秘密        


棋院を一歩出るとどこからともなく冷たい風がヒカルの頬をなぜる。
見上げた空は今にも泣きそだしそうにどんよりとしていた。
今夜は雪になるかもしれない。
寒いのは嫌いだが雪は嫌いではない。昔は気付かなかった誰よりも大切な人が
雪が好きだったからだ。
二人で見た雪はキラキラ輝いて美しかった。今年一人で見る雪も同じように美しいだろうか。
「雪に・・・なればいいな。」
ぽつりと呟いた言葉が風に攫われていく。
ヒカルの一言一言に感嘆や驚愕や時には怒りを返してくれた人はもういない。
彼が居なくなってからヒカルは淋しいという言葉の本当の意味を知った。
ヒカルは鼻をスンと鳴らすと歩き始める。
今日はこれからアキラと碁会所で会うのだ。彼との一局は感傷など吹き飛ばしてくれるだろう。
「そうだ!今日は負けないぞ!!」
「なんだ、お前いつも負けてるのか。」
拳をふりあげるヒカルの背後から低音が響く。聞き覚えのあるその声にそろりと振り返ると予想通りの人物が
予想通りの服を着てそこに立っていた。
「緒方先生・・・・。」
「そんなガッカリしたような声を出すな。」
「ガッカリしてませんよ。」
苦手なだけだ、とヒカルは心の中でこっそり呟く。どうもこの何を考えてるかわからない独特の雰囲気は苦手だ。
「おい、進藤。どうせ帰るんだろう。一緒に飯でも食っていかないか。」
「イヤです。」
思わずポロリと本音が零れて眼鏡の奥の鋭い眼光がギラリと光を放つのを見たヒカルは慌てた。
「ち、違うんです。今から塔矢と碁会所で打つ約束してるから、だからダメなんです。」
そう言った後で残念ですけど、とおまけのように付け足した。
「ほぅ。俺よりアキラくんを選ぶわけだ。」
相変わらず緒方の眼光はギラギラしていて、ヒカルの頭の中で危険信号がチカチカ点りはじめた。マズイ。
「アキラくんとならいつだって打てるだろう。俺の誘いの方が重要だとは思わないか。」
思いません!と思いっきり言いたかったヒカルだが、さすがにその言葉は飲み込んだ。
マズイマズイマズイ。どうやったらこの人の機嫌を損なわずにこの状況を回避できるか、ヒカルはぐるぐる頭の中を
回転させたが結局答えは出てこなかった。
「すいません。でも約束は約束ですから。」
失礼します、と頭を下げくるりと踵を返す。しかし、足早にこの場を逃げようとしたヒカルの足を緒方は簡単に止めてしまった。
言葉だけで。
「あのことをバラされてもいいのか。」
ヒカルは息を飲んだ。あのこと?あのことって??もしや緒方は佐為の何かを知っているというのか?そんなバカな。
緒方が知るはずはない。知るはずはない。
ヒカルはゆっくりと振り返るとじっと緒方を見つめた。緒方の表情にはなんの感情も浮かんではいないように見える。
緒方はもともと表情が乏しい。感情の流れが見えてこない。故に何を考えているのかわからない。だから苦手だ。
知ってる?佐為のこと・・・・この人が佐為のこと・・・・。
同じことが頭の中で何度も再生されそのことに気をとられていたヒカルは緒方の顔が近付いてきたことに気付かなかった。
唇に触れる暖かい感触に一気に現実に引き戻される。
−−−−−ナニ・・・?
それが緒方の唇だと気付くのにさらに数秒。御丁寧に頬に手まで添えられていることに気付くのにさらに数秒。
瞬きもせずに固まってしまったヒカルからやっと唇を離すと緒方はニヤリと笑った。
「このことだ。」
「なななななななななななななななななななななななななな」
緒方は壊れたおもちゃのようにカタカタと動き出したヒカルを満足げに見つめた。
「何するんスかーっ!!!!!!」
絶叫が薄暗くなった辺りに吸い込まれていく。
「知らないのか。これがキスだ。」
「そんなことは知ってるッ!!!そうじゃなくッ!!!」
「このことをバラされたくなかったらついてこい。」
「脅迫!?脅迫なの!?これ!!」
真っ赤になって叫ぶヒカルに面白がって緒方はニヤニヤ笑いながら無理にとは言わないが、と続ける。
「アキラくんが知ったらどんな顔するだろうな。」
それを聞いた途端、ヒカルの背中に冷たいものが走った。塔矢がこのこと知ったら・・・?
見るからに清廉潔白そうなアキラに知られたら、もう一緒に碁を打ってくれないかもしれない。
「やっぱ脅迫じゃないか!!」
ヒカルの声が空しく薄暗い寒空に響いた。

塔矢アキラは憮然とした態度で椅子に座っていた。幼い頃から通い慣れた碁会所で未だに来ない彼のライバルを
待ち続けて早1時間が立とうとしている。
「遅い!」
何をやっているんだ。とっくに来てもいい頃なのに。まさか忘れてるんじゃないだろうな?
アキラは顎に手を当て考える振りをしながらも、ドアから目を離さない。
「アキラくん。」
先程まで受付で電話をしていた市河がいつの間に来たのか、アキラの横にたっていた。
「進藤君今日用事が出来て来れなくなったって、今電話があったの。」
「え?」
市河の言葉にアキラの顔に落胆の色が浮かぶ。
「そうですか・・・。」
それなら今日は帰ります、と言い置いてアキラは碁会所を後にした。
まったく、それならそうともっと早く電話してくれればいいのに。
心の中で悪態をつきながらもヒカルに会えなくてどこか淋しいと思っている自分にアキラは気付いていた。

その日から約1ヵ月。アキラと約束しているにも関わらず、ヒカルが碁会所に姿を現すことは無かった。
行けないという連絡は決まって碁会所に電話がかかってきていたので、アキラが直接理由を尋ねることはできずにいた。
棋院で姿を見かけることもなく、たまに見かけてもまるでアキラを避けるように逃げてしまう。
原因がわからずアキラは苛ついていた。
なんなんだ!?いったい!ボクが何をしたというんだ!?
今日こそは捕まえてやるからな、進藤!
手合いでヒカルより一足早く勝利したアキラはエレベーターの入り口で腕組みをしながら壁によりかかり、
ヒカルの手合いが終わるのを待っていた。
いかにも不機嫌そうなアキラに話し掛ける者は誰もいない。皆チラリとアキラを見遣りそそくさとエレベーターに乗り込む。
やがて、晴れ晴れとした顔で現れたお目当ての人物に彼の手合での勝利を確信して、どこかホッとしている自分に気付きアキラは慌てて
顔を引き締めた。
当の本人はエレベーターの前で憮然と佇むアキラを確認すると突然ピタリと歩を止めてしまう。
ヒカルはウロウロと視線を彷徨わせた後、くるりと踵を返してその場から立ち去ろうとするのをアキラは許さなかった。
逃げてしまわないようにヒカルの腕をしっかりと掴む。
「進藤。ボクに何か言うことはないのか。」
「え・・・・とぅ、ごめんなさい。」
下を向いてぼそぼそと呟く進藤にアキラの苛々がつのる。
「そんなことを聞きたいんじゃない。なぜ碁会所に来ない?1回や2回じゃないだろう。キミはいつも急用だって言ってる
みたいだけどどんな急用なんだ?はっきり聞かせてもらおうか。」
「昨日は・・・・・じ、じーちゃんが倒れて・・・・。」
「その前は?」
「え、とばーちゃんが倒れて・・・。」
「その前は?」
「父さんが・・・」
「じゃあ、その前はキミのお母さんが倒れたんだろうね。」
えへへと上目遣いに見てくるヒカルにアキラの額に青筋が浮かぶ。
「バカにしてるのかキミは。」
普段より数段も低い声でヒカルを威嚇するように見下ろすとヒカルは困ったように眉を下げた。
ヤバイ。来る。来るぞ。ヒカルの内心の呟きは現実のものとなる。
「嘘を吐くならもっとマシな嘘を吐け!!だいたいボクと打ちたくないのなら最初から約束しなきゃいいだろう!!
それなのに当日になってキャンセルするなんて卑怯じゃないか!!ボクはいつもあの場所でキミを待っているんだぞ!!」
「塔矢と打ちたくないなんて言ってないだろ!!俺だってお前と打ちたいからいつも行こうと思ってるさ!!でも、
そういう時に限って・・・・」
「限って何?」
やってくるんだよ!お前の兄弟子が!とは、言えずヒカルは言葉を飲み込む。
まさか、緒方さんにキスされたことを塔矢にバラすと脅されて飯を付き合わされてるから碁会所に行けませんとは言えない。
絶対に死守だ!
ヒカルの決意は固い。
それ以上、口を閉ざしてしまったヒカルにわざとアキラは大きな溜息をついた。
「じゃあ次はいつ?」
「・・・え?」
「いつ打てる?ボクと打つの嫌じゃないんだろう?」
「緒方先生の居ない日・・・・。」
「は?」
「いや、なんでもない!えと、じゃ水曜日に!」
「水曜日だね。わかった。」
アキラはポケットから手帳を取り出すと予定を書き込む。
これは何がなんでも行かなくては。ヒカルは心に誓うとぎゅと手を握り締めた。





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