知り尽くした相手
第57期本因坊リーグ第5戦の相手が決まった。
緒方精次十段。
人に了解も得ず勝手に自分の前の席に座ったこの男は、懐から愛用の煙草を取り出すと
ライターで火を点けた。
アキラはこれ見よがしに溜息を吐いて、開いていた本を静かに閉じる。
「何か、御用でしょうか。」
「別に。通りかかったらアキラ君の姿が見えたものだから。」
彼はそう言うと、注文を受けに来たウェイトレスにすぐ出るからと短く言った。
「プロとしては初めて当たるな。まぁいつかはこんな日が来るとは思っていたが。」
「そうですね。」
「知り尽くした相手とは言え、気は抜けないな。」
「気を抜かせるつもりはありませんよ。」
「手厳しいな。昔の恋人に対して。」
アキラが眉を顰めると、緒方は楽しそうに笑った。
貴方を恋人だなんて思ったことは一度だってない。
貴方もそう思ったことはないはずだ。
「そうじゃないんですか。」
アキラの言葉に緒方は益々楽しそうに笑う。
「ボクは貴方に憧れていただけです。あの時はまだ憧れと恋愛感情の区別もつかない子供だった。
緒方さんは気付いていたと思いますが。」
「知ってたよ。知っててそれを利用した。いい経験になっただろう。」
「ええ、とても。」
緒方は自分を怒らせたいのだろう。
でもアキラの中にそんな感情は湧いてこなかった。それほどの想いをこの男に持ってなかったし、
そんなに子供でもなかった。
緒方はアキラの反応につまらなさそうな顔をして、灰皿に煙草の灰を落とした。
「今日は進藤と待ち合わせか?」
「ええ。」
「進藤には言わないのか。」
「・・・何をです?」
アキラの声が一段低くなり、緒方は口の端を上げた。
「好きなんだろう?言わないと伝わらないぞ。抱き方は教えてやったはずだな。」
一瞬ビリッと電気が走ったような気がして、緒方は目の前の少年を見た。
初めて緒方から笑みが消えた。
自分より随分若いこの少年はたまに非道く冷徹な顔をする。
いつからだったか。
そんな顔をさせるようになったそもそもの原因は自分だったかも知れない。
「進藤とはそんな関係になるつもりはありません。」
「壊れることを恐れてたら何も始まらないぞ。」
緒方は煙草を灰皿に押し付けると立ち上がった。
「リーグ戦楽しみにしてるよ。」
去っていく緒方の後姿をアキラは黙って見ていた。
そんなことはわかっている。
緒方のことがただの強い者に対する憧れだったと気付かせてくれたのはヒカルだ。
そして初めて恋愛感情というものを教えてくれたのも。
例えヒカルが自分の気持ちを受け入れてくれたとしても、いつかくる別れの時に緒方との時のように
綺麗に別れられる自信がない。
1回手にしてしまったら二度と離せなくなってしまうことをアキラは知っていた。
だったら今のままでいい。
永遠にライバルとして彼の側にいる。
「ごめん、遅れた。待った?」
気がつくと息を切らせて走ってきたのだろうヒカルが横にきていた。
そのまま先程まで緒方の座っていた席に腰を下ろすと、アキラのコップに手を伸ばし一気に飲んだ。
「さっきそこで緒方さんに会ったよ。」
「そう。」
アキラは静かに息を吐くと視線をまっすぐヒカルに向けた。
「今度の本因坊リーグ戦の相手、緒方さんに決まったよ。」
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