秘めごと        


棋院内の窓際に申し訳程度に設置されている長椅子に腰掛け、缶コーヒーの蓋を開けた。
手合いで勝利した後のコーヒーは例え缶コーヒーでも絶妙な味がする。
プロになってからこっち、まったくの土付かずというわけではないが、そこそこの成績は残している。
この世界は俺に合っている、こういう日は特にそう思う。
プロ試験を1年遅らせないで今この場所に居たとしても、今ほどの充実感を味わえていたのかどうか。
あの少年に会わなければ今の俺はなかった。その少年は今、囲碁街道を驀進中である。
おかしな話だが、俺は真っ直ぐ前を見据えている10歳も年下のその少年に、どこか淡い憧れを抱いていた。

俺が顔を上げると調度その少年が歩いてきた。最初会った時より幾分成長したものの、まだどこか幼さを残す少年は、俺が声をかけるとこちらに顔を向けた。いつもの快活さは無く、疲れているような覇気のない笑顔で。
まさか今日の手合いで負けたのか?でも、こいつに限って今日のような低段者の争いではそんなことも無いだろう。
彼はゆっくり近付くと俺の隣に腰を下ろした。

「門脇さん何してんの?」
「見た通り一服中。」
「ふ〜ん。」
「なんだ進藤、元気ないな。負けたのか?」
「勝ったよ。中押し。」
「なら、なんでそんな疲れた顔してるんだ?」
「ん〜。昨日あんま寝てなくてさ〜。」
「手合日前日に夜更かしすんなよ。」
「こんなはずじゃ無かったんだけどさぁ、予定外っていうか・・・・。」

おいおい、まさかゲームとかしてたなんて言うんじゃないだろうな。
そう言いかけた所で肩にコトンと当たった感触に隣を見ると、進藤が俺の肩に寄りかかりすやすやと寝息をたてていた。
あどけない寝顔を見ていると、あんなに老練な打ち筋を見せる棋士だとはとても思えない。
少しだけ開いてる窓から夏の暑さの抜けた風が入り込み、進藤の少し薄い色をした前髪を微かに揺らす。
進藤はすっかり深い眠りに入ってしまったのか、ぴくりとも動かない。聞こえてくるのは規則的な呼吸音だけだ。
困ったな。なんだか起こしてしまうのも忍びない。
しょうがない。もう少しこの将来有望な棋士に肩を貸しておいてやるか。
飲み終わってしまった缶コーヒーを持ったままぼんやりと壁の染みとか、たまに通り過ぎる人を眺めていたがやがて飽きてしまってまた視線を進藤へと戻す。
相変わらず大きめのパーカーとジーンズ。少し上から見ているせいで、パーカーの襟から細い首筋が見える。続く鎖骨までも。いつもの元気なイメージの進藤からはちょっと想像できないような肌の白さに息をのんだ。
長い睫とふっくらした唇は少し開いていて、少年というよりは少女のようだ。それに反して細く浮き出た鎖骨がなんとも言えない艶を醸し出している。
ちょっと待て。こいつは男だぞ?塔矢アキラと並び立つような、みんなから一目置かれるような棋士だぞ?なんでこんな妙な気持ちになるんだ。
そう思いながらも彼から目が離せない。俺の視線に気付きもせずに、穏やかに寝息を立てる進藤が僅かに身動ぐ。目を覚ますのかと一瞬息を詰めたが、また規則的な呼吸音が聞こえてきた。

あれ?

少し動いたせいで先程は見えなかった部分に赤く浮かび上がる何か。進藤の白い首筋の付け根に存在を主張しているようなそれはまるで・・・。

キスマーク?

ドキンと心臓が跳ねた。
嘘だろう?だってこいつは俺より10歳も年下で、いや、別にやれない年じゃないけれど進藤が誰かと付き合ってるなんて聞いたことがないし、だいたいこんな風にキスマークつける女なんて進藤と同じ年だとは考えにくい。ってことは年上の女?
そんなの全然こいつのイメージじゃない。じゃあ一体どんな女と?

「門脇さん。」
「えっ!?」

一人でぐるぐる考えてたから近くに人が居るなんて全然気付かなかった。
突然声をかけられて飛び上がりそうになる。声のした方を向くと薄紫色の品の良いスーツをぴしっと着こなした塔矢アキラが立っていた。
いつもは誰に対しても愛想の良いこの天才棋士だが、この時の彼の視線はとても冷ややかなものだった。
でもそれは俺の見間違いだったのかも知れない。なぜならすぐに彼はいつもの笑顔を見せたから。

「進藤、寝てるみたいですね。」
「なんか、疲れてるみたいだな。」
「でしょうね。」

え?呟くように言った塔矢の言葉を聞き返す間もなく、彼は寝ている進藤の目の前にしゃがみこむと、思いっきり自分の手をパン!と叩いた。
いきなり鳴った大きな音に進藤はビクリと肩を震わせた。横に居た俺も塔矢のいきなりの行動にかなり驚いた。

「何もそんな起こし方しなくても・・・」

言いかけた俺は塔矢の視線に口を噤んだ。営業用スマイルはすっかり取り払われ、敵対心を剥き出しにしたような遠慮ない瞳が“お前には関係ない”と無言で言っていた。

「進藤、こんな所で寝ないで。帰るよ。」
「あ〜ビックリした。お前取材終わったの?」
「ああ、終わった。だから帰ろう。」
「うん。」

進藤は目を擦りながらも塔矢に促されて立ち上がった。
一歩踏み出して俺の存在を思い出したのか、振り返り呆然としていた俺に笑顔を向ける。

「じゃーね。門脇さん。」
「え?あ、おう。またな。」
「進藤がご迷惑をおかけしました。」

進藤の横で塔矢が俺に一礼した。別の意味も含まれているようなその言葉にギクリとして塔矢を見ると、口元は笑みを作っていたものの、瞳は笑ってはいなかった。

二人の姿が見えなくなってから俺は初めて肩の力を抜いた。

「はぁ・・・なんなんだ、一体。」

礼儀正しいと評判の天才棋士の本性を垣間見たような気がする。しかしなんであんな不躾な視線を浴びせられたのかさっぱりわからない。
俺は何もしていない。ただちょっと進藤の・・・・・。

進藤についてたキスマークが・・・・・・・





――――――え?



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