ここ暫くヒカルは調子がいい。
アキラに一方的に別れを告げられてから、毎日が囲碁漬けだった。何かに集中してないと思考が
すぐアキラへと飛ぶ。
もう何も考えたくなかった。昼も夜も碁のことだけ考えて、食事もろくに取らずに打ち続けた成果が
こんなところで現れている。
皮肉なもんだな。
ヒカルは力なく笑った。
最近調子がいいのはヒカルばかりではない。アキラも同じようにずっと勝ち星をあげている。自分の
ことなんか疾うにふっきってしまったのだろう。そう思うとまた胸がキリキリ痛んだ。
あれから数週間アキラと言葉は交わしてない。棋院で会っても視線すら合わせない。
その度にあれは本当のことだと思い知らされた。
いつも失ってから気付く。
バカだな、俺。ちっとも成長していない。
自分の気持ちに整理をつけなくては。そう思いながらアキラへの思いを断ち切ることができずにいた。
いつかこの呪縛から開放される時がくるんだろうか。何事も無かったように普通に話が出来る日が。
「最近調子がいいな。」
突然背後から声がして振り返ると緒方が立っていた。相変わらずの白いスーツと口元には煙草を
燻らせている。白い煙がゆらゆらと立ち昇る様をぼんやりと眺めた。
緒方はヒカルの前のボードを見ていた。
「中押しね。もう書き込んだんだろう?何をぼんやり突っ立っているんだ?」
「別に・・・。」
「なんだ、進藤。調子はいいくせに顔色は冴えないな。飯ちゃんと食ってるのか?」
「食べてます。俺、もう帰りますから。」
ヒカルが緒方の横をすり抜けた所で突然腕を掴まれた。驚いて緒方を見たが、緒方の視線は
まだボードに置いたままだ。
何か言おうと口を開きかけた所で、緒方の視線がゆっくりとヒカルへ移動する。
「飯食いにいくぞ。」
「え?」
「どうせ、帰るだけなんだろ?ほら、行くぞ。」
「ちょっとっ・・・。」
ヒカルの言葉は無視して、腕を掴んだまま歩き始めた緒方を振り解くこともできずに、ヒカルは緒方に
ついていくことしかできなかった。
半ば引きずられるように車に押し込められ、車は静かに走り出す。緒方は何も言わなかった。
音楽もラジオもかからず、一言も言葉を発しない二人の乗る車内にはエンジン音だけが響く。
どこに連れて行かれるんだろう。
そう思いながらも言葉にすることはなかった。緒方とこんな風に二人きりでどこかに行くなんて初めての
ことだったが、意外と居心地は悪くない。
やがて連れて行かれた店は上品な佇まいの料亭だった。顔馴染のようで、緒方が一言二言話すと
すぐに奥の個室へと通された。
畳のその部屋から小さな中庭が見えた。純和風をイメージしているのか、簡素ながら計算された
美しさがある。ぼんやり中庭を眺めているヒカルを横目に、緒方は懐から愛用の煙草を取り出すと
ライターで火を点けた。
大きく吸い込むと肺いっぱいに煙が沁みこむ。
「アキラくんは最近調子が悪いようだな。」
突然紡がれたアキラ、という言葉にヒカルはびくりと肩を震わせた。
緒方は気付かないふりをして、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「そんなことない。だって・・・手合いだって勝ち続きで・・・。」
「進藤は最近のアキラくんの棋譜を見た事がるのか?」
「え?」
「勝っているから調子がいいとは限らない。それはお前にも言えることだな。どうした、けんかでも
したのか?」
「けんかなんて・・。」
してない。
けんかなら良かった。仲直りして元通り、だ。でも、違う。もう修復できない。
ヒカルは俯くと唇を噛んだ。緒方からはヒカルの長い前髪が邪魔して表情を伺うことはできない。
そこへ仲居が料理を運んできた。次々運ばれてくる料理にテーブルはすぐにいっぱいになってしまう。
ヒカルにはどれもこれも見慣れない料理だった。
緒方は何食わぬ顔で、一緒に運ばれてきた“雪月花”と書かれた酒瓶の蓋を開けると、近くにあった
グラスに注いでヒカルの前に置いた。ヒカルがきょとんと緒方を見る。
「驕りだ。呑め。うまいぞ。」
「あの・・・俺、まだ未成年なんだけど・・・。」
「どうせ酒の味を知らないわけでもあるまい。」
「う・・。」
確かに何回か和谷達と酒を飲んだことがあり、知らないわけではなかった。
緒方に勧められるままにグラスに口をつけた。その酒は喉越しもさらりとしていて、胃に入った後の
燃えるようなあの感じもなく、今まで呑んだどの酒よりも飲みやすかった。
「美味しい・・。」
素直に感想を漏らすと、緒方は悪戯が成功した子供のようにニヤリと笑った。
その後、他愛も無い話をしながら二人で食事をした。
料理は予想以上に美味しくて久しぶりに満腹感を味わった。
少しだけ、心が軽くなった。
アキラは自分の部屋で碁盤の前に座ったまま、ぼんやりとしていた。
最近何をやっても手につかない。集中力が以前の半分もない。気がつくと碁石を掴んだまま止まって
しまっている。ひどい時は1時間もその状態で時計を見て驚いたことも少なくない。
何をやっているんだ、ボクは。
ヒカルに別れを告げたら楽になれると思っていたのに、実際はどうだ。思いは前より強くなるばかりで、
楽になるどころかまったくの逆だった。それでもああいう関係になる前は少しでも希望があった。
もしかしたら、自分の想いにヒカルが応えてくれるのではないかという微かな望みがあった。
それすらも今はもうない。あるのはどうしようもない焦燥感のみ。
いっそこのまま消えてなくなりたい。
存在自体がなくなれば今度こそ自分は楽になれる。
そんなことまで考えてアキラは自嘲的に笑った。
「ひどい碁だ。」
自分の今日の一局を並べながら呟く。相手に容赦ない荒れた碁。それでも今まではなんとか勝利して
いたものの、来週から始まるリーグ戦では通用しないだろう。
途方に暮れて窓から外を眺めると、少し欠けた月が見下ろしていた。真っ暗な夜空に浮かぶ月はまるで
自分の中にぽっかり開いた穴のようだとアキラは思った。
欠けた部分がヒカルへの未練を現しているようで、切なくなる。
突然鳴った携帯の呼出音に我に帰った。時計を見ると12時を少し過ぎたばかりで、こんな時間に
誰だろうと携帯を入れっぱなしだったカバンに手を伸ばす。携帯を取り出すと、そこに表示された意外な
人物に目を丸くした。
「緒方さん・・・?」
「ああ、アキラくん。もう寝てたか?」
「いえ。あの、何か?」
「寝てないなら調度いい。今から進藤連れてそっちに行くから、20分ぐらいで着くと思う。」
「―――――――は?」
進藤、という言葉に心臓がドキンと高鳴る。
なぜ緒方さんが進藤と?
アキラが問い掛ける間もなく電話は切れた。アキラは暫く携帯のディスプレイを眺めていたが、やおら
立ち上がるとバタバタと玄関へ向かった。
「20分と言ったが25分かかってしまったな。」
緒方は見えてきた塔矢邸の門の前で腕組みしながら立っている人物を見つけ、ニヤリと笑う。
おそらく電話を切った後からずっとあそこで待っていたのだろう、予想通りだ。
緒方は愛車を塔矢邸の前へ停めると車を降りた。
「待たせたかな。」
「どういうことですか。」
不機嫌を隠そうともしない声音で話すアキラを面白そうに眺める。
「進藤と飯を食いに行ってな、飲み過ぎたらしく寝ちまったからここに連れて来た。」
そう言って緒方が助手席を見るのにアキラもつられて視線を移すと、すやすやと気持ちよさそうに
寝ているヒカルの姿が見えた。
「なんでここなんですか?進藤の家に連れてったらいいでしょう!」
「俺は進藤の家なんか知らん。まぁ知ってたとしても未成年の子供を酔っ払わせておいて、のこのこ
連れていくわけにもいかんだろ。」
「じゃあ、自分のマンションに、」
「俺の所よりここの方が近いしな。それに子供の面倒見るのは御免だ。」
「だったら進藤にお酒なんか飲ませなかったら良かったでしょう!!」
アキラが声を荒げると、緒方はますます楽しそうにニヤニヤ笑う。
相変わらずこの兄弟子は何考えてるかわからない。
「そうだな。次からは気をつけるよ。とりあえず今日はキミが面倒見てやれ。どうせ先生も不在で
淋しかったろう?」
「そんなこと、」
「ほら、後向いて。」
「は?後?」
緒方は助手席のドアを開けると、すっかり寝てしまっているヒカルをずるりとひっぱり出した。
ドアを閉めているときはスモークガラスでわからなかったけれど、実際に見るヒカルの頬はかなり赤味を
増している。
「俺はもう帰る。明日仕事があるんでね。アキラくんはオフだろう?調度良かったな。」
「何が!ちょっと!緒方さん!?」
アキラが声を上げるのにも構わずにヒカルをアキラの背中に無理矢理背負わせると、自分はさっさと
愛車に乗り込んだ。
「大事なライバルだろう。アキラくんが家まで運んでやれ。じゃあ、またな。」
緒方はそれだけ言うと車を走らせた。あっという間に見えなくなってしまった車をヒカルを背負ったまま、
茫然と見ていた。
なんなんだ!あの人は!だいたいいつも自分勝手で!
背中でヒカルが身動いでアキラは一瞬息を詰めた。起きそうもない様子にホッとする。
車が消えてしまった暗い闇を見ながら以前、緒方の前で泣いてしまったことを思い出した。
緒方はあの時何も聞きはしなかったが、本当はわかっていたのかもしれない。
アキラはヒカルが落ちないように抱えなおして、玄関へと歩き出す。背中に感じるヒカルの体温と規則的な
呼吸音になんだか泣きたくなった。こんなに近くに居るのに自分達の距離のなんて遠いことか。
この温もりを全て自分のものにしたかった。
自分だけのものに。
でも、それは絶対に適わない。
「さ・・い・・。」
だってほら、そうやってキミはボクの知らない人に思いを馳せる。
無意識は罪だ。無意識だからこそ。
「佐為・・・どこ・・?」
背中でヒカルが呟く。吐息のように優しく漏れる声を聞きながら、アキラは足を進めた。
ヒカルの一言で足が鉛のように重くなってしまった。
どうして、どうしてボクじゃないんだろう。
どうしてボクじゃダメなんだろう。
ボクだってこんなにキミが好きなのに。
ボクだってずっと前からキミが好きなのに。
アキラの瞳から雫がぽたりと落ちた。
まるで、ヒカルは自分に止めを刺しにきたみたいだな、とアキラは思う。
「佐為・・・どこ?」
「・・・ここに・・・居るよ・・。」
アキラが応えると背中でヒカルがふにゃんと笑う気配が伝わってくる。
「佐為・・・・俺さ・・。」
「俺・・・塔矢が好きなんだ・・・すごく、好きだよ・・・。」
ヒカルが呟いた言葉にアキラの足が止まる。
俯いた先にある最後の石畳に霞がかかってぼやけた。
ボタボタと落ちる雫をもう自分では止められない。
ヒカルは「あったかい・・・」と呟くと、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
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