ヒカルは大きな溜息を吐くと部屋の窓から見える空を眺めた。
星も月も見えない空はただただ真っ黒で、深い穴の底を見ているようだ。
ヒカルは携帯を握り締めたまま暫くそれを見ていたが、やがて視線を手元に移すとディスプレイを確認し
通話ボタンを押した。
ヒカルは家に帰ってきてから10分と間隔を開けずにアキラの携帯に電話をかけているが、流れてくるのは
電波が届かないという空しい音声だけだった。
時計は10時を回っている。アキラが帰ってないはずないのだ。
試しにアキラの自宅にも電話をかけてみたが、留守電になっていた。
「塔矢・・・。」
呟きが誰も居ない部屋に響いてすぐに消える。
あんなこと言うつもりはなかった。
後悔がちりちりと胸を焦がす。
別にあの夜のことを後悔してはいないし、自分もアキラとそうなることを望んでいた。
アキラに触れられることが嬉しかった。
低いと思っていたアキラの体温は意外と高くて、熱くて、眩暈がした。
なんであんなことを言ってしまったんだろう。
アキラが前から佐為のことを聞きたがっていたことは知っていた。
知っていたのにずっと気付かないふりをして、アキラも敢えて聞くようなことはしなかった。
佐為のことを話す時は自分の中でちゃんと整理が出来た時だ、ヒカルはそう思っていた。
今はまだその時ではない。
佐為と一緒に過ごした2年半をまだ思い出には出来ない。
でもアキラに誤解されたままでいるのは嫌だ。
同じ事を何度考えても結局答えは見つからなかった。
それでも心のどこかで、会ってきちんと話をすればアキラはわかってくれるという確信があったのも
事実で。
まさか、それから1ヵ月も会えないなんて思ってもみなかった。
霧雨がヒカルの肩をしっとりと濡らしていく。
重々しく閉じられた門の奥に人影はなく、ヒカルはもう2時間もそこでぼんやり立っていた。
この前アキラと来た時は優しく迎え入れてくれたこの大きな家は、今は冷たくヒカルを拒んでいるようで
沈みがちな気分をまたさらに降下させる。
あれから1ヵ月。話をするどころか顔もあわせていない。電話をしても繋がらない、碁会所に行っても
いない、アキラが意識的にヒカルを避けているのは明白だった。
追いかけても追いかけても捕まらない相手に、家まで押しかけるしかなかった。
いつまでもこんなことをしていては何も解決しない。
霧雨が小雨へと変わっていく。時計はもう8時を回っていたがそんなことはどうでも良かった。
ただひたすらアキラに会いたかった。
「進藤・・・?」
突然聞こえた声に顔を上げると、傘をさしたアキラが茫然と立っていた。
ヒカルは勢いよく立ち上がり、アキラに笑顔を向けた。アキラの眉根が微かに寄せられる。
「待ってたんだ。話をしようと思って。」
「何の話?」
「あの・・・この前言ったこと本気で言ったわけじゃなくて・・・。」
「キミの秘密、話してくれる気になったんだ?」
「え・・・、あの・・・」
「じゃあ、何しに来たわけ?」
「俺・・・このままじゃ嫌だ。こんな風にいつまでもケンカしていたくないんだ。お前だってそう思ってる
だろ?」
「思ってるよ。」
「それじゃ・・・。」
アキラの言葉に一瞬ヒカルの表情が明るくなったが、アキラの顔に相変わらず表情が無いのを確認して
そのまま固まった。
アキラは暫く小雨の降る夜空を眺め、それからゆっくりと視線をヒカルに戻した。
抑揚の無い表情は白く、何かを諦めたように吐息を小さく吐く。
「無かったことにしないか。」
「え?」
「この前のことだけじゃなく、全てを。あの夜のことや、ボクのキミに対する気持ちを全て。」
「塔矢・・・?」
「この1ヵ月ずっとキミのことを考えてた。キミの中に誰か大切な人が居るのは知ってた。最初はそれでも
いいと思っていた。いつかキミの気持ちがボクに向いてくれるなら、と。でもキミと身体を合わせてボクは
キミの身体だけじゃなく、心までも手に入れたと勘違いしてしまったんだ。その間違いに気付いた時・・・
ショックだった。」
アキラは自嘲的に笑うと自分の前髪をかきあげる。ヒカルはただぼんやりとその様子を眺めた。
何か話そうと思うのに、何も言葉が出てこない。アキラの言葉はすんなり頭に入ってくるのに、その意味を
理解するのに時間がかかっていた。
「もう疲れたよ。キミの事考えるの。だから終わりにしたいんだ。ボク達がライバルということに変わりは
ない。それでいい。その事実だけで後は何もいらない。」
アキラが自分のさしていた傘を差し出すと、ヒカルは条件反射のようにそれを受け取った。
先程より幾分強くなった雨がパラパラと傘に当たって音を立てる。
「さよなら。進藤。」
門扉がヒカルの目の前で静かに閉じられた。
ヒカルの頭の中でアキラの言葉が反復される。
――――サヨナラ、シンドウ――――
サヨナラ、ってナニ?
目の前が歪んでくるのを感じながら、ヒカルはいつまでもその場に立ち尽くしていた。
ひどく呆気ない幕切れだった。
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