真人生之探求  中村天風著


内容目次


第二章 精神生命の法則
(1)神経系統の重要性
(2)生命の流れ

(3)心の生命に及ぼす影響
(4)感情と肉体
(5)How to do ?
(6)精神力の強化
(7)健康えの要諦
(8)感応性能の積極化
(9)観念要素の更改
(10)暗示感受作用
(11)自己暗示誘導法
(12)積極観念の集中法
(13)神経反射作用の調節法
(14)応用法
(15)精神統一の要領

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第二章 精神生命の法則

(1)紳経系統の重要性

さて前章に於て、人間の生命の本来の面目に則して、心身一如を現実化すために心身を統一するには、心身を自然法則に順応せしめなければならないと述へた。して自然法則に順応せしめるには、精神生命と肉体生命の両者の、人生に活きる際の生活態度というものを、真理に則つて正当に決定するということがその先決的条件だとした。そして更にその順序として精神生命の生活態度の決定に就ての理解を先づ述ぺるといつた。
これは、吾人の生命存在の因由関係からの理由のためで、分り易くいえば、人生建設えの方法や手段というものは、肉体よりも心の方を先決すべきが、命の活きて居る状態からいつて、絶対に正当であるからである。ところが、何分にも多くの人々は、この理解に徹底していない傾向が多分にある。そして命というと、即坐に肉体だけを先決的に重視する。即ち肉体に何等かの方法を施すことが、第一に必要であるかのように考える。これは敢えて物質本位の理智教養を受けたためばかりでなく、生命現象の大部分が、肉体に具顕しているという厳然たる事実の上から、自然とそう考えるという理由も大いにあるのである。
それは勿論、生命現象の大部分が、就中特に目に映ずる諸般の生活事実というものが、肉体に顕現する場合が多く、即ち、命の活きる役割を、かなり多分に肉体が行つている以上、生命ということを考える時、肉体を重視することに異論はないが、然し篤に慎重考察しなければならぬのはこの点で、その重視きるべき肉体生命の生存と生活の一切が、なんと心の力と作用とで確保されているという一大事実が、厳として存在していることに気付けば、何を措いても、心=精神生活の生活態度を第一に正当に決定することが、人生に対する最も緊要な先決問題だと断定しなければならない。そして、これを正しく理解するに必要な智識として、先づ吾人の生命存在の状態、即ち、命の活きている有様を厳密に観察することである。
私は、常に講習会で、命の活きている有様を、一筋の河の流れと同様だと説明している。河というものには、必らずその水源がある。そして、命の流れの水源に該当するものは即ち心=精神なのである。というのは、先づ静かに、肉体生命の活きている直接理由と事実現象とを探究するがょい。」
そもそも肉体生命がどうして活きているかという問題について直接的に考えられるのは、肉体生命維持の三大条件ということである。一体どんな条件が、肉体生命を維持するのに必要とされるかというに、
一、吸酸除炭の作用
二、栄養の吸収作用
三、老廃物の排泄作用
即ちこれである。
この三つの作用の、そのどれも完全に作用しないと、肉体生命の生存は決して確保出来ないのであるから、これを肉体生命維持の三大朱件というのである。
そこで次に考えるぺきことは、この肉体生命確保に必枢な上述の三大条件は、何に依つて営まれているかというに、俗にいうところの五臓六腑である。五臓六腑とは、漢方医学の方で呼ぶ名称なので、五臓とは、肺臓、、心臓、脾臓、肝臓、腎臓のことで六腑とは、大腸、小腸、胆、胃、三焦、膀胱のことといつている。がいづれにしても、右の三大条件は、皆この各種の体内臓器に依つてその作用を行つてい
る。然し、更にここに正確に知悉せねばならぬ重大な事実は、およそ体内臓器というものは、どんな種顆のものでも、それ自体で働く力はないということである。即ち独自的可働牲が無いのである。それでは一体どうして、肉体生命維持に必枢とする三大条件という微妙な事実を作用するのかというに、それは、丁度あやつり人形の仕かけとはぼ同様な関係で作用しているといつてよい。
あやつり人形というものは、人形それ自体に、動く働きはない。何本かの操り糸が、人形の局所局所に結びつけられて、人形使いが、巧妙にその操り糸を操作することに依つて、さながら生ける人と同様の所作を演ずるのである。体内臓器もまたこれと同様で、操り人形における操り糸の如くこれを働かす機能が別に存在していて、一見独自的の可働性で作用するかのように、あの微妙な作用を行うのである。 それでは、体内臓器に対する操りの糸ともいうへき不思議な機能とは、一体何かというと動物牲、植物性という二大別をもつ神経系統のことである。そこで、万一右の神経系統のどれかに、故障なり、不完全の点があるとしたら、体内臓器の諸作用もまた当然その働きを、円滑に行うことが不可能になる。それは操り糸のどれかが切断したり不完全である時、操り人形が完全に所作することの出来ないのと同様である。
ところが、多くの人の中に、特に、生命の重要性を考える人の中にも、この重大な事実を案外自覚していないという、生命営為の現象事実に対する認識不足の人が存外に多い。そして、そういう人に限つて、胃が悪ければ消化剤を服めば治ると思い、心臓が悪ければ心臓病に適応する対症治療薬を服用するか、注射でもすれば治癒するように思つている。即ち内臓の諸疾患は、臓器そのものにある対症療法を施すことに依つて、治癒の目的を達し得られるものと考える。然も、こうした考え方が、往々専門の医家の間にも散見せられるのは、広き意味における民族健康のために、慨嘆すべき事柄だといわねばならない。
勿論、対症療法というものもある程度必要には相違ない。然し、由来疾病の治癒するというのは、それが何の種類の病症であろうとも、いづれも、体内に存在する自然良能力(V.M. N.= Vis Medicatix Naturae)という特殊作用の力である。たとえ、世界一の名医であつても、この自然良能力の減退している人の病患は、何としても完全治癒に導くことは出来ない。例えていえば糠に釘打つよりも難かしいことであるからである。つて、病を治す根本要訣は、この自然良能力の完全発動を促進することを先決問題とするので、対症療法だけでは、どれはど入念にこれを施行しても、到底所期の効果を理想的にすることは不可能なのである。事実において、対症療法だけで一切の疾患がよく全治するものなら、医者もその苦労を減少するであろうし、第一人間もどんな病に対しても安心しておられることになるのだが、そうはうまく問屋が卸してくれないのが実際である。何故内臓疾患に対し、内臓それ自体に対する対症療法だけでは嘱目すべき治癒効果を挙げ得ないかというと、上述した一番肝心な自然良能力が、内臓それ自体に存在していないからである。それではその自然良能力というものは、体内のどの部処に存在しているかというと、これまた神経系統の生活機能内に、厳として存在しているものなのである。このような確固とした事実を論点とする時、洵(まこと)に神経系統というものは、取りもなおさず、生命確保の中枢的存在だと結論される。

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(2)生命の流れ

前節に於て私は、人間の命は気という原始的ヱレメントが、命の力(Vril)の根源となり、ここに一箇の生命体というダイナモを作為し、更にこのVrilがそのダイナモに受入れ られたものが、電気の場合と同じく、生命諸般の力となるへき第二次的原動力要素というものを作成すると述べた.
ところで、この第二次的原動要素というものも、やはり、神経系統の生活機能内で、特殊的に作用しているものなのである。
これからみると、何人にも神経系統というものが、どれほど生命に対して重大な存在であるかという、その重要性を遺感なく認識査定することが出来ると思う。そして、更に生命に対して、中枢的重要牲をもつ神経系統というものが、どういう機能に依つて、その作用の支配を受けているかということを考えると、精神生命=心というものこそ、人生建設に先決的 に重視されねばならぬという絶対真理を正しく信念し得ると思う。
では、神経系統の一切の作用は、どういう機能に依って支配されているかというに、これ を直接的にいえば、中枢神経である。そして、中枢神経は何に依つて営為の支配を受けてい るかといえば、脳髄府である。ではこの脳髄府とは、どんなものかということは、別に専門家でなくとも、大抵の人は知つていることと思う。即ち、脳髄府とは、大脳、小脳、延髄を保有する一規劃に対する名称である。そして、更に、この脳髄府の中に保有されている大脳、小脳、延髄とは、元来、どんな作用を行う機関かということを考えて見よう。そうすると、生命に対する心の価値と重大性が明瞭に肯定されるから、‥即ち、大脳、小脳、延髄とを保有する脳髄府こそは、精神作用=心の働きを、生命の内外に現実表現する厳粛な一生命機関なのである。ということが、自己の意識領に明確に認識出来たなら、更に、今まで説いた生命現象を順位的に考えれば、心=精神こそ、生命の流れの源頭だということを、突嗟!!無条件に合点されると思う。諺にもいう、源清からざれば末又潔からずと。生命一切の強化を現実化するという命の力を完全にするために、心身を統一するには何はさて措いても、第一に、精神生命の生活態度の決定ということをその先決問題とし、肉体生命の法則を知ることをその第二とすると力説するのも、以上の理由による。
それでは、その生命処置に先決的に必要とする精神生命の生活態度の決定とは、どんなことかというと、即ち、

○精神生命保持の法則と
○精神生命使用の原則という二個の条件の実行である。

そして、精神生命保持の法則とは、
○精神生命を、如何なる場合にも、積極的に把持することであり、
更に、精神生命使用の原則とは、
○精神を使用する時は、必らず精神を統一して行うことである。

即ち、右の二条件が、精神生命の生活態度を決定する必須にしてまた犯すべからざる真要諦なのである。事実に於て、万一右の条件のそのどれかが、不注意に疎略にされると、生命の源頭ともいうべき重大な生命要素であるところの心の力は、根本的に減退して仕まい 延いては、生命全体もまた当然、その活きる力を減退するということになるのである。

則ち、元定まらずんば未収まらずなのである。
これは、深く考えるまでもなく、前に述べた生命生存に対する事実現象を考慮すれば、すぐ分ることで、即ち心の力が減退すれば、生命確保の第二次的原動力要素を保有する、生命維持の中枢ともいうぺき神経系統が、見る見るその生活機能を減退してしまうからである。

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(3)心の生命に及ぼす影響

諸君は、これまでに、心の生命に及ぼす影響ということを、何かで必らず見聞しておられることと信ずる。特に肉体に及ぼす心の影響ということは、大抵の人がよく知つていることと思うが、にとえば極度の恐怖感が心に生ずると、忽ちそれが物の声に応ずる様に、肉体に劇甚な衝動を与え、心臓はさながら早鐘を打つような鼓動を起し、顔面その他の皮膚は、血の気を失つて蒼白となり、ものいう声さえも、呂律の廻らぬかのように顫え出し、果ては身体を支える力を喪失して、完全に起立していることさえ出来ぬようになる人さえある。
しかもこうした現象は、ただ恐怖の感情発作の場合だけでなく、悲しみの感情発作の時でも、また怒りの感情発作の時でも、更にその他の消極的感情発作の時でも、その現象に大同小異はあるが、必らず発生する事実現象である。俗に怒髪天を衝くなどというのも、心の生命に及ぼす影響を端的に表現した言葉であるが、何れにしてもこうした事実現象は、何人でも、自分も経験し、また他人の生命でも実見していることと信じる。
然し多くの場合、多くの人々はこうした事実現象を目撃しても、極めてありふれた人生共通のことのように軽く考えて、それ以上にこうした事実現象が肉体の外部にだけ表現するものでなく、深く肉体生命の内部に浸透して、諸種の悪影響を生命維持の各機能にまで波及しているという事実を考えていなあいようである。否、事実この事を真剣に考えていない証拠には、多くの人の日常を見ると、実に些細のことにも怒り、僅かなことも悲しみ、大したことでもないのに恐怖するという消極感情を、極めて無雑作に朝夕発作させているのである。
中にも、滑稽に思えるのは、このことばかりは、どうしても怒らずにはいられないとか、これを悲しまぬ者は馬鹿だとか、或は、こういうことを恐怖しない人は人間ではない、とかというように、わざわざ理屈をつけて怒つたり、悲しんだり、恐れたりしている人すらあるそして、そういう人に限つてこういう風に怒つたり、悲しんだり、恐れたりする度に、その消極感情の発作の影響が、肉体生命の活きる力までを全体的に弱めて、或は病の近因を作りまたは早老の遠凶を作るという、生命に甚大な危険をその度毎に醸成しているということを気づいていない。尤も気づかないからこそ、無雑作に怒り、軽卒に悲しみ、無分別に恐怖するのであろうと思う。実際、こういう事実現象が生命に存在することを知つてながら、強いて、自己の生命に、自分自身直接間接に危害を与えるようなことは、まともの精神を持つものでは為し得ない筈である。
古語に、聖者怒らず、覚者悲しまず、勇者恐れずというのがあるが、そうした種類の人でなくとも、こうした、心身相関の現象事実を知る以上は、自己を消極的感情の擒にし、貫重な人生を冒することが、甚しい愚かな行いであることを思わないものはないであろう。まして、自己を徹底的に守り、徹底的に愛するものは、自己以外に絶対に無いということに想到すれば、より一層、粛然たるものを感じなければならない筈である。就ては、なおこの理解を正しく信念化すために、心の状態が肉体に及ぼす影響をもう少し詳説して、諸君の人生参考に資することとする。

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(4)感情と肉体

第一に諸君の真摯な注意を促がしたいことは、消極的感情の発作に因り、吾人の肉体生命円を循環しつつある血液の受ける影響である。実験心理学及び精神科学的考証に拠ると、人が消極的感情を発作すると、血液は即坐にその色及び味いを変化するというのである。詳しくいうと、怒ると黒褐色に変色し、その味い渋くなり、悲しむと茶褐色となつて苦味を呈し、恐れると淡紫色傾向となつて、酢味を感ずる。そして、特に注意すべき問題は、このように変色変味した血液は一様に、健康保障に必要とするアルカリ−度を著しく減少して、酸性化するというのである。そして、血液が酸性化した場合は、一体その結果はどうなるかというと(詳細は肉体生命の法則を説く際に詳説するが)肉体健康は忽ちその障害を受けて、何かの疾患に必ちず犯されるに至る。
そもそも血液というものは、吾人の肉体生命維持に欠くべからざる要素で、恒に肉体細胞の生活営為とその生存保障の任にあたるという重要なもので、西洋の諺にもBlood is life=(血は命なり)とさえ称しているくらいである。
然もこの影響事実は単に血液だけでなく、血液と同様に、生命維持に必要な要素である淋巴液にも波及し、延いて各種の内分泌、外分泌の作用にも、打てば響くといった影響を反動的に与えるものなのである。

更にもう一つの参考として、呼吸に関する価値高い実験報告があるから、それを摘記することとする。
この実験の動機は、人間が感情を発作すると、特に消極的の感情が発作すると、著しく呼吸の状態に変化を認める。即ち溜息をしたり、呼吸が浅くなつたり、または深浅不調になるという事実に対し、呼吸の状態にこのような変化がある以上、その呼吸に依って生ずる特に呼気の中には、何か特殊の変化がありはしないかというのがその端緒なのであつた。そこで平素やたらに悲観し勝ちの人と、怒りっぽい人と、憶病の人とを実験材料として、この人々にコップの中に呼気を吐き出させ、そのコップの周囲に附着した呼気水分を、或る特殊の酸液(多分Acidosinのようなものではないかと思う)を以つて操作の上注射液を作り、これを各別にモルモットに注射して、その反応を実験した処、悲観気分と恐怖気分の多分の人の呼気操作液を注射された方のモルモットは、数分間後に苦悶状態を発し、間もなく虚脱状態に陥り、怒りっぽい人の呼気操作液の注射を受けた方のモルモットは、acro para anasth esie状態となり、四肢の末端が麻痺されたように頗る運動不如意の状態を呈したという。
こういう反射事実が、多少ならず存在していることを考えると、ただ単に血液だけの上の影響でも健康保障に脅威を感ずるのに、まして生命全体の広範囲にまでその影響が波及されることを思うと、更に一層に戒心しなければならないことを痛感せられると信ずる。
そして、このように影響事実は、どれも皆、心の態度が消極的となり、その結果肉体生命維持の各機能を直接関接に司どる神経各系統が、その生活力を減退するため、それが一切の根本原因をなすからであるといい得る。
これもまた世間によくある事実だが、神経家が日頃恐れている病には早晩襲われるとか、または類似コレラとか、擬似赤痢とか、想像妊娠とか、禽獣類を殺して料理することを生計としている家に不具者が生れるとか、一度当てられた食物は、どんな新鮮なものを食しても必らず当るというようなことも、何れも皆、心と神経系統との輔車唇歯の密接な関係が然らしめる結果に外ならない。
更に、心の態度というものは、右のように肉体生命内のいろいろの作用や力に影響を与えるばかりでなく、人の運命の上にも、やはり同じような不良の影響を及ぼすということは、特に人生を確保しようとするものが決して忽がせにできない重大なことである。
それは多くいう必要もないことで、運命の打開と啓発に必要とする能力や、判断力や、断行力や、精力、胆力等が、神経系統の生活機能の萎縮とともに、第二次的原動力要素の減退を招さ、その結果完全に発動することができないことになるためである。これは理論的に要約すれば、第二次的原動力要素であるBioelektrizitatは、恒に動物性神経と植物牲神経との相互亢奮の調整を保持するという特定作用を有しているものであるがそれが心の態度に依つて変調を呈すると同時に、、右の両性神経の相互亢奮の平衡を保ち得ない結果、勢いどれか一方の神経の異常亢奮を昂進するため、生命一切の力が乱調子に陥り、結局正当に力強く発動しないようになるためである。
いづれにしても、こうみてくると、これ以上の証査を必要とすることなく、人生人として生きるものは、どんな場合にも、即ち、健康の時でも不健康の時でも、また幸運の際にも、不運の際にも、否どんな苦難不如意の時であつても、その心は断固として積極的に、厳として把持しなければならないというのが、人間に与えられた宇宙真理であると同時に、また人として厳守すべき自然法則だと徹底自覚されたことと信ずる。
私が、常に、
身に病ありとし雖も心まで病ますな。
運命に非なるものありとし雖も心まで悩ますな。
と絶叫している所以もまたここにあるのである。

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(5)How to do ?

そこで、次に知らねばならぬ重要な事項は、それではとうすれば、心をどな場合にも常住積極的に把持し得るかという現実的の重大問題に就てである。
というのは、たとえこれ迄の説明が、どれ程徹底的に理解されても、肝腎要めのことは「積極的精神の現実作成」ということである。およそこの事柄が正しく会得されない限りは、これまでの理解は知らないよりは艮いという程度で終るのみならず、どうすれば心を積極的に保ち得るかということを会得しないと、時とすると、この理解を知らない時よりも、二重三重の苦悩を心が感ずることになるのてある。即ち、知らない時と違つて消極的の心の態度の影響を知つているだけに、自分が万一その時積極的の心持になれないと、それを必らず煩悶し、苦慮するに相違ない、すると心はますます消極的の加重率を増加して、より一層不良影響を増大することになる。
ところが、特にここで厳粛に諸君の注意を真剣に促して置かなければならないことはこれまでに説明した心と生命との消息は、古往今来、人生を研究した学者識者の仲間から、大なり小なり論述発表されている。然し、彼等は殆んど一様にといつてよい程「心身はかくの如き相関々係の下に在るのであるから、心を常に何ものに捕われず、無礙自在の境地に活かすようにに心がけるべし」といつて、平然とそれで結論している傾向が多分にあるのである。
前節に、多くの学者識者はHow to say?に重きを置いて、How to do?に重きを置いていないといつたのも、要するにこの点であつて、多くいうまでもなく、吾人の真の人生要求は、知得した批判と理解を現実化す手段方法ではあるまいか!!千万理論を知つていても、これを現実化することを知らなければ、露骨な皮肉ではあるが、それは本箱と相等しきものだといつてもよいと思う。
ところが、事実遺憾千万にも、いわゆる先哲識者と称せられる人々は、種々の言葉をもつて、理論の演繹説明を入念にしてはいるが、肝心のそれを現実化す方法手段という一番大切なことには少しも論及していない。そして、強いて追究すれば、それから先きは、自己啓発に依るより他に仕方はないというのが、その定石となつているのも、また共通的傾向である。
然し此処である。お互いのすべてが、真人、至人、達人というような人達なら、自己啓発という様なことも、別に大した至難事ではないかも知れないが、世間一般のお互いは、概しして、不覚不明の凡人が多いのである。即ち、批判と理解の中でのた打ち廻つても、自己啓発などということは、思いもよらぬという者の方が多いのが真実相である。
按ずるに、先哲識者の多くは、人間というものを一様に、御自分達と同様な、優秀な自覚力を共有しているというように買被つているのではなかろうか。即ち、ある程度の批判と理解とを与えれば、それから先きは、自身釈然として一切の疑義を解くであろうという風に考えているらしい、ということが決して失礼でない証拠には、大抵の先哲識者は「斯の道や、文を以て説く能わず、言を以て教ゆる能わず、よろしく心より心に伝えるに如かず」というように、換言すれば、以心伝心悟るに非ずんば能わず!! といつている。
正直の処、こういう私などもこの点で、どれだけ行き悩んだか判らなかつた。然し幸い努力の結果、多少なりと自己啓発を為し得たものがあつたので、それを基盤として「積極精神作成の実際方法」を特殊組織の下に創意工夫することができた。
そして既に、ここに三十余年間、心身統一法の講習を続行し、あらゆる有縁の人々にこれが垂迹宜布を行い、その講述の中にこの実際方法を組み入れて説いている。
そこで、それを次節に記述して、これまでの理解に正しい解決を与え、併せてこれを現実化する実践方法として提示する。

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(6)精神力の強化

さていよいよ積極精神作成の実際方法を説述することとするが、それに先だちくれぐれも注意すべきことは、こうした教義というものは、ただそれを理論的に理解したというだけでは到底その実際効果というものを如実に体得することは出来ないのはいうまでもないところで、要はその理解をひたすらに実践に移して、営々躬行に専念する以外にないのであるから、何を措いても理解したことを直ちに実行することである。
そして一旦実行に取りかかつたら、決して中途で怠つたり、または中止するようなこと無く厳格に自分自からに堅く誓つて、努力の精進を不断に継続されたいのである。
殊に文字を通しての理解や会得には、ややもすると批判的気分が多分に発動する傾向があ
るので、そのため折角の理解や会得を行おうとしても、とかく真剣の気込みを欠く懼れがあるので、一層の自己戒心を必要とする。
特に、私の創意したこの教義は、どんなに繁忙の人でも、行う意志さえあれば、日常生活裡に特別の時間をこれに充当する必要がなく、だれにでも容易に実行し得る特殊組織の下に組み立ててあるので、即ち、入るに極めて容易であるために、多分の努力を要しない結果、かえつてその価値認識を誤る人があるので、切にこの点を注意してほしいのである。
尤も、これまで真剣に人生を考えた人ならば、難解の人生哲学や、これに附随する釈明を極めて平易に、然も科学的に何人にも分り易く演釈することの頗る至難であることを充分諒知されているので、敢えて特別の注意を必要としないが、そうでない人のためには繰り返し婆言を呈する必要があると考え、特にこの注意を附加した次第である。
であるから、大いに批判するもよし、疑うもよしであるから、希くは先づ実行を何よりも先にされたい。
そうすれば、何等かの効果事実が、諸君の自覚領に映じて来るので、そうなれば否応なく真理を柔順に肯定するに至るのは必然であるからである。
そこでそれでは「積極精神作成の実際方法」として、先づどんな手段と方法とを行うべきか? というと、結論的にいえば、積極精神=心の強化ということを現実にする要訣は、行住坐臥の刹那刹那、その態度を、出来得る限り「明るく」「朗らかに」「活々とした勇ましさ」で人生に活きることである。
然し、このことは、ただそう思つた、悟つたというだけでは、決して徹底するものではない。単にそう思つた、考えたというだけで、すぐ様心の態度がそうなり得るのなら、何の問題もないが、中々そうはうまく行くものではない。或は一時的にはそうなり得ることもあろうけれども、また何かと消極的の衝動や刺激を心に受けると、いつの間にか元の黙阿弥に立ち返ることが多い。だからただそう思つた、考えたというだけでは、思わないよりいく分は良いというだけのことで、その目的は完全に達成するものではない。
要は、行うに法を以てせずんば能わず矣である。
では、その法とは如何? というと、先づ第一に知らなければならないことは、精神錬成の方法は、飽く迄精神中心主義でないと、よくその目的を達成し得ないという事柄である。分り易くいえば、心のことは、直接心そのものに対する方法を以てしなければならないということである。
特にここにこのことをいうのは、とかく現代人は、この大事なことに対する正しい自覚をもたない傾向があるからである。則ち大抵の人が、心の強化錬成にも、ややともすると肉体を本位とし、肉体に何等かの方法を講ずれば、その目的を達し得るもののように考える人が、相当多い。
前節においても、その片鱗に触れて置いたが、肉体を中心本位として作り上げた心というものは、どうしてもその強味が相対的になるからである。
ところが、この事実を正しく認識していない人は、更にこの誤解にわざわざ科学的の理論説明を附加して、その誤りをますます深刻にしている人すらある。
則ち、その種の人は、こう主張するのである。「心」といつてもそれは科学的にいえば、大脳のことではないか、そして大脳というものは、吾人の肉体内に存在するものである以上、やはり肉体の一部分である、であるから、これを強化錬成するには、先づ肉体を本位として、何等かの方法を行うべきだと。
然しこの主張は、ただ一面に存在する理由だけを楯に採つた見解なので、寧ろ皮相的の観察でしかないといわなければならない。
一体現代人は、特に科学一点張りの理智教養を享けた人は、何かの説明を施す際、科学的という言葉を用いると、矢庭にこれを何か絶対真理のように早合点するという傾向が顕著にあるようである。然し静かにこれを考査すると、およそ科学的理論考証には二つの区別がある筈である。
則ち、絶対真理を説明したものと、今一方は、こうもあろう? という推定仮説に科学的理論思索を施して説明したものとの二種類である。前者は、たしかに尊敬すべき偉大な智識であるに相違ない、が然し後者は、ただその説明態度が科学的だというだけで、それが果して絶対的真理であるかどうかは、いわゆる未知数のものである。ところが、その未知数圏内のものも、科学的という言葉に重きを置いて、絶対真理のように思い込むのは、決して学問に対する真摯の態度とはいえない。現にへッケルもドリユースも、この種の状態をscientific(科学的迷妄)と呼んでいる。
則ち、科学的という言葉に重きを置いて、科学的といいさえすれば、それを絶対真理のように早合点して、他に真理を求めようとしない誤りをいつたのである。この言葉こそは、かりにも人生に関することを研究するものには、それが哲学者であれ、宗教家であれ、更に人生を対象として特に科学をその研究的生命とする医家や、物理学者や、科学者に対しては、たしかに傾聴反省に値いする頂門の一針であろう。現に、前述の心に関するいわゆる科学的という考え方も、大いに考査する必要がある。というのは、科学的に心というものを見る時、それは大脳だというが、それは形なき心=精神というものを、形而下の科学で説明するのには、勢い大脳を心と見做して論ずるの便法に拠らなければならないので、従つて生物学者も公然これをAssumption of hypothesis(仮定説)といつている。
それでは大脳とは何か?というに、要約すれば、精神活動を表現化する一機関なのである。分り易くいえば、心の働きを形に表わす要具なのである。やや第二義的ではあるが、丁度それは画家の絵筆と同様のものだといえる。
絵筆は画家の芸術を表現化する貴重な要具ではあるが、画家そのものではない。これと同様に、大脳は心の微妙な働きを表現する大切な一機関ではあるが、心そのものではない。
また仮りに百歩を護つて、一派の科学的見解をもつた人に加担して、心即ち大脳なりとするとして、更に慎重に考えなければならぬ実際問題は、では大脳は肉体の一部分であるから、先づ体を強化することを先決するとして、し肉体を何等かの手段で強くし得るとしても、果してこれと並行して大脳までも、実際的に強くでき得るかということである。
また、これも仮りに大脳が、体の強さに比例して強くし得るものとしても、当然心まで強くなるかということについては、頗る疑いを感じない訳に行かない。というのは、議論でなく、論より証拠の事実に徴して考査して見ると、一番明瞭に分明する。

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(7)健康えの要諦

前にもこの点を略述したが、体の強健な人が心までその体のとおり強いというのは、寧ろ極めて稀な事実で、心の強い人も満更無いでもないが、そういう心の強さは、どうも多くの場合、その体の強さに比例もた強さで、何かの動機で体の強味を失うと同時に、その心の強きも失われるという相対的の強さであるのが普通の現象である。
更にまた事実において、これと全く反対に、体は病弱でも、心の方が遙かに強い人がある。そして、その強い心で弱い肉体をよく長寿させたという実例も実に多分にある。
インマニヱル・カントが、生れつき極めて恵まれぬ弱い体の持主であつたにかかわらず、その不屈不撓(フトウ)の大精神力で、古稀に達する長寿をした上、死ぬまで幾多の著述を世の中に公にする努力を中止しなかつたという逸話は大抵の人の知る処で、そして将にこの世を終ろうとした時「予は、予の心に最大なる感謝を捧げる。予の生来の病弱体を今日迄活かしてくれたのは、偏えに予の心の力である。」といつた言葉も、余りに有名な言葉として残されている。

またわが国にも、体は弱かつたが心が強いために、よくその病弱に打ち克つて長寿を遂げた人の数が相当に多い。たとえば平田篤胤、貝原益軒などはその著名な人々で、聞く処に依ると、山県元師も、壮年の頃既に肺を病んで決して頑健な体躯ではなかつたらしいが、八十有余歳までも長寿を保つた。そして元帥は平素決して自分の弱いことを少しも気にかけていなかつたとのことである。
こうした例話は、書さ出せば殆んど枚挙に遑のない程多数に存在しているので、こういう私なども中年にして肺患に犯され、然も、専問家のいうGalopp性という、極めて進行の早いものに犯されたのである。肉親に医者が多かつたが、皆私に再起不可能の見切りをつけたのであるが、幸いにも、自己啓発に依つて精神を強化し得てその難病を克服し、爾来極めて壮健になり得たので、その体験を経とし、更に自己の研究を緯としたものを心身統一法と名づけ、その宜布に三十有余年間大した衰えも感ぜず、今日に及んでいる。こうした事実は一体、何を物語るものであろうか、否、私が前節において、よく世人がいう処の「健全な肉体に健全な精神宿る」という言葉は、真理でないとはいわぬが、然しそれは強いて真理という言葉を使用するならば、相対的真理というベきで、決して絶対的真理ではないといつたのは、その理由が実にこの点にあるのである。もつと分り易くいうならば、絶対真理なるものは、今一つ他にあるからである。ではそれはどんなことかというに、日く「健全な精神が健全な肉体を作る」ということである。これこそ洵(まことに)に、昭として犯すべからざるの絶対真理なのである。然も、この健全精神−私の提唱する積極精神というものは、肉体のみを本位とした方法や手段では、どんな努力を敢行しても、これを完全に作り上げることは断じて不可能である。
ただし、この意味は肉体に施す方法を全然不必要だというのではないことを、誤解されぬよう注意されたい。勿論、心身相関の関係の下に活きている以上、肉体に施す方法もある程度必要とすることはいうまでもないが、それより以上、精神に直接的に施す方法の方が先決的こ必要であるということを力説しているのである。
一体「健全な肉体に健全な精神宿る」という思想が、絶対真理のように普遍的に思われるようになつたのは、十七世紀以後のことらしい。即ち物質文明の台頭期頃からのことのようである。然し、由来この言葉の語源を探究して見ると、決してそうした意味で作られたものでないということが分る。
参考のため、今これを左に摘記することにする。
"Oiundum est sit mens sana in corpore sano. "
そもそもこの語はだれがいつたかというに、文献に拠れば、ローマ法皇二世が、側近の哲 学者として有名であつたジユウベナリスに、神に祈る人間のほんとうの偽りのない気持を簡単な言葉に組み立てて見よといわれたので、作られたとのことである。そして、この言葉の真の意味は「上帝よ、人に心も体も強きことを祈り奉る」というのだそうである。それが、やがて後世物質文明の旺盛期に入ると、期せずして、物質論者が、その物質至上論に都合よく当てはまるように、これを「健全な肉体に健全な精神と」訳し替えたものなのである。そして、それが唯物論以外の真理に目を呉れない人々には、まるで金科玉条と考えられて、果ては今日のように普遍的に流布されるに至つたものである。
然し、文句としては実に立派に聞こえるが、やがて人生の実際経験の中に、ぴつたりと符合しないものを感じたり、或は第一にその健全な肉体さえ、中々思うように作り上げることが困難だという実際的事実にほんとうに苦しんだ人達が、これは相対的真理だということを自覚するに至り、最近では最早余程頭の古い人以外には、この言葉を絶対的の真理として珍重しなくなつて来た。これは要するに真理に対する正しい態度で、たしかに人の世のため喜ぶべき一つの進歩というべきである。何れにしても、事実は最後の証明者であつて、精神強化の真要諦は、精神中心主義でなければ、到底その目的を達成することは至難といぅのが、争う余地のない歴然たる事実なのである。

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(8)感応性能の積極化

それでは積極精神作成の実際方法としてどんな手段を心に施すべきか? というと、その第一条件として必要なことは「精神生命に固有される感応性能(Suggestibilitat)というものの積極化」を現実にすることである。分り易くいえば、感応性能の積極的か、もしくは消極的かということが、直接その人の心の強し弱しに、密接不離の関係をもつているからである。
俗にいう神経過敏の人とか、気が弱いとか、または愚痴っぽいとか、怒りっぽいとか、因循な引込思案の人などとというのは、一様に感応性能が消極的なのである。あの人は肚が出来ているとか、神経の線が太いとか、気が大きいとか、いつも快活明朗だとかいう人は、感応性能が積極的なのである。
由来、原因と結果とは常に相関している。従つて積極精神の作成には、その先決条件として、感応性能の積極化を現実にすることが、最も捷径(しょうけい)な哲学的態度であると同時に、最も正当な科学的態度である。そして次に重要な条項は、然らば、その感応性能の積極化を現実にするのには、どうするかという問題である。 それには、左の三つの条件が解決されれば、容易にその目的を達成し得るのである。
その三つの条件とは
(1)観念要素の更改
(2)積極観念の集中力養成の実践
(3)神経反射作用の調節
換言すれば、右の三条件が完全に解決されなければ、積極精神の完成もまた完全にならぬということになるのである。そこで、先づ右の条件中の第一項目の観念要素の更改ということから、説明を進めることにする。

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(9)観念要素の更改

観念要素の更改とはどういうことかというと、先づ第一に理解すべきことは、人間の心で営まれるいろいろの思考作用は、すべて一切この観念要素というものが、その組織の根蔕を為すということと、更に随時随処その心で営まれる思考作用というものが、一々物の声に応ずるように感応性能に反映するということである。これは積極精神を作成しようと望む者にとつて極めて重大な理解であるから、もつと詳細にかつまた分り易く説明することとする。

さて我々人間は、物心ついてから、三寸息絶えて万事休するその刹那まで、熟睡する時以外は、絶えず何事か思い、何事か考えている。何にも思いもせず考えもしないといういわゆる絶対無意識の時というものは殆んどない。もしあつたとしても、ほんの瞬間だといつてよい。
そして、特に注意すべきことは、その思つたり考えたりすることがすべて積極的ならば、敢えて何も言うところはないのであるが、もしもその思うこと考えることが、消極的である場合は、前に述べたとおり、心で行われる思案の一切が、一々最大洩らすことなく感応性能に反映する関係上、消極的の思考は直ちに感応性を消極化してしまうのである。そして、その結果は、また当然精神生命をも消極化してしまうのである。
そこで、更に慎重に反省しなければならぬことは、お互い現代人が、随処随時その心を思わせ考えさせていることは、卒直にいえば始んどその九分九厘までは消極的ではないのであろうか!!ということである。即ち、悲観したり、腹を立てたり、煩悶したり、恐怖したりという風に・・・だとすると、どんなに、心の強くあることを祈り、明るく朗らかに活々とした勇ましさで、心を把持しようと思つても、到底その目的の半ばも達成することは出来ない。
こういうと、そりや無理な話だ、誰だつて好んで悲観したり、怒つたり、煩悶したりしたくはない、然し現代の世相やそれに絡まる人の様子はどうか、これが悲観せずにおられるか、煩悶せずにおられるか、まともの神経をもつている以上は、どうしたつて、そうなるのが当然のことだと、言い張る人も相当に多いと信ずる。
然し、それはただ現象にだけ眼を注いで、心の内面の消息に対する観察や研究の不充分なための主張であつて、もう少し心に対する理解が正しく智識づけられれば、なお考えなければならないことが多くあることを感じるに違いない。
そこで、その理解に必要とする消息を説明することとするが、一体人間の思考作用というものは、心の深部で行われるのでなく、心理学的にいえば、実在意識領と称する分り易くいえば、心の第一層面(心の表面)で行われるものなのである。この思考が心の表面の実在意識領で行われる時、実在意識領の単一な作用で、種々雑多の思考がその領域自体から発動するのではないので、実在意識領が、何事かの反応なり刺激を受けて、思考作用を行おうとすると、突嗟これに応じて、心の深部にある心の倉庫ともいうべき処から、その思考を組立てる材料要素を実在意識領に運び込んで、そこで一箇の思考型態が具体化するものなのである。
心理学上からいうと、この心の倉庫ともいうべき心の深部にあるものを、実在意識に対応して潜在意識と名づけ、思考を組立てる材料要素となるべきものを観念要素と呼んでいるのである。
であるから、実在意識と潜在意識とは、常に一連の結合をなしている不可分のもので、人間の思考には、特にこの潜在意識領内に保有される観念要素というものが、殆んど皆その因子を為しているといつてよいのである。そして、潜在意識内にある観念要素が、消極的のものを多分に保有していると、イザという時、どんなに積極的に物事を思考しようと努力しても、断然不可能に終るということになるのである。
そこで、吾々は、大いに厳密な査定を、吾が心に施して見る必要がある。即ち、常日頃とかく物事を消極的に思考する人の潜在意識領内にある観念要素は、殆んど消極的のもので充満している実状なのである。
では何故、現代人の観念要素が、概して消極的のものが多いかというと、もとよりその原因は種々多様で、微細に分析すれば千差万別の夥(おびただ)しいものになるであろうが、大体において父祖の遺伝関係もあろうし、また自己の受け入れた智的教養や、自他から受ける人生経験というものも、大きな原因として見逃がすことは出来ない。
いづれにしても、積極精神作成の先決要項である感応性能の積極化を現実にするには、実在意識領の思考作用を積極化する必要上、潜在意識領内に保有される観念要素の更改を具体化しなければならないことになるのである。
即ち、言い換えれば、観念要素の更改とは、潜在意識領の浄化を期成することで、分り易くいえば、心の倉庫の大掃除をして、古い役にたたないものや、あるとかえつてよくない結果を心に与え延いて生命全体に与えるものを、真に役立つ価値あるものと入れ替えるということになるのである。
もつと、通俗的にいえば、一箇の樽の中に入れてある水に、塵や埃やその他の汚物が混入し、ぼうふらやその他の細菌類が充満した時、その樽を完全に洗い浄めて、更めて新鮮な清水を入れ替えると同様のことが、この観念要素の更改ということなのである。
そこで、この観念要素の更改という間題はどうすれば解決されるか?

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(10)暗示感受作用

どうすれば観念要素の更改ができるかということについては、或は人格同化法とか、挙證説得法とか、自覚内省法とか、種々の形式がそれぞれ専問家に依つて説かれているが、私自身深く苦しんだ経験から「人間の精神に固有する、暗示感受作用を応用する特殊の自己暗示誘導法」という方法を提唱する。
というのは、勿論、学者識者の説く前記各種の方法にも、何れも皆立派な根拠もあり、論理も具わつているのであるが、我々人間は疑い深いという心理を習性的にもつている。そのため自分自身充分よく分らないことに対して、最初から全然白紙のように、純真に中々それを信じ切れない。特に、いささかでも理智教養を受けたものは一層この傾向が顕著である。ところが学者や識者の唱える教義や方法は、信念というものが充分でないと、完全に理想的にその効果を味い得ないものが多い。現に私なども、そのために随分と苦しみ悩んだものである。尤も、釈尊でも「信なき衆生は救い難し」といつた程だから、それもまた一面に存在する道理には違いないが、然し、どんなものでも、それをまだ実際的に味わない初めから、信を以てこれに当たるということは、余程心の出来た人か、それとも生れつき純真無垢の人でなければできないことで、私などは、長い間不健康に苛まれ、その上運命に翻弄された結果もあるので、何でも頭から先づ疑つてかかるという稔じくれた心の持主であつたので、折角のよい教えも、丁度笊で水を汲む様に、忽ちに漏洩してしまうという有様であつた。然し、つくづく考えたことは、信なきものは救われぬとしたら、信なきものは一生迷路に彷徨せねばならないということになるが、それでは信あるもの、信なきものとどちらが人の世に多いかというと、信なきものの方が実際に多い。すると造物主は、人間というものを、苦しめるために生んだということになるが然し造物主が人を作つた意図が、たしかにそうでないのが真理である以上、信なきものと雖も、救われぬ筈はないと考えなければならない。そこで、百方苦慮研鑽努力した末、創見したのが、ここに述べようとする暗示感受作用を応用する「自己暗示誘導法」というものなのである。
この方法に依ると、どんなに疑い深い人間でも、疑う傍らから何かの効果事実が、自己の意識領に大なり小なり手答えを与えてくれるので、いつの間にか今まで抱いた疑心も事実の前に屈服してしまい、柔順にその方法の効果の中に抱擁されることになる。だから、この方法を私は、どんな人にも、最も手取り早く、奏効を現実化す方法として、勧奨しているのである。
そこで、その実際方法を説く前に、一応暗示感受作用というものに就いて、説くことにする。そして、この暗示感受作用というものを理解するには、暗示とは何?ということから理解するのが順序であるから、それを先づ説明することにする。
暗示について心理学はこう定義している。「暗示とは、人の精神に無条件に同化感化の力を働きかける事実現象なり」と。そして、こうした働きを行う暗示となるものは、凡そ左の四種類に分類される。
(1)言語 (2)文字(3)行動(4)現象、等
厳密にいえば、宇宙間のありとあらゆる事物事象は、悉く人の心に同化もしくは感化を与える暗示となるといえる。即ち、人間社会の習慣も風俗も乃至は教育も何れも暗示の連続的作用に外ならないのである。もつと卑近な例を挙げれば、多くの人々が流行を逐うことや、何かの出来事に附和雷同する群衆心理の動きや、更に、映画や、演劇や、講談、浪花節等に感動するようなことも、詮じ詰めると皆、暗示に同化感化するためなのである。この見地からすれば、人はだれでも、暗示の世界の中に活きているといつて差支えないのである。
そして暗示の中には、積極的のものと、消極的のものとあつて、人の精神はだれでもこの暗示というものに、感化同化する作用がある。これ即ち、暗示の感受作用というのである。
なお知つて置くべき必要なことは、暗示には、他面暗示というのと、自己暗示という二つの種類があるということと、暗示というものは、その暗示に対して「反抗」もしくは「拒否」或いは「否定」という精神状態が生ずると、その暗示を感受する程度が著しく減殺されるという事柄である。
但し、他面暗示とは、文字どおり自分外の他面から自己の精神に来る暗示のことで、自己暗示とは、自己自身、自己の精神に与える暗示のことをいうのである。
それから一つ特にいいたい重要な消息は、暗示の同化感化の状態というものは、その精神の暗示感受作用と相対的のものだということである。そして同時にその暗示感受作用もまたその精神状態の積極もしくは消極の、そのどちらかと常に密接なる連関をもつているというごとである。
即ち分り易くいうと、人間の心の強弱に従い、その状態のとおりに感受作用というものは作用するものなので、従つて心の弱い人の暗示感受作用は、消極的の暗示事項には、即座に迎合するが、反対に積極的暗示に対しては、前記の「拒否」「否定」を行つて、これを受付けないという事実があるのである。特にこの傾向は他面暗示に対して顕著であることは、注目すベきである。
これは、事実に徴して見るとすぐ判明する消息で、たとえば、心の弱い神経過敏の人に、積極的の生活法や、養生法が、容易に採用されないのもこのためで、そういう種類の人に限って、自分の様な先天的に弱い体のものは、かえつて積極的の方法は、障るとも効果はないというように、頭から拒否なり否定を施してしまう。
また更に、不良性に傾いている人などが、先輩や父兄の善良な忠告を耳にも入れず、空吹く風と聞き流して鼻の先で笑つて受けつけないというのも、また前記の理由に依るものなのである。ところが、自己暗示の場合には、それが特に自己を改善しようとか、向上せしめようとかいう正当欲求から施される時には、その暗示感受作用の状態から受ける影響は、他面暗示と比較して極めて尠(せん)少なのである。
そこで私はこの精神生命内に実在する現実傾向を基盤として、更に一層に暗示の透徹力を現実に深刻にし得る特殊の自己暗示誘導法を創意し、観念要素の更改を現実にすることに成功した。

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(11)自己暗示誘導法

その方法というのは、大略左の数種類である。
○観念要素更改のための自己暗示誘導法
(イ)聯想暗示法
(ロ)命令暗示法
(ハ)断定暗示法
(ニ)附帯要項
其一、日常の言行
其二、感謝の生活と三行
其三、三勿の実行
以上列記した項目は、頗る多様のように感じられるかも知れないが、どれも極めて実行し易いものばかりである。

(イ)聯想暗示法

この方法は要約すれば、意識的に積極的思考を作り、それを吾が心に思念聯想することに依つて観念要素の更改を現実にする方法なのである。
尤もこの種の方法は、夙に外国の哲学者や、心理学者等に依つて、大同小異的に考案応用されたもので、我邦に古来からあるかの坐禅行も、またこの方法の変型的応用法だともいえるのである。然し、ここに注意すべき問題は、在来の方法その儘では、中々初心の者にはその効果を思うように挙げ得る迄に相当の修練を要する。そのためにその目的及び理論主張には相応に立派なものがあるが、何分にも右のような事情のため、その実行応用が普遍的に徹底されなかつたという遺憾な事実があつたのである。
それを私は、だれにも行入極めて容易で、且つ奏効率百パーセントの方法に、特殊形式を以て組み立てたのであるが、その方法を説く前に、一応在来のこの方法の行修方式を参考のため略述することにする。
則ちこの方法は、一日の中で、適当の時を撰んで静座瞑目して、たとえ現在の人生事情がどうあろうと、則ち病が身にあろうと無かろうと、また運命が良かろうと悪かろうと、一切それに係ることなく、全然それと正反対の積極的事項を、自から意識的に一心不乱の状態で吾が心に思念瞑想せしめよ、というのがその大要である。
そしてこうすれば、一体とういう結果が来るかというと、その思念度が強烈であればある程、言い換えると、その思念の強さの程度に比例して、心はその思念の誘導を受容し、次第に消極状態を減退して、積極化して来るという、則ち心理現象に対する推移過程上からの推論を基本として考案されたものなのである。勿論これは、何の異論を挿む余地のない、立派な精神教化の自己修行法に相違ないが、ただ実際問題として考えさせられるのは、何事かの人生事実に直面して、その心に心配とか、
煩悶とか、焦燥とかというような気持の生じている時、落ちついて適当の時間静坐瞑目、思考を渾一状態に凝念するという余裕が、精神的にも、時間的にも、普通の人には、中々もちにくいことと思う。特に初心傾向の人では、かりにこれを試みるとしても、積極的事項の思考を一糸乱さず凝念しようと思えば思う程、皮肉にも消極的思考の方が、心の中に発生して来て、雑念妄念次々と湧き、この方法の奏効上一番大切な一心不乱という条件が、消極方面のみに傾注されてしまうという、厄介な状態に陥るのが共通の事実なのである。尤も、そういう場合、坐禅行の方では、雑念や妄念が発生したら、発生すにに任せて相手にするな、そうすれば次第次第に、その雑念妄念の方から退散して行き、遂には、よく一心三昧の彼岸妙境に到達し得るに至ると、導師の大部分はいうそうだが、それもそうかも知れないが、これには尠なからぬ努力と時間とがかかると思う。というのは、雑念妄念を相手にするなという言葉に捉われて、相手にするまいという努力に、言い知れぬ消耗率を心に与え
るという結果を招く。俗にいう坐禅病と称する神経衰弱症の一種は、要するにこうした原因関係から生ずるともいえるが、尤もこれも導師側からいわせると、所詮はそうした苦難を経なければ、本ものにはなれないというらしいが、それもそうに違いないとはいえ、然しそれは専門にそういう修行に没頭することの出来る人とか、または時間に相当の余裕をもち、且また人生覊絆(きはん)の係累を多分にもたない人なら、或はやつてやれないこともあるまいが、現在一刻の休みもなく忽忙たる人生に鞅掌(おうしょう)し、その上自己の運命問題とか、健康問題とか、その他諸種雑多の生活事実に、心を纏綿して活きつつある人々には、到底一切を犠牲として忍耐努力して行いとおせるものではないというのが、これまたおおむね共通的の事実である。
そこで私は、前にも述べたとおり、折角の良法を、右のような事情から、実行難に陥るのを如何にも心惜しく考え、何とかしてもつとこれを応用率の普遍的のものにして見ようと、百方研鑽した後、どんなに下根の人も容易に、何等大した努力をする必要なく、よくその目的を達し得る一方法を創案した。
それは、毎夜就寝の際の、自然傾向たる大脳の制止作用を応用する方法であつて、分り易くいえば、夜の寝がけの時の心持を更えるのである。
もつと分り易くいえば、夜一旦就寝しようとふとんの中に這入つたら、たとえどんな悲しいことや、腹の立つことや、その他の気にかかることがあつても、それを断然明日の宿題とすること、則ち今正に自分は一日の疲労を休養するため、これから睡眠を採るのだから、精神も肉体と同様に安息を与えなければならない、だから当面している人生の一切の事柄は、明日目が覚めてから分別考慮しようと、特に消極的に心を陥らすような問題は悉く明日廻しとして、出来る限り、明るい朗かさと活々とした勇ましさを感じ得るような、ほほ笑ましいことだけを心に聯想思考せしめるのである。
この方法は、皮相的に考えると、一寸困難のように思うかも知れないが、試みて見ると案外速やかに一種の習慣が助成されて、容易にその目的を達成し得ることが自覚されるのである。というのは、夜の寝がけというものは、だれにでもその大脳に制止作用が生ずるので、たとえ雑念妄念が発生しても、自己の心の狙い処を、明るく朗かに、活々として勇ましくという点に置いて思考聯想を行うと、比較的それに凝念することも、極めて容易に出来るように、本来的に精神機能が作られているからである。
その上、夜の寝がけの際は、人間の精神の暗示感受習性が、一日中最も旺盛になる時なので、これを心理学では、ラツポー期の状態というが、そのラツボーの旺盛である夜の寝がけに、こうして、意識的に自己自身の心を持ち更えて、積極的の思考聯想を行いながら睡りに入るようにすると、その積極的の思考が、期せずして、強力な暗示として、潜在意識領に適確に受容印象され、当然観念要素は行うに従つて、寧ろたやすく積極的に更改されるのである。だから、ただ邪気に、明るさと朗かさと活々した勇ましさを感じることを思考聯想すれば、それでよいのである。別にこれを行うに信念を特に必要とするのでもなく、また難かしい凝念的の努力をする必要もない。寧ろ一日中あくせくと、精神も肉体も活動させたので、せめて夜の寝がけだけでも、その心をたのしく過ごさせてやろうという位の、平易な気持でこれを行えばよいのである。
この方法は、これ以上多く言う必要もない程、その効果が行いさえすれば、多少人に依つて遅速の相違はあろうとも、そう長い期間を待つこともなく、自覚的に意識される時が来るのは当然である。たとえば、今まではこんなことがあつたらとても煩悶したのだが、今度は大して煩悶しないで解決したとか、今まではこんな気分のわるい体の調子のよくない時なんかには、とても神経を過敏にして心配したのだが、今度は存外平静な気持でおられるなどというように、何かなしに、自分の今迄の心持と相違した新らしい強いものを、自分の精神状態に感ずるという尊い現象を、自覚的に発見するに至る。
だから、今もいつたとおり、修行とか、践行とかいうような、格別難かしい気持でなく、夜の寝がけの際の、安息の気分を楽しく過ごす位の気楽さで行うのが何よりである。
一体、現代の人々は、文化民族としての埋智を相当もつているにもかかわらず、案外、夜の睡眠の重大性というものを、正しく理解していない傾向がある。そのためか、寝ぎわの時に、一層余計に、至らぬ心の使い方をして、安息の床の中に入つてまで、怒つたり、悲しんだり、怖れたり、悶えたりしている人がある。そして一日中散々使つて疲労した身体や精神に二重三重の損失を附加させている。これではどんなに養生しても、栄養量を豊富に摂取しても、完全な健康を得られないばかりでなく、延いて生命全体の活きる力が、激甚に減退して来るという、愚にもつかない事実を招き寄せることになる。
諸君は、人間が日に一度即ち夜分に、何故に睡眠しなければよくその生命を保つことが出来ないかという理由を御存知のことと思う。けれ共大抵の人の御存知なのは「そりや寝なけりや疲労が恢復出来ないからさ」位の程度のものではないだろうか、更に、睡ると何故に疲労の恢復が出来るかという問題になると、恐らく専門家でない限り、完全に答え得ない人の方が存外多いように見受けられる。
何故かというと、本当に、睡眠の生命に関連する重大性を知つている人なら、睡眠直前の寝がけの心持の極めて重視すべきことも自覚している筈で、事更に、生命の力の消耗率を増大せしめるような物好きはこれまた当然、頼まれてもしないはづであるからである。
そこで、参考のために、睡眠というものが、どれほど吾人の生命に重大な連関をもつているかということを、概括的に説明することにする。
睡眠というものを科学的に結論すると、自然の力と人間の生命と交流結合する時だといえる。これは睡眠時の生命に行われる現象事実を観察すると、たしかにそうだと合点される。則ち、我々の生命は、自然の力の中にある活力(Vril)というもので活かされている。然もこの活力というものが、睡眠時には、何の妨げも障りもなく、生命全体に完全に供給されるいう貴重な事実が行われるのである。
勿論、活力というものは、その人の寿命のある限りは、昼夜間断なくその生命に供給されてはいるが、特に考えなければならないことは、睡眠時の方がその受容量を増大して、完全に供給を受け得るのは、大脳に制止作用という特殊の作用が生ずるからである。
則ち、活力というものは、第一に神経系統に受け入れられ、そして神経系統特有の機能と作用とに依って、各種の方式と型態の下に肉体内の各種臓器及び各種筋肉、骨骼その他末梢細胞の末に至るまで配給され、こうして吾人の生命は確保されるのである。
然し、お互い人間は、昼間特別の人でない限りは、活きるために必要な各種の仕事や作業に鞅掌するために、精神なり肉体を絶え間なく活動させている。従つてエネルギーの相当量を消耗している。極言すれば、何事もしないでいても、目覚めている以上は或る程度の活力の消耗は免れない。処が、睡眠時は全然これと相違し、心も肉体も活動を停止する。従つて消耗を行わない。そしてその時精神作用を表現する実在意識の活動が休止すると同時に、大脳に制止作用という特殊の作用が生ずるのである。
そして、その制止作用が生ずると、大自然から各人の生命へ供給される活力を、豊富に神経系統に受容するという可能性が、完全に具顕するに至るのである。そして昼間のエネルギーの消耗に依つて、体内に副産物として生じた乳酸その他のいわゆる疲労物質を程よく中和し、同時に明日の生命持続に必要な活力を補填するのである。であるから、前後も知ちずに睡るといういわゆる熟睡をすれば、完全に疲れが回復するというのも、この理由によるので、則ち、活力を入れる容器の受入口を、思う存分広く開いて受入れるのと同じことになるからである。(肉体生命の法則の部参照)
そこで、哲学的には、睡眠は人間の生命に神の力が結合する尊い時だといい、宗教的には、神人冥合の時だというのも、またこの理由があるからに外ならない。
何れにしても、このように睡眠というものは、活力の復活に対してだけでなく、生命存続に必要とする諸般の条件整備のためにも、極めて貴重な実際的人生行事というペきで、従つて、その貴重の人生行事を行おうとする直前ともいつてよい、寝がけの際の心の持方というものが、どれだけ慎重に重視されなければならないものであるかということは、多くいうまでもないことと思う。
実際活力がなくては、その生命を持続せしめることが絶対に不可能で、然もその大切な活力を、今正に我生命に受容するために行おうとする睡眠の直前こそは、出来る限り分量多く、それを受容する準備を正しく計画することが、生命に対する正当な責務である。
詮じ詰めれば、寝がけの心持を、怒りや、悲しみや、怖れや、その他の消極的感情から遠ざけて、出来る限り明るく朗らかな、活々とした勇ましさで、睡りに入るまでの時を尊く過ごすということは、取りもなおさず、活力の完全受容に対する正当な準備を実施したことになり、同時に生命に対する、これまた正当な責務を全うすることとなるのである。
そしてその結果は、生命確保に根源的に必枢とする積極的精神作成の第一条件である観念要素の更改を現実化し得て、精神作用を掌握する感応性能を積極化し得るだけでなく、延いて生命諸般の全機能にまで多分の利益を与え得ることとなるのである。
ところが、こうした忽がせにし得ない実際消息が、厳として存在しているにかかわらず、世人の多くは、寝がけというと殊更に昼間心に感じた怒りや、悲しみや、怖れや、その他消極的のことを、より一層鮮明に心のスクリーンに映写しなおして、清く尊くたのしく過ごすべき床の中にまで、命も魂もけがしてしまうような穢れを持ち込んで、中にも滑稽な人になると、それをいつまでも心から離さず、徒らに神経を昂奮させ、空しく半夜転々として寝もやらず、ますます心の消極化を増大してしまうという、愚か以上の無茶なことを行つて、知らぬこととはいえ、ただ単にそれが精神生命だけでなく、命の全体にまで測り知れない大きい損害を与えているということを気づかずにいる。
これというのも元来、睡眠の直前の心の持方というものが、どれほど生命に対して重大なものであるかを知らないため、その神聖さを保とうとしないからである。
というと中には、理屈はそうかも知れないが、それも他人のことならともかく我身に振りかかつたことを気にかけずにおられるものでないという人もあろう、然し、およそお互いの人生に、この大切な命に大きい損害を与えてまでも、言い換えれば、命がけで考えねばならぬというような大事件が、そうちょいちょいとあるものであろうか、その上に、一日の人生活動に相当に消耗された、エネルギーの不足しているであろう精神生命で、完全な論理思索や正当な思考が行われるであろうか。冷静を欠いて、昂奮した乱調子の心で何で妥当な解決案が作られようか。禅家の教義にも、心の波立つ時や、乱れ騒ぐ時は、先づ坐れというのがある。これは要するに、下手な考え休むに如かずということを、悟らしめようとする一方便といえる。
が何れにしても、人間は一度死んだら二度とこの世に生れて来ないと知つたら、もう少し命を真剣に大切にしたらどうであろう!! そして真剣に命を大切にしようと思うなら、今生只今この時の生命を、最も力強く活かさなければうそである。精神生命を消極的事項と組んづほづれつさせて、何で力強い命が出来上がろう。力強い命は、積極精神が現実化されないと徹底しない。
しかもそれが到底不可能のことならともかく、科学的にいえば、万有の根源である自然の力、哲学的にいえば、万物能造の神の力と結合し得る睡眠の直前、その結合のスイッチともいうべき心の態度を、簡単な心がけで持ち直すことに依つて、よくその目的を達成し得ると知つたら、明日ともいわず今夜から直ちに実行すべきである。そして、意義正しく命の安息と復活とを現実化するため、この合法的意識統御に依つて、生命の現実向上と力の充実とを味得することこそ、最も聡明な人生態度であるといわなければならない。

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(ロ)命令暗示法

この方法も極めて簡単な手続で、然も効果率を顕著に有する方法である。
但しこの方法を行うには、一箇の鏡を用いる。その要領は、鏡に映る自己の顔面に対し、自己の欲する積極精神状態を、命令的言語を用いて、たとえば、「信念が強くなる!!」とか、「神経過敏でなくなる!!」とか、或は「もつと元気が出る!!」とかいうような言葉を、真剣な気分で発声するのである。
そこで特に必要な注意は、発声は特に大声である必要はなく、自分の耳に聞える程度の「呟き声」位の低声でよいので、要するにその気分が真剣であることが、欠くべからざる条件なのである。
なお必要とすることは、その際一度に数多くの項目を命令しないこと、奏効を確実にするためには、一回一事項に限ることと、それからこうして一度命令しだしたら、その命令したことが自己の精神に具体化する迄、同一命令をその度毎に続行すること、則ち 信念が強くなる!!」と命令したとしたら、確実に信念が強くなつたことを自覚し得るまで、他の事項を命令しない方が極めて効果的なのである。
これは一名 Lindler System と呼ばれる方法で、心理学の国と呼ばれた仏蘭西では、教

育者が大いにこの方法を推奨している傾向があるが、彼等の多くは、この方法を折ある毎に一日の中で何度でもよいから鏡に対する度に行えば行うにつれて効果が上がると主張している。勿論、その主張どおり極めて自己改善に効果の多い方法であるが、これを一層確実な効果のあるようにするには、特に初心者には、この方法を夜今正に床の中に入ろうとする直前に行うことにするのである。すると、昼間折ある毎に度数多く行うよりも、遙かにその奏効率が高いことになるのである。

というのは、昼間実行の際は、ややともすると人生諸般の生活要務のため、どうしても心の落ちつきとか纏まりとかいうものが往々欠ける従つて、徹底的に真剣な気分になれないことが多い。前にもいつたとおり、この方法は、偏えに真剣な気分ということが、その効果を作成する必枢条件なので、夜正に床の中に入ろうとする時ならば、一日の活動を絶つた時で、何等の捉われもなく、真剣な気分になり易い。同時に真剣な気分を一層確実不動なものにする手段として、命令言語をただ一回だけに止め、二度も三度も操り返さないことである。たとえば「信念が強くなる!!」と命令したら、今夜はもうそれ以上命令しないという、いわゆる背水の陣を布いた行い方をするのである。そうすれば真剣な気分は、 そのただ一回に充分に傾注される。何度も同じことを、その際繰り返して行うと、いつか気分の中の真剣さが不平均になる傾向が生ずる怖れがあるからである。
勿論、いつ何時でも、真剣な気分になることが出来る人なら、敢えて夜の就床間際に限つたことはなく、随時随処行つてよいことは無論である。
そして、この方法は、実行するに伴つて、その奏効に要する実行の期間が次第に短縮されて来るという感謝に値いする事実がある。則ち、最初、或る所要事項を心に具体化するのに、三ケ月を要したと仮定する。処が、第二の事項は、ニケ月半で、第三の事項はニケ月で具体化するというように、効果をだんだんに早く自覚し得るようになる。熱心に行いさえすれば、数年の後には、三日か五日で効果を見るに至るものである。
然もこの方法も、応用範囲の広い普遍的のもので、学生などの成績不良とか、矯正し難いと一般から考えられている夜尿症とか、吃音などという種顆のものまで、かなり確実な効果を挙げられる便利な方法である。
参考のため、その種頬の人々の用いる命令暗示の言葉を摘記すれば左のとおりである。
〇成績が不良な場合には、たとえば数学とか語学とかいうものを「成績が良くなる」といつてはよくないので、そういう場合は、その人の不得手なものを、その人が「好さになる!!」と命令するのがよいのである。好きになれば、自然とこれと親しむことになり、嫌でも成績は向上するのは火を見るより明かである。
○夜尿症には「便意を催した時必ず目がさめる!!」と命令するのが一番よい。夜尿症とは、共通的に無意識的に、褥中で放尿するもので、本人が目ざめれば、決して褥中で放尿するという失敗は行わないからである。
〇吃音矯正も「吃音がなおる!!」と命令するよりは、「吃音を気にしなくなる!!」と命令することである。吃音とは、一種の習性的のものなので、本人自身が、自己の吃音を気にかけ、恐怖すればする程、ますます吃音的になるもので、これは心理状態と、言語機能=発声神経との密接な関係にもとづくのであるから、反対に吃音を気にしなくなると、自然と吃音は拭うように矯正されるものである。現にこういう私も、少年の時かなり烈しい吃音者であつたのが、この方法で完全にその習性を治し得て、今は流暢に発言し得る人間となつている。
なお病の人もまた同様で「病が治る!!」という言葉で命令したのでは、奏効確実でない。病を早く治したければ、「病を気にしない!!」という命令語が最も適当なのである。由来、この「気にしなくなる」という気分は、特に消極的の事項には最も必要な心的条件なので、たとえば、夜睡るということは、人間の誰でも、誰に教わらなくとも、子供の時から行つている格別難かしいことではないが、然し、万一これを気にしだしたら、当然睡り得る人でも睡れなくなる。その証拠にはよく睡れぬという人に限つて、睡れぬことを頗る気にしている。よく睡れる人というものは、睡れても睡れなくとも、睡眠というものを、少しも気にかけず、睡りたければ睡り、睡れなければ睡らぬまでと、極めて呑気な気持で一切そういう無駄なことを気にしないから、いつもぐつすり睡れるのである。
こうした簡単な例証を考えて、正しい自覚を得ることが人生に何よりも必要なのである。
それから今二三必要なこの方法えの注意を附け加えて置くが、それはこの方法に用いる言葉は、必ず命令語を使用することで、決して祈りになつたり、依頼になつたりしてはいけないのである。
たとえば、「信念が強くなる!!」は命令語だが「信念がどうぞ強くなりますように!!」では祈りになるし、また「信念が強くなつてほしい!!」では頼みになる、それでは駄目な場合の多いことも記憶されたい。要するにこの方法は、飽くまで自己自身の心に、自己自身が命令するのだという、厳格な心的態度が必要なのである。その意味の下に、この方法を行う時、鏡に映る己れの顔を見詰めつつ「汝は」とか「お前」とかという言葉を前提して命令することは、最も要領を得たものと、お奨めする、則ち「汝は信念が強くなる!!」というように…
それからも一つ必要なことは効果を焦るなということである。それよりは、こうした真理に則つた方法を続行していさえすれば、やがて時来らば、必らず所要の事項が現実化するにきまっているという安心感こそ何より肝要であることも、忘れてはならない重要のことである。何しろ長い間、殆んどやり放しにして置いた心に、たとえそれが真理であろうとも、今行つて今直ちに効果を見ようとするのは、全然無理な慾求で、どんなものでも完成するまでには、一定の期間というものが必要とされる。まして人生建設に必要とするこの種の方法は、精神生命にその方法の習慣性が付くまで幾分かの期間を要するので、決して効果を急いではならない。否急ぐ必要はなく、行いさえすれば次第にその効果が速度を早めて具顕して来るという特性が精神機能に存在しているので、何の顧慮する処なく、食事をしたり、呼吸をしたるするのと同様な安易な気持で、こうした方法も生活行事の一つだと思う気分で行うのが、最もよい心がけなのである。

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(ハ)断定暗示法

この方法は、前記の命令暗示法と併立して実行すべきもので、言い換えれば、命令暗示法の可能性を的確にする補助法ともいうべき重要性をもつ方法である。これも要領は極めて簡単なので、則ち、朝目が醒めたら、なるべく生活行事に携わらないうち、理想からいえば目覚めた直後程なおよい、前夜命令した事項を、既に具体化された状況で、断定した言葉で表現するのである。これには格別鏡面を必要としないが、用いればなおよい、然しこの場合の鏡は、命令暗示法の際ほど絶対的に必要としない。則ち鏡なしでよいのである。分り易くいえば「前夜信念が強くなる!!」と命令したら、それを「今日は信念が強い」とか「私は信念が強くなつた!!」というように、その時の自己の状態にかかわりなく、仮想的断定を言語で
我と吾が耳に聞えるように断定するのである。
この断定暗示は、命令暗示法と反対に、一日の中、何度でも折りある毎に行つてよいのである。寧ろ回数多く行う方が効果が多い。
一体この方法の目的はどこにあるかというと、命令暗示法に依つて潜在意識に暗示づけられたものを、実際的に人生に役立たせるために、実在意識領に引戻すという意味なのである。
以上の三方法が、精神感応性と相対関係の下にある思考作用を積極化すために、観念要素を更改する私の創意した特殊の自己暗示誘導法の方式なので、極めて実行簡単で、然も暗示の透徹力もまた極めて強烈なため、精神生命の特に積極的暗示の感受作用をよく習性化するので、そうなればもうしめたもので、たとえば何か自己自身考え切れないような困難な問題に直面した場合、以上の三方法を用い、それを吾が潜在意識に暗示づければ、いつかは必らず適当な断案を、考えるともなく極めて自然的に、心の方から案出して来るようになる。要は、気難かしい気持でなく、そして悠々あせることなく、ただ怠らず継続するという気持で行われたい。そうすれば着々と精神生命に積極的変化が具現して来るから、その心組を忘れぬよう切望する。なお自己暗示誘導法と相呼応して、観念要素を更改するのに必要な附帯事項が数項目あるので、それを左に摘記することとする。

(ニ)附帯要項
(其一)日常の言行 これは平素人生に活きる時の言行である。則ちどんな場合にも、積極本位であること、特に一層の注意を要するのは言語である。既に前節暗示の説明をした時にも述べたとおり、言語というものには、頗る強烈な暗示力が固有されている。従つて特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言語を、戯れにも口にしてはならないのである。何故かというと、それがすべて自他同化の暗示となるからである。

であるから、仮りにも泣言や弱音は口にしないことである。まして悲観的言語や、恐怖の表現や、下らない憤怒的言辞は、自分の言葉の中には無い位に絶対に使わないことである。
古語にも、習慣は第二の天性というが、多くの人は、何と余りにも消極的の言葉を、極めて平然と、何の顧慮もなく口にして生活している。これは偏えに習慣に助成された結果に外ならないとはいえ、そのため一層自己の心を消極化していることに気づかずにいる。だかち、その種の人が、何かの人生問題に直面すると、それが健康関係のことでも、また運命関係のことでも、その考え方までが、先づ消極的結果を自己答案の結論として思考するため、良い結果が来るものまでも、反対に不良にしてしまつている場合が尠くない。
たとえば健康問題に係る考え方も、ああしたらわるいだろう? こうしたら障るだろう?とか、運命問題も、到底突破出来ぬとか、立上れないようになるだろう?とか、いつも暗い方面のみを見て、少しも明るい方面にその心を振り向けようとしない、従つて、その人生に何の活気もなく、寧ろ極言すれば陰惨なものさえ感ぜしめられる。
これでは人生五十年何の価値もないのである。
多くいうまでもない、人生とは観念の世界である、気分の娑婆である。だから、他人はどうあろうとも、自己だけは、どんな窮地に立つた時でも、その心の積極性を失わないように、言語などは特に、雄々しく勇ましくあれということである。考えて見るがよい.やれ困つたの、やれ情けないの、やれやり切れないの、やれ悲しいの、やれ怖ろしいのという時、自分自身颯爽たる勇ましさを感じるかどうか。
更にその言葉のために、自分の活きる世界がよくもわるくもなるという、目に見えない宇宙真理の厳存することを考える時、ほんとうに、自分の言葉には、どんなことがあつても消極的なものを使わないことである。
実際、ただ単に、消極的な思考でさえ、自己の人生に良くない結果を作る原因となるのに、それを更に言葉で表現すると、一層それを加重しで印象することになるという事実現象を想えば、言葉には常に積極性を失わない注意こそ肝要である。否この心がけを実行することに意を用いると、自然とそれがまた習性化して、やたらと無分別に消極的の言葉を使用しなくなるという理想的な人生に活きられるようになるのも、当然のことである。

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(其二)感謝の生活と三行

次に、必要なことは、不平不満の意思表示を断然しないことである、万一心に、何かの不平不満を感じた時は、自分より以下の運命や境遇に活きている人の現在多いことを、思い見るべきである。昔の諺にも「上見ればきりがないから下見て暮せ」という意味の訓えがあるが、実に穿ち得た尊い言葉であると思う。こういうとまた中には、そんな気持で活きたら、向上心なんか何処かへ影を潜めてしまつて、いわゆる人類の発達性が阻害されるであろうという人もあろう。然しそれは大変な間違いである、まして不平不満ということと、発達ということとは相対関係は少しもなく、寧ろ相反するものだといわねばならないことを考えると、断じて不平不満を心に抱く勿れである。第一不平不満を心に抱くと、その心は卑屈になり、萎縮的になり、自暴的になる、そしてその結果奮発心も、蹶起心も出てこなくなる、その上、それが一つの癖となつて、僅かなことにもすぐに不平を起し、不満を思うようになる。
一体に、不平不満を感ずる人は、自分より幸福の者を標準とする傾向が多分にある。たとえば運命に対しても、世の中には自分よりもつと幸運の人がいるのに、自分は少しも恵まれないとか、また不健康の際でも、世の中には随分と丈夫な人も多いのに、自分は何という憐れな弱さであろうという風に・・そして果ては他人を怨嗟し、親兄弟まで悪く思い、遂にはこの世に神も仏もあるものかなんて無鉄砲のことをいう人さえある。
そして、そういう心持の人に限つて、この世の中には、自分よりもつと運命的にも、健康的にも、不幸の人のいることには考え及ばない、だから、自分が今そういう極度の不幸の人の陥つているような状態にならずに、この位の処で活きておられるというのは、ありがたいことだと、それを感謝しようという気持が少しもない。
実際、不平不満を常習としている人には、この感謝念というものが、頗る薄いように思われる。西洋の訓えにも「感謝念の薄い人の人生には、幸福の女神はその慈愛の手を伸ばさない」というのがある。これは事実、客観的に見ても、主観的に看ても、同じことだといわなければならない。だから何事にも、先づ感謝本位で人生に活きるならば、不平不満を感じない世界が、第一にその人の観念の世界の中から生れることになるから、単にそれだけでも大きい幸福である。ましてその尊い気持の反映を受けて、自分の活きる人生周囲が、期せずして美化善化されるという現実を考えたなら、これは単なる道義的のことでなく、広義に於ける人生々活法だと考定されることと思う。かの儒哲として嘖(さく)名のあつた熊沢蕃山が詠んだ有名な和歌に「憂きことのなおこの上に積れかし、限りある身の力ためさん」というのがあるが、按ずるに蕃山の心には、他人から見て不幸だ、不運だと思われるようなことも、少しも御当人には、そうと感じなかつたに違いない。というのは、不幸や不運を寧ろ自己錬成えの感謝で考えておられたからだといえる。
私は現在の日本を考え、単に不幸だと愚痴る人には、決して理想的の民主国家としての真日本の建設などは到底覚束ないと思う。寧ろ現下のお互い日本人は、現在のすペてを、真日本の建設という一大事実を現実化すために、天が我等日本人に慈愛を以て与えられた一大試錬だと断定するならば、期せずして一切の事物現象が自己を研き上げ、また自己をより高く積極的に啓発する題材となり、やがてその結果は、世界平和に協調し得る国家社会を作り上げることが出来ると思う時、価値のない不平や愚痴は忽ちその影を潜め、これにかわるに、限りない感謝念の湧然たるのを意識するであろう。要するに、人生を最も美わしく尊くする感謝という理想的の生活基礎は、すべての事物に対する観点の置き方を、狭義な個人本位の自己主義から超越させて、もつと大処高処から広義に観察するようにすれば、必然その心に湧いてくるものである。所詮は、これをまた習性化し得るものである以上、常日頃出来る限り、感謝本位の生活をするように心がけなければならないのである。
そして原因は常に結果と相対的関連をもつので、感謝本位の生活を現実にするために、常に正直と親切とを心的生活のモツト−とし、また自己の心っをいつも愉快な気持で持続するように努力することである。これを三行の実践という。
然もそれが皆観念要素の更改に、密接な関係をもつているばかりでなく、活力の保存ということにも、頗る消長的な関連のあることを思う時、より−層、現実の実行にいそしまずにはいられないと思う。

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(其三)三忽の実行、

最後に必要な注意は、三勿の実行ということである、三勿とは何を意味するかというと、
(1)、勿怒(2)、勿悲 (3)、勿怖
の三つの事柄である。
これは、単に観念要素の更改に対してばかりでなく、この消極的感情の発作は、直接に生命維持に必要とする活力を移しく減退するものである。
現に、平素肉体健康の勝れない人などが、ただこの三勿だけの実行を専念したゞけでも、どれだけその健康回復に役立つか分らぬ位であることを思うと、およそこの三つの消極感情の発作位、生命に価値のない、何の利益もない、愚にもつかないものは無いといつてよい。というと、怒ることや、悲しいことや、怖ろしいことのあるのが、人生ではないかという人もあるであろう?勿論、それは、人生世界の現象界に現存する事実には相違ないが、そうかといつて、この世は怒つたり、悲しんだり、怖れたりしなければ、絶対に活きて行けないという世界ではない筈である。まして、神聖であるべさ自己の心を、この種の消極的感情の奴隷に堕落させなければ、人生というものが暮して行けないというような、そんな馬鹿気たことが、苛くも万有の根源である造物主に依つて造られた秩序整然たるこの世界にあろう道理が
ない。
一体、平素やたらに、些細のことにも怒つたり、悲しんだり、怖れたりするという価値のない精神習性のつけている人は、ほんとうに怒らねばならぬことや、悲しまねばならぬこと、または怖れねばならぬようなことには、案外にも怒りもせす、悲しみもせず、怖れもしないという状態である。そして、冷静になつて考えて見れば、さほど怒ることでなく、悲しむことでもなく、また恐れる必要もないことに、盛んに怒つたり、悲しんだり、怖れたりしているというのも、をれは畢竟、平素やたらに消極的感情を無統制に濫発せしめている結果、いざという時、正当な感情発露が出来ないためである。
だから、その種の人々に
「真に怖るべきものは真理なり」
「悲観は、身を殺し、憤怒は悪魔の息吹なり」
などというような言葉は、少しもぴんとこないに違いない。
何れにしても、これもまた、自己暗示誘導法の第二法である命令暗示法で漸次改善して行くことが出来るのであるから、大いに応用されたい。
則ち、夜の臥床に入る前、所定の命令暗示法を実行した後、静かに今日一日の、自己の心の生活状態を仔細に内省観察して見るのである。そして、万一、怒つたとか、悲しんだとか、怖れたとかいうような記憶があつたら、再び鏡に向い、大いに厳戒を与える気持で、明日以後の心的態度を橋正する命令を与えるのである。則ち、怒つたとしたら、「今日あの位のことで、心の平静を失うとは何事だ、今後再びあんなこと位で、怒るな!!」というよう・・同じく、悲観した時でも、また怖れたような時でもこれに則つた方式でよろしい。とにかく是非これも実行して、心の平和を確保の出来得る真に幸福な人生を獲得するようにしなければならない。

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(12)積極観念の集中法

先づ、なぜ感応性能を積極化するのに、積極観念の集中力を養成せねばならないかというと、平素どれはど前述の方法だけを実行しても、一方この積極観念の集中力を養成することを実行しないと、何分にも長い間悪いと知らずに、消極的観念生活を無意識的に行つていたというような人や、神経過敏の気の弱い人などは、折角熱心に自己暗示誘導法を行つて精神生命の強化を計画しながらも、日常の人生に処する際、いつしか知らぬまに心を消極的方面に傾注するという恐れがあをためである。そして、そのため折角熱心に努力して実行している自己暗示誘導法の奏救率を阻止することとなるからである。
これに反して、この方法を常に行うことに心がけると、いつでも積極的観念を集中出来得るように慣習づけられるので、いざという時、何事に対しても、それを積極的に心で取扱い、うまい捌きをつけられるようになれる。
それでは、その要諦はといえば、先づ第一に必要な心得は、常住自己の心を人生の明るい方面にだけ向ける努力をすることである。
もつと分り易くいえば、たとえ、その事の結果が当然暗くなるであろうことが分つている場合でも、心は絶対に明るく保持することに努力するのである。
こういうと、そりや無理だ、結果が暗くなるとはつきり分つている時に、どうして明るく心を保てようかと、抗弁する人もあると思うが、畢竟それが努力なのである。明るい事柄に対して、心を明るくもつということは、何も特別の努力も修行も要しない、だれにでも出来ることである。普通の場合、普通の人の出来ないと思うことを、できるようにするのが努力である。
一体多くの人々には、少し難かしいことだと、到底自分には出来ないと早計に決定してしまうという笑うべき軽卒さが、多分にありはしないだろうか。
古歌に「為せば成り、為さねば成らぬものなるを、成らぬは、おのが為さぬためなり」というのがあるが、実際において、自己が為さぬために出来得ずにいることがかなり沢山あるのである。また本当に、為し能わぬ人なら、いくら為そうと思つてもそれは出来得ないのは当然のことだが、然しそれは、極度の不具者か低能者の場合なので、そうでない限りは為さざるために出来得ないので、またそのために、自己を為し能わぬ人の仲間に入れている人なのである。かりにも、自己を現在よりも有意義な人生に活かそうと欲する人は、どんな場合にも、自己を「為し能わぬ人」とか、また「為さざる人」の組合に入れぬことである、そしてひたむきに「為す人」にならねばうそである。
どれほどその事柄が暗い結果に陥るようなものでも、またそれが事前に分つている際でも、心は必らず明るくもゆべしなどという言葉や文字を耳にしたり、目にすると、神経過敏な気の弱い人なんかは、とても私にはそんな努力は出来そうもないときつと思うであろうが、、これもまた行うに適正な方法を以てすれば、案外難かしい問題ではないのである。
ではその適正な方法とは何かというと、凡そ左の五項目を常に心に置いて、人生に活きるように心がけることなのである。

○積極的観念集中力養成の実践要項
(イ)、内省検討
(ロ)、暗示の分析
(ハ)、対人精神態度
(ニ)、取越苦労厳禁
(ホ)、正義の実行

右はどれも、実行しようと思えば、僅かな努力で容易に積極観念の集中力を如実に助成し得る、即ち心理学的過程を応用した要項なのである。

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(イ)内省検討

これは、何事か思うにつけまた考える時に、現在自分の思つていること、考えていることが、果して積極的か、それとも消極的かということを自己自身客観的に自己の心的態度を観察批判することなのである。
このことは、かりにも観念を積極的に集中しようと欲するものには、頗る重要な用意なのである。多くの場合、大抵の人は、自己の心の前に現われた事物事象に対し、何の分別するところなく、矢庭に慌てふためいて、取組んでしまう傾向がありはしないか? 従つて、その時の自分の心の状態などを観察しようともしない。また時とすると、今自分が怖れを感じているとか、悲しんでいるとか、或は怒つているとかということを意識していながら、少しもそれを積極的の方面へ転換しようとさえしないという頗る念の入つた笑止の人さえある。
然し、それをそれでよいとしていたなら、いつ迄たつても、正しい自己啓発ということは出来るものではない。常に自己の心的態度を厳かに監視するという心組で、一切の事物事象に対応する時の、自己の心の中で行われる思考の状態を、果たしてこれでいいかどうかと、入念に考査しなければならない。
但しこの場合のいいか悪いかの決定標目は、思考に関する事実問題に対する理由の是非でないことは勿論なので、則ち、その事実に対応する心の態度が、積極的であれば即ち「是」、消極的であれば即ち「非」ということになるのである。そして、飽くまで、心を「是=積極的」状態で一切の事物事象に対応するよう、大いに努力の鞭達を心に与えるべきである。
禅家の教義にも「念々思量底を辨別せよ」というのがあるが、これは私のここにいう内省検討と同じ意義のことと推定される。
とにかく、お互いに、真理に則つて正しい向上への人生を建設しようとする者は、このように、自己の心の行う思考状態の客観的批判を、刹那刹那実行する位の余裕を心にもたして活きるのが、ほんとうに生活を味い得る貴重な人生真理だと悟らなければならない。そしてその余裕を現実に心に作ることを、常住の心がけとするべきである。

(ロ)暗示の分析

これは自己の心に対し、他面からくる暗示事項を、果たしてそれが積極的であるか、或は消極的のものかということを、分析的に批判することなのである、そして積極的のものは、充分にこれを吾が心に受容するように共鳴を与え、消極的のものならば、断然それを心に受容せぬように拒否することなのである。
既に、前節において「暗示」ということに就て記述した中にいつたとおり、人間というものは、恒に暗示の世界の中で活きているものである。そして、その「暗示」となるものは、言語、文字、行動、現象的事実だということ、理解されていると思う。
とにかく、吾人は活きている以上、右の暗示となるどれかの事項と、その心は絶えず接触対応して生活しているのが事実である。そして、特に気づかなければならないことは、現代の吾人の周囲にある暗示事項は、殆んどその大部分のものが、消極的のものが多いということなのである。
これは偏えに物質至上主義に胚胎した文化傾向の一現象として、また止むを得ないことではあるが、人の言語でも、文字でも、人々の行動でも、現象事実の一切相まで、我々を正当に積極化してくれるようなものが、極めて稀れであるのが実際の世相である。
従つて、こうした人生世界に生きるのに、何の用意もなく、漫然とこれ等のものに接触対応すると、いつの間にか、.その同化感化を受けてその心を消極化してしまう。
だから常に注意深い分析的準備を以て、これ等のものに応接し、積極的のものを吾が心のものとし、消極的のものは程よく分析考査して積極約に転化せしめるよう心がけることである。要は、こうした心がけが入念であるかないかで、心の発達性を良くもまた悪くもするので、特に充分積極的に心が作り替えられずにいる人は、ややともすると、消極的暗示事項には無条件に共鳴をする傾倒が顕著であるから、一層の注意を要する。

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(ハ) 對人精神態度

これは文字どおり、自分以外の人に対する時の、自分の心の態度のことである。多くいうまでもなく、人間である以上」山中にでも隠遁の孤独生活をしていない限りは、絶えず自己以外の人と相接しまた交際するる。がその時である。場合の如何をとわず、また事情の如何をとわず、積極的の心を断じて崩さないように心がけることである。則ち、どんなことがあつても、心の明るさと、朗らかさと、活々とした勇ましさを失わないように、心がけるべきである。そして、特に不健康の人や、悲運の人に接する際は、鼓舞、奨励以外の言葉は、口にしないように注意することである。
世の中には、人の身の上話や、不運の話などを聞かされて、同情の極、果てはその人と一緒になつて、悲しんだり泣いたり怒ったりする人がある、そして相手方の人も、そういう人を、何か大変思いやりのある話の分る人のようにさえ思う。
然しこれは、極めて皮相的な考え方で、そりや勿論同情ということは、人間の為さねばならない当然の美徳ではある。が然し。その美徳である同情の垣を越えて、相手方の気持の中にきずり込まれて」同じように、消極的な暗い気持にならなければならないという、間違つた義務が一体どこにあるであろうか?ましてそのために、ただ一人の人生事実のために、一人ならず二人までが、消極的の気分になり、延いてその周囲の雰囲気迄消極化してしまうという事実結果があるということを知つたなら、かりそめにも真理を人生の宝とするお互いなら、これこ誠に大きい失錯だとと気づく筈である。
だから勿論、健康の人や薄倖の人人々には、大いに同情すべきであるが、同時に真の同情の発露として、当な鼓舞と奨励とををその人々の心に与えてやり、少しでも、その人々の心に積極的の暗示となるものを、心の糧として贈つてやることこそ、最も尊厳な人間的行為である。

(ニ)取越苦労厳禁

これも、文字通りの消息であるから、すぐ諒解されることと思うが、およそこの取越苦労というもの位下らぬものはない。それは徒らに、心のエネルギ−の消耗率を高めるだけで、何の得る処もない全損的行為であるからである。ところが、世の中の人の大部分は、殆んど共通的に、この価値のない人生に損失を招くとも利益を少しも見ることの出来ない取越苦労というものを、恰かも、しなければならない人
生行事のように思い、いろいろの屁理屈をつけて行つている。
やれこれがこうなつたら、ああなるであろう?そうなつたら、一体どうなるであろう?等々と。然もそうした取越苦労という一種の考え方は、いづれも皆それが消極的観念から思考されるものなのだから、いつまでいくら考えても、決して自分の安心するような積極的方面に振り向け変えられず、ただ徒らに、思えば思う程に、考えれば考える程に、その思索は独自的の推察や、歪曲の断定で、混然とした紛糾錯綜のものとなり、いよいよ出でていよいよ迷い苦しむという結果を、吾れと吾れ自から作つてしまうという始末になる。そして、その間心のエネルギーはどしどし消耗されているのに気がつかない。中にはそのために食慾不振になつたり夜の睡眠までも自からの心持で妨げて、不眠状態に陥る人さえある。
世にこれ程滑稽な話があろうか。何故かというと、まだ現実に現われていない自己の想像や推定で、生命確保に必枢なエネルギーを消耗するというのは、痴愚以上のものである。何のことはない自分で自分の心のスクーリンにお化けの絵を描いて、自分で驚いたり怖れたりしているのだから、実に噴飯至極というベきである。
こういうとまた、そりや他人のことならそうもいえようが、自分自身に振りかかつている事情を馬鹿か無神経でない限りは平然としていられるものではない、まして、古人もいつた、「遠き慮り無くば近きに憂ひあり」と、従つて考えざるを得ないのが当然だと。
成程一応はご尤ものようだが、それは少し考え方に寸法違いがあるといえる。元来古人のいつた遠き慮り云々というのは、それは、明晰の頭脳で透徹した判断を下すことをいつたので然も頭脳の明晰ということは、消極的観念をもつ者には、殆んど皆無といつてよいのである。何故かというと、消極的観念それ自体が既に頭脳の混迷を招き、その結果論理思索に不統一な葛藤を生ぜしめるからである。従つて、そうした心で考えたことは、遠き慮りどころでなく、近き判断さえ完全に出来よう筈がない。そして、第一取越苦労がおおむね多くの場合、後になつて見ると、さほど気にかけて心配しいしい考えて、苦労しなくつてもよかつたというような、俗にいう案ずるより産むが易いといつたようなことであるのが、これまた殆んど通例である。
私はいつも、取越苦労をする人のことを闇の夜道に提灯を高く頭上に掲げて、百歩二百歩の先きの方を」何かありはしないかと気にして歩苦のと同じだといつている。静かに足許を照らして歩めば、躓きもせず、転びもしないが、足許を見ないで、遙かの遠方のみを気にして歩けば、いつかは石に蹴躓いたり、溝に落ちたりする。心もまたこれと同様で、みだりに、未だ来たらざる将来のみに振り向けて、肝心の現在を疎かにしたのでは、到底、心その
ものの働きさえ完全に行われねことになる。
古訓にも「心は現在を要す、過ぎたるは逐うべからず、来らざるは邀うベからず」というのがある。
また古歌にも「さしあたる、その事のみをただ思え、過去は及ばず、未来知られず」というのがある。
これは、何れも取越苦労の無価値有害なことを、諷刺訓戒したものでなくて何であろう!!取越苦労と同じ心理状態で、無駄な心配をすることを杞憂というのは、何人も御存知のことと思う。これは昔支那に杞の国というのがあつて、その国に三人の、極端な取越苦労をする男があつた。その一人は、朝から晩まで、一日中心配そうに空のみを見て歩き廻つている、またそのもう一人の方は、これまた一日中心配そうに地面のみを凝視して歩きまわつている、ところがまた他の一人は、その両人の後ろから、心配顔で、両人の顔をかわる代りに眺めつつ、歩いている。一体この三人は何を考えていたのかというと、空のみ見て居る男は、いつ何時この大空が上から落ちて来やしないか、そしたらどうなるだらう?と心配になのているし、地面を凝視して歩く男は、この大地が急にどかんと底知れぬ処に陥没したら、どうなるであろう?と山配しているし、両人の後ろからついて歩いている男は、一体この二人の男は、こうして朝から晩まで何もしないで心配して歩いているが、この男達の行末は、しまいには、どうなることであろう? と心配していたというのである、そこでこれを杞の国の三憂といつて、愚者の標本とした。それが略称されて、無駄な気苦労を杞憂というに至つたのだそうである。何れにしても、取越苦労は、愚にもつかぬことで、かりにも心を研き上げようとするものの為すべきことでないと、厳そかに自からに誓うべきである。そうかといつて何事も考えるな、やり放しに抛り出して置けというのではない。消極的観念で考えることを断然止めて、考えねばならぬ場合は、積極的観念で思索すべしというのである。
言い換えれば、積極観念で行われた思索は、おおむね整然として、無駄なエネルギー消耗を招来するような取越苦労にならないからである。

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(ホ)正義の実行

これもまた難しいことではない、否寧ろ容易なことだといいたい。正義の実行などというと、何か頗る難しい、普通の人が容易に行い得ないもののように思つたり、中には余程学問をするとか、または修養の功を積まない限り、正義そのものの本義を把握することが出来ないかのように推定する人もあるかも知れぬが、決してそうしたものではない。
要は各人の、本心良心に悖らぬことだけを標準として、行動すればそれでよいのである。
由来、本心良心はだれにもある。極言すればどんな悪人にもある。これも難しいことではない。すぐ分ることだが、何か道ならぬことをしたり、人にすまないことを言つたりした時、何となく後めたく気咎めされるものを誰でも感ずる、それがつまり本心良心があるからである。だから何事でも、この本心良心の咎めを感じないことのみを、言行に表現するように心がけるのである。
そうすれば、後日に後悔したり、卑屈になつたりすることがなく、人生常住春風駘蕩たりで、日々を過し得る。
古語にもいう、
「自から省みて疾ましからずんば千万人と雖も、吾れ行かん矣」と・・・
これは正に、本心良心に悖らざる言行で人生に生きるものだけが味い得る実消息である。
また厳粛な人生真理から論断しても、正義は人間の処世上、犯すべからざる一大鉄則なのである。世間にはよく自分のした行為や、言つた言葉を後日に後悔したり、落但したりしている人があるが、それというのも、詮じ詰めればその行為なり言葉が、本心良心に悖つて行われたからである。ということだけ考えても、人生生活は、唯、正義一本で行わるべきこそ、何といつても現実の真理想である。
西哲の言葉にも「神の心は正義のみ、従つて人が正義を行う時、神の力は、その人に無条件に注ぎ込まれる」というのがある。誠に味うべき言葉である。
だから、かりにも、自己を万物の霊長たる人間であることを自覚する以上、どんな場合にも、その言行を、正義以外の価値なきものの擒としないように、粛然自戒すべきである。そして、以上数項が、積極的観念集中力養成の実践要項の大要であるが、要するに、不断の実行を怠ることなく努力すれば、最初の間多少の困難を感じたことも、習い性となる譬えのとおり、次第次第に特別の注意を払うこともなく、よく無意識の裡に、易々として実行し得るに至るものであるから、その積りで倦怠することのないように熱望する。
一体多くの人々は、生命に関する消息に対し、おおむね皮相的理解しかもたないので、積極的観念というものと、宇宙現象の根源を為す「気」というものと、どういう不即不離の結合をもつているかというようなことに、正しい認識をもつていない傾向がある。
観念が、生命に及ぼす結果については、既に、一筋の河の流れに譬えて述べたから、充分諒知されたことと信ずるが、ああした犯すべからざる事実が、観念の是非に依つて何故に生命に惹起されるかということも、極めて必要な知識であるから、それをここに附記すをこととする。
由来、宇宙現象の根源をなすところの「気」というものは、(+<プラス>)の「気」と(−<マイナス>)の「気」の二種類に分別される。そして、プラス=十の「気」ぱ、建設能造の働きを行い、マイナス=−の「気」は、消滅崩壊の働きを待つて、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである。
ところが、人間の心の中の観念が万一消極的だと、右のマイナスの気と生命が無条件で結合することになり、積極的だと、プラスの気と即座に結合するように、これまた自然の創意で出来ているのである。
だからこそ、気の弱い、消極的観念の保持者である感情家や、神経過敏の人というものが、とかくその健康や運命が不良なのは当然のことなので、消滅崩壊を行う「気」を多分に自己の生命に喚び入れるからである。
反対に、積極的観念の保持者が、常に、健康も運命も順調良好なのは、建設能造の「気」がその生命に灌流されるからである。
そもそもこれは何故かというと、観念とは気持の集結したものである。そして俗に「同気相求める」という言葉があるのは、だれでもよく知るところで、哲学でこれを「同じきものは相牽く」という言葉で表現している。人間の観念が気というものから形成されている以上、その気に同一の気が結集融合するのは、火を見るより明瞭なことであるからである。だから、積極観念の把持ということは、ただ単なる処世哲学や道義哲学ではない、直接生きるこの生命に現実の密接関係をもつているという、峻厳な宇宙真理と事実とがあるためなのである。言い換えれば、完全に生きるためえの吾が命の要求なのである。否、実際においてこのように人生とは、犯すことの出来ない鉄則の下に生きる現実の世界なのである。従つて、その現実の刹那刹那に生きるのに、何等の用意も準備も為さず、啻(ただ)に漫然たるべきものでない。須らく常に正しい使命観の上に立脚して、積極的に充実した気分で、真理に則して現実こ活処することこそ、裁然たる人間本来の面目なりと正念自覚し、叙上数項を吾が日々の精神行事とし、恒に溌刺として、人生百般の事物事象に応接鞅掌して行くことにしよう。

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(13)神経反射作用の調節法

第一になぜ精神感応性能を積極化するのに、神経反射作用の調節を必要とするかという理由を説くこととする。

それは、要約すれば、吾人の生命確保の中枢を為す神経系統は、極めて高度の反射作用を有するもので、特に精神生命の積極化を望む者が、是非知得して置かねばならない重要なことは、生命に存在する各種の感覚や感情の刺戟衝動というものは、細大洩さずそれを一々中枢神経を通じて脳髄府へ伝達されるように、自然に仕組まれているということである。
そして特に注意すべきことは、特に平素消極的精神生活を営んでいる人の、神経系統の反射作用というものは、その消極的心理状態のため、俗にいう神経過敏という状態になつているために、往々正規を逸した異常な高度のものになつている。そのため僅かな感覚刺戟でも、また感情衝動でも、殊にそれが消極的のものだと、より一層大袈裟にそれを脳髄府に伝達する。

これは、要するに、精神科学的に論ずれば、生命の第一次的原動力要素をなすBioelektrizitat=生電気体の作用に変調を来たし、その結果動物性神経と植物性神経の、相互亢奮を調節する固有作用が、完全に活動することができなくなり、そのため両神経機能の平衡を正当に保つことが出来なくなつたということに帰因するのである。
然し、だからといつて、それをその儘に放任して置くと、結局精神生命の安定を攪乱し、延いて生命維持の上にも危険な消長関係を及ぼすという、怖るべき影響を招来するに至るのである。
そこで一方に於て積極精神の保成に必要な方法を行うと同時に、またこの神経反射作用の調節を現実化して、前記の生命の第二次的原動力要素であるBioelektrizitat=生電気体の作用を正常に行い得るようにしなければならない、これが即ち斯法組織の理論基礎なのである。
そこでどうすれば、その目的を達成し得るかというと、結論的に拡いえば、各種の感覚や感情の刺激衝動を、心が受けた刹那刹那に、特殊の用意を肉体の各要処に施して、先づ体内の枢要部に散在する神経叢(plexus nervorum)の安定を確保し、その動乱を鎮圧防止するのである。
則ち神経叢の安定を確保し得れば、結局、原因と結果の相関々係で、適当に神経系統の反射作用を調節し得るに至るからである。
それでは、どんな特殊の用意を肉体の各要処に施すのかというと、分り易くいえば、感覚や感情の刺戟や衝動を受けた刹那、何を措いても、先づ第一に肛門を締めるのである。そして同時に、肩を充分に力を脱いておろし、と同時に下腹部に力を充実せしめるのである。即ち尻、肩、腹の三位を一体として、前記のとおり同時に処置するのである。
一体こういう方法を行うと、どういう理由で、神経叢の動乱を鎮圧し得て、その安定を確保することが出来るのか、中には、前記の方法形式だけを一読して、その余りにも簡単らしく感じるという皮相的見解で、或はこの方法の価値に対して、多分の疑義をもたれる人もあるかと思うが、少しでも生物学的知識なり、または神経系統の生活機能の研究に造詣をもつ人なら、一見直ちに斯法の組織が、合理的の狙いをもつている点に着眼されることと信ずるが、そうでない人々には、方法形式のみでは充分理解されないと考えるので、今少し詳細に説明を進めることとする。
先づその順序として、神経叢というものから説明する。
神経叢とは、分り易くいうと、生命維持に必要とする活力の貯蔵処なのである、そしてこの神経叢は、体内枢要部の各所に相当夥しく散在している。俗に急処と称する部処は、おおむねこの神経叢の在る処だと思つて差支えない。
そして、この神経叢の中で一番密集度を高度に保有している処は、心窩、俗にいう(みぞおち)で、解剖学的にいえばplexus phrenicus則ち横隔膜神経叢の在る処である。だから、この心窩部には、また一番多量に活力が保留されているのである。
現に、古来から武術の方では、この部処を急所中の急所(水月)と称し、この部処に強打を受けて気を失つた際には、施すべき方法がないとさえいう位である。
由来活力というものは、これを精神科学的にいえば、先づ脳髄府中の松果系へ(pinal gland)一名是を脳砂(brain sand)ともいうが、これに受容せられ、そして更に脳髄機構を経て、横隔膜のある則ち心窩部内の最大な神経叢に送られ、一旦これに保留された後、全身の必要に応じて各細胞に分配頒布するため、各要所に散在する各神経叢に送致されるということになつている。
ところが感覚や感情の刺戟衝動を受けるとその程度に応じて生命エネルギーは、必然杓に相当の損失を受ける、そこでその場合この最大な心窩部内の神経叢内から、その保留した活力を急激に異常放出をする。そして生命の蒙むる損失を補填するのである。が放出すると同時に放出した分量だけ、また直ちにそれを自然が補充してくれれば、別に何の問題もないのだが、そうは行かないのである。則ち活力というものは、失う時は刹那的で時として無限であり、受入れるのには時間的で有限なのである。
よく、極度の刺激や衝動を受けて死ぬ人がある。則ち強烈な打撃を受けたとか、または極度の驚きのために…それは、その刹那無限に活力を失うからの結果なので、更に普通病の場合などを考えでも、この消息はよく分る。病には、一寸した生活の失錯ですぐになるが、これを回復せしめるのには、相当の時間がかかる、という事例だけで考えても、活力は、出来るだけ失わないように注意しなければならないものであるが、特に神経過敏の人は、より一層失う方の分量が多く、受入れるのには有限量を、然も相当の時間を費さなければ得られぬという有難くない傾向が顕著なのである。
前記の肉体処置の方法は、この重要な神経叢の、こうした場合に於ける不測の動乱を鎮圧確保して、できるだけその安定を計り、活力の放出量を最少限度に、喰い止め得るのである。もつと詳細にいえば、先づ肛門を締めるとどうなるかというと、脊髄の末端及びその周囲に散在する紳経叢(plexus caudalis)の異常動乱を鎮圧する。
然もこの肛門を締めることは、古来相当重視されていた形跡がある。古禅ではこれを「止気の法」と称し、気の逃げ失せるを防ぐ法として、怖ろしいことや、驚くことがあつた時に行うべしと説かれている。
これに就て、興味のある参考談がある。東海道桑名の渡海船が、途中で大時化に遇つて難破し、乗合の殆んど全部が溺死した。そこで、その漂流して来た溺死人を、岸辺の砂浜の上に並べて、桑名の浜役人が一々検視を行つた処、その中に一人の僧体のものが、どう見ても死相になつていないので「この沙門は死んでおらぬようだ」というと「いいえもう既に息絶えております」と下役人がいつたが、検視の役人は相当心得のある男と見えて「いや真死でなく仮死らしい。とにかくその者の肛門を調べて見よ、必らず締まつていると思うから」というので、下役も不審に思つて調ペて見ると、上役のいつたとおり、他の溺死体と異り、肛門が堅固に締まつていたので「仰せのとおり締まつて居ります」というと「そうであろう…では手当をいたして見よ、蘇生いたすから」というので、下役が型のとおり水死人に施す手当を行うと、やがてこの僧体が息を吹き返した。そこで検視の役人が「御坊は何れの沙門か存ぜぬが、余程心得のある方と見受ける」というと、かの僧は「どういたしまして、愚僧は未だ修行中の未熟者に御座ります」というから、上役が「いや中々そうで御座らぬ、大事に臨んで肛門を締められるなどは未熟輩の為さぬところ、誠に感服いたした」というと「肛門を締めましたのがさほど御賞めに預かりますか」と不思議そうに問い返すから「数多くの溺死人悉く助かり申さん、その中で御坊だけは、肛門の締まりおりしため蘇生されたのである」というと、かの僧いと感慨深げの面持で「左様で御座りますか、さてさて愚僧の御師匠はえらい御方で御座ります、実は愚僧は、目下京都に御滞錫中の白隠禅師の下に使われております白翁と申す者で、この度所用のため郷里に立帰る途中、この災難に遭いましたのですが、京を発足いたします時、師の御坊が、旅は世慣れぬもの一しお気をつけねばならぬもの、とりわけ何かの大事に出会いし時は、何を措いても、肛門だけは緩めるでないと仰せになりました。その時は格別何とも思わず出発いたしましたが、桑名の渡海船に乗りまして間もなく大時化で、船頭衆も、もうとても駄目だから乗合の皆さん覚悟して下されとのこととて、その時ふと出発の際の師の御坊の御言葉を思い出し、どうせ助からぬものなら、せめてこの一期の大事に、何はともあれ、師の御坊の仰せのとおり、、肛門だけを締めようと、船から波間え振り落される刹那までも、その事のみを一生懸命行念いたし、そのまま気を失いましたのですが……」と物語るを、黙念として聞いて居た役人は「流石は日本一の高僧」よと、いく感激したという話がある。
勿論、その当時の識者が、神経叢と肛門との関係を、学術的に理解していたかどうかは疑問だが、然し、いわゆる実際から会得していたという尊い事実的知識であると思う。
なおこの肛門を締める効果及び応用法は、かなり沢山あるので、逐次述べることとする。
次は、下腹部に力を充実すると、一体どういう効果があるかというと、「これは大抵の人が、理論的消息はとにかく、下腹に力を入れるのはいいことだということは、誰でも知つているようである。即ち腹を錬れとか、腹に気を落ちつけよとか「あの人は腹の出来ている人」とかいう言葉は昔からかなり沢山ある。武術の方にも、「技より腹を造れ」という誡めがある。然し、これに関する理論的知識のない人は、ただ単に腹に力を入れさえすれば、それでよいように思つて、やたらと息張りさえすればよいと思うが、それは、往々効果少く損失多い結果を招来するから、注意しなければならない。勿論、下腹部に力を充実せしめれば、第一に腹筋神経を通じて、腹腔内の各神経叢(plexus coeliacus, plexus aorticus abdominalis)を確保し、その上脊髄部の周囲に散在する神経叢(blexus nervorum spinalium)もまた確保されるに相違ない。
然し、茲に特に注意すべき重要な問題は、下腹に力を充実せしめる時、必らず肛門を締めないと、往々内臓を下垂せしめるような結果を作る怖れがあるのである。
現に、ただ腹に力を入れればよいとだけで、肛門を等閑視して実行する人に、往々水ぶくれのように脂肪ぶとりの如く、肥りだして来る人がある、ところがそれを何か健康になつたことのように嬉しがつている人もあるが、実に笑止な話なので、それは健康増進の結果肉がついたのではなく、内臓を下垂せしめる圧迫を腹腔に与えるため、特に腎臓機能に変調を招来した結果現象なのである。
この点に関しても、、古禅は特に隠語を以て諭してある、即ち「臍は天に冲するを以て良しとし、丹田は未だ篠打たざる毯の如くあるべし」と。実際こういう状態になるのには、下腹部に力を充実せしめると同時に、肛門を締めないと出来ないのである。
だから下腹部に力を入れる時、必らず肛門を締めねばならぬことが不可分的に重要なものだということを忘れてはならない。肛門さえ締めて下腹部に力を入れれば、内臓も下垂せしめられる状態にならず、また血圧も上昇せず、極めて理想的の効果を得るのである。
次は、肩の力を脱いでおろすのは、何のためかというと、この方法は結論的いえば、この方法だけの独立的効果よりも、前記の肛門を締めて下腹部に力を入れた時の補助的効果の方が大きいのである。
言い換えると、下腹部に力を入れる時、肛門を締めることが不可分の条件であると同様に、肩の力を脱いでおろすということもまた不可分的な重要性をもつているものなのである。詮じ詰めると、そうすることに依って、一番密集度を高度にもつ神経叢のある横隔膜の上昇を完全に防止するという重要な目的が達せられるのである。
多くの人は、気づいてないかも知れないが、人が極度に驚いたり、怖れたり、怒つたり、泣いたりする時は、必らず横隔膜は上昇する。よく、世間の人は、慌てふためいて思慮分別を失つた時のことを、俗に「上づる」というが、これは横隔膜が上昇したことを言い現わす卑近な形容詞であるといえる。
そしてこれもまた気がついていないかも知れないが、前記の様な消極的の感情が発作した時は、必然的に肩が力を込められて挙げられているものである。
であるから、反対に、感情や感覚の衝動刺激を受けた時に、肩のカを意識的に脱いておろすということを行えば、それだけでも、その刺激や衝動を緩解出来る訳である。
そして、その上に、肩の力を脱いて、極めて緩解した状態にすると、迷走神経と交感神経とから成る心臓神経叢(plexus cardiacus)の受ける反射を鎮圧調節するのに相当数果があるために、その布衍的結果として、深心臓神経叢も浅心臓神経叢も大した動揺を受けることなく、従つてその部分の交感神経作用も順調に行われ、更にその関連的関係で総頸動脈神経叢(blexus caroticus communis)も、その衝動を受ける率が尠くなるため、いつまでも感覚や感情の刺激や衝動のために、心臓動悸が静まらないとか、または貧血を惹起するというような事実をよく防止し得ることになるのである。
よく急に、驚いたり、怖れたり、または極度に立腹したり、悲しんだりした結果、高度の心悸亢進を惹起したり、または脳貧血を起して卒倒する人を往々見受けるが、要約すれば、前記の各神農叢がその刺激や衝動のために急激な動揺を受け、これを適当に防止鎮圧するこ
とが出来得なかつた結果現象なのである。
それから、よく肩がこるという人がある。勿論その原因は種々雑多で、内臓の諸疾患に原因することも随分あるが、何かの仕事に熱中して肩が凝るというのは、その時無意識に肩に力を入れて上に張るようにしていたためだということも考えられる、という証拠には、どんなこ一定の仕事を詰めて行つても、前記の方法を時々待つていると、決して肩が凝るなどと いうことが無くなるのでも分る。であるから、とにかく理論理解は第二として、何よりも先づ実際方式の会得を修練することである。そうすれば、各種の効果事実が、歴然として一切の疑義を釈明してくれるからである。
そこでなお注意したいことは、最初の間肛門を締めて、下腹部に力を充実せしめようとすると、反対に下腹都が凹む人がある、そういう人は、腹の方から先に力を入れて膨らして後、静かに肛門を締めるということを行って見ることである。すると間もなく、肛門を締めて下腹部に充分満々たる力が充実するようになる。
但し、そういう場合、肩の力を脱くことをくれぐれも忘れぬように注意しなければならない。要は、熱心に練習することである。肛門と下腹と肩の三位一体の処置ということだけを考えると、極めて簡単に行い得るもののように、大抵の人は早合点するようだが、実際のところは、いつ何時でも、いざという時に、この体勢になれるまでには、努力して練習しても、三ヶ月や半年はかかるのが普通である。
だから、詮じ詰めれば不断の実行を心がけることである。即ち、一寸立つにもこの体勢、電車汽車に乗る時も、降りる時も、歩行の時も、この体勢で行うようにする、また執務中、作業中にも時々この体勢を一呼吸間か、もしくは二三呼吸間行うように心がけると、よく疲労を軽減する効果がある。
こうして、注意深く実行に移して行くと、遂にはいつ何時でも、機に臨み、変に応じて、突嗟にこの体勢で応接出来るようになる。そうなればもうしめたもので、殆んど完全に近く、神経反射作用の調節を可能ならしめることが出来るようになる。
尤も、そうなるまでにも、努力して実行していると、その効果は凡そ左記のように多様の現象となつて生命に顕現して来る。

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○斯法の効果概要
(A)血液の循環が極めて良好に促進せられ、血色が自立つてよくなる。
(B)筋肉が調整されるため、痩せている者は肉附きが良くなり、脂肪性の肥満体は、程 よく中和体になる。そして息切れが無くなり、血圧も当然適当に降下する。
(C)消化機能が良好に作用するため、胃腸の工合が良くなり、便通の如きも極めて順調 になる。

(D)頭脳常に明快を覚え、今までのような理由なき憂鬱気分に襲われなくなる、というのは、身体組織の各細胞と毛細管の血液との間に発生する瓦斯交換量が増大するからである。
(E)虚心平気の人生時間が多くなる。それは、在来のように不当な恐怖や驚愕に、心の動揺を受けることが著しく減少する結果で、詮じ詰めると、生活を楽しく味わう時間が殖えることとなる。
(F)内外一致の中和作用が旺盛になる。内とは心、外とは身体のことであるが、そのため肉体各細胞の同化力が増大する、従つて、万一怪我したとか、痛めたとかいうような場合、その刹那この方法を行うと、著しく自然良能力の発動を促進することとなつて、その回復が目立つて早い。
それから、特に附記したいことは、この方法を常住実行して居ると、外邪よく侵す能わずという堅固な肉体になり得る。だから妄りに細菌に犯されたり、感冒にかかつたりするようなことがなくなる。
それは畢竟、肉体組織の各組胞の生活力が旺盛になる結果に外ならないが、これに就て極めて価値の高い参考となる事実を左に摘記する。
精神科学では、健康体に人身磁気(human magnetism)が多量に存在すると説いている。この磁気は一名(human fluid)とも称し、いわゆる純粋磁気なるものとは、ややその性
質を異にしたものであるが、然もこの特殊の磁気性のものは、活きている以上は何人にも在る。然しながらその人の精神状態や、延いて肉体健康の状態で、相当その分量に相違があるというのである。そして、この磁気は、特殊の装置を施すことに依つて、その光を見分けることが出来るが、普通の肉眼では、その光波長が極めて短いため、特別に修行したいわゆる心眼の優れた透視力をもつもの以外にはこれを認めることが出来ない。即ちIuminiere obscure=見えざる光りであるからである。この「光」りをオーラ(aura英米oura仏)ける。この磁気体の光りを特殊装置で見分けると、人体の周囲に霞のかかつたようなものが幾重にも見える。
この人体周囲にある霞のように見えるものがオ−ラ(光り)の実体なので、このオ−ラの存在する霞み体をastral bodyと呼び、肉体(material body)の分身的存在と呼称して
いる。このastral bodyの濃度の強い程、オーラもまた明瞭なので、そういう人は完全に近い健康体の人であるというのである。
何れにしても、この方法を行うと、右の実在条件である人身磁気が、生命に受ける適性的のvibrationのために、その分量を増大することになるために、肉体の対外及び対内抵抗力を旺盛にし、即ち外邪よく侵す能わずという頼もしい強健体になるのである。
だから、結核患者やその他の伝染牲の患者に接近する際は、必らずこの方法を肉体に施すべきである。
なおこの人身磁気及びオーラに就て、少し旧聞に属するが、亜米利加と伊太利の学究に依つて公表せられた有益な記事が、東京及び大阪の各新聞に掲載されたものがあるから左に引用することにする。
その一 (大正十三年四月十一日、国民新聞科学知識欄掲載)
身体から出る光で健康が判る。アメリカのロックフェラー研究所で、最近発見したものであるが、人間の身体からは、一種の光が終始出ている。それが健康の度によつてそれに差がある。そこでこの方法によ つて人間の健康状態を、如実に知ることが出来るというので、米国では、健康珍断の方法 としてこれを用いる機運が起りつつある。
この方法は、紫の染料にするデイーチャニンというものを溶解して、二枚の硝子から成 る液桶フィルター(写真のフィルムは乾燥しているが、あれを水としたもの)に入れ、それを透して黒幕の前に立たせた人間に、光りを当てて手を拡げさせると、その指の先きから一種の光が発散しているのが見える。その光が健康体ほど長く尾を曳いている。つまりこのことが原理になつている。

その二(昭和五年三月十四日、大阪毎日新聞掲載ローマ本社特電)
人体の放射する生命力。その撮影に成功イタリー学士院で報告 ィタリー学士院会員で、未来派の始祖として有名なエフチ−・マリネツチ氏は、イタリー学士院科学部々会で、プイゴ・クレモネ−ゼ博士の生物学上の重大な発見について報告した。それはクレモネ−ゼ博士は、最近人体より放射される生命力を写真にとることに成功したというのであつて、マリネツチ氏はその報告を次の如く結んでいる。
この発見の結果、吾々は或は近き将来に於て、丁度血液の組織公式と同様な人間の活力の公式を求めて、生物学中に生理的数字の要素を将来し得るかも知れない。

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その三(昭和九年五月九日、大阪朝日新聞サウンドボックス欄掲載
人体は光る(病気診断の新基礎)宇宙に輝く太陽や星は、絶えず光と熱を放射しているが、我等人間も晝夜間断なく各自の身体が保有する熱量の半分程を、一定の波長をもつ光に変化せしめ、それを放射していることを、最近アメリカ、コーネル大学のラッセル、セーヂ研究所のゼームス・ハ−デ−博士が、人体の燃量と新陳代謝作用との関係を研究しながら発見した。人体から放射する光は、四十ワットの電球から放射する光のエネルギーに相当する。その波長は赤外線に近く、無論人々の目に見えないが、精細なラジオ・メーターで計るとよく分る。
このラジオ・メーターはハーデー博士の発明したもので、最近アメリカの天文学者が天体の熱度を計るサモメーターを改造した精巧無比の機械であるが、それで測定して見ると人体の波長は、一ミリ、メーターの千分の七(現在一番短かいラジオの電波は、十ミり、メーター、目に見える光の限度は、一ミリ、メーターの千分の九)である。
ハーデー博士は、人体から放射される光を測定しながら、人体の生活機能と放射能とが密接な関係をもつこと、即ち健康体は間断なく活発に光を放射するが、身体のどこかに故障のある時には、光の放射が鈍くなつたり、中止することを発見したので、将来の医学は診断の基礎を人体放射能の状態におかれるかも知れないと言っている。
なおこれ以外にも、参考とすべき証明文献が相当沢山あるが、何れも純学術的のものなので、これを省略した。然し以上の三記事だけでも、人身磁気及びその放射光の実在する消息は理解されたことと思う。

そして、この方法は、印度瑜珈哲学の秘法クンパハカ密法=kumvaphaccaと称するものから引用して、私が創意した特殊の体のもち方posture pegulationなのである。便 宜上これを「自己調和法」と名づける。

この方法はその応用範囲また頗る広いものなので、抜萃的に左にその二三を摘記するこ ととする。

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(14)応 用 法

(応用法其一)前述の方法を基礎として活力の増進を完全にすることが出来るという効果がある。それは簡単にいうと、この自己調和法の肉体処置の体勢で深呼吸を行うことに依つて、その目的が達せられるのである。

そもそも深呼吸というものが、何故に健康確保のために必要かということは、だれでも熟知のことと信ずる。
およそ活力(Vril)というものは、本源的には大自然から神経系統に供給せられることは前記のとおりであるが、更に強いていえば、その次亜的経由は、左の五種の物質の中にそれが特殊の状態で含有されて、本源的の作用と両々相呼応して、人間の生命を維持するように、これまた大自然に依って霊妙に計画されている。
その五種の特定物質とは
1、空気
2、食物(特に原形質性のもの)
3、水
4、日光
5、土
このように各種の物質中にそれぞれ活力が特殊的に含有存在しているのは、要約すれば、生命内容の要求の相違から来た結果なのである。厳密にいえば、それぞれ何れも微妙な差異を有し、その綜合されたものが、生命維持を完了しているものといつてよいのである。
そして生物は、何れも何人に教を受けなくても、これ等の物質の中から、生命それ自体に在る本能的作用で、それぞれ生命の要求する活力を取り入れているのである。詳しくいえば、喰つたり、飲んだり、呼吸したり、吸収したりという天賦的生活作用で、右の特定物質中の活力を体内えと摂取している。そして、右の物質中に存在する活力中、どれが最も多分に人間の生命に必要とされるかというと、空気の中に存在する活力なのである。
現に学者に依ると、本源的活力も、またこの空気の中に含有存在しているとさえ主張されている位で、実に、右の五種の物質中の活力を百と見て、その八十五%を吾人の生命はこの空気の中の活力に要求しているのである、だから厳密にいうと、食物、水、日光、土の中に含有される生命要求の活力比例は、四者合計で全体の十五%なのである。
然し空気中の活力が、とれほど必要欠くべからざるものであるかは、右の比例別を知る必要もなく、事実で何人も知つている筈である。
即ち、食物や水は、五日や十日摂取しなくても活きて居られる。また日光や土は一ヶ月や二ヶ月接触しなくても生命は維持出来るが、空気ばかりは、ものの五分とこれを絶縁することは許されない。
だから、その意味の下に、生命の要求する空気の中の活力を摂取する肺臓や皮膚の営む呼吸作用というものも、呱々の声を挙げてこの世に生れでた瞬間から、万事休する死の刹那まで絶対に休止することがない。
だがここに注意すべき問題は、平素前記の自己調和法のような体勢で、人生に活きている人は別として、そうでない人は、中でも神経過敏的に、ともすれば感情の擒になるような生活をしている人というものは、特に、生命の要求する活力の最大量を摂取する肺臓の呼吸が、概して浅いのである。即ち、肺臓の上部位だけ呼吸しているという肺尖部呼吸なのである。従って、換言すれば、充分に空気中の活力を摂取する完全呼吸というものを営んでいないのである。要するに、深呼吸というものは、この意味からいつても、必要なものなのである。従つて古来宗教家や、修養を説く人や、医家に依って奨励されたものである。
然し、これにもまた多少の誤解をもつ人があつて、殆んど、のべつに深呼吸を行う人があるが、それは行わないよりもよいかも知れないが、一方そのため肺気腫的の状態になつたり、または肺気胞を弛緩せしめる怖れがあるということも考えなければならないと思う。
そこで、最も完全にして、且つ効果率の顕著な方法として、私は前記の自己調和法の体勢で、左の要項を基本として行う深呼吸を奨励する。
(A)深呼吸回数は、一回に精々三呼吸乃至五呼吸をを限度とすること
(B)呼吸は、できるだけの範囲内で静かに長く深く行うこと。
古人も縷々として小田巻の糸を繰るが如くせよといつている。また古語にも真人は踵を以て息するというのがある。 これと同じように英米にも、“Pure man draws breath from heels”という言葉がある。いづれも右の意味の形容に外ならないと思う。
(C)深呼吸は、呼息から始めること。
大抵の人は、吸息より始めるようだが、同じ行うのなら、先づ肺臓内の残気を充分吐き出して、肺臓気胞を浄化して空虚状態にした処え吸息する方が、効果遙かに大である。
(D)深呼吸実行の時
起床直後と就床直前及び何かの仕事をしようとする時、並に疲労休息の時勿論これ以外、折ある毎に行うことは理想的であるが、そのために疲労する程では過度であるから程よく行うこと
(E) 効果を増大するために、観念を用いること。
即ち新鮮な活力を多分に、今正に収受するという観念と同時に、その活力を受容する感謝念を心に真剣に抱いて行うことである。こうした観念はまたそれが積極的暗示となつて、一層に良好な効果を増大するものであるということは、暗示の同化力を想起すれば必然分ることと思う。
なお深呼吸法は、鼻呼吸でないと効果尠なく、意味を為さないように説く人もあるが、私はそうした捉われた考え方でなく、その時の状態で口から呼吸しても決して差支えないと主張する。万一鼻呼吸でないと効果無しというのなら、鼻加答児や蓄膿症その他の鼻疾患のため鼻腔が塞がつている場合は、その状態が回復しない限り、深呼吸を行えないという不自由千万のことになる。造物主が、鼻からでもまた口からでも、呼吸の出来るように人間を作つてある以上、吾々はその時の状態で、換言すれば行つて気持のよい方法を採ることである。
現に印度の瑜珈哲学の主張では、人間は一切の生命養分を、口から摂取すべきものであると称して、呼吸を行うに、吸気は口から、呼気は鼻から行つている。また事実に於て、吸息するのに、鼻からするのと、口からするのと、何れがやりよいかといえば、口から行う方が遙かに容易で、特に深呼吸行には、一層口から吸気する方が、何となく腹一杯空気中の活力を受容出来るように感ずる。論より証拠は、実地に試みてその得失を判別するのが一番よい。

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(応用法其二)

次に斯法を基盤とする活力の移送法というものを述べよう。
この方法も、その方法形式と倶に、観念の力に依つて得る効果率の高いものであるから、大いに応用されたい。
厳密にいえば、この方法は前記の深呼吸法の応用法というべきもので、ただその相違する点は、飽くまで観念を主体とし、方法形式を従とするところにあるのと、深呼吸法は全身的で、この方法は局部的であるという点である。即ち、この方法は、活力を移送しようとする局処だけを目標とするものであるからである。

○方法

自己調和法をもつて吸息するに際し、先づ第一に、今正に活力を移送しようと思う局所を、心に強烈に思念し、同時に、徐ろに吸息しながらその吸息と共にその局所に、空気中の活力が流入するという想定観念を、強烈に心に抱かしめること。
そして、吸息し終つたならば、その刹那、更に今一度肛門を固く締め、肩を充分におろし(吸息の際、知らず知らず肩を上に挙げないように注意されたい)下腹部に力を充実する自己調和法を行つて瞬間止息する。そしてその瞬間止息した時、活力を受容したという想定観念を、また心に抱かしめる。但しこの止息は文字通り瞬間であることを忘れてはならない。そこで直ちに呼息するのであるが、その時は、ややいきみ加減にして息を吐き出すのである。この吐息をいきみ加減にするのは、全身の生活細胞にvibrationを与えるためで、要するに、今受入れた活力を一層効果的にするためなのである。
いきみは、活身ということで、だれでも、力を急に入れる時や、痛みを忍ぶ時などには知らず識らず、いきみ加減になるもので、先天的にその際の消耗率をこうして防止することを、人々は自然に実行しているものなのである。
また聞くところに依ると、仙術などでは、このいきみの吐息を息吹(いぶき)の法と称して、密法の一つとして尊重しているとのことであるが、要するに、前記の消息を実際的に体験した工夫であろうと思う。
なおこの方法の実行に関する注意は、一回に五呼吸を限度とすること、そして、五分間もしくは十数分間の間を置いて、また繰り返して行うこと
そして、出来る限り、空気の清浄な場処で行うことである。この方法は、とりわけ観念の力というものが、頗るその効果に消長関係をもつている。で、そ点のを充分に注意しないと、方法に熱達するようになると、ややともすると、形式本位になつて、肝心の観念応用を疎かにする怖れがあるから、どんなに熟達しても、いつも初心当時と同じように、観念応用を慎重にすることが必要である。
そして、少しでも疲れたとか、もしくは、活気が抜けたなと思つた時、もしくは、これから活動力を多分に必要とすを仕事などに取かかろうとする時は、すかさず実行することである。勿論、慣れた仕事などを行つている時などは、別に仕事の手を休めなくても、僅か一二分で出来るので、仕事をしながらでも実行容易である。丁度機関車が運転を停止せずに、石炭を焚き口に入れ得るのと同様に……とにかく、このように応用することに依って、自己自身で肉体の故障や病患部に治癒力を促進することが出来るのであるから、大いに応用すベきである。元来自分で自分を治すということは、厳密にいえば生物の天賦的本能なので、野山に棲む禽獣は皆自分自身で故障や病を治している。まして人間は、といいたいところである。

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(応用法其三)

養動法=一名、静動安座法、この方法には左の数項の効果がある。
(A)神経系統の異常亢奮を鎮静する。
(B)活力の分布を平均にする。
(C)内蔵筋肉のこり、つり、のぴを適当に緩和する。
(D)運動不足を補う。
(E)姿勢を正しく矯正する。
(F)その他。

〇方法

静座して、両手を組み、軽く股の上に置き、瞑目の上、自己調和法の体勢を行いなが ら、徐ろに頭部で、平仮名の「の」字を書く気分で、静かに上体を、揺動する。
但し、全身の動揺は激動を避け、静座を主とすること。言い換えれば、自然動揺を最も 理想とする。
なお最初「の」の字を書く気持で動揺を関始した積りなのに、いつしかその上体動揺が、前後になつたり、左右になつたり、または上下になつてくることがよくあるが、それはその時の身体の状況で、そうなるのであるから、少しも差支えない。要するに上体の動揺は、そのまま自然に任せて置けばよいのである。
そしてこの方法の特色は、こうして静動安座しつつあると、自分の身体の姿勢の欠点や、果ては病患疼痛等の真の部処が、意識的に分つてくるという事実がある。
一体、人々の多くは、その身体の重心が必らずしも同一でない、だからこの方法を行つて膝頭の方に痛みを感じるのは、平素重心が前方にあるからで、安座している足先の方が痛むなら、重心が後方に過ぎるためである。だからその状況に応じて体位を矯正することである。
病患または疼痛というものも、必らずしも、その異常を感ずる部処に真の病があるときまつているものでなく、迷走神経の関係で、胃の工合のわるいために頭痛を感じたり、腸のわるいために腰痛を感じたりするもので、そうした場合この方法を行うと、ははあこの痛みは原因が他処にあると、はつきり意識に感じてくる。これが慣れるに従い、実に百発百中的になるものである。
以上が精神生命保持の法則である積極的精神作成の三大要項と、その方法の説明の大要であるが、既に何度も繰り返していつたとおり、要はただ一心に実行することだけであるから、大いに努力専念されたい。

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(15)精神統一の要領

次は、精神生命の生活態度決定の第二条件である精神生命使用の原則を述べる。
多くいうまでもなく、どんな物を使用するにもそれぞれ使用上の原則というものがある。そしてその原則に背反して使用された時、物そのものの用途効果というものは、当然削減されるのが通則である。
まして、万物の霊長である吾等人間の本来の資格を発揮する唯一象徴ともいうべき精神を使用するに際しては、特にその原則を尊守しなければならないことは、当然過ぎることで、その証拠には、精神をその使用原則に背反して使用すると、吾等人類にだけ賦与された幽玄微妙な心の働きが、忽ち窘束されたように萎靡(イビ)として振わなくなり、時にはかえつて心がある計りに、しなくともよい苦労をしたり、するべきでない失錯をしでかしたりするという、およそ下らぬ結果を招くことになる。
精神使用の原則とは何かというと、精神統一(concentration)である。分り易くいえば、心を使う時、必らず分裂することなく、集中された状態であらねばならないのである。
それでは何のために、精神は統一して使用されなければいけないかというと、これ迄説いた積極的に精神を把持することに依つて、心の力が作られ、更に統一して精神が使用されることに依って、心の働きというものが現実化され、ここに尊厳な人間の価値が完全に生まれるからである。実際において、どれほど力だけあつても、働きに優秀味が欠けていると、結局その力もまた勢い孤立的のものとなり、その可能率を高く発揮することが出来ないという結果が当然来るのである。
これに反して、強い力に優秀な働きというものが附加されたら、その結果がどんなに目覚ましいものになるかということも、常識判断で直ちに納得されることと信ずる。
要するに、古来から、済輩の群を凌いだ非凡の人というつのは、皆一様に、その心に力もあり働きもあつた人なので、その心に力も働きもなくて、よく凡庸を凌駕するなどということは、夢にもあり得ないのである。
事実において、精神が常住統一されるようになると、その統一の程度に従つて、精神生命の可能性というものが、驚異に値する程、極言すれば、殆んど無限大にまで進展向上する。
古来から、霊感(inspiration)とか霊智(lntellection)とか称される特殊の心理現象は
皆精神統一の極地から発現する尊貴な事象なのである。
然もそれが、だれでも志して修行怠ることなければ到達し得る処であることを思う時、我々は人間として生れたことに、形容の出来ない深甚な感謝を捧げなければならない。
それではどうすれぱ、精神を統一して使用できるか?
総じて多数の人は、精神を統一することを、何か頗る至難のように考える傾向があるが、これは一つは、その指導者達の多くが、凡人容易に企て及ばざることなりというように説くためではあるまいかと推断する。勿論そのうん奥に達するには、相当の歳月を要し、また特定の行修を積まなければ、上根者ならとにかく一般下根者には、そう早急には彼岸点に到達するものではないに相違ない。然し、これもまた施すに法を以てすれば、存外早く、そして大した苦難を感ぜずに、よくその初入門に行入することが出来るものなのである。
参考のため、その要諦を説示するが、それに先だち、これもまたおおむね多くの人が誤解している精神統一の状態というものを、正しく理解づけて置くことにする。
大抵の人が、精神統一ということは、心の前に現われた事物現象なり、または仕事などに、他意なく一心不乱に心が注がれる状態をいうのだと考えているようだが、それは大変な間違いなので、それは精神統一の枢要条件である集中ではなく、傾注であり、執着であり、極言すれば凝滞であり、放心なのである。
真正の精神統一とは、心の前に現われた事物現象その他の事柄を、心の中に集約集中せしめることなので、その消息は左の図解を一見されれば、一目瞭然と信ずる。

心→事物=傾注、執着

心←事物=集中、統一

ところが前述のように、何でも心が一心不乱になつたなら、それが統一であり、三昧であるように思うので、それでは精神統一の妙境に入ることが、到底出来ないのが当然のことで、精神統一を難かしいものだと一概に断定してしまうのであろうともいえる。
考えて見るとすぐ分る消息だと思うが、心の前に現われた事物現象に、一心不乱他意なく心を注いだことが精神統一なちば、何も格別修行の、努力のと苦労する必要もなく、だれでも容易に出来得る筈である。否容易に日常実行している筈である。
たとえば、何か非常に面白いものを見たり、聞いたりする時とか、目のさめるような美人を見た時とかなどの時は、敢えて意識的に一心不乱にならずとも、自然とそうなり得ている。また、神経過敏の人などは、絶えず自己の健康や運命を気遣う気分に一心不乱である。
然しこれなどは、どうして精神統一ということができよう。即ちそれは傾注であり、執着であり、傾値なき凝滞放心の姿である。
即ち精神統一とは、心を心の対応するものに捉わしめるのではなく、心にそれを完全に捕捉することなのである。要するに、傾注と集中とは全然正反対なのである。
そこで、それではどうすれば、そうした統一=集中の状態に心をもつていけるかというと、
第一に必要なことは、どんな場合、どんな事物に対応するにも、常に、意識を明瞭にしてこれに接するようにすること。
もつと分り易くいえば、いつも、はつきりした気持で、何事何物にも接すること、それが先決問題なのである。形容すれば、八面玲瓏磨き上げた鏡の如くあるべきである。写真のレンズが曇つておれば、対象事物を明瞭にフィルムに印象しない、これと同様で、心が明瞭な意識で保持されていないと、心の前に現われた一切を、完全に集中捕捉することは出来ない。ところがおおむね多くの場合、大抵の人は、余程大事な事柄か、もしくは大切な物を取扱う時以外は、存外迂闊な気持でこれに対応せしめている。迂闊な気持というのは、明瞭な意識の反対の不明瞭意識のことである。
それが嘘か本当かは、自分自身の日常を考査して見るとすぐ分る。諸君は果たして朝から晩迄何事をするにも、意識朗瞭でこれを行つているか否か、第一常住意識明瞭で、一切に接している人には、過失とか失錯とかいうものが、極めて尠い、まして統一した精神をもつ人には、そういうことは殆んど皆無だといい得る。
過失とか失錯とかいうものは、意戯を明瞭にしてわざわざしでかすものではない筈である。畢竟迂闊な気持で行つたことから惹き起すものである。
よく、お客に行つて煙草盆に蹴つまづいたり、茶碗を引くりかえす人などがある。また忘れものなどを盛んにやる人がある。これなどは、皆その時の心的状態が明瞭な意識で保持されていなかつたからに原因する。然るに、どうも私は生れつき慌てものでなどということを、平気で、何かそれを自慢気にいう人のあるのは実に笑止至極である。
手紙などを見ても、その人の精神が統一されているかいないかがよく分る。統一された人の書いたものには文句も整然として、脱字、誤字がない、その上最初の書き出しから、終りの字まで、一様の字体である。普の心得のある人は、墨色を見ても、その人の人格が推知出来るといつた位である。偶々(たまたま)こういうことを考査すると、自己の精神が、余りにも、平素不明瞭意識で過ごしていることが自覚されはしないか。
要は、これまた習練であるから、いつもできるだけ意識の明瞭状態を保持し得る理想的習性を心につけるように、熱心に心がけることである。
でその方法の順序として、先づ観念の分裂的放心を防ぐことを先決とする必要があるので、人生々活中の左の四事項を行う時、特に意識的に観念を分裂しないように注意しながら従事することを習練するのである。
要するに、観念が分裂さえしなければ、明瞭意識の保持というものは存外容易なものであるからで、意識か混濁するのは、そのこと以外の他方面に、観念が分裂するからである。換言すれば他の事柄に心が捉われるからの結果である。
たとえば、仕事しながら遊ぶことの方に観念が向けられれば、期せずして観念分裂の結果その仕事は手に附かず、勢い半まな疎かなものになる、また読書しながら他の心配事でも考えていると、少しもその書物の内容が記憶に残らない。古語にも、心ここに在らざれば見るとも見えず聞くとも聞こえずというのがある。これは則ち観念の分裂した時の状態を卒直に表現した言葉である。そこで、観念の分裂を防止し、明瞭意識を保持するためえの習練に適当する人生々活中の四つの事項とは何かというと、

(1)、心の急ぐ事をする時
(2)、興味の薄い事をする時
(3)、値打のない事をする時
(4)、熱練した事をする時

則ち以上の四事項の場合は、どれもややともすると、観念の分裂し易い事柄なので、特にこのことを習練の対象とすると、より一層早くその目的を達成し得るのである。
それは深く考えるまでもなく、第一心の急ぐ時というものは、兎角、結果にのみ観念が分裂し、俗にいうせかせかと落ちつかない気分に陥る、そうなると、もう意識の明瞭度は夥(おびただ)しく減退してしまう。古人も、急いては事を仕損じるとか、急ぎ仕事の手抜けだらけとかいつて、慌てることを戒めている。
古歌にも「急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るゝ野路の村雨」というのがある。また同様の意味で「ものゝふの矢走の渡し近くとも急がばまわれ勢田の長橋」というのがある。更に、古詩に「忙処事預向閑中先可点検、動時会須従静裏是可操持」というのがあるが、何れも等しく、心急ぐ時には、一しおその心を落ち着けよとのことを諭したものである。

第二の興味の薄いことをする時も、またとかくその心は他方に逃げ易い。だからどうしても、興味の薄いことには、気のりがしない。よく囲碁に熱中している人の傍らで、囲碁に興味をもたない家族などが、睡魔のとりことなつて、こくりこくりと居ねむりをしているのを見るが、これなどはよい例証である。
然し人生は、興味を感ずることにだけ、観念の集中をする習性をつけると、そうでなくても益々興味を感ずることの少なくなりつつある現代に、それこそ、一切のことに気のりがしなくなつて、いつ迄経つても、精神統一どころか、のべつ気分が散漫状態になつて、収拾し得ないこととなる。だから古人も、「面白きこともなき世をおもしろく住みなすものは心なりける」と諭している。そこで、かりにも、精神統一に志すものは、興味のないものの中から、更に興味を見出すことに努める心がけこそ必要なのである。

第三の値打のないことを為す時に、また観念はやたらとその事柄から離れてしまうものである。
然しおよそ、対応するものの価値というものは、要するにその主観観念の断定に依つて定まると経済学でも論じているとおりで、たとえば真に飢えている人には、ダイヤモンドの一片よりは、握り飯一箇の方が、遙かに価値を感じる。然し吾等精神統一の習練者は本能や感情を本位とする現象対象の価値批判で事物事象に接したのでは、到底所期の目的は達せられない。
要は、値打のないことに対しても、己れの観念の集中力を養成するのだという正しい価値を作り出すことである。
現に、獅子は、兎を撃つに全力を用いるという事実がある。百獣の王にとつて、かよわい兎は、鎧袖一触の筈である。然も対等の強敵と闘う時と同様の力を用いるということは、たしかに、吾人人間えの頂門の一針と考えられる。
これと同様の話が、剣客宮本武蔵にもあつたということである。元来武蔵という人は、これという定まつた師匠に就て剣道を習練した人ではない。然も、前後数十回の試合にただの一回も敗れたことがない。そこで或る時或る人が、一体あなたは本当に強いのか、それとも今までの試合の相手が、幸いに皆あなたよるも弱かつたためか、いづれかと訊ねた処、武蔵は「私は、自分を強いともまた弱いとも恩つたことがない、ただどんな相手にも、私の渾身の力を振うだけのことだ」といつたそうである。誠に味うべきものがあると思う。
またかの電気王として、世界の礼讃の的となつたヱヂソンは、常に弟子にこういつていたとのことである。「大きい発明や、重大な真理の発見というものは、何でもないように思われる些細の事柄の中に、多く存在している」と。これまた誠に含蓄多い教訓であると思う。
要は、何事も、現象客観でその価値批判を行うことなく、すべてを有価値のものとして取扱う心組みこそ、観念分裂防止の要諦である。

第四の熟練したことを行う時も、また観念の逸脱し易いものなのである。俗にいう河童の川流れとか、猿も木から落ちるとか、或は上手の手から水が洩れるとかいうのは、何れも皆、慣れ切るとどうしても油断の心から、その事柄から観念がともすると分散するため、それを諷刺したものと思う。
よく譬え話にも、乗馬や自転車などは、よく乗りこなせるようになつた時が却つて危険だということがある、これも畢竟慣れるに従い、最初のように意識専念で無くなるからである。
昔の教にも「いつも初心の時と同じ心持にて行わば、手に入りし事にても失策する事なし」というのがある。蓋しこの間の消息を遺憾なく表現した言葉だといわなければならない。
要するに、我々は以上の四事項のどれかと、実際生活を営む際に常に鞅掌関係しているので、充分に、その刹那刹那観念の分裂せぬように注意すべきである。
尤も最初の間は、観念を分裂せしめないように注意する方に何と観念が分裂するという滑稽な事実がある。禅の方でも「不思量底を思量せんとして、思量底に堕す」という誠めがあるが、これも、習練の心がけを緩めることがなければ、おのづと、その妙点を把握し得るに至るので、大いにその心がけを実行されたい。
最も分裂防止の手取り早い手段は、先づ何事をするのにも、真剣な気持でそれに当たることである。即ち一事一物苟くもせず、すべてを真剣な気分ですることである。言い換えると気なしで何事もしないようにすることである。この気構えは一寸考えると小乗方便のようだが、然し大乗方便に共通したものだと私は断定する。要は気を込めてやらないから、心がいつしか他方え分裂逸散するのであるという因果関係からの、正法方便なりといえる。
だから、茲(ここ)にもまた、検討の要がある。則ち何事を行う際にでも、自己が今、気を込めてそのことを行つているか、果たして真剣な気分でいるかどうかを検討省察することである。
第一真剣な気分で事に当たるというと、精神疲労というものが、余りにも尠いのである。反対に気の抜けた状態や、いやいやながら分裂した状態で何事にでも応接すると、忽ち心は疲労する。
神経衰弱症に罹つている人や、精神のまとまらない散漫な人などというものは、何をしてもすぐ倦怠感に襲われる。即ち根気が続かない、これは要するに、精神の疲労が急速にくるがためなのである。何事にでも真剣な気分で応接するようにすると、特に心機転換が実に容易に行われるに至る。従つて執着とか凝滞という心持が無くなるという特点がある。
そこで、常に何事を行うにも真剣唯一主義で対応する習練に努力することである。
なおこれ以上精神統一に関する理論的理解及びそのうん奥到達の方法は、別著「研心鈔」に詳述してあるから、よき機会に参考とされたい。
以上が心身統一の一方の根本要素を為す精神生命の法則に関する理論説明と、これに附随する重要々項並にその解決の方法と手段の大要なのであるが、詮じ詰めれば、理論は第二で、先づその解決に必要とする実際方法と手段とを、日常の実際生活の中に、丹念に実行に移すことが、その先決要諦である。
とかく、特に理智階級者は、理論探究を先にして、充分理屈が納得されてからの後でないと、方法の実行に努力しないという傾向が顕著である。尤もそれなどは、まだよい方なので、中には理論批判だけに没頭して、方法の実行を為そうとしない人さえ往々にある。万一そういう態度を採ると、いつ迄経つても本当の自覚を把握することが出来ないこととなる。
いわゆる「学んでいよいよ苦しみ、究めていよいよ迷う」ということになるからである。ましてこの小冊子の中に、神韻渺茫乎として、端倪将叉容易ならざる人生哲理や、之を証明演釈する科学的理論の全部を、残るなく網羅することなどは、到底思いもよらないことなので、徒らに理論理解を本位とすることは、労多くして効尠なしの結果に陥るから、その点くれぐれも注意されたい。
既に、遠い昔からも、理屈よりも実際ということがどれほど重大視されていたかは、証する事例が頗る多い。現に、禅宗曹洞派随一の書といわれるかの道元禅師がものした正法眼蔵の現成公案の中にも、
万法を修証するを迷とす。
自己を修証するは悟なり。
というのがある。
これは正に、理屈に即して苦しむより、実際に即して活きるに如かずということを訓えた大偈辞に外ならない。
なお、正法眼蔵の中に、屡々見受けるところの
尽十方界真実人体
という語は「人という活物の働きと、大自然の能動というものを一如として真実相なり」という広義の世界観と人生観の真諦喝破なので、更に正法眼蔵説法の眼目が、終始「行」ということをその一貫した重点としてあるのでも、諒解徹底を受ける。
宗教家でもない私が、大そう宗教家じみたことを述ベたが、然し真理に対する共鳴は、哲学者でも、科学者でも、宗教家でも同一であると思うと同時に、人文未だ今日程に進歩しなかつた中古、既に道元禅師に依つて、この大悟的人生訓があつたことを思う時、特に、理論探究の客観批判を本位として、徒らに実際を軽視して、迷つたり苦しんだりする理智的煩悶症に悩む人々のために、殊更にそれを引用特言した次第である。
それでは、そもそも、その「行」とは何か、というと「人の人としての働き」ということなのである。
だから、行修とか、修行とかということを、特別のことのように思うのは大間違いなので、そう思うとただ単なる方法一つでも、行うに頗る億劫を感じることになる。要は一切の手段方法を、日常生活の中に織り込むことである。否、方法のすべてを、実際生活そのものと為すことである。そして始めて、ほんとうに行ずることとなり、人の人としての働きを為したことになるのである。
またそうしてこそ、ほんとうの効果を体得味了することが出来るのであるから、どうか、実行即生活ということを現実にされて、真理の齎らす効果の恩恵に浴され、万物の霊長としての真資格を具顕し、尊厳な使命の遂行に天晴れ役立たれるように切望する。


目次

諸言 幸福な人生

第一章 生命内在の潜勢力
(1)内在する微妙な力
(2)天賦の潜勢力
(3)潜勢力の発現
(4)発現の方法
(5)六ツの力
(6)長さ・強さ・広さ・深さ
(7)現代人の生活法
(8)心身一如
(9)心身統一の効果
(10)肉体本位の方法
(11)精神本位の方法

第二章 精神生命の法則
(1)神経系統の重要性
(2)生命の流れ
(3)心の生命に及ぼす影響
(4)感情と肉体
(5)How to do ?
(6)精神力の強化
(7)健康えの要諦
(8)感応性能の積極化
(9)観念要素の更改
(10)暗示感受作用
(11)自己暗示誘導法
(12)積極観念の集中法
(13)神経反射作用の調節法
(14)応用法
(15)精神統一の要領

第三章 肉体生命の法則
(1)純正生活法
(2)自然法則順従
(3)積極的訓練化
(4)衣服に関する注意
(5)食物に関する注意
(6)飲みものに関する注意
(7)住居に関する注意
(8)空気に関する注意
(9)日光に関する注意
(10)土に関する注意
(11)運動に関する注意
(12)睡眠と健康生活
(13)感冒撃退の方法

第四章 罹病時の対処法
(1)病と病気
(2)檢脈症
(3)檢温症
(4)檢痰症
(5)檢尿症
(6)広告症
(7)巡礼症
(8)栄養恐怖症
(9)早期回復の秘訣

結論

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Revised 1997.07.07