1999.10.29
古い話しで恐縮ですが・・・。

今やすっかり週末漁師家族と化した我が家、先週の土曜日には陸前高田市の広田の漁港でチカの大漁。
実質7時間程も釣り続けた結果は、60匹。
おかげですっかり疲れてしまいましたけどね。
天ぷらは胸焼けしちゃうのと、でかいチカだと骨がじゃまで・・・でしたが、チカの刺身は美味。
もちろんアタシが出刃でさばいたんであります。気分は道場鉄人。
干物をつくったりといろいろ楽しみましたが、なぜか塩焼きが一番旨かった。

エキノコックスが本州に上陸してるらしい、これってちょっと怖い。
なんたって家の馬鹿犬、道ばたでとんでもないモノ喰ったりするし、その後で人の顔なめるし・・・。

先週の金曜日にNHK特集でポルポトの特集をやってました。
翌々日の日曜日には「知ってるつもり」で20世紀の独裁者をテーマにしていて、ヒトラー、スターリン、ポルポト、チャウシスク、とそれぞれを比較してました。

狂気としか形容できないポルポト政権の3年間は、実はアタシらがついこの間まで共有していた時代だったってことが、改めてショックでしたねえ。
ポルポトにせよ、ヒトラーにせよ、個人の指導者の狂気を支えたのは、実はそれを一時的にせよ支持した大衆の狂気だったんでしょう。
しかし人間って実は全然進歩してないんだなあ。
今の日本、「絶対景気良くするし、税金も安くするー!!」って叫べば大衆はどっと走るだろうか?
もっと悪くなって、閉塞感が高まれば、やっぱりやばいかも知れないなあ。目先の利益に弱いからねえ。

最近TV見る機会が増えてます。つい見始めて結局終わりまで見てしまう事も度々。
そうはいっても毎週気にして見るのは「大河ドラマ」と「一心太助」と「クローズアップ現代」くらいのもんなんだけどね。
そうそう「クレヨンしんちゃん」と「コナン」と「サザエさん」もだった。
インターネットやってる時間が減ってる事情もあるようです。

以上は、実は今週の始めに打った文章、ついロードするの忘れてたのでちょっと直して載せてみました。

1999.10.28
滞納だってか?

ごぶさたしてました。プロバイダーのホームページ容量がぼちぼち心配になってるもんで。
もうやめた!といつも思うのに、暫くするとまたウズウズと書きたくなる。
正直言ってこれって、潜在的自己顕示欲の代償行為でしょう。

更新を休み続けると、「更新ネタがないの?だったら作ってあげようか?」と運命の神様がご配慮してくださる。そしてその後決まって何かが起きるのである。
ウケる話題といったら、人の不幸につきるものは無い訳であって、このページの更新ネタで「人」と言えばばモチロン、アタシ自身のことを指すのである。

今回の出来事は追徴。
つまり所得税の追徴なのである。
税収の伸び悩みをなんとかしようと、洗い直しの税務署調査があったらしいのであるが、どうやらアタシの場合結果として今まで払うべき金額を払ってなかったらしい。
こんな事を聞くと人はきっと、「あいつ不正に儲けを隠していやがったな、全く持ってけしからんヤツだ」とお思いでしょうが、アタシは現在2カ所から「分けて」給料を貰って居る身でありまして、そのためにちゃんと年の初めにゼームショに行って青色申告と言うヤツをやってるんでありますし、勤務先へは包み隠さず我が家の収入の状況を公的証明をもって毎年その時期に報告しているんであります。
だいたいサラリーマンの税額なんて、アナタ任せのブラックボックスで自動的に決められるシステムなんであって、意識してごまかせるシステムじゃあ無いんである。

ああそれなのに、なんでこんな事になるんだね?
原因はウチの奥さんの収入による配偶者特別控除額の算定ミスという事のようなんだけど、まあチェックする方もドーセ人の給料だもんね、とミスがそのまま通ってしまったという有りそうと言えば有りそうな話しなのではあるね。
しかし、それにしたってだよ、アナタ任せで決まった税金の不足分はともかくとして、滞納分までなんでアタシが払わにゃならんのだね?
まあそれを言ってしまうと、当時のどこかの担当者個人を責める事になっちゃうので、オトナのアタシとしては利子分だと思って今回はじっと我慢するけどね。

なに?アナタ任せじゃない?ああそういえば毎年今頃になんか自分で申告する書類書くんだった。
ブツブツ言ってるやさきに、今年の分が来てたじゃないの。
でもあれって、あくまで予想の額での申告だし、自慢じゃないが、所得と収入の違いが未だ解っていないアタシに書かせているんだから、間違っていたらきっとしかるべき人が直してくれてると思ってたんだもんね。

という事でとにかく、来月分の給料から過去2年分の追徴分をまとめて差し引いて精算だなんて、妻と2人の息子、喰い盛りの2頭の犬、その他多数の我が家が果たして乗り切れるのでありましょうか・・・。
一応、愛の手を拒むつもりの無い事は申し添えておきます、皆さん!

も一つの不幸な出来事は、愛機PowerBook2400がついに故障したことだね。
前々から挙動不審状態だったトラックパット下のクリックスイッチが、完全に反応しなくなってしまった。
Windowsノートの場合のアレって元々飾りだからどうでもいいんだろうけど、PowerBookのアレは使えないとニッチもサッチーもいかなくなるんであります。
まあ、マウスなんてモノを無様に繋げる手が無い訳ではありませんが、それにはアタシの美意識が抵抗するわけでありましてね。(喧嘩売ってるのか?八つ当たりはイカンよね。)
暫く使ってなかったので、久しぶりに職場に担いでいって故障かどうかはっきり白黒つけてやろうと使っていたやさきの出来事。
実は、このマシン補償保険に入っていて、もうすぐ切れる補償期限の前に、と思ってやったこと。
保険の次回更新は経済的理由で見送っていたので、ちゃんと補償で直してもらえる時期に壊れてくれたのは実はラッキーな訳なんである。

この部品、実はよく壊れる札付きの箇所、おまけに部品自体の改善は相変わらず行われている訳でもないとの事で、将来また壊れるよって事らしい。
ちなみに、保険が効かない場合の修理代は約2万円なそうな。
さすがApple!その体質、アタシャ負けたね。
ところで、ふるちゃん、かりくんのところのPB2400はどんな具合ですかね。

本屋でカメラ雑誌立ち読みしたら、なんと、コニカのヘクサー(なんて薫り高い名前だ!)がレンズ交換式レンジファインダーカメラになってモデルチェンジ!なんだってね。
カメラ業界も、ようやくそんな世の中になったか〜、と、にんまり。
あー解らない人いるでしょうね、簡単にいうと、オートフォーカスが付いてなくて、ちゃんと意識してピンボケ写真が写せる、レトロな仕様のカメラがボディだけで16万円、レンズを買うと別に10万円前後かかる道楽商品になって売り出されたってことですね。

早い話が、ライカみたいな仕様の国産カメラって事なんだけどね。
カメラを趣味の道具から実用消耗品にしてしまったのはオートフォーカスだ、という持論のアタシにとっては、ようやく目覚めたか!って感じ。
でも、前々から欲しかったのに、今のアタシにゃちょっと手が出ない。
ちなみに、これも前から主張してるけど、オーディオを実用消耗品にしたのはCDです。

西村某は大阪選出で、大阪府知事もあのざまで、そいつらを担ぎ上げてる駐車違反だらけの大阪府民っていったいなんだ?

高利で暴力的取り立てが特技の商工金融を利用して金貸した方が確実に回収できるから、銀行からの直接の融資は貸し渋るって、持ちつ持たれつのマフィア的共存体質だなあ。
おまけに、こんな銀行に税金使って公的資金導入って、つくずく不幸な国民だよなあ。
腹が立ったからって、解約できる預金もないのが悔しいっす。

1999.10.20
秋深し、泊まりで温泉したい人(なんじゃこりゃ)

秋も深まってまいりまして、山には雪、里にも霜が降る今日この頃。
禁漁となってまだ半月を過ぎたばかりなのに、4ポンドのナイロン・ラインを経て右手に伝わった、澄んで飛沫をたてる川の流れに震えるルアーの振動や、突然訪れる自由を奪われた魚の抵抗の鼓動が、妙に懐かしく疼く今日この頃であります。(こんな事はアタシだけの特殊事情なんでしょうけど。)

貯まり貯まった宿便のごとく、たっぷりとまとめて垂れ流してしまった前回の更新によって、暫くはカタルシスの余韻に酔いながら、更け行く秋の日々をしみじみと思慮深く過ごそうと思っていたのですが、結局”アレ”は、マラソンフリークの走らないではいられない症候群と同じで、更新せねば気が済まない症候群なのかもしれませぬ。
どうりで、あちこちいつまでも続いてるsitが多いはずだ。

バージョンアップしたマイクロ・ソフトのMac版Outlook Express5.0がアップ・ロードされていました。
すでに配布されているWindows版に比べて、「ようやく」という枕詞を乗っけて現れたようですが、アタシにとっては特にそれだけを使っていた訳でもないし、前のバージョンに大きな不満があった訳でもないので、「あっそう」、という気分です。
それでも天下のゲイツちゃんのとこの製品ですから、腐っても鯛、遅れても欲しいですタイ。

あれだけのソフトをタダで配るなんて、きっとよほどの腹黒い下心があるんだろうな、と思いながら早速down roadしようと思ったんだけど、夕べはさすがにめちゃくちゃ混んでて、1時間も掛かりそうな表示が出たので途中で止めました。どうせその内雑誌に付いてくるんだからね。
それにしても、タダに釣られる節操無しのMacUserってアタシだけじゃないようです。
前のバージョンの4.5 では、「ニックネーム」が送った相手に伝わってしまうという、重大な間抜けバグがあったそうですが、今回は直っているんだそうです。

我が家で実質インターネット専用になっているISDN回線の、次回請求額の通知がきたんだけど、なんと今回は5,100円!。
5分10円のタイム・プラス効果と、「インターネットも飽きてきたなあ、」の相乗効果だったのですが、この間から始まった35時間3,000円のi・プランでは基本料金と併せて5,800円を超す計算になるので、現状の方が割安という結果になってしまった。
一時期は、月12,000円という請求もあった事を考えると、半額以下となって、正直うれしい。

このあいだ外で酒飲んだ時に食べた、マイタケの蒸籠蒸し。紅葉おろしのポン酢で食べた味は、秋の風情がたっぷりで心がほのぼのとする味。
夕べ家に帰って冷蔵庫を探したら、食べ残しの椎茸がパックに5個残っていたので、ラップでくるんで電子レンジで暖めて、酢醤油に唐辛子を入れたタレに浸けて喰ったら、素材とプロセスの落差は極めて大きいにも関わらず、これもなかなか秋らしくも滋味深い味。
キリッと冷えた辛口の白が一番合いそうでしたが、昨日は常温のチリの赤。
酒の美味くなる季節ですねえ。

1999.10.16
ヤケクソまみれの暴言スペシャル大更新

自らを振り返って考える「家にパソコンなんて要らない!」の巻き

その1 必要性を考える

パソコンが家に有って、果たして日常の家庭生活の中でどの程度必要とされる場合があるのか?ここらでちょっと冷静になって考えて頂きたい。
今日まで、特に業界からはいろいろな活用方が提案はされているけれど、所詮ごくフツーの人にとっては相変わらずに、せいぜい年末の年賀状作り、それと時代の常識として実態以上に昨今もてはやされ過ぎのインターネットが活用の機会。 後は新しもの好きが掴んだデジカメの画像整理やプリントといったところがとりあえずの用途として考えられるところか。
激動の世紀末にあってなお、実はこの実体はここ数年全然変わってないのである。

まあ確かに、「在宅投資」だとか「パソコン学習」とかの、関連業界の下心見え見えで色々な可能性が提案されてはいるが、その殆どは利用者のニーズとはかけ離れた都合で生まれているダケで、結局打ち上げ花火のごとく現れては、次から次へと消えていく宿命なのであって、お調子者となって騙されたヤツが馬鹿を見るという実績を残しているだけなのである。
この世界では、全うな庶民感情ほど確かな判断材料は無いと、つくづく思わされる訳である。

結局日常生活の中でのパソコンの有益性を考えれば、台所の隅に埃をかぶっているジューサー・ミキサーよりは、なんぼかましという程度ではあるまいか?
日本の虚礼の最たるものである年賀状を、来年を境に出す事を止めてしまう勇気さえあれば、パソコンの必要性の殆どが萎んでしまう実態なのである。
おまけにこのパソコン、昨今だいぶ安くなったとはいえ、家にある他の電化製品に比べれば未だ充分に高い。
投資に見合った見返りが妥当なものかどうかは大いに疑問なのであって、その支出を真に家族の幸せや快適性など現状の必要性を冷静に判断した場合、他に優先して使うべき用途は無数にあるはずなのである。

パソコンで日常のデータ管理をしようと思う人もいるかも知れない。
まあ、個人が家庭で管理したいと考えるデータなるものがどの程度のモノなのか、アタシにはよく解らないのであるが、あえて思いつくといえば、せいぜい住所録管理くらいではあるまいか?
結論は、パソコンが無くても管理できている人にとっては、起動時間の待ち時間や、あれやこれやの難題が黙っていても付いて来るパソコンにあえて依存する必然性が見あたらないのが現実。
パソコンさえ有ればと思って実現できずにいる人にとっては、結果はまともに使えない無数のソフトの空箱と、雑誌に付いてくるおまけのCD-ROMが部屋に散乱する環境が待ち受けているだけなのである。

今やインターネットこそが、手っ取り早いパソコンの存在理由ともなっているが、その導入の効果は息子がいかがわしいsitを盗み見できる環境を作り、たまに届くメールを強迫観念にかられながら定期的に確認するという新たな義務を負う事なのである。
おまけに、そうして送られて着たメールの殆どが、実は他愛ないご機嫌伺いのメールばかりなのである。
さらに、ごくたまに、真に必要があってこちらから送ったメールは、その時に限って受け手側のコンピュータが絶不調であり、数ヶ月後にようやく忘れかけられた存在を確認されたりと、何のことはない、緊急の用件は1本の電話にとうてい太刀打ちできないのである。

いかがわしいsit自体の魅力をあえて否定するものではないが、まあそれにしても結局どこへ行っても同じものが陳列されているに過ぎ無いことに気づけば、面白うてやがて悲しきなんとやらの心境となる訳である。

確かにインターネットには溢れるほどの情報が満ちあふれているのかも知れない。しかし、それは質の問題を無視すればの話しである。
そこで得られる情報の殆どは、クズとの違いを分別しかねる他愛の無いものが殆どなのであって、真に必要とする情報に出会える確率は、一月に一回あればいい程度と思った方がいいかもしれない。
むしろ、毎日の新聞をしっかり読み、必要と思った本を選んで読んだ方が100倍も効率が高く、充分かつ信憑性に足る情報が得られるというものである。
なんといってもwebには、アタシのような思いつきで始めた無責任なsitが乱立しているのが現実なのだから、有益sitに巡り会うのは、犬が歩いて棒に当たる確率に頼るしかないのが現実なのである。

インターネットショッピングなどというシロモノもあるが、いつまでたっても完全なネット・セキュリティーが確立されていない現状で、得体の知れないショッピング・サイトにクレジット番号を送信するなど、無謀を通り越した暴挙と言わざるを得ない。
金の使い道が無くて困っている御仁ならいざ知らず。
なんといってもこの危険は、頼んだモノが送られてきて決済が終了した後でも、クレジット番号が有効な限りはさらに永遠に続く話しなのだから。

結局のそれやこれやの結果は、毎月、感情的に納得できかねる多額の電話料金の請求書が自宅に届けられ、口座から引き落としされる事となる。

コンピュータにハイテクという華やかさを感じてしまう人もいるかもしれない。
身の回りで使われている実態を冷静に観察すべきである。
文書を作成し、各種のデータを一覧表にする。
つまりあれは、電卓やホッチキスと同じ、事務機として機能しているに過ぎないのである。
現在職場で使われている殆どのパソコンである、Windowsパソコンのハードの統一規格であるPC互換機というベースを作って普及させたのはご存じIBMであるが、その会社の名前の由来が「インターナショナル・ビジネス・マシン」の頭文字である事を思い出して欲しい、所詮あれは単なる事務機なのである。
あれを家庭に持ち込む事は、スチールロッカーを家庭のワードローブ代わりに使うのに等しい殺伐とした行為に他ならないのである。

コンピュータが使えないと時代に遅れるとの脅迫観念で、密かに家で隠れて習得しようと購入する人もいるかも知れない。
時代に乗っているという身の回りの輩を冷静になってようく観察して欲しい。
職場でコンピュータ使いを装っている彼らが使っているソフトは、繰り返しになるが所詮ワープロとデータベース程度の話しなのである。
今時これらのソフトを使うには、最低限ソフトの起動さえできれば、後はカナや数字を入力しさえすえればそれなりの成果品がプリントされて出てくる仕組みなのであって、今をときめくコンピュータ技術というイメージから発散される崇高なオーラとは無縁の、実はしごく低レベルの作業をうつむいて行っているに過ぎないのである。
コンピュータを作った人間と、使わせていただいている人間の質を混同してはいけない。
その最低限必要とされる、肝心のソフトの起動方法でさえ、実は猿が道具を使ってバナナを取る事程度の難易度なのであって、3歳児程度の学習能力さえがあれば充分覚えられる手順なのである。
そもそも、パソコンがいじれない事程度の話しは人間の評価の上では全く些細な事であって、本来評価されるべき人間の価値とは全く別のステージに有ることをゆめゆめ忘れてはいけないのである。

もっとも、一部では職場での不倫メールだったりメールストーカーになったりと、未知の可能性に果敢にチャレンジし、積極的に活用する進歩的な御仁もいるらしいので、最初からそのような特殊用途を目的に導入しようとするのであれば話しは全く別なのであるが。

子供の学習という誘惑もある。
今時の子供だから、パソコンくらい、うまくすれば瓢箪から駒が出てくるかも?
実際は高額で、子供の目からは不満足な玩具となるのである。
学習ソフトというものもあるが、何のことはないその実態は、ページをめくり鉛筆を持つ手間がマウスのクリックとキーボードに置き変わるだけの話しであって、中身自体になんら進歩的なものなど無いのである。
ページさえめくれない、SF的未来人を養成したいというなら話しは別であるが。
コンピュータを前にして学習できる能力が有る子供なら、だまって図書館にでも連れ出した方がよほどより多くの知識を自分のものにするだろう。アタシの身の回りにそのような能力を持った子供は居ないのだけれど。
結局導入したとしても、最後はゲームソフトしか起動されないマシンに身を窶すのがオチであって、それだったら初めからプレステでも買って与えた方が子供からは喜ばれるし、投資額も数分の1で済むのである。
それよりもなによりも、やはり子供は屋外に連れ出して自然の神秘に触れさせる事によって得られる知識こそが、かけがえのない体験となって将来の糧なる事は言うまでもない。

今まで述べた数々の現実を認識せずに、ついにコンピュータのオーナーとなったとする。
そして、たまたま選んだそれがディスクトップと言われるタイプであったとする。
これの設置スペースたるや、ただそこに有るだけでウサギ小屋の貴重なスペースの一部を我が物顔に占拠することを許す事となり、結果として使おうが使うまいが常時、その家の住人の日常の暮らしを大きく制約することとなる。
一方、比較的省スペースと言われるいわゆるノート型というやつも、プリンタやらを買い足すに至って専用のスペースを求めることとなるし、ディスクトップ型よりもずっと高額な価格が設定されているので、投資効果を計算すれば余計に歩が悪く成るのである。

あれほど必要性に乏しく、無駄に設置場所を喰うものを、なんでわざわざ家庭に導入する必要があるのだろう?
だから、家にパソコンは要らないのである。

その2 購入してしまった後の生活を考える

人間だから、つい過ちも犯す。
新機種との切り替え時期のディスカウントであったり、年末決算セールの処分価格であったり、たまたま二日酔いの頭をかかえてついふらふらと電気屋に足を運んだ結果、店員にうまいこと丸め込まれたあげく思慮分別を失って48回ローンの申込書にハンコを付いてしまうのかもしれない。
それよりもなによりもパソコンを購入するきっかけは、パソコン自体が持つ特有の幻覚への過度な憧れである場合が多いのであるが。
それでも手に入れた時は、新しい玩具を手に入れた子供のように、つい浮かれてしまうのである。
その時実は、それを境に永遠に続く無限連鎖のアリ地獄がこれからの自分を待っている事を凡人は気が付かないのである。

不幸にしてパソコンを購入するハメになったあげく、買ったコンピュータの活用の意義が見つかった(つもりになった)とする。
実はそれを契機に、以降の人生の貴重な時間をパソコンに拘束されてしまうことを、自ら選択した事となるのである。
その後は、将来自分の老後を支えてくれ、自宅で紙おむつの取り替えまでしてくれるはずだったかも知れない大切な家族とのコミュニケーションはきっぱりと阻害され、読書や音楽鑑賞やらの日一日と鈍化を辿る残りわずかの感性を共鳴させてくれる文化や芸術と関わる時間も失い、ひたすらパソコン専属の奴隷となってキーボードやマウスをいじくり、あげくの果てには頭脳をめがけて電磁波を放射し続けるディスプレイを前に脳腫瘍の危険を冒しながら、無味乾燥な作業による時を過ごすこととなるのである。
限られたたった一回の人生、本来なすべき事は他に山ほどあるはずなのである、後悔先に立たたず、後になって悔しがっても時は帰らない。

パソコンは奴隷となった持ち主をより自分専属のものとするため、時として理不尽な行動を起こす。
これは、フリーズであったり、突然のファイルの喪失であったり、起動不能であったりする訳だが、これが起きてしまうと一旦奴隷と化した凡人の心理は、なんとか機嫌を直して貰おうと、涙ぐましくも必死の関係改善への努力を無意識に選んでしまうのである。
馬鹿な機械など放っておけ、とさっさとパソコンの前から席を立つ事ができない心理こそが奴隷と化した証なのである。
結果として、そのためにさらに2〜3時間をコンピュータの前で費やすこととなるのであるが、それによって得られる生産的効果は当然のことながら皆無であった事は後になって気が付くのである。

凡人はさらに、家にパソコンが有ることで、家に帰っても仕事ができるなどととんでも無い誤解を犯してしまう。
身銭を切って買ったパソコンで、残業手当すら支給されない仕事をして、家に居ながら家族との接触を拒絶し、いっぱしの企業戦士にでもなった自分に陶酔することとなる。
その結果、家族からの自分の存在意義を放棄し、職場では勤務時間内での事務処理能力の無さを証明し、自己満足とローンの残金だけが唯一後に残ることとなるのである。

パソコンを買うと真っ当な生活を営めなくなる。
だから、家にパソコンは要らないのである。

その3 経済的負担を考える

パソコンは金喰い虫である。
たまたま格安で買ってしまったとしよう。
ついに手に入れたそれを目の前に置いて、これで自分も色々な新しい事ができる、自分にもきっとバラ色のクリエイティブなパソコン・ライフが待っていると考える。
そして次には、そのためには、新しい色々なソフト、追加しなくてはならない周辺機器さえあればという事に気が付くのである。
そう、パソコンがあっただけでは何にもできないのである。電源コードをコンセントに差し込んでスイッチを入れても、テレビが映るわけでもなければ、CDトレイから焼き上がった魚が出てくる訳でもないのである。
コンピュータ、ソフトがなければ粗大ゴミなのである。
まあ、最近のコンピュータには、バンドルと称して色々なソフトが最初から付いてくるようになっているが、それは単にパソコンメーカーが資本関係するソフトウエア・デベロッパーのシェアを上げるために、抱き合わせで販売をしているに過ぎず、使い手にとっての使いやすさや必要性とは全く無縁の理由に依っているのである。
結局、乗りかかった船、毒を喰らわば皿までも、いまさら後戻りできずに、夢を叶えてくれそうなソフトや周辺機器を得るための、さらなる投資を余儀なくされる事となる。

そうやってやっと手に入れたソフトの、次に待っているのがバージョン・アップという罠である。
たいていは買った1年後にその知らせは突然やってくる。
曰く、「今までより、機能がずーっと増えて、ずーっと使いやすくなった新しい改良バージョンができたけん、ついては今まで使っていた人にだけ、特別割安に売ってあげるから買い直して頂戴ね」という手紙が届くのである。
この文書はベンダーと言われるソフト屋サンがそれぞれ違っていても、なぜか内容は同じなのである。
で、この通知を貰うと、気の弱い凡人は不幸の手紙が着いたのと同様、数日間心を動揺させることとなる。
「この機会を逃せば、女房に内緒でやっと手に入れたあのソフトは時代遅れのソフトになってしまう。」「時代遅れのソフトを使っている自分も時代遅れの人間になってしまう。」
そのソフトを、実は日常殆ど使っていなくても、手紙の効果は変わらないのである。
「新しいバージョンになったら、ずっと便利になっていて、そうなったらこれからはもっと活用できるようになるかもしれない。」などと、外してしまった現実を取り繕うため、結果としてさらに傷口を広げてしまう事もある。
あるいは、「将来、ある日突然に必要となるかもしれない、その日のために・・・、」と現実では決してあり得ない可能性までも考えてしまうのである。
かくして、ご案内のバージョン・アップ・ソフトの購入が決まる訳である。
そしてこの動揺は年一回、持っているソフトの数だけ容赦なく訪れることとなる。

そして、申し込んで、申し込んだ事を忘れかけた絶妙の時期に、ようやく新しいバージョンのソフトは送られてくる。

しかし、そうやって手に入れたソフトが、それ以降のパソコンライフを確実に豊かにしてくれるのであるなら、懐の許す限り喜んで何度でもバージョン・アップしようというものである。
現実は、いざ届いた新しいソフトは、年1回使う機会が巡って来るか来ないか、つまり年一回のバージョンアップとすれば、正しくは「買ってから一回も」という表現になるのだが、使う可能性もない機能が増えただけだったり、要らない機能が増えたためにかえって操作が煩雑になり、動作も鈍重になっていたりして、パソコン業界で言う所の「進歩」という言葉の意味は、「その業界の収益促進効果に対して」という枕詞が隠されていた事を改めて教えてくれるのである。
余談ではあるが、追加した機能操作ボタンが増えすぎたために、肝心の作業スペースが画面の半分以下になってしまったという、間抜けなソフトをアタシは知っている。
おまけに、バージョンアップという名目で無駄な機能の追加を繰り返した結果、どんどん肥大化したファイルサイズのソフト・ウエアは、それを収納するコンピュータ内部のハードディスク容量も、どんどん圧迫する事とも成るのである。

これを幾度と繰り返したあげく、ようやく現実を理解し、笛ふけど踊らない理性を会得したとしても、もう一つのバージョンアップが今度は攻めてくる。
オペレーションシステム、つまりOSのバージョンアップである。
いわゆる基本ソフトというヤツであり、Windowsであったり、MacOSであったり、昨今注目を集めているLinuxなどがこれである。
なにはなくともこのソフトのお世話にならないと、コンピュータは動かせない。
いわば機械に人間の意志を伝達させる翻訳機能を持つソフトウエアであるから、これのバージョン・アップは、そこいらへんのアプリケーション・ソフトのバージョン・アップとは異なる、数十倍のインパクトを持って攻めて来る。

最新のOSこそが現代の先端、その見かけと機能はまさにパソコンの先進性の象徴なのである。
かくして新しいOS導入に逆らう強い意志を持たない凡人は、新たなトラブルも併せて一緒に導入することとなる。
今まで使っていたソフトが動かない。エラーが頻発するなどである。
すべては互換性の問題と片づけられて、その解決策は「新しいバージョンのソフトに買い換えることですね」の一言となる。
新しいOSに変えると、さらにはパソコンの動作が鈍重になる場合もある。
目新しさによる買い換え需要をアピールするために、現実的用途ではさほどの意味を持たない見かけの機能を増やしたために、ちょっと古いコンピュータでは処理能力に過度な負担がかかり、結果として耐えられないほどの重さとなって使う人間の精神を常時逆撫でしてくれることとなる。
これの解決法は、ソフトの買い換えよりもさらに値の張る、ハードの買い換え、つまりコンピュータ自体の買い換えとなる訳である。
つまりは、OSのバージョンアップの最大の目的とは、ハード、ソフト両方の買い換えが必要となる状況を作りだして、市場を動かす事なのである。

かくして、99,800円のお買い得パソコンを購入したがために、毎年のソフトの買い換え、3〜4年インターバルのハードの買い換えの商業システムに身を置くこととなる。
もちろん、このほかにプリンタや容量が不足したハードディスクの買い増し、諸々の目新しい周辺機器と、掛かる費用はどんどん加算されてくる訳である。
結果として初期投資の数倍の経済負担が待っているわけであり、後に残るのはローンの残金と、時代遅れのがらくた同然のパソコンとそんなマシンでしか動かないソフト・ウエアということになる。

パソコンも、関連機器も、この世界では、新しいモノほど性能が優れ、おまけに安いという法則がある。
つまりこの法則は、パソコンに入れ込んだ年月が長ければ長い程、結果としてどぶに捨てた資産は2次関数的に増大するというう法則でもある。
私事で恐縮ではあるが、いままでの投資を累計するという勇気は今のアタシには無い。
家人に覚られる事はなおさらである。

右肩上がり経済の神話が崩壊し、将来の老後の不安が取りざたされる今、あえて個人の資産をもってこれほどまでにシリコンバレーの隆盛に尽くす必要があるのだろうか?
だから、家にパソコンは要らないのである。

その4 結論

という事で、とりあえず思いつくままにパソコンを家庭、つまり個人が導入することの間違いについて列挙した訳であるが、現実はさらに多彩な問題を指摘するのも容易であり、取り上げれば枚挙にいとまがないこところである。
つまり、だから家にパソコンは要らない!の結論なのである。
ここまで読んだ皆様も、今からでも遅くはない、もう一度今の自分の関わり具合を考えて頂き、幸いにして賢くもまだ深みにはまっていないのであれば、その見識を持続されるよう老婆心ながら強くお勧めするところである。

この結論は今日までにMacを8台も買ってしまって、現在3つのローンを引きずっているアタシが言うのだから間違いないと考えて頂きたい。
なに?Windowsだったら違う?Windowsだったらさらに10倍以上不要の根拠が高まるのだけの話しなのである。

しかしながら不幸にして、もうかなりの深みにはまってしまっており、これらのことを納得してもなお家でのパソコンライフを志向される方、得られるメリットを信じてさらに新たな可能性への期待を捨てきれない方、いまさら引き返す勇気を持たないアナタ。

すでにあなたのその世界は、健全な理性の世界から離れ、間違いなくいわゆるビョーキの世界に向かっているのかもしれませんぞ。
もしそうなってしまったら、今後のパソコンライフでは実益は余録という価値観で割り切り、きっぱり道楽として行き着くところまで行くしかないのでありましょう。
そして(当面暫くは続くであろう)このsitとのお付き合いを、これからもよろしくお願いするのであります。

秋深しでありまして、更新の方もペースが復調気味。
実は、川が禁漁になって他にやることが無くなったってだけの事なんだけど。

数日かけて作った今回の更新は、結局ほぼ6回分の更新量となりました。
秋の日の週末の慰みに目を通して頂き、文中での戯け者の姿を連想しながら笑っていただければ幸いであります。

しかし疲れた。また当分休むか?