少しくらい手伝ってあげれば良いのに、と思う。
 「先刻も言ったけど、何かする事があれば手伝うよ?」
 「一人で大丈夫よ。今言ったようにもう慣れてるから、今更1人2人増えた所で変わらないわ。
  それに早見君、今日は色々と疲れてるんじゃない?」
 「はぁ…」
 確かに疲れているし、ありがたい申し出ではあるが…5人分もの食事を作っている彼女に対して何もせずただ休んでいる、というのは正直気が引けた。
 「じゃあ、音川さんが作ってる間テレビでも見てるから…出来たら声掛けてよ。盛り付けや食器運ぶくらいはするからさ」
 「そう?じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかし…」
 妥協案として僕が提案した言葉に、彼女が口許をほころばそうとした時だった。途端、その表情が硬直した。
 どうしたのだろう…と、残った水を喉に流し込みながら僕も彼女の視線を追う。
 「ねぇ、ノノミのパンツとブラ知らな〜い?」
 「…っ!?」
 思わず口の中の物を吐き出していた。その拍子に盛大な水飛沫が僕の口から発していくのが判る。
 「ぅわっ、汚い!」
 音川さんの顔が固まったのも理解出来た。何故ならその…『裸の女の子』が部屋の中をうろうろしていたのだ。
 僕はただただ、目の前で一糸纏わぬ姿を晒している女の子を呆然と眺めていた。
 ひょっとして、この娘が寄宿舎最後の住人…なのなかな?
 つい、疑問に思ってしまったのは、見た感じとても高校生とは思えないくらいの幼さがあったからだ。
 髪の毛の左右両側を黄色のリボンでくくってお下げにしている、というのがそう見えた理由に一役買っていたと言う事もある。
 しかし、なんと言っても…胸なんかまだ殆んど膨らんでいないし……股間の方も……なかった。
 この2点は決定的だった。
 「大丈夫?」
 はっと目の焦点を合わせると、僕の目の前にその顔があった。間近で見ると尚幼く感じる。
 「誰ぇ、この人?」
 女の子は僕を指差しながら音川さんの方を向かって言った。
 「ちょっと野々宮!何、呑気な事言ってんの!!
  早く服着なさいってば!!」
 「にゃー?」
 野々宮と呼ばれた女の子は、音川さんの指摘に自分の身体へ視線を落とす。
 ………。
 そして一時(ひととき)の間(ま)を置いた後、
 「あーーーんっ♪えっちぃ♪」
 頬を赤らめながらも、嬉しそうな笑みを浮かべると、首はそのままに身体だけ後ろに逸らして両手で胸と局部を覆った。
 …いや、それ……全然恥ずかしがってるように見えないんスけど……。
 「それから、早見君!ジロジロ見ないっ!!」
 「ご、ごめんっ!!」
 音川さんの怒声に、僕は咄嗟に視線を入り口の方へと逸らした。
 こういった状況にも拘らず、あまりに色気も何もなかったもんだから普通に眺めていたが、だからと言って、特に親しい間柄と言う訳でもない女の子の裸を露骨に見て良い理由にはならない。僕はその事に気付いて反省した。
 「あー、いいお湯だったわ♪」
 と、そこへ覚えのある顔…先刻会った宮岸勇気が現れる…が、
 「!!!??」
 僕はその光景に一瞬目眩がした。
 何と彼女の方も首にタオルを掛けただけ…という出で立ちで歩き回っていたのだ。
 野々宮という娘とは対照的に、こちらの身体は同世代とは思えない程熟成していた。
 「何であんたまでそんな格好で出て来るのよっ!!」
 「何で?って…風呂上がりはいつも私、この格好じゃない」
 額に青筋を立てて叱りつける音川さんに対して、宮岸さんの対応はいやにあっさりしていた。
 むしろ「何を心外な…」という仕草で、踏ん反り返る。
 その拍子に、ただでさえ大きいと思っていたのだが、生で見ると尚大きかった巨乳が、『服』という枷をなくした事でまた一段と大きく弾んだ。
 やはり、只者じゃないな…宮岸勇気。いや、いろんな意味で……。
 「今日から男子が一人増えたの。昨日までとは状況が違うでしょ!状況が……」
 「あーーんっ♪えっちぃーーー♪」
 …いや、それはもういいって……。
 宮岸さんと音川さん…2人のやり取りの中に便乗して先程と全く同じ行動を取る野々宮さんに、僕はつい心の中で突っ込んでしまう。
 しかし、宮岸さんもそうだが、この野々宮さんという娘も相当はっちゃけてるなぁ。
 宮岸さんを奔放と言うなら、この子は無邪気過ぎる…とでも表現すれば良いだろうか?
 どちらにしろ、この2年の間、音川さんが相当苦労してきたのだけは間違いない。
 「早見君!いつまで見てんのっ!?」
 「えっ?ぼ、僕!?」
 突然矛先が自分に移って、僕は動揺してしまった。
 確かに、先程の反省の念など何所吹く風…僕はすっかりこの場になじんでいた事に気が付いた。
 「ご、ごめん」
 他人の事は言えないな、と思いつつも、僕は再び謝りながら3人に背を向けた。
 「別に私は誰に観られようと気にしないけど?観られたからって別に減るもんじゃないし」
 僕の後方で早速宮岸さんが自分の意見を述べる。
 「そー言う問題じゃないでしょ!
  とにかく禁止禁止!たった今から風呂上がりに裸で歩き回るのは禁止です!!」
 「風呂上がりじゃなきゃ良いんだ?」
 「そこっ!屁理屈言わない!!」
 「でもねでもね、ノノミのパンツとブラが行方不明なんだよ。昨日ちゃんと洗濯に出したのにぃ」
 「あんたはぁ…。一度にまとめて出すからでしょう?まだ乾いてないわよ」
 「ええぇぇっ!?じゃあノノミ履く物が無いよぉ」
 「仕方ないわねぇ…。それじゃ、私のを貸してあげるから…」
 「ええぇぇーーっダメだよ。サオリンは巨乳だからブカブカだし、どれもダサイんだもん」
 「しっ、失礼な事言わないでよっ!?」
 下手な漫才より面白いかも…でも、振り向いたらまた怒られるよなぁ……。
 トリオ漫才…内2人は裸で、それぞれ対照的な背格好。
 不謹慎だと感じてはいるのだが、僕は今すぐ後ろを振り向いて、このやり取りをじかに見てみたい誘惑にかられた。
 「いいよもう…一張羅を下ろすからぁ」
 「私も着替えなきゃいけないの?」
 「決まってるでしょ!今まで何聞いてたのっ!!
  ほら、判ったら、さっさと行った行った」
 「…へーーーい」
 もう話は終わりだ…と言わんばかりに無理矢理場を解散させようとする音川さんに、やっと2人が折れた。
 いや、どちらかと言うとこのやり取りを散々楽しんだ末、やっと2人の気が済んだ…と、表現した方がより適切な感じがする。
 「あ、降りてくる時はついでに金田も呼んで来て。もうすぐ夕食だから」
 「あー…面倒臭いなぁ……」
 音川さんの声にブツブツと文句を言いながらも、何処か気が晴れたような感じに聞こえるのは僕の気のせいだろうか?
 ともかく、2人はようやっと食堂を後にした。
 「ほんっとにもう…!!」
 うっ…やはり音川さんの方が気が立ってる。
 2人が去ったにも拘らず、なんとも居心地の悪い雰囲気が部屋中を包み込んでいた。
 「は…ははは」
 僕は乾いた笑いでその場の雰囲気を誤魔化した。
 しかし、いい所だな…ここ…。
 正に『青天の霹靂』ではあったが、一気に2人もの女の子の裸を拝めたというのは、今まで同世代の女の子の裸に遭遇する事など無かった僕にとって、とても幸運なハプニングだった。
 最初は色々有ったし、音川さんにも悪いと思うが、今の僕の心境はそんな感じだった。


〜4〜
 暫くして、服を着た2人が金田って娘と一緒に降りて来た時、僕は出来上がった料理を音川さんと一緒に皿に盛り付けていた。
 今日の献立はコーンスープとハンバーグ。それからハンバーグの添え物として、アスパラを塩湯でした物にフライドポテト、ポテトサラダが作られていた。
 久々に身体を動かしてお腹が空いていることもあったかもしれない…皿に乗せていく端からいい匂いが漂って来て、僕の食欲を刺激する。
 「わーいわーい、ハンバーグだぁ。約束通りのハンバーグだぁ♪」
 やがて盛り付けも終わり、僕と音川さんが皿をテーブルに並べていると、野々宮さんがまるで小動物が餌を貰った時のように目を輝かせながら小躍りし始めた。
 「何よぉ、今日もハンバーグなの?」
 とは、対照的に、宮岸さんは不満そうな声を上げる。
 「しょうがないでしょ。トランプで負けたら三日間野々宮の好きな献立にするって約束してたんだから」
 音川さんの言葉を聞いて納得する。
 おそらくトランプの賭けで勝ち、三日間夕食の献立決定の権利を獲得した野々宮さんが、あろう事か全ての日程に自分の好物であるハンバーグを催促したのだろう。
 だから彼女は喜んでいる。対して、同じ物を三日も連続で出された宮岸さんは、流石に飽きが来ている…と言う訳か。
 「それじゃあ、ノノミちゃんがユッキーの分まで食べて上げるぅ」
 「おっと」
 野々宮さんが、手に持ったフォークで宮岸さんの前に置かれたハンバーグに突き刺そうとするが、宮岸さんは咄嗟に自分の皿をずらしてやり過ごした。
 「いらないんでしょぉーっ?」
 「誰も『食べない』とは言ってない」
 宮岸さんの言葉に野々宮さんは顔をむくれさせている。
 やれやれ、これじゃあ、まるっきり子供の喧嘩だな…。
 「もうっ、食事の時に行儀悪いわね。そんな事で喧嘩しないのっ。
  さあ、もう食べるわよ」
 宮岸さんはともかく、野々宮さんの方は納得しかねた表情を浮かべていたが…結局音川さんのその言葉を合図に、僕にとって初めてとなる寄宿舎での食事が始まった。
 学校の寄宿舎であるにも拘らず、僕を入れてたった5人の食事。
 勿体無いくらいのスペースが後方に控えていたが、それでも大抵夕食は1人、居ても父が居るだけだったので、僕にとっては凄く新鮮だった。
 「いただきます」
 早速音川さんの作ってくれた料理に箸をつけてみる。
 うん、美味い♪
 ハンバーグと言う庶民的な料理ではあるが、聴くところによると自家製のデミグラスソースを使っているらしい。
 う〜ん、流石料理好きだ。僕もハンバーグくらいなら自分で作った事があるが、ソースは市販の物…或いはケチャップをかけるくらいで、そこまで拘(こだわ)った事はなかった。
 コーンスープもインスタントではなく、ちゃんと出汁(だし)から作っているらしく、そこら辺も音川さんの料理への拘りが窺える。
 今度参考に僕もレシピを聴いてみようかな?
 普通だったら一緒に暮らす事なんてまず有り得ない人達との暮らし。
 せっかくこんな機会に出会えたのだから、後学の為にも出来るだけ多くのものを吸収しておきたい。
 「食事中悪いんだけど、全員揃った所で改めて自己紹介をしておこうと思うの」
 暫く箸を進めた所で、音川さんがみんなに向かって自己紹介を勧めた。
 「いいよ、別に」
 「ノノミちゃんも…いい…けど、んぐっ……。
  食べるの忙ふぃいはら…手短に…もぐもぐ…ごっくん」
 宮岸さんがあっさりした返事を返し、野々宮さんは余程ハンバーグが好きなのか…口の中一杯に頬張った物を租借しながら答える。
 金田さんは…スープを掬ったスプーンに口をつけながらも、テーブルに広げた参考書に目を通しつつ軽く手を挙げる事で返事を返した。
 そう、実はこの娘…金田さんはテーブルに着くなり、参考書らしき物を広げると、何を言うでもなく延々とそれを読み続けていた。
 料理が配られて尚…と言うか、箸をつけながらも本に目を通す事だけはやめないくらいだから、相当に筋金が入っている。
 「じゃあ決まりね。先(ま)ずは私から…」
 ともかく、みんなからそれぞれ肯定の旨を確認すると、音川さんは食事の手を止め、軽く咳払いをしてから、自己紹介を開始した。
 「フルネームは音川沙織。趣味は読書、特技はお料理かな。あと、学園ではクラス委員なんかもやってるわ」
 まぁ、予想どおりの優等生タイプといったところか。
 先程の一件からも、この中では最も常識がありそうだし、お姉さんタイプの彼女なら、寮長をやっているのも頷ける。
 …と、言うか、どう考えても押し付けられてんだろうな、この連中に……。
 僕は周りの連中の顔を一通り眺めがてらそう思った。
 料理についてもそうだが、彼女は僕と同じでつくづく貧乏性のようだ。
 「まあ、こんな所かな」
 音川さんが無難に自己紹介を終えると、次に宮岸さんへとバトンを移す。
 「フルネームは宮岸勇気。趣味はセックス、特技はフェラチ…」
 …と、そこで物凄い音が、彼女の言葉を遮った。
 吃驚(びっくり)して視線を移すと、音川さんがテーブルに手をつき、肩を震わせながら宮岸さんを睨み付けている。
 「じょ…冗談だって、そんなに怒らなくても良いじゃない」
 宮岸さんは改めて姿勢を正しながら、
 「…と、趣味は体を動かす事かな。特技は格闘技、これでも空手部の部長なんてものをやってるわ」
 言い終わると、食べる事に夢中になっている野々宮さんの肘を突付き…その順番が来たのを示唆する。
 …でも、宮岸さんは見た目通りの人だよな。
 言動から雰囲気まで、そのまんまの性格を現しているし、いい加減そうなところも見た目通り。
 それに発育の良すぎる身体からは、淫らなフェロモンを出しまくりだ。
 しかし、だからと言って侮っていたら、きっと痛い目に遭うのは間違いない。
 その並外れた体力は、僕なんかが2,3人集まった所でものともしないと言う事が既に実証済みだし…あまつさえ格闘技まで嗜(たしな)んでいるとは……。
 「ふひはほのひふぉぶぁんね♪」
 「ちょっと、ちゃんと口の物を飲み込んでから喋りなさいよ。
  ほんとに行儀が悪いんだから」
 音川さんがハンカチを出して野々宮さんの口許を拭う。
 親子みたいな関係だな…この2人……。
 「っと、言う事で、次はノノミの番ね♪」
 ちゃんと口の中の物を飲み込むと改めて、エヘン…と、『ない』胸を誇らしげに張りながら、皆の注意を惹きつけようとする。
 「フルネームは野々宮瑠璃だよ。でも、みんなからはノノミって呼ばれてるの。
  勿論自分で考えたんだよ。だって瑠璃だと普通すぎてつまんないもん」
 …いや、瑠璃でも全然いいと思うんだけど……。
 咄嗟にそう思ったが口にはしないでおく。
 「しゅ・み・は…AV観賞!特技はオナニーで〜〜〜っす!!」
 再び物凄い音が炸裂した。思わずテーブルの上の料理がひっくり返るかと思ったくらいだ。
 見ると、案の定音川さんが…って、マジで…本気(マジ)で、キレかかってる。
 宮岸さんの時はまだ睨みつけているだけだったのに、今度はその形相が鬼のように変貌し…心なしか背後にはオーラのようなものまで浮かんでいるような気がした。
 「嘘でぇぇぇ〜〜〜っす♪」
 へ?
 その瞬間、先程までの緊張感が一気に崩れ去った。
 僕は呆気に取られ、音川さんは眉間に指を当てて溜め息を吐いていた。
 …妹って感じのこの娘は、他のみんなとは随分タイプが違うようだ。
 ノリはさっきの宮岸さんと似てるけど、その容姿は全く正反対。
 衝撃的な初対面もそうだったが、今の件と言い、それを笑って許せてしまう所が彼女の魅力なのかもしれない。
 とは言え、その背後からは、もう一癖ありそうな気配が漂っている感じがする…と言う事だけは付け加えておこう。
 「じゃあ、次は金田の番ね…て」
 音川さんが金田さんに向かって声をかけようとしたところで…不意に言葉が止まる。
 「あなた、まだ読んでたの? ほら、食事中まで本を読まないの」
 金田さんは仕方なく…それでも気だるそうに本から目を離すと、事務的な調子で自己紹介を始めた。
 「フルネームは金田麻衣子。趣味は音楽鑑賞、特技は起動計算。以上……」
 彼女は一気に早口で捲くし立てると、さっさとまた本を読みながら食事を再開した。
 それを見て、音川さんはまだ何か言いたそうにしていたが、再び一つ溜め息を零しただけで、結局それきり何も言わなかった。
 …判り易い子だな。
 典型的な勤勉少女…しかも、自分に興味のない事には何処までも無関心。
 その行動は常にマイペース。おそらく側で何が起こっても決して取り乱したりしないのではなかろうか?
 だけど、食事する時まで参考書と睨めっこなんて…。
 彼女の方を見ながら、自分の姿と当て嵌めてみる。
 ……無理だ、僕には到底真似出来ないな。思考回路そのものが違う。
 彼女なら寝てる時も睡眠学習とかやってそうな感じがした。
 趣味が音楽鑑賞だと言っていたけど、クラシックなんかを好んで聴くタイプに違いない。
 「じゃあ、最後に早見君自身の自己紹介で締めくくってもらいましょうか」
 「え?あ…う、うん」
 急に自分に話題を振られ…つい取り乱してしまう。
 そう言えばそうだよな…僕の為に始めた自己紹介なのに、当人である僕がやらない訳にはいかない。
 よ…よし、僕は覚悟を決めると椅子から腰を上げた。
 「ど…どうも。は、早見拓郎で…す」
 「あ…別に簡単でいいのよ。趣味とか特技…好きな女の人のタイプとか……」
 僕の緊張した様子を見て、さりげなく音川さんがフォローを入れてくれる。
 そ、そうだな…簡単で良いんだ。
 「え、え〜と、趣味は……」
 あれ?僕の趣味ってなんだっけ?
 活字は読んでいてすぐに眠くなるし、別にこれと言って好きなバンドや歌手が居る訳でもない。
 と、言うか…やればそれなりに興味を持てるけど、それが趣味なのか?と言われると首を捻ってしまう。
 …オナニー?
 いや、もし僕までそんな下ネタで責めたら、風呂上りの問答を含め『仏の顔も三度まで』…これまで以上に音川さんの怒りは大爆発だ。
 ………。
 ……。
 …。
 普段自分の趣味が何である、なんて考えたりしないから、いざとなると出て来ない。
 「早見君?」
 僕がアレコレ考えていると、音川さんが心配そうに僕の顔を覗き込んで来た。
 イ、イカン…何か言わねばっ……。
 とにかく頭に思いついた言葉を口にしてみる。
 「趣味は…漫画を読む事…かな?あはは……」
 乾いた笑いが場にこだました。
 う〜ん…コレじゃあ、他人(ひと)の事は言えんな。
 何となく、がっくり来た。僕はここに来て初めて、自分が物事に対し、常時熱中する事がなかった事に気が付いた。
 「ノノミも漫画好きだよ、今度貸してあげるね♪」
 「え?あ、ああ」
 野々宮さんの言葉に慌てて返事を返す。
 僕の発言に場が白けてしまったのではないか、と一瞬心配に思ったけど、自分で思っているほど周りは気にしてないみたいだな。
 僕はその反応に少しだけ安心した。
 でも、少女漫画…か。あんまり読んだ事はないけど…まぁ、貸して貰えるのなら喜んで読ませてもらおう。
 「それで、どんなのが好きなの?ソフトなのからハードなのまで色々と揃ってるよ♪
  あ、それとも、マニアックなヤツが良い?」
 え…!?ソフト?ハード?マニア?
 「じゃあねぇ、ノノミがう〜んっと濃いヤツを見繕っといてあげるね♪」
 ひょっとして彼女が言ってるのは……エロ漫画、ですか?
 「た…楽しみだなぁ……、あは、あはははは………」
 僕がそう言うと、野々宮さんはにっこりと笑みを浮かべた。
 しかし、一体どんな漫画が出て来るんだろう?やおい物だけは勘弁して欲しいが……。
 …と、気を取り直して自己紹介を続ける。
 「特技はこれと言ってないけど、強いて挙げるなら泳ぎは無難にこなせる方だと思うよ。
  あと、好きな異性のタイプは…う〜ん、これも別に……」
 改めて考えてみる。
 趣味や特技、好きな異性のタイプ…か。
 自己紹介の定番ではあるが、これって一体どうなんだろう?
 好きな事、興味の持てる物があったとして、それは本当に趣味と言えるんだろうか?
 例えば好きなスポーツなんかがあったとしても、それを常時やってる環境にいなければ趣味とは言えないような気がする。
 特技に関しても、別にそれを自負している訳でもない人と勝負してみたら、あっさり負けてしまう事だってあるではないか。
 この場合得意だと思っているのは自分だけで、本当に才能のある人とは決定的な違いがあったりする。
 並以上に出来るというのが特技になるとは言うけれど、平均なんて物は、周りの環境によって変わってしまう可能性が充分にあるのだ。
 好きな異性のタイプ…これもかなり微妙だ。
 嫌いなタイプの人間でも、気が付いたら好きになっている事がある。
 今まで生理的に受け付けなかった事でも、それなりに付き合っていれば、却ってそれが美徳に思えてくる物だ。
 捉え方…そして周りの環境次第で、『それ』は趣味でも特技でもなくなる可能性を孕んでいる。
 物事を『言葉(形)』に表すのは、酷く滑稽な事なのかもしれない。
 それが大切(好き)であればあるほどに……。
 …と、僕が心の中で色々と考えている時、
 「ねぇ…それじゃあ、おっぱいの大きい女は好き?」
 宮岸さんが含み笑いを零しながら自分の胸にあるその巨大な膨らみを両手で揺らしてみせた。
 途端僕の思考は止まり、一瞬にしてそこへ目が釘付けになる。
 嫌いな訳がない。僕は無意識の内に頷いていた。
 「ほら、私なんてどう思う?
  今、セックスフレンド募集なんだけど……」
 僕の反応に気を良くしたのか…更に宮岸さんは僕に向かって投げキッスを放ってきた。
 せ、せっくすふれんど……今度は僕の頭を色んな妄想が飛び交う。
 「クスン、ノノミのおっぱいは小さいから……。
  ノノミの事は、きっと嫌いなんだね」
 野々宮さんは野々宮さんで、自分の胸を悲しそうに撫で始めた。
 「い、いや、決してそんな事はない……ょ」
 「それとも君は音川みたいな優等生タイプが好み?彼女見かけによらず胸も大っきいしね。
  …まぁ、私には劣るけど」
 野々宮さんにフォローの言葉を入れようとした途端、宮岸さんが笑顔でとんでもない事を言い出した。
 僕は我に返り、慌てて音川さんの方を見てみる。
 「………」
 彼女は白い目をして黙ったまま…ただ、僕の方をじっと見つめ続けていた。
 な、なんなんだよ…言いたい事があるんだったら、言えば良いじゃないか。
 つい、心の中で喧嘩腰の台詞を零してしまう。
 実際、厭味を言われるならまだ良いのだ。
 例え何を言われるにしても、そこには相手の感情が直にぶつかってるから対話になる。
 しかし、この何とも行き場のない無言の重圧には耐え難い物があった。
 「そう言えば早見君、ここに来た時…私の胸、じっと見てたわよね?
  私のこと…そういう目で見てたんだ?」
 この嫌な雰囲気に苦しい程喉が渇き、取り敢えず水を一口飲もうとした時だった。
 やっと喋った音川さんの言葉に、僕の動きは瞬時にして固まり、自分の背筋をどんどん冷や汗が伝っていくのを感じた。
 何で、今になってそれを思い出す!?
 「そ、そうだったけ…?」
 『一難去る前にまた一難』…もとい、『泣きっ面に蜂』。
 一度は回避したと思っていた筈の出来事が、最悪の状況で還って来て僕はもう内心冷や冷やものだった。
 ただ、それでも何とかコップを手に取り、それに乗じて視線を逸らしつつ…出来るだけ平静を装いながら、水を一口飲んだ。
 「あら、私の時もそうだったわよ。荷物運ぶ時なんか私の胸ばっかり見てたもの…ね?
  早見君の、ムッ・ツ・リ・さ・ん♪」
 勘弁してくれ…頼むからもうやめようよ、この話題は……。
 僕はもう、今すぐにでも泣き出したい気分に駆られた。
 正直、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
 「ううぅ〜……ノノミだって、ノノミだってもう少ししたら、バイ〜ンと胸の膨らんだ悩殺レディになってみせるんだからっ!!」
 『それは無理!』
 野々宮さんの素っ頓狂な発言に対し、音川さんと宮岸さん…それに、本を読みながらもきちんと把握していたのだろう…金田さんの声までが綺麗にハモった。
 「ああ〜〜〜金田まで……くぅぅ〜、見てなさいよぉっ!!
  絶対絶対あんた達よりダイナマイツバディになってやるぅっ!!
  覚えてなよ、その時はみんな揃ってノノミにひれ伏すんだからねっ!!!」
 言ってる事は無茶苦茶だったが…野々宮さんの一言のおかげで、場に今まで漂っていた露骨な白いムードはなくなり、僕に対する追求もなくなった。
 ありがとう、野々宮さん。キミは僕の救世主(メシア)だよ。
 今後彼女が悩殺レディへ変貌する事など、まず有り得ないだろうとは思いつつ…それでも、僕は彼女に対する感謝の気持ちで一杯だった。
 「さっ、自己紹介も済んだ事だし…とっとと食事に戻りましょうか?」
 「そうね…片付ける都合もあるし、そろそろ食事に専念しましょう」
 「こら〜っそこ! まだ話は終わってないぞ〜……」
 すっかり変わってしまった事態を眺めながら、ほっと安心しつつも…僕はその光景を尻目に自分が一気に老け込んだような感じがしていた。
 正直、自己紹介がこんなに辛い物だとは思わなかった。
 みんな悪い人じゃないと思うんだけど、結構疲れる人達だなぁ…音川さんを含めて。
 …けど、どちらにしろ、ここは僕が自身で敷いた『背水の陣』。どんな事があっても、僕はここで頑張るしかないのだ。
 新たな決意を胸に、僕は食事へと戻った。


 …戻ったのだが、先程の一件で僕はお腹どころか胸まで一杯になってしまっていた。
 基本的にはあらかた片付いていたが、ハンバーグだけが少し残っている。
 …と、不意に視線を感じ、そちらの方を向いてみた。
 すると、野々宮さんが皿に残っているハンバーグを凝視していた。
 その表情は、僕に思わず『パブロフの犬』を連想させた。
 「…よ、良かったら……食べる?」
 「えっ?いいの!?」
 その飢えた野犬のようになっていた彼女に皿を差し出すと…彼女は嬉しそうに尻尾を振りながら、僕の返事を聞くより早く、皿にあるハンバーグを掻っ攫って行った。
 「おいひいよぉ…うんうん、キミはいいヤツだね」
 感涙の涙?に噎(むせ)びつつ、口一杯にハンバーグを頬張りながら僕の事を褒めそやす。
 「よーーーし♪ノノミちゃんがあだ名をつけてあげるね♪
  う〜んっと……早見拓郎だから…タックン!うん、正にピッタリ!!
  ありがたく頂戴したまえ♪」
 「あ…ありがとう」
 何だか強引にあだ名をつけられてしまったが…まさか「いらない」とは言えない。
 まぁ、使う事はないだろう。ともあれ、今回は野々宮さんの、このノリのおかげで救われたところがある。
 残ったハンバーグを譲ったくらいで、良い気持ちになれたのなら僕も満足だった。


〜5〜
 ようやく夕食も終わり、僕はぼんやりと音川さんの煎れてくれたお茶を啜っていた。
 音川さんと金田さんの二人はいつの間にか食堂を辞したらしく、今現在食堂には僕と野々宮さん、そして宮岸さんの三人のみが残っている。
 彼女達は先刻(さっき)までテレビでやっているドキュメンタリーに夢中になっていたのだが、やがて見る番組もなくなったのだろう…退屈そうにしながら暇を持て余し始めていた。
 「そうだ♪ゲームしよう、ゲーム♪」
 突然野々宮さんが僕と宮岸さんに向かって切り出す。
 「…え、別に良いけど、ゲームはあまり得意な方じゃないよ?」
 「いいの、いいの。相手が弱い方が楽しいモン♪」
 …それじゃあ、僕は楽しくないじゃないか。野々宮さんって顔に似合わず、いい度胸しているよな。
 「ユッキーもやるでしょ?」
 「いいけど、またボロクソにやられて、ヒス起こさないでよ?」
 「起こさないもん」
 野々宮さんは宮岸さんに向かってそう嘯(うそぶ)きながら、テレビラックを開いてゲーム機を引っ張り出してきた。
 勿論ゲームソフトの入った入れ物も一緒だ。
 テーブルから離れて入れ物を覗き込んでみると、どれもやった事も見た事もないソフトばかりだった。
 その上、首を傾げたくなるようなタイトルの物が多く、一体何所で購入したんだろうとか思ってしまう。
 「じゃあ、やろうやろう♪」
 野々宮さんはその中から取り敢えず対戦格闘モノらしいソフトを取り出すと、ゲーム機にかけた。
 暫くすると、テレビ画面に怪しさ大爆発のタイトルが表示され…そのパチ物臭いゲームは始まった。
 …はっきり言って、予想通りの見た目どおり…凶悪なまでにクソ面白くなかった。
 しかし、ボロクソの滅多打ちに負かされ、二人に何度も揶揄され、罵倒されていくうちに、三人の中で自分が一番ムキになっている事に気が付いた。
 ………。
 ……。
 …。
 「ねぇ、そろそろ行った方が良いんじゃない?」
 今度こそ…と、キャラを選択した時、宮岸さんが声を掛けて来た。
 「?何所へ?」
 「風呂よ風・呂。もたもたしてるとお湯を抜かれるわよ」
 そう言って彼女は自分の腕時計を指差す。見ると、時計は既に9時半を回っていた。
 もうそんな時間なのか…ゲームに夢中になっていたせいで時間間隔が麻痺したのかな?
 この寄宿舎では、風呂もトイレも男女共同だった。
 今日は早めにお湯を出していたみたいだが、風呂の時間帯は午後7時から女子が、9時から男子が…と、一応決まっているらしい。
 ちなみにトイレは女子校だった時の名残で女子トイレのみ、おそらく僕の在学中に男子トイレが出来ることはないだろう。
 「そうだね…それじゃあ、僕はここで失礼するよ」
 「キサマ、敵前逃亡かぁ?ジューサツだジューサツぅ!」
 僕が、ゲームのコントローラーから手を離して立ち上ると、まだ僕をいびり足りないのだろうか…野々宮さんが不満の声を上げてきた。
 「ゴメン、また今度やろう」
 「仕方ないなぁ…約束だよ」
 次回の約束を取り付ける事で何とか彼女を宥める。
 「あ、そー言えば…音川さんと金田さんは?」
 「あの2人ならとうに風呂から上がって、さっさと自分の部屋に戻ってったわよ」
 僕は、一応念の為に確認を取った。
 食事の後、2人の姿を見ていないから、もしかしたら彼女達が風呂に入っている可能性がある。
 実際、今日ここに着いて、彼女達が僕に持った印象と言えば『女の胸ばかり見ている助平野朗』のみのような気がした。
 自分でもそう思うくらいだから、ここでもしばったり…なんて言う『お約束』をかましてしまうような事になると、編入早々『助平』どころか『変態』と言う不名誉な烙印を押されかねない。
 更に寄宿舎の中だけに留まらず、学園 内にまで広まってしまったら、僕にはもう立つ瀬がなくなってしまう。
 でも、宮岸さんの話によれば、2人はもう入浴を済ませて部屋に戻っているみたいだから、かち合う心配はなさそうだ。
 今日は色んな意味でかなり疲れたし、汗も随分と掻いたから、ゆっくりと湯船に浸かる事にしよう。
 「行ってらっさーい」
 食堂を出る時に、後ろから宮岸さん達の送り出す声が聞こえた。
 しかし、僕は気付いていなかった。
 野々宮さんと宮岸さんが、僕の背中を見送りながら忍び笑いを漏らしている事に…。
 更に僕は忘れていた。
 今日1日で、僕が宮岸さんに2度も痛い目に合わされていた事…そして、野々宮さんのノリがその宮岸さんとかなり被っていた事を……。


 「♪♪♪」
 一旦部屋に戻って、着替えとタオル引っ張り出した後、僕は鼻歌混じりに1階にある風呂場を目指していた。
 風呂場は食堂とは反対側の廊下を奥に行った場所にあり、洗面所の類なんかもそこにあった。
 流石に大人数が使う為に造られただけあって中は結構広かった…と、案内してもらった時に感じたのを記憶している。
 やがて『お風呂』…と、愛嬌のある文字で書かれた扉の前で立ち止まる。
 扉にある小さな模様硝子の窓には、中の熱気の為か、幾つもの水滴が付いていた。
 窓からは明かりが漏れているので、お湯が抜かれている事はなさそうだ。
 僕はタオルと着替えを左手に抱え込み、残る右手で扉を開いた。
 引き戸の擦れる音がし、その隙間から中の熱気が一気に僕めがけて押し寄せてきた。
 それを払い除けながら中に入る…と、そこへ人影が映った。
 一瞬、誰か手でも洗いに来てるのかな…という考えが脳裏を掠めたが、それが間違いだという事はすぐに判った。
 何故なら……。
 「え…!?」
 中に居た2人…音川さんと金田さんは、身体を覆う物を何一つ纏っていなかったのだ。
 2人と眼が合い、数秒間の沈黙が場を支配する。
 それは、一瞬のようでもあり…また永遠であるかのようにも感じられた。
 だけど、それが錯覚であると言う事に僕は身を持って知る事となる。
 その直後、マンドラゴラを引き抜いたかのごとき大絶叫が脱衣所内に響き渡ったからだ。
 「な、何で!?!!?
  2人共、もうとっくに入った後だって……」
 同時に左脳の働きが停止して行く。ただ、ひたすらに焦っていた。
 自分でも何を喋っているのか判別出来ない程だ。
 「そ、そんな事はどーでもいいから…さっさと出てけーーーっ!!!」
 「じ…事故だよ!それに9時から男子が入る時間だって言ってたじゃないか!?」
 それでも、僕は何とか弁解しようと試みる。そうだ、僕は悪くない筈なんだ。
 「その時計の何所が9時だっつーのよっ!!」
 振り返って脱衣所に置かれた時計の針を見てみた。8時…半???
 「いや…あの……あ…あれぇっ!?!!?!?」
 僕の困惑はピークに達し、その事態に声まで裏返ってしまった。
 一体何が何だか判らない。確か…食堂で宮岸さんの時計を見た時は9時半だった筈だ。
 あ、判ったぞ!ここにある時計が遅れてるんだ。それで時間を間違えて……。
 …って、そんな事がある訳がない。
 「騙された……」
 宮岸さんの時計の方が遅れていたのだ。それも、故意によって……。
 一旦冷静になり始めると、今度は自分の頭から一気に血液が引いていくのが理解出来た。
 きっと、他人(ひと)が見たらそれと判るくらい青くなっているに違いない。
 何とか説明しなくてはっ。このままでは悪い予感が現実になってしまう。
 「え…え〜と…え〜と、そ、そう…。
  悪いのは僕じゃないんです!僕は騙されただけで……っ」
 僕は二人に向かって必死で弁解した。と、やがてその視線は次第に下がっていく。
 す…凄い……。
 彼女達はタオルすら手に持っていなかった。おかげで…その、僕の目には全てが筒抜けな訳で……。
 音川さんはその肢体を両手を使って隠しているつもりなのだろうが、はっきり言って丸見えだった。
 正直、動転していて正確な部分を手で覆っていない…と言う事もあるのだろうが、『両手を使っても余りある』と言うのが僕の見解だ。
 金田さんに至っては全く持って『平気の平左』。隠そうとする素振りすら見せない。
 あの冷静な瞳が何を考えているのか底が知れなかったものの…それでも、その優雅な曲線から大事な所まで…と、モロ見えなのだけは間違いなかった。
 おまけに風呂上がり直後なだけあって、2人共塗れた髪や水滴の残る肌から微妙に湯気が昇って艶っぽく…とてつもなくエロチックだった。
 思わず生唾がこみ上げ…それを嚥下(えんげ)した音が耳にこだました。
 「何所見て言ってんのよ」
 我を忘れて見入っていると、今まで黙っていた金田さんが不意に口を開く。
 「え?あ?いや…だから、これは…ね?」
 「『ね?』って何よ?自分に非がないって言うんなら、それなりの態度で示したら?
  今のあんたの状態って…何所をどう見ても説得力に欠けるんだけど……」
 彼女はずっと僕の股間を注視していた。
 そう、このような状況下にありながらも、僕の下半身は正直だった。
 いや、このような光景に遭遇して平常心を保てるなんて、それは正に聖人…神の領域だ。
 あいにく僕は聖人でも神でもない…人間、しかも健康な17歳の男子。
 頭では判っていても、下半身には別の意思が宿っている。
 あのようにHな肢体(からだ)を目の前に「ショボんでいろ」と言う方が無理な話だった。
 「じ、ジロジロ見たのは謝るよ。
  ただ、こんな場面に遭遇したのには訳があるんだ。そうだ、音川さんっキミなら判って……」
 下手に反抗すればドツボに嵌ってしまうのは目に見えていた。
 僕は、何とかこの窮地を脱する方法はないかと、最も良識のある音川さんに…。
 「私…先刻言ったわよね?
  ワケとかそんな事はどーでもいいって……」
 彼女の様子を見て…助けを求めるのは無理だと理解した。
 それどころか、音川さんの押し殺した声に、僕の背筋は震え上がった。
 今日1日で何度か感じた殺気。だが、その対象は自分ではなく他…或いは散開していた筈だ。
 それなのに、今彼女から漂って来るその気配は紛れもなく僕の方向へと向かっており…また、その大きさもそれまでの非ではなかった。
 駄目だ…とりつくしまなんてない。
 「…それよりも」
 言いながら、音川さんは物音一つ立てず僕に近付いてきた。
 却ってその静かな挙動が、僕に『竜の逆鱗』…そして『嵐の前の静けさ』という言葉を連想させた。
 こ…殺される。
 「さっさと出てけって言ってんのよぉっ!!
  この、エロ馬鹿ボケーーーっ!!!」
 咆哮と共に繰り出された渾身の右ストレートが一直線に僕の頬目掛けて飛び込んで来た。
 「わわっ…」
 「えっ…」
 正に『間一髪』とはこの事だった。
 冗談抜きに命の危険を感じた僕は、咄嗟に上体を屈め、何とかその一撃を回避する事に成功した。
 彼女の拳は空を切り、僕は『九死に一生を得た』…筈だった。
 「きゃあっ!!」
 「え?うわっ!?」
 相当に力を込めていた為だろう…彼女の勢いは止まらず、そのまま僕の上に覆い被さって来た。
 それを支えきれなかった僕は、彼女共々後方へと倒れ込む。
 場所が脱衣所だったせいか、反響して物凄い音がした。
 僕はしたたかに後頭部を打ちつけただけでなく、上からは音川さんの体重がモロに振ってきて、更にダメージを受けた。
 「あ、あだだだ」
 後頭部を押さえながら、立ち上がろうと前方へ手を差し出す。
 と、不意に暖かく、且つとても柔らかい感触が手の平へ伝わって来た。
 何と言うか…とても言葉にし難(にく)いのだが、きっと直径20cmくらいのマシュマロでも握ったらこんな感じがしただろうと思う。
 だが、しかし…勿論そんな物がこの場所に存在する訳はない。
 …瞬間、僕は凄く嫌な予感がした。僕の予想に間違いがなければ、今僕の手が掴んでいるのはおそらく……。
 恐る恐る目を開ける…同時に僕の時間はピタリと止まった。
 「い…い…い……」
 …そう、ソコにあったのは予想に反する事なく、先程まで僕の目を虜にしていた音川さんの乳房があった。
 ひ…ひぃぃぃっ!!
 音川さんはこの状況に自分の身体を震わせていたが…僕の身体にだって負けず劣らず震えが走った。
 本来なら喜ぶべきなのかもしれない。
 しかし、僕にはこの先に訪れる自分の未来の姿がはっきりとその脳裏に浮かんでいた。
 「ま、待って!僕の話を……っ!!」
 「いやあぁぁあああぁぁぁぁっ!!!」
 絶叫と共に、目にも止まらない速さで僕目掛けて拳が打ち下ろされる。
 僕の上には音川さん自身が乗っかっている為、当然僕には為す術がない。
 その拳は一直線に僕の顔面へと突き刺さった。
 当然後頭部は再び床へと舞い戻り…更にパンチにはしっかりと『捻り』が入れられていた……。
 ………。
 ……。
 …。
 「まったくもう、油断も隙もありゃしないんだから!」
 僕の体は遠慮なしに廊下へと蹴り出され、同時に勢いよく扉が閉められた。
 殴られた顔面や、拳と床のサンドイッチにされた後頭部も勿論痛かったが、それ以上に心が痛かった。
 音川さんには完全に軽蔑されちゃったな……。
 まさか、初日からこんな事になるなんて…。
 しかも、相手は一番仲良くなれそうだった音川さんときた。
 …そのショックは余りにも大きい。
 「やーーーいっ、タックンのエッチぃ〜♪」
 「どうだった?音川のおっ・ぱ・い…デカかったでしょ♪」
 がっくりと肩を落としていたところに、聞き覚えのある2つの声が耳に入った。
 見ると、廊下に締め出された僕を、事の元凶であろう2人組がさも愉快だと言わんばかりの様相で立っていた。
 どうせ冗談のつもりなのだろうが、やって良い事と悪い事がある。
 「な…なんて事してくれたんだ!
  いくらなんでも、これはシャレになってねェゾ!!」
 流石にここまでされて黙っている訳にはいかない。僕は二人に向かって怒鳴り声を上げた。
 「なんのこってすか?」
 「ひ…ひょっとしてタックン、私達の事を疑ってるの…?
  ガ〜ン…ショック・ビッグ・ラージぃ!?」
 一体どの口がそんな事を…。
 「疑うも何も…全部キミ達が仕組んだんだろ!
  僕のことをちゃんと釈明しろーっ!!」
 「なんのこってすかー?」
 何処までも惚け続ける2人に、僕の『堪忍袋の緒は切れた』
 「くっそ〜っ…そっちがその気なら……」
 これ以上はラチが開かないと悟った僕は立ち上がり、彼女達の方へと一歩足を踏み出した。
 「あっ、こっちに来た。逃げるわよ♪」
 「ノノミちゃん、ピ〜ンチ♪」
 その瞬間、2人は芝居がかった声を上げると、脱兎のごとく階段の方へ向かって走り出す。
 「ま…待てっ!」
 「やだ、変態。今度は私達に何かするつもりね♪」
 「や〜〜〜ん、タックンが襲ってくるぅ〜。
  ノノミちゃん犯されちゃう〜〜〜っ♪」
 当然僕も慌てて追い掛けたのだが、やがて2人は階段を一気に駆け上り2階へと消えていった。
 これ以上追い掛けても、もう間に合わないだろう。とっくに自分の部屋へと戻ってしまった筈だ。
 僕は追うのを諦め、上を見たままその場に佇んだ。
 「…ふぅっ」
 思わず溜め息が零れ、首をがっくりと落とす。
 どうせ、これは新入りを歓迎する彼女達流の『挨拶』なのだろう。
 「だけど、小学生じゃないんだから、もう少し考えて欲しいよな……」
 再び溜め息が零れる。こんな事で仲を悪くしては僕にとって何の特にもならない。
 ならないんだけど……どうしても納得がいかなかった。
 最初は女ばかりで、極楽・お気楽…などと考えていたものだが、そんな幻想は何処にもないのだと、改めて思い知らされた気分だった。
 音川さんと次に顔を合わせた時なんて、一体どのツラ下げて会えば良いんだろう……。
 僕はこの先の展開を思い…暫くの間、廊下の隅で頭を抱え込んでいた。


〜6〜
 「はぁーーーっ」
 やっと自分の部屋に戻って来た僕は、力なくベッドの上に倒れこんだ。
 布団の柔らかい感触だけが僕を裏切らずに迎えてくれる。
 …しかし、今日はなんて厄日なのだろう。今日だけで1週間以上の疲れが押し寄せて来た感じがする。
 あの後…僕は、熱い湯船に浸かって汗と疲労、そして今日あった嫌な出来事を綺麗に洗い流してしまおう、等と考えながら浴室に入った。
 明日以降に備える事で気持ちを切り替えようと思ったのだ。
 だが、どうにかして立ち直ろうとしているそんな僕の思いを、現実は残酷なまでに嘲笑う。
 まず、僕の目に飛び込んで来たのは、既にすっかりお湯が抜かれてしまった浴槽…という憐れな光景だった。
 おまけにガスの栓まで締められているらしくお湯すら出ないという状況だ。
 それでも引越しの整理で僕の体は結構汚れてしまったし、とっくに乾いているとは言え、かなりの汗を流していたりもした。
 少なくとも、今日だけはこのままと言う訳にもいかない。
 諦めモードに入った僕は、仕方なくシャワーの水で体を簡単に洗った。
 当然、疲れを取るどころか寒さで凍えてしまい、逆に体力を奪われたのは言うまでもなかった。
 確かに僕は彼女のあられもない姿を満遍なく見てしまった。あまつさえ、彼女の胸の感触まで味わってしまった。
 それらについては本当に反省しているし、申し訳ない気持ちで一杯だった。
 だけど、正直これはないと思う…。
 『惨めねぇ…。別に私は裸を見られたくらい何とも思わないけど、残念ながら音川は別。
  あの子にとって、そーゆーの正に『針の筵』なのよね。しかもかなり根に持つタイプだから…案外もう口も聞いて貰えないかも……』
 脱衣所から出て来た時の金田さんの台詞…そして、無言で僕の目の前を通り過ぎて行った音川さんの表情が…僕の目と耳に焼き付いていた。
 「……寝よう」
 こういう日は何をやっても裏目に出るだけだ。
 それに、過ぎてしまった事をいつまでも引き摺っていたって、時間は戻って来てくれない。
 過去は自分を形成する大切な因子(ファクター)ではあるが、僕達は今を生きている。
 過去とは結局の所、今後の方針に対しての基盤に過ぎないのだ。
 既に残りの荷物を片付ける気力は残っていなかった。
 僕は仰向けになると、そのままの姿勢で手を伸ばし、照明の紐を引っ張って明かりを消した。
 本当に疲れていたから、今日は苦もなく眠りにつける筈だ。
 僕は布団に潜り込みながら、せめて今だけは安らぎを満喫したいと思った。
 ………。
 ……。
 …。
 …と、僕が瞼を閉じ、そのまま拡散していく意識に身を委ねようとした時だった。
 「!?」
 つい先程まで室内を満たしていた静寂が、凄まじいまでの重低音と共に突如として崩れ去った。
 「な…何だっ!?」
 拡散し始めていた意識は一気に収束し、慌ててベッドから飛び起きる。
 その爆音の出所はすぐに判った。僕の部屋の隣…どうやら金田さんの部屋から響いて来ているようだ。
 それにしても、この轟音は何なんだろう?
 音はいつまで経っても止む気配を見せず、それどころか逆に大きくなっているような気さえした。
 とてもではないが我慢出来そうなレベルではない。
 「………」
 悩んだ末、僕は注意する事に決めた。
 本来、新参者である僕に大きなことを言う資格はないのだろうが、この上睡眠まで妨害されてしまうと初日早々からノイローゼになってしまう。
 音は廊下に出ると幾分かマシになった。この程度であれば、耐えられない程の被害はなさそうだ…隣り合っている僕の部屋を除いて、だが…だけど、どうして僕の部屋だけあんなにうるさいのだろう…?一応防音設備は為されている筈なのに……。
 そもそも問題なのは金田さんだ。他人(ひと)には「夜は静かにしろ」等と平気で宣(のたま)っておきながら、自分は遠慮なしとは……全く持って頭の痛くなる人達だ。
 しかし、こんな音の中をよく平気でいられるものだと思う。
 ロック音楽…しかもヘビーメタル…か。
 自己紹介の時言っていた趣味の音楽鑑賞。静かなクラシックの方が勉強の効率を上げらると思っていた僕は、てっきりそっち方面に凝っているんだとばかり考えていた。
 だが、人の好みなんてそう単純なものではないらしい。
 「…ぅっ」
 部屋の前にまで来ると流石に判る。
 何と言おうか…まるで充満した音が扉から吹き零れているかのようだ。
 はっきり言って、ハードロックに全く興味のない僕にはバイクや車、工事現場等の騒音と然して変わりがなかった。
 これが本当に音楽と言うのかさえ疑問に思う。
 ともかく、僕はその爆音で震える扉をノックしてみた。
 ………。
 やはり…と、言うべきだろう。反応がない。
 それはそうだ。こんな音の中に居て、扉をノックする音なんか聞こえる筈がなかった。
 「はぁ…」
 溜め息が零れる。本来僕の性分ではないのだが、こうなったら止むを得ない。
 「金田さんっ!音…もう少し下げてくれませんかっ!!」
 僕は覚悟を決めると、相当に力を入れて扉を叩きながら、叫ぶようにして声を上げた。
 ………。
 しかし、中からは何の反応も起こらない。僕は途方にくれながらも、取り敢えずドアに耳をくっつけてみる事にした。
 すると、本当に微(かす)かではあったが、爆音の中に金田さんの声が混じっているのが聴き取れた。
 「んーーっ…ん〜〜っ…!…んぁっ……!」
 何の声だろう…?
 苦しんでいるような呻き声にも聴こえたが、何処か艶っぽい響きも篭っている。
 「んんーーーーっ…!イクっ…イクぅぅぅ〜〜〜〜〜っ……!」
 更に意識を集中して声を拾ってみると、彼女が一体何をしているのか想像がついた。
 「…おいおい」
 途端に僕は馬鹿らしくなって来て、更に力強く扉を叩きつけた。
 ようやく彼女も僕の事に気付いてくれたのだろう。暫くの間それを続けていたら、ゆっくりと扉が開いた。
 「なに…?」
 「いい加減にして下さいよ…もう……」
 僕は少しだけ開いた隙間を強引に押し開くと部屋の中に踏み入った。
 勿論その勢いに乗じて文句を言ってやろうと思っていた…のだったが、彼女の姿を見て一気に言葉を失う。
 彼女はパンツ1枚だけ…と言うあられもない格好で平然と僕の前に立っていた。
 その背後では、結構高級そうなスピーカーからハードロックの大音響が鳴り響いていた。
 「な…何してたんですか!?
  そんな格好で、しかもこんな大音響の中…!?」
 「判らない?勉強よ」
 判るか!?
 平然と答える金田さんに、僕は大声でそう怒鳴りつけたかった。
 彼女の股間へ目をやると、何故かそこを包む柔布の中央部分には湿り気を帯びたシミが出来ていた。
 全く…どんな勉強だよ……。
 この娘はいくらかまともだと思っていたが、宮岸さん達と大差がないように思えて来た。
 ここの住人は、音川さんを除いてみんな変人の集まりなのだろうか……。
 「な…何か着てくれませんか……。
  その、目のやり場に困るんですけど……」
 僕は先刻から隠しもせず、そのままの格好で立ったままの彼女に忠告してみた。
 この騒音に困り果てて注意しに来たのに、この状況では僕が悪さをしているように見える。
 「別に良いじゃない。どうせ脱衣所でも見られたんだから今更隠しても仕方ないでしょ……」
 「いや…それでもTPOって大切なんじゃ……」
 「…あなた……わざわざそんな事言う為に、私の勉強を邪魔しに来たの?」
 何なんだろう…この雰囲気は。僕が悪いのか?
 無表情なので本当はどう思っているのか判らないが、僕が思うに金田さんの機嫌は悪そうだった。
 このままだと自分の方が責められそうな感じがして来たので、僕は服の事など気にせず本題に入る事にした。
 「じゃ…じゃあ言わせて貰ますけど、もう少し静かにして貰えませんか?いくらなんでもその音量は大き過ぎますっ」
 部屋の壁にある巨大なスピーカーを指差して力強く言い放つ。
 大体、何でこんなに音を大きくするのか理由が判らない。
 まさかとは思うが喘ぎ声を消す為?…だとしたら、隣人の自慰のおかげで睡眠を邪魔されてしまう僕と言う存在は一体何なんだろう…?
 はっきり言って冗談にもならない。
 「僕には迷惑をかけるな…とか言っておいてこれはないんじゃないですか?
  こんなんじゃあ、寝るに寝れませんよっ!」
 「…そうかしら?私には丁度良いんだけど……。
  それに『郷に入れば郷に従え』って言うでしょ。後から来たあなたには、先に居る私に文句言う資格なんてないのよ……」
 だ…駄目だ。話が通じない。
 身勝手極まりない上に、言ってる事も無茶苦茶だ。マイペースなのは判っていたけど、ここまでとは……。
 ううぅ…こんな人の隣になったばかりに……。
 本日最後にして最悪の不運に僕は目の前が真っ暗になった。
 「そんな『この世の終わり』みたいな目をしないでくれない?
  ちゃんと12時には消すわよ……」
 「僕は今から寝るんですっ!!」
 「そんなの知らないわ。おやすみなさい」
 ムカッ。
 穏健な僕でも流石に今の言葉には頭に来た。
 「少しでも良いからボリュームを落としてくださいっ!!」
 勢いに任せてそう怒鳴りつける。どうしても落さないならコンセントごと引き抜いてやろう…実際、そんな気持ちにさえ駆られていた。
 「判ったわよ…我が儘ねぇ……」
 僕はその言葉に思わずズッコケそうになった。
 どう考えたらそうなるんだ……。
 とにもかくにも僕の剣幕に押されたのか、渋々了承した彼女はアンプのボリュームを少しだけ下げてくれた。
 そう…本当に少しだけ……。
 「はい、少しだけ下げたわよ。これで良いんでしょ?」
 「………」
 良い訳などなかった。確かに幾分かはマシになったが、元が元だけにそれでも充分過ぎる程やかましい。
 しかし「どうしても我慢出来ないか?」と言われれば、何とか我慢出来る範囲ではある。
 こういった問答は相手も不快になるのかもしれないが、僕だって嫌だった。
 彼女が少しでも譲歩してくれ、僕がそれを受け入れられる範囲にあるのならば、もうそれで良しとしよう。
 これ以上は何も言いたくないし、何も言われたくなかった。
 「…おやすみ」
 結局僕は一言だけ言い残し、金田さんの部屋を後にした。


 部屋に戻って来た僕は再び布団の中に潜り込んだ。
 相変わらず隣の部屋から音が入ってくるが、この程度なら何とか眠る事が出来そうだ。
 「全く…実家ではどんな生活してたんだ?
  この寮を出た後もあんな調子ならいつか刺されるぞ……」
 本気で彼女の未来を心配しつつ、電気を消してから布団の中で丸くなった。
 すぐに瞼が重くなり、虚ろな気分になり始める。
 ………。
 ……。
 …。
 …ん?
 夢うつつな気分の中、何処か忙しない感触が暴れ始めた。
 ……あれ?
 何だか身体が揺れているような気がする。
 ………これって!?
 不意に意識が覚醒し、それでようやく合点がいった。
 壁から漏れてくる音がいつの間にやら元の音量に戻っていたのだ。
 な…何て奴だ。『舌の根も乾かないうちに』
 「ああっ、もうっ…!!」
 僕は頭から布団を被ってこの音から何とか逃れようと試みる。
 だが、そんな無駄な事をやってみた所でやかましいものはやかましい。
 かと言って、また彼女の部屋に怒鳴り込む気にはとてもなれなかった。
 最初に会った時から彼女はあんな調子だったのだ。
 もう一度向かったとして、先刻の二の舞いになるのは目に見えていた。
 何度も寝返りを打ち、羊の数を数えたり…ベッドの上で騒音と格闘して行く。
 そうこうしている内に1時間は経っただろうか…やがて疲労と心労のおかげで何とか寝付く事が出来たらしい。
 …こうして、波瀾に満ちた僕の寄宿舎生活第1日目は終わりを告げた。