好き。
アキラが自身を引き抜くと、一呼吸置いてヒカルは閉じていた瞳をゆっくり開いた。
途端、アキラの心配そうな瞳とかち合って初めて自分が泣いていたことに気がついた。
別に意識して泣いたんじゃない。そう言いたかったのに出たのは小さい吐息だけだった。
まだアキラが中にいるようで、身体が熱い。
汗で張り付いてしまったヒカルの前髪を、アキラの細くて長い指がそっとかきあげる。
「・・・大丈夫?」
不安そうに揺れている瞳に返事の代わりに微笑んで見せると、思いきり抱きしめられた。
ぎゅうぎゅう力をこめるアキラにヒカルは笑って抗議する。
「痛いよ、塔矢。」
「うん。」
アキラも笑って、それでも力を緩める事はなかった。
熱い体温が気持ち良かった。
朝目覚めて一番に飛び込んできた顔にヒカルは暫し固まる。
「えと・・・。」
頭がまだ完全に覚醒してないのか何も考えられないまま、隣で眠るライバルの安らかな寝顔を
暫く眺めた。
意思の強い眼差しが閉じられてるせいでひどく儚げに見える。睫が長い影を落として人形のようだと
思った。
手を伸ばして頬に触れようと思った瞬間、アキラの睫が震えてやがてスローモーションのように瞳が
開かれるのを、ヒカルは息を詰めて見ていた。
「おはよう。」
蕩けるような笑顔に、昨夜の出来事が一気に浮上して顔に熱が集中するのを感じた。
ヒカルが慌てて口を開けたり閉じたり忙しなく繰り返すのを、アキラはただ嬉しそうに眺めている。
やがて観念したように「・・・おはよう。」と呟くと、アキラは笑って「おはよう。」と繰り返した。
「アキラ!!」
突然背後から声をかけられて振り向くと、芦原が相変わらずの笑顔で手を振っていた。
手には白い紙袋を2つ持っている。
アキラは雑誌の取材が終わりエレベーターに向かう途中だった。
ここのところ絶好調のアキラは見栄えの良さも手伝ってか、雑誌に取り上げられる回数が増えた。
本人にしてみれば取材の類はあまり好ましく思っていなかったのだが、これも仕事と言われれば
受けないわけにはいかなかった。
「芦原さん、どうしたの?」
「うん、これお土産。この前北海道に行ってきたんだ〜。」
「北海道?仕事で?」
「違う違う、プライベートで。良かったぞ〜北海道。広大で自然がいっぱいで。」
「へぇ。誰と行ってきたの?友達?」
「友達・・・っていうか・・・。」
芦原は少し赤くなって頭をぽりぽりとかいた。その照れたような表情で彼女と行ってきたのだということが
アキラにも容易にわかった。
「幸せそうだね。芦原さん。」
「何?からかってんの?」
拗ねたような顔をして自分を見る芦原に笑ってしまった。
年上なのにたまに自分より年下なんじゃないかと思わせる兄弟子を、アキラは気に入っていた。
「でも、アキラも最近幸せそうな顔してるじゃん。ちょっと前まではどんよりした顔してたくせにさ〜。
いつのまにかそんな顔するようになっちゃって。彼女とかできちゃったワケ?」
「え・・・。」
芦原の不意打ちにアキラは戸惑った。自分はそんな幸せそうな顔してるんだろうか。
そう思ったら自然に手が顔にいった。
「マジで!?」
「ええ、まぁ・・・。」
心底驚いたような顔をして言う芦原になんて返そうか暫く迷ったが、結局正直に返事をしてしまった。
嘘ではない。彼女ではないけれど、好きな人と結ばれたという点では同じ事だ。
この前の夜のことを思い出して、知らず頬が熱くなるのを感じて慌てて首を振る。
「お土産ありがとう。じゃ、ボク用事があるから。」
そういうと逃げるようにその場を立ち去ったアキラの後姿を、芦原は複雑な思いで見ていた。
「まだまだ子供だと思っていたのになぁ。」
「誰がだ?」
突然の声に驚いた芦原が振り向くといつの間に来ていたのか、緒方が立っていた。
相変わらずの白いスーツと口にはお馴染みの煙草を咥えながら。
「アキラですよ。なんかあいつ彼女が出来たみたいで。」
「ほう。初耳だな。」
「でしょう〜!なんか幸せそうな顔しちゃって。あ〜あ、もうそんな年になっちゃったんですねぇ。
嬉しいような淋しいような・・・なんか複雑。」
「そういうお前も幸せそうな顔してるじゃないか。」
「え?へへ。」
芦原は照れたように笑うと、あ、そうだ、と残っていた紙袋を緒方に差し出した。
「お土産です。北海道行ってきたから。」
「それはわざわざどうも。・・・・・白い恋人たち?嫌味な野郎だな。」
緒方が舌打ちすると芦原は声を上げて笑った。
アキラは細い廊下を歩いていた。
約束はしてないけれど、ヒカルはそこに居ると確信していた。
棋院の奥まった場所に、ひっそりとあるその部屋の存在を知るものは少ない。
先人達の棋譜が置いてあるその部屋で、ヒカルはよく棋譜を眺めていた。
こんな埃っぽいところで見なくとも、とアキラが言うと、ここが1番落ち着くんだ、とヒカルは笑った。
ドアノブを回すと、誰も居ない時は鍵がかかっているドアは案の定すんなりと開いた。
一歩入ると古い紙の独特な匂いが鼻を掠める。
「進藤・・?」
ヒカルは棋譜を広げたテーブルに突っ伏して寝入っていた。
アキラが近付いても一向に起きる気配はない。
規則正しい呼吸音と共に気持ちよく寝入っているヒカルに、自然と笑みが漏れた。
アキラは手を伸ばすと、ヒカルの色素の薄い前髪に触れながら耳元にそっと囁く。
「ヒカル・・・・。」
アキラの声が届いたのか、ヒカルは少し身じろぐと口を開いた。
「ん・・・佐為・・・?後5分・・・。」
「―――――え?」
予期せぬ言葉に前髪に触れていた指先がびくりと止まった。
ヒカルはゆっくりと目を開くと暫くぼんやりしていたが、やがて勢いよく顔を上げた。
横に居たアキラと目が合うと一瞬困ったような顔をして、矢庭に広げていた棋譜を片付け始める。
「取材終わったんだ?俺もそろそろ帰ろうかと思ってたんだ。腹減ったな。何か食ってく?」
何かをごまかすようなしゃべり方をしながら、棋譜を元在った場所と思われるところに片付けて
ディバッグを掴むとドアノブに手をかけた。
「saiって?」
ヒカルのドアノブを回す手が止まる。
背中に痛いほどの視線を感じて、ヒカルはゆっくりと振り向いた。
「えと・・・・。」
「さっき、そう言っただろう。」
「・・・・・ごめん。寝惚けて間違った。」
「間違ったってことは前にもそういう状況があったというわけ?」
「・・・・・・・。」
「キミはsaiとどういう関係なの。ボクには言えない関係?」
「お前が思ってるよう関係じゃねぇよ。」
「じゃあ教えてよ。」
「だから、いつか話すって・・・。」
「いつかっていつなの?なぜ今じゃだめなの?」
ヒカルが困ったようにうろうろと視線を彷徨わせるのを、アキラはイライラしながら見ていた。
ずっとヒカルに秘密があるのは知ってたし、いつか話すと言ってくれたヒカルを信じようと思っていたのに
自分の気持ちを押さえられない。
好きだからこそちょっとしたことに不安になるのだ。
なんでもいい、自分が好きだという確信が欲しかった。
しかし、ヒカルはそのまま口を閉ざしてしまった。
ドアに向き直りドアを開けるのをアキラは許さなかった。
開きかけたドアを右手で押さえつけると、バタンと派手な音を立てた。
驚いて顔を上げたヒカルを少し高い位置から見下ろす。容赦ない瞳にヒカルは目をそらした。
何かに祈るように指を握りこむヒカルに、ますますイライラが募る。
「知らなかったよ。ボクの前にもそういう人が居たんだ?」
「・・・・やめろよ。」
「saiはどうだった?優しくしてくれた?」
「・・・・・頼むから。」
「キミの初めての人って彼だったんだ?」
「佐為を汚すようなことを言うな!!!」
悲鳴のような叫びだった。
驚いたのはアキラよりも声を上げたヒカルの方だった。
口元にあてた手が微かに震えているのを、アキラは茫然と眺めていた。
ヒカルの言葉が矢のように自分を貫いて、真中にぽっかり穴が開いたようだ。
身体が足元から徐々に冷たくなっていくのを感じる。
「キミは・・・、」
吐息のように言葉が漏れた。
「キミはこの前の夜のことをそんな風に思っていたの・・・・?ボクとのことを汚れていると、そういう風に
思ってたんだ。」
抑揚の無い声だった。
何の感情も含まれていないそれに、ヒカルの心臓はどくどく鳴った。目の前が白く濁って何も見えない。
「違う・・・。」
ヒカルが搾り出した声はドアの閉まる音にかき消され、散った。
アキラは先程通ってきた廊下を歩いていた。
歩くたびに芦原から貰ったお土産の袋がカサカサなって、ああそういえば芦原さんのお土産って
なんだろう、とぼんやり思った。
家にはボクしかいないのに、一人じゃ食べきれないだろうな。
取り留めの無いことを考えながら歩いていると、後ろから声をかけられて足を止めた。
「緒方さん・・。」
腕を組んで壁に凭れていた緒方は、名前を呼ばれるとゆっくりとアキラに近付いてきた。
「俺に気がつかないほど熱心に考え事か?」
「あ・・すいません。芦原さんから貰ったお土産何かと思って・・・・。」
「ああ、それ。白い恋人たちだろ。俺もさっき貰ったがのろけられてひどい目にあった。」
それを聞いたアキラが力なく笑うのを、訝しげに眺める。
懐から愛用の煙草を1本取り出し、口に咥えてライターで火を点けた。
ゆっくり吸い込むと、肺の中に慣れた煙草の煙がいっぱいに広がる。
その間もアキラの視線は下げられたままだ。
緒方は溜息と共に吸い込んだ煙を吐きだすと口を開いた。
「何か、あったのか?」
アキラの肩が一瞬震え、それからのろのろと顔を上げた。
やっと合わされた視線にいつもの勢いはない。
「芦原の言ってた話と随分違うんだな。」
「・・・え?」
「どんなに幸せそうな顔をしてるのか見てやろうと思ったんだが、どうやらそうじゃないらしい。
アキラくんらしくないな。何をそんな泣きそうな顔をしてるんだ?」
「そんなことは・・」
ありません、と言おうとして言葉に詰まった。
小さい頃から自分を知っている兄弟子に誤魔化しが通用しないことはわかっていた。
なんで会ってしまったんだろう。
今は誰にも会いたくなかったのに。
感情が溢れそうになる。
押さえていたものが次から次と這い上がってきて、堪えきれずにぼろぼろと零れ落ちるのを、
アキラはもう止められなかった。
容赦なく溢れてくるそれが雫となって床に落ちる。
それでも緒方に甘えるのは、自分の弱みを見せるようで嫌だった。
アキラは顔を上げると笑って見せたが、うまくできたか自信は無かった。
緒方が驚いた顔をして自分を見ている。
こんな顔をして笑う自分はきっとものすごく滑稽に映っているに違いない。
それでもアキラは次々溢れてくる涙を止めることは、とうとうできなかった。
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