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第14章 意識のあり方

第2

意識の志向性

 

 さて、これからじっくりと意識について考えていこうとしているのですが、まず、その前にそもそも意識とは何かという点について明らかにしておく必要があるでしょう。

 そもそも意識とは何であると定義すればいいのでしょうか。そして、意識はどこにあるのでしょうか。能の中にあるのでしょうか。胸の内にあるのでしょうか。体全体が意識だと考える方もいらっしゃるでしょう。

 どちらにしろ、意識は体のどこかにあるということになります。では、体のどこかにあるということは、どのような事態なのでしょうか。少し考えてみましょう。

 現象学の祖、フッサールは

「意識とはつねに何かについての意識」

なのだと考えました。私たちは肉体をもって、この世界にいる限り、意識があるのなら、かならず何かを意識しています。何物も意識していないのに、意識があるという言い方はできないでしょう。何かを意識していない限り、意識はないというべきなのです。

 そして、このような意識の働きを、フッサールは志向性ということばで表しました。意識はつねに外界のあるものを志向しているというのです。

 そして、この志向性をふたつの方向性にわけて考えようとしています。まず意識と外界があります。そして、意識が外界へと関わっていくのですが、ここで、意識面についての志向性をノエシス、外界の対称面に関する志向性をノエマと、フッサールは呼びました。

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 ノエマ、ノエシスと言ってもわかりにくいですよね。フッサールを勉強しようとする人は、かならずここで、一度はつまづいてしまいます。ノエマとノエシスの明確な区別がよく分からなくなってしまうのです。しかし、それは当たり前です。上記の図を見ていただいても分かる通り、意識が対象を認識するのですが、それは、意識と対象が志向性において、明確につながれているからこそ対象を認識できるからです。ここまでが対象的な部分、ここからが意識の面に関する部分などと区別できません。

 あるものが何かとしてあるということがノエマということのおおまかな意味です。そして、その何かを、たとえばピラミッドとして見いだし意味づけすることがノエシス的な契機と呼ばれます。

 このように私たちはまずある何物かを見いだし、それを或る物として意味づけすることによって、対象を認識していると、一般常識的に考えています。

 ノエマ、ノエシスの関係というと、非常に難しく感じられますが、簡単に言えば、主観と客観の関係ということです。ただ、この主観と客観という関係には、意識はつねに何物かを志向しているというニュアンスが見いだせないので、この志向というニュアンスを出すために、主観、客観といわずに、あえてノエマ、ノエシスという表現方法をとったのでした。

 この志向性という部分さえきっちりと理解していれば、別に主観と客観といっても問題ないと思われます。こちらの言葉のほうが誰にでも親しみやすいと思われます。では、いったい主観と客観ということによって、何が名指されているのでしょうか。私たちは、主観によって、外界の客観的対象を認識していると考えていますが、客観の何を意識していると言えるのでしょうか。

 この点については、もっと詳しく考える必要があると思います。次回では、この主観、客観ということで、何が言われているのかを追求してみたいと思います。

 

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