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横井哲学はいかに構成されるか(第一回浜松哲学道場レジュメ)

 

平成18年12月3日(日) 第1回浜松哲学道場レジュメ    横井直高

#何が哲学と呼ばれるべきか
 哲学とは何か?と問う前にそもそも哲学という名で何が名指されているかが問われなくてはならない。私たちは、哲学を既定のものとして受け止めてしまっている。既成の哲学を捨て、今、ここから哲学を立ち上げていく努力が必要。

$哲学はいかに構想されるべきか
 哲学は2600年前,タレスの「万物の起源は水である」という言葉とともに始まったとしたのが、ギリシャの大哲学者 アリストテレス。アリストテレスは、全ての学問の根として哲学を構想した。

 私たちの原初的な疑問、
「世界はどうなっているんだろう」
 に全面的・真正面から答えられるものが必要である。→それこそが哲学と呼ばれる。

 この疑問に真正面に答えるために、私たちは何をすべきか?そもそもこの問いに真正面から答えるとは、何をもって答えることなのか?

$哲学は世界のいっさいを網羅する。
 世界について、言及できるためには、あの部分については言及できるが、この部分についは埒外だという部分は一つもない。世界をまるごと構成できなくてはならない。

$世界の一切を網羅する方法論
 ひたすらな枚挙(数え上げ)においては哲学はできない。なぜなら、常に枚挙できていない部分が残されてしまうから。従って哲学は実無限化において捉えられねばならない。

&実無限とは何か?
 自然数を1,2、3、4、・・・・と限りなく数え上げていくのが可能無限。この場合は、自然数そのものを捉えることができない。実無限は「自然数」という無限そのものを一括して捉えることができる。

$世界はどうなっているんだろうという問いへの回答とは何か?
 既成の哲学では、真理を追究する学問であると言われるが本当か?

&哲学は究極の真理を追究できるか?
 もし究極の真理を見出そうとするなら、どんな方法論があり得るか?究極の真理を見出そうとするなら、世界のすべての事実言明を精査して、その上で回答されねばならない。

$真理はいかに言明されるか?
 真理が言明されるためには、ある言明 AはBである、に対して、
「それは真理である」
という言明が必要になる。だが、この言明はAはBであるという言明に対して一階上においてなされねばならない。もしAはBであるという言明と同列において行われるならば、真理性を保証できない。

 例:私の身元は確かです、と自分自身が答えても信用されない。身分証明書などのお役所発行のもので信用が得られるなど。つまり私より上位のお上の信用が必要。

$世界のいっさいを網羅した地点から究極の真理について語りえるか?
 世界のいっさいを網羅した地点から何が真理であるかを特定できるか。もし特定するなら、どのように出来るのか?ある真理が発見されたとして、その真理を特定する言明、
「AはBである、は真理である」
という言明はどのように成立するか。AはBであるという言明は世界のいっさいの現象のひとつであるに違いない。その言明に対し、真理性を保証しようとするなら、この言明は世界のいっさいの現象に対して一階上でなされねばならない。だが、世界のいっさいの上位とは神の地点ではないのか。それは宗教の視点になってしまう。もし、神あるいは形而上学という言葉を使わないとしたなら、そこは端的に無としか言いようがない、決して語りえぬ地点である。したがって、私たちは哲学という名において世界の真理を追究したとしても、何が真理であるかを名指すことはできない。

 例:もし、宇宙人がやってきて、お前たち地球人の身元は確かなのか?と問われたなら答えに窮する。保証してくれる人が見つからないから。

 真理は語りえない=無ということは何を意味するのか。真理とは何として語られればよいのか。世界の現象を事実性として記述することが即真理のあり方でもある。

後述、参照

$世界は事実性において語られるべき
 私たちは真理とは何であるかを具体的に語りえないとするなら、世界はいかに成り立っているかという事実を記述すべきである。究極の真理は世界のいっさいの外部に出てしまうが、事実性の言明は、それ自身がひとつの事実性となるため、世界の内部で言明可能である。だが、真理から事実へと保証レベルを下げてしまったため、ある事象Fの真の事実性を保証できなくなってしまっている。しかし、ここにこそ世界の事実”性”を見出す鍵がある。
例:幽霊の正体見たり枯れ尾花(錯覚など)

ある事象Fは真理である → Fの真理性を保証するが、一階上の言明になってしまう。 ある事象Fは事実である → 世界の内部で言明可能だが、Fの事実性を保証できない。

&価値言明も事実言明のひとつ
 Aは価値があるという価値言明はそのように言明されること自身もひとつの事実性言明として捉えられねばならない。何かを事実として捉えるということ、そのこと自身がひとつの価値言明でもありうるから。

&事実と事実“性”の違い
 事実と事実性の違いは重要である。錯覚されたものは事実ではないが、錯覚という判断自身は事実性を持つ。
例:幽霊は錯覚として事実ではないが、幽霊を見たと錯覚すること自身は事実である。

$事実という現象
 世界のいっさいの事実性=現象をいかに一括して捉えるのか。

#哲学を体系化することの意味
 世界の現象の中で哲学的でない現象などひとつもない。世界のすべての現象を捉えられなくては真の哲学たりえない。そうかといって、ある部分にはАという哲学が妥当し、他のある部分にはBという哲学が妥当するという訳にはいかない。世界の総体をひとつの哲学として捉えなくては本当に哲学として捉えたことにはならない。それこそが哲学を体系化することの重要性である。

$体系化における第一原理の意義
 世界を真の哲学として体系化するには、まず根源を押さえておく必要がある。世界を哲学として語るための出発点である第一原理。第一原理とはいっさいの前提がありえない世界の根本原理。

間違った第一原理の例:デカルト 「我思うゆえに我あり」これは第一原理ではない。なぜなら、これが第一原理だと分かるためには、少なくとも、この言明が理解できるための社会的な語彙力が前提されねばならないから。

 第一原理とは、いっさいの現象の根源であると同時に、世界のすべてが現象する出発点・展開点でもある

$第一原理を求めて
 第一原理を求めるには、世界の根源へさかのぼらなくてはならない(根源的遡行)。第一原理からすべての現象が展開されるならば、ひとつひとつの現象からも根源へと遡行されるはず。

・風から第一原理へ遡行する
・音楽から第一原理へ遡行する
・コンピュータから第一原理へ遡行する
・皿から第一原理へ遡行する
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
・すべての現象から第一原理へ遡行する

第一原理はいっさいが遡行してくる原点であり、同時に、一切の現象がそこから展開されてくる場でもある。すなわち第一原理からすべてが現象してこなくてはならない。

・第一原理から風が展開される
・第一原理から音楽が展開される
・第一原理からコンピュータが展開される
・第一原理から皿が展開される
・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・第一原理からすべての現象が展開される

$すべての現象に関する一括した言及は何を意味するか?
 哲学は世界のいっさいを包含するため、実無限的に捉えられねばならない。すべての現象について一括して問う必要がある。しかし、すべての現象についての言及は、いっさいを包括した言明のはずなのに、要素のひとつになってしまっている。すべてを包含しなくてはならないのに、要素のひとつになってしまい矛盾してしまう。すべてに関する言明の位置を見いだすことができない。

例:“文房具”という名称は個々の文房具の外部にある。文房具の中にはペンがあり、消しゴムがあり、下敷きがあり・・・・といろいろ挙げられるが、その中には決して文房具自身は挙げられない。

&“すべての現象に関する言明”の位置が見出せない
 私たちはすべての現象に関する言明の位置が見出せないのだから、意味を持った言明として確定できない。無意味(ナンセンス)な言明になってしまう。

 では、第一原理とはそもそも無意味(ナンセンス)なのか?そうではないとするなら、それは何を意味できるか。徹底的な無として捉えられる。

注:第一原理は後述のように、単にナンセンスとしても捉えられる。しかし、その根源的な意味は横井哲学体系において初めて見いだされる。

&第一原理の真のあり方としての“無”
 第一原理とは無と言明することさえ間違いであるような徹底的な無である。この無の発見、第一原理における無こそ、いっさいの前提を必要としない真のあり方。そして、この地点こそ真理が無となる地点でもある。

#無としての第一原理はいかに世界へともたらされるのか?  無は単に論理的帰結だけにとどまらない。それは世界を見出そうとする哲学において、現実世界のなかへと導入されねばならない。

$鏡は鏡自身は映さない→鏡本体の無
 鏡は前にある物を何でも映す。鏡はなぜ、何でも映すのか。それは鏡自身を映さないからである。鏡本体の“無”性によって、はじめて物が映される。

$決して現象しないパースペクティブ性  パースペクティブとは絵画の手法であるが、それとは無関係。これは横井哲学における哲学用語として捉えなくてはならない。このパースペクティブ性は決して現象しない。絵画の遠近手法であるパースペクティブ図法においての、骨組みさえもパースペクティブ性において初めて見いだされてくる。

#パースペクティブからの場所の現象 では、このようなパースペクティブ性によって、何が見いだされてくるのか。それこそが、“ここ”や“あそこ”、遠く、近くなどの場所的あり方である。パースペクティブ性によって、このような場所性が見出され、同時に、遠近も見いだされてくる。

 これによって、私たちは二次元の絵画に立体性を与えることができるようになる。

$パースペクティブ性によって誰が現象するか?
 このような場所は超越的に出現するのではない。誰も名指していないのに現れるのではない。どこまでも私が見いだすものでなくてはならない。それでは、私はどこに現象するのか。それが“ここ”である。“ここ”に私が現象することによって、私は私自身を「この私」と呼ぶ、「この私」における”この”は自らを指差して呼ばれる”この”ではなく、場所における“ここ”としての”この”なのである。

&「この私」はいかに現象してくるか
 「この私」が世界を見出すのではない。この私とは、第一原理=無=パースペクティブ性から“ここ”という場所に現象してくるひとつでしかない。“ここ”は他の場所に対して何の特権ももっていない。“あそこ”も“ここ”も同じレベルにおいて現象してこなくてはならない。右は左があってこそ意味があるように、“ここ”は“あそこ”、“遠く”、“近く”と相対的に同時に現象してくる。

例:まず、右があってから左があるのではない。右も左も同時にかつ相対的にしか見出されない。

$「この私」と同時的に現象する世界
 世界は「この私」がまず現象してから見出すのではない。世界と同時的に“ここ”という場所に「この私」が現象してくる。そして、“ここ”という場所も他の場所性と相対的に決定されてくるような場でしかない。「この私」が見いだされる場は常に“ここ”であるにしても、世界の相対的なあり方によって、“ここ”が決定されてくるのだ。

 「この私」が世界のあり方を決定するのではなく、世界が「この私」のあり方を決定するのでもなく、第一原理=無=パースペクティブ性によって総体が現象してくるのだ。

 このような場所の決定のされ方こそ、大きなペンと小さなペンが現象しているように見えながら、近くのペンであり、遠くのペンでもあり得る。このように場所の決定され次第で、ペンの大きささえ決定されてくる。

 パースペクティブ性によって見いだされてくる場所的布置が、「この私」にどのような意識をもたらすかは偶然的である。
例:最初に見たとき、同じ場所に大小のペンがあると見いだされるか、違う場所に同じ大きさのペンが見いだされてくるかは、私という存在によって決定されることではない。私さえ、そのような総体的な場所的布置によって、私自身の感覚としては、いわば偶然的に見いだされてくるのだ。

#他者の現象
 世界には「この私」だけではないく、他者がいることは明らか。今までの哲学はいつも私のことばかりを語ってきた。私とは世界の代表なのだ。私に当てはまることは、世界のすべての人に当てはまるとしてきた。ここには他者がいない。独我論である。他者が見出されてこそ、世界の事実性を記述しうる哲学となる。

$他者とは何か
 他者は私が発見するのではない。まず私が現象して、それから他者を発見するのではない。他者はどこまでも私とは違うという面にこそ求められなくてはならない。

$他者はどこに現象するか?
 “ここ”に「この私」が現象するのは、どこまでも他の場所との総体的・相対的な場所的布置によって決定されてくる。そして、“ここ”と同時に、“あそこ”に「あの人」が現象してくる。「あの人」は「この私」が見いだすのではない。「この私」も「あの人」も第一原理=無=パースペクティブ性から同時的に見いだされてくる。

&同時的な現象における“同時的”とはどのようなことか?
しかし、ここにおいての同時的とは時間性において語られてはならない。そもそも時間性などありえないという意味において捉えられなくてはならない。

$“あそこ”に現象してくる「あの人」はいかに「この私」にとっての他者性を持ちうるか?  場所が違うことによって、「この私」が見いだす世界と「あの人」が見いだす世界性は必然的に違わざるを得ない。たとえば、真ん中というとき、「この私」と「あの人」の場所の違いによって、名指される場が違ってきてしまう。

 「この私」が見いだす現象と「あの人」が見いだす現象をふたつ合わせて両義性という言葉で語られれてはならない。「あの人」の他者性は、“ここ”に現象する「この私」にとっては、常に知られないあり方、不可知であるから。たとえば、「この私」が真ん中のカップを取ってくださいといったとき、ボーイはボーイ自身にとっての真ん中のカップを取るか、「この私」の位置を見越して真ん中のカップを取るかは、私自身には決定できない。

 この二つのあり方を両義性という名で呼んでしまうと、「この私」や「あの人」よりも上位の位置で言明する必要がでてきてしまう。そんな超越的な位置はない。

#「この私」とは何か
 「この私」と呼び得るのは私だけではない。誰もが自らを名指して呼びうる言葉としてある。それは何を意味するのだろうか。

$「この私」における”この”性と“私”性
「この私」と呼び得る者が世界の中で見出されるのは常に“ここ”と呼ばれる場所である。これによって、“あそこ”に現象する「あの人」とは常に場所的に他者性をもたざるを得ない。

$他者性の範囲
 しかし、自分を「この私」と呼ぶのは、他者と区別するだけではない。「この私」における“私”とは、「あの人」も自らを名指して“私”と自称することを承知しているからだ。相手へのこの理解があって、はじめて自分を「この私」と呼ぶことに意味が見出されてくるのだ。

 ここにこそ“私”における社会性が見出されてくる。この“私”性によって、”この”性においての他者性が、見当はずれのまったく別ごとにならず、もしかしたら自分自身もそうしたかも知れないような、考えられ得る相違においての他者性の範囲に納まっていくのである。

#「この私」と「あの人」、世界はどのような相で現象してくるか
 第一原理=無=パースペクティブ性において現象してくる世界性は決して写真のように固まった相で現象してくるのではない。私たちはすぐに瞬間というものを考えがちである。現在とは瞬間によって、見いだされてしまったら、時間とは瞬間のつながりになってしまう。それはパラパラ漫画と同様である。世界は決してパラパラ漫画と同じものとして見いだされてはならない。この間違いは時間を考える前に現在というものを想定してしまっているからだ。時間以前に現在はない。現在といいう時間性は、世界の現象のあとから見出されてくるものでなくてはならない。私たちがある状態を現在と名づけることによって、見いだされてくるものでなくてはならない。

$時間論への前哨
&〜しつつあるという相において見いだされる現象、それこそが「〜しつつある」という相において見いだされてくるのである。〜しつつあるという相において世界がパースペクティブ化されるのだ。だから、突然、状況が変わると、私たちは驚くのである。私たちの驚きが本物であるためには、どうしても〜しつつあるという相において現在が捉えられねばならない。

 たとえば物音ひとつしない状況にいたとき、とこかから突然、大きな音がするとびっくりする。それは「静かに居つつある」という相において「この私」が現象してくるからなのだ。

#横井哲学自身にとって他者は何を意味するか
 横井哲学は、「この私」の隣にいる他者を見出そうとする哲学である。他者と私とは違う。このことを論じている哲学である。したがって、お前の哲学は間違っている、ナンセンスだと主張する他者が見いだされたとしても、それは横井哲学にとっては、すでに理論化されている事態である。想定済みの事態である。

 このように他者を理論化しているために、もし、世界のすべての人が、横井自身と同様に、横井哲学は正しいと主張してしまったとしたら、横井哲学は理論的正しさを主張できなくなってしまう。ここには横井哲学創始者である横井自身の他者性が見出されなくなってしまうから。

$他者を見出すことにおける倫理性
 お前の哲学は間違っていると主張する他者がいて、はじめて横井哲学は正当性を主張できるのである。ここから対話がはじまっていく。いわば横井哲学とは、人と人がよりよい対話をするための基礎を与えるものなのである。

図画資料

 


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