夏の都会の室内外では、温度差が非常に激しい。 蒸し暑い夕方の空気に今まで晒されていた塔矢アキラは、電子ロックされた扉をカードキーと暗証番号で開き、涼しいを通り越し寒いとさえ感じる空調に僅かに眉を顰めた 「ただいま」 「おー。おかえりー」 この時刻ならば返る声は台所から聞こえてくるだろう思っていたのだが、予想を外して声は奥の居間から響いた。 ネクタイを緩めながら、アキラは居間に顔を出す。 「進藤、エアコンの設定温度、下げすぎじゃないか? しかもそんな薄着で……風邪をひくぞ」 帰る早々に小言の飛び出すアキラに溜息を吐き、この部屋の本来の主である進藤ヒカルは碁盤から下階の住人へと視線を移す。 「いいんだよ、さっきまでメシ作ってたからわざと室温下げてたの。お前こそ、この暑い中、なんでスーツ着たまま歩いて帰るわけ? 仕事終わったんならせめて上着だけでも脱いで帰ればいいのに」 「脱いでも荷物になるだけだし、我慢できない距離でもなかったからね」 …とは言うものの、アキラとてこの真夏に薄手とは言え長袖のスーツ姿では暑くないはずがない。 他者からはそうとは見えなくとも、実の所かなり汗ばんで鬱陶しかった。 「とりあえず、シャワー浴びて来いよ。その間にごはん温めておくからさ」 「そうさせてもらおうかな。今日は何だい?」 このマンションの最上階と一階下で、半ば同棲も同然の状態となって以降、台所を預かるのは主にヒカルの方である。 囲碁のみならず、勉学もスポーツもそつなくこなすアキラは、しかし、何故か料理だけは得意だとは言い難かったのだ。 人間の食べる物が作れないほど不得手なわけではない。事実、ヒカルが多忙な時はアキラも食事を作ることはままある。それを口にしたヒカルに『不味い』と言われたわけでもない。 だが、アキラの作る料理はどこか抜けている事が多く────例をあげるならば、だしを取らないまま味噌汁を作った上に煮立ててしまったり、『塩少々』の表示に迷い塩辛いスープになったり────、これは元々相性が悪いのだろうと悟らざるを得なかった。 棋界の貴公子といえども弱点のひとつふたつくらいあって然るべきだろう。むしろそのほうが人間くさくて良いのかもしれないと、ヒカルもすっかり諦めた。 そして、息抜きも兼ねて料理を作り続けた結果、今やヒカルの料理の腕前は、その辺の主婦に負けないレベルにまで上達していた。 「肉じゃがと焼きナスと、あとはしらす入り海藻サラダ。最近外食ばかりだったから、野菜多めにしといたぜ」 妙に手の込んだラインナップを耳にするや否や、仕事から帰って晩酌をする夫と甲斐甲斐しくその世話を焼く妻を連想して照れてしまったアキラの感覚は、あながちずれているとも言えないだろう。アキラ自身、実家で暮らしていた頃には、卓を挟んだ父母がコップ片手に語り合う夜を目にした事もある。 残念ながらアキラもヒカルも未成年である為すぐさま同様の光景が展開される事はないが、酒が入らないだけで大体の所は似たようなものだという事実には、生憎本人達は気付いていなかった。 「楽しみだな。…それじゃあ、一旦部屋に戻ってくるけど」 「ああ、ちゃっちゃっと行って来い」 床に落ちていたデニムのエプロンを拾い上げながら、ヒカルはアキラの背を押す。 その笑顔に見送られ振り返る刹那、アキラの耳にどこかで聞いたような音色が響いてきたが、生憎確かめるには至らなかった。
ヒカルが待っていると知りながら、のんびり風呂に入ってなどいられるはずがない。 アキラは自室で手早くシャワーを浴びると、すぐさま上階のヒカルの部屋に戻った。 「もう上がったのか? そんなに慌てて戻ってくるなんて、よっぽど腹減ってるんだなー」 「……それ、本気で言ってる?」 「だったらどうする?」 「そういうとぼけた口は、さっさと塞ぐに限るね」 有言不言に関わらず、とにかく行動の人であるアキラは、今回もその例に漏れなかった。 ヒカルが訂正の言葉を紡ぐ暇を与えず、長身を屈めて思い人の唇に軽く唇を重ねる。 「冗談だって言おうとしたのに……」 僅かに頬を染めて上目遣いで睨んでいるヒカルの姿はアキラにしてみれば誘惑しているようにしか見えないのだが、せっかく彼が準備してくれた夕食を脇に退けていきなり襲いかかるわけにも行かず、苦笑するに留める。 「そんな可愛い顔で、可愛げのない事を言うからだよ」 「男が可愛くてどうすんだよ。バカ言ってる暇あるんならさっさと座れ」 「ああ。……って、どうしてこんな所に扇風機があるんだ?」 ヒカルに促され卓に着こうとして避けた障害物の正体に、アキラは思わず首を傾げた。 部屋にはエアコンが導入されているので、本来扇風機など必要ない。それでもこの原始に近い機会が持ち込まれているのは、ヒカルがクーラーの類よりも自然風を好んでいる為である。 しかし、着実にトップ棋士としての地位を固めつつある二人は、防犯上窓を開放出来る時間は限られており、真夏ともなればたとえ夜でもエアコンのお世話にならざるを得ないのが実状である。 アキラが帰宅する前から冷やされていた部屋は、当然の如く扇風機を必要としていない────にも関わらず、我が物顔で鎮座しているそれ。 単に仕舞い忘れたのかと思ったが、どことなく楽しげなヒカルの表情から察するに、意図的に置いてあるのだという事が伺えた。 「いや、今日仕事終わってから渋谷行ったんだけど、いいもの見つけたんだ」 「いいもの?」 「うん、コレ」 ヒカルは得意気に笑い、隠し持っていたらしい戦利品をテーブルの上に乗せる。 手のひらサイズの円盤状の台座から、フックを逆にした形の棒が弧を描いて垂れている。 その先端からぶら下がっているのは、釣り鐘をそのまま小さくしたような物体。 「……風鈴?」 「そ。台座付きの卓上風鈴なんだ。ぱっと見ていい感じだったから買ってみたんだ」 |