嘆きの雨
雨が降っていた。
天が落ちてきたかのように。
荒野にたたずむ男は、全身にその洗礼を受けながら、嘆きの空を眺めていた。
燭台にともされたロウソクの炎だけが辺りを照らす、薄暗い部屋。
その部屋で、『待つ』ことがゼツの日常の始まりであった。
やがて左側の扉から、ひとりの男が入ってくる。
黒のゆったりとした服に身を包み、顔すらも同じ色の布で隠した男。
ゼツの主であり、彼のいる暗殺集団を率いる人物であった。
「仕事だ、ゼツ」
目の前に立った黒装束の男は、低い声で言った。
「誰を始末するのですか……?」
ゼツは抑揚のない声で答えた。
ひざまずいた彼の足下に一枚の紙が舞い降りる。それは人相書きであった。
紙には口ひげをたくわえた初老の男の絵が描かれている。
「エルモ伯爵。イーストブルグに居を構える穏健派の筆頭だ。お前も名前は聞いたことがあろう」
「はい」
「この男を殺れ。お前ならたやすいはずだ」
黒装束の言葉に、ゼツは静かにうなずいた。
いつも通りの仕事だ。問題はない。
「報酬は三千万ゼルだ。任務を達成したら、支払おう。期待しているぞ」
彼は、黒装束の最後の一言には興味も示さずに立ちあがると、ゆっくりとその場をあとにした。
報酬に意味はない。ただ任務だから殺す。
生粋の暗殺者であるゼツには、それがすべてであった。
イーストブルグの街は、国の東方にあった。
そこへ行くためには、エルシモア山と呼ばれる標高の高い山を越える必要があった。
ゼツは王都からの長い道のりを経て、エルシモアのふもとにたどり着いていた。
ここから先は、少し険しい道が続くことになる。
ふと空を見上げると、灰色の雲が低く垂れ込めてきていた。どうやら雨が近いようだ。
本来ならば、天候の回復を待って進むべきところだろう。だが、任務の達成は早いほうがよい。
ゼツは山を越えることにした。
降り始めるまでにはまだ時間がありそうだ。途中で降ったとしても、己の脚力ならば、危険な事態になる前に山を越えられる。
彼はそう判断した。
しかしこの判断が、今後の彼の運命を大きく左右することになる。
エルシモア山に入って数時間が経った頃、ゼツは山越えの難所にさしかかっていた。
左には天に向かってそびえ立つ絶壁。右には眼下の見えぬ切り立った崖。
この間を通るけもの道は、まるで生と死の狭間にのびる黄泉の道のようであった。
さらに、予想よりも早く降り出した雨が、現状を悪化させていた。
視界がかすみ、立っていても体力が徐々に奪われていく。
ゼツは山に対する己の認識の甘さを呪った。
しかしいまさら退くことも、立ち止まることも出来ない。とにかく進むしかないのだ。
彼は足下を確かめるように歩き始めた。
道の半ばあたりまで進んだころであろうか。突然、大地と大気を震わす音が、上のほうから聞こえてきた。
ゼツの全身に緊張が走る。それは間違いなく崖の崩れる音であった。
岩と土砂が頭上から降りそそいでくる。
これまでの慎重さを捨て、彼は走った。
なんとしてもここを抜け、任務を果たさねばならない。
ゼツは自分の命を惜しむ気はまったくなかった。
絶え間なく襲いくる大地の鉄槌はなんとか振り切ることが出来た。
しかし、一瞬の気の緩みが彼の中に芽生えたその時、足下の道が音をたてて崩れた。
とっさに飛び退こうとしたが、間に合わなかった。
ゼツはなす術もなく奈落の底へと転落した。
(ここで果てるというのか)
死への恐怖はなかったが、無念の思いが彼の心に残った。
冷たく果てのない無の世界。それが死後のすべてのはずであった。
少なくとも彼はそう考えていた。
しかし今、自分がいるのはそのような所ではなかった。
暖かく、なにか説明できない空気がまわりを包んでいる。
それがなんなのか、彼にはよくわからない。それでも、不快なものではなかった。
ゼツはゆっくりと目を開いた。
その瞳に飛びこんできたのは見知らぬ天井であった。
ここはどこだ? 自分は死んだのではなかったのか?
様々な疑問が彼の頭の中をうずまいていく。
突然、どこかから声が聞こえてきた。
「あ、気がついたみたいね」
頭をめぐらしてそちらを見る。
部屋の奥で、火にかけた鍋をかきまわしている少女がいた。
その少女が、彼のほうを見て微笑んでいる。
ゼツは起きあがって身構えようとしたが、気持ちとは裏腹に、身体はほとんど動かなかった。
「あ、無理をしてはダメ。まだ、おとなしくしてたほうがいいよ」
少女はそう言うとゼツのそばまで駆けてきて、動こうとする彼を押しとどめた。
不本意にも横にされながら、ゼツは少女を警戒に満ちた目で見上げた。
「だいじょうぶ。別にとって食おうってわけじゃないんだから」
それに気がついたのか、少女は再び彼の目を見て、微笑んだ。
ゼツは己の中に奇妙な感覚が広がっていくのを感じた。
少女の言葉を信じようとしている自分がいる。それは彼にとって意外なことであった。
「でもよかった。見つけたときは、もう死んでいるのかと思ったから」
「見つ……けた?」
「そうよ。あなたは近くの川辺に倒れていたのよ」
少女はゼツに詳しいいきさつを語った。
二日ほど前、このイーストブルグの街の外れにある川のほとりに、彼は流れ着いていたらしい。
少女はなんとか彼を自分の家まで運び、今までこうして看病していたのだという。
おそらく崖から落ちたあのあと、下にあったと思われる川の流れにのせられて、ふもとまで流されてきたのだ。
(そうか。あれから二日経ったか。とはいえうまい具合に目的の街に入りこめたものだ)
それはまさに僥倖であった。
しかし、ゼツには理解できないことがひとつだけあった。
「なぜ……俺を助けた?」
「え?」
その言葉に少女は困惑する。
「俺のことなど君にはどうでもいいはずだ」
「どうでもいいって……だって、あなたは死にかかっていたのよ? そんな人がいたら助けるのが当然じゃない!」
「当……然?」
今度はゼツが困惑した。
見ず知らずの人間を助けるのが当然という少女の考えかたが、彼にはわからなかった。
考え込むゼツの姿を見て、少女は言った。
「あなたは……かわいそうな人なんだね」
「かわいそう……?」
ゼツは再び彼女を見た。
少女の瞳には、わずかだが先ほどまでとは違う輝きが宿っていた。
その瞳を見ていると、ゼツは己の心が灰色の海の底に沈んでいくような気がした。
少女の言葉は続く。
「あなたがどんな生きかたをしてきたのか、わたしにはわからない。でも……そんなふうに思っちゃダメだよ」
ゼツは無言で少女を見つめていた。
彼女の言葉に対する答えが出てこなかった。
自分の考えが間違っているとは思わない。
しかし、少女の言ったこともまた正しいのだと、己の中のなにかが、そう叫んでいた。
「あ……ごめんね。いきなり変な話しちゃって。とにかくもう少し休んでいて。今、出来たてのスープをいれるから」
なかば呆然としているゼツを見て、少女は照れくさそうに笑うと、再び鍋のほうに戻っていった。
「そういえば……まだ、お互い名前も知らなかったね。わたしはサーラっていうの。あなたは?」
スープを器に盛りながら、少女は尋ねた。
「名前……か?」
「そう、あなたの名前よ。なんていうの?」
「ゼツ……」
「ゼツ? 変わった名前ね。この国じゃ聞かない名だけど、どこから来たの?」
サーラの言葉にゼツは黙り込んだ。
あまり余計なことをしゃべりたくはなかった。無駄口は命取りになりかねない。
彼の無言の拒絶に、サーラは小さくため息をついた。
「あまり言いたくなさそうだね。まあいいけど。さ、これ食べて。元気がでるから」
彼女はそう言うと、彼にスープ入りの器を差し出した。
立ち上る湯気から、鼻腔をくすぐるいい香りがする。
ゼツは起きあがってそれを受け取ると、ゆっくりと口をつけた。
「どう? おいしい?」
彼の顔をのぞき込むようにして、サーラが聞いてくる。
ゼツは素直にうなずいた。
「そう。よかった!」
サーラの顔が花のようにほころぶ。
その笑顔にゼツは、スープの熱とは違った不思議な温かさが、全身を包んでいくのを感じていた。
それからしばらく、ゼツはサーラの下で世話になった。
彼女は喜怒哀楽のはっきりした性格で、なにか起こるたびにコロコロと表情や気分が変わった。
今まで組織の中で育ち、任務にすべてを支配されて生きてきたゼツにとって、そんな彼女との生活はとても新鮮なものであった。
ある雨の日のこと。
窓の外を眺めながら、ゼツはぼんやりと山での出来事を思い出していた。
任務の遂行に気をとられるあまり、状況の確認を誤ったのは、今考えてみても愚かなことであった。
あの失敗がなければ、すでに仕事を終えていたに違いない。
こうして身動きのとれない自分が、とても歯がゆく感じた。
「どうしたの? 元気がないよ」
サーラが唐突にやってきて、彼の顔をのぞきこんだ。
「そう……か?」
「うん。すっごく暗い顔してた」
その言葉はゼツにとって意外であった。
まさか自分がそんな顔をしていたとは。
「なにを考えていたのかはわからないけど、元気だしていこ!」
そんな彼の気持ちをよそに、サーラはこれ以上ないくらい元気いっぱいといった感じで言った。
「ずいぶんと明るいな」
「そうだよ。わたしはいつも明るいもん!」
確かにその言葉は事実であったが、今日の彼女の元気さは、いつものそれとは違ってどこか不自然に見える。
「サーラこそ、どうかしたか?」
「え? どうして?」
「なにか無理に笑っているように見える」
「そ、そんなことないない。全然ないよ」
そう答えるサーラの口調は、言葉とはうらはらに、かなりしどろもどろだった。
ごまかすように乾いた笑顔を浮かべていた彼女であったが、やがてため息をつくと、うらめしげな視線をゼツに向けた。
「そんなこわい顔しないでよ。理由はあるけど、べつにたいしたことじゃないんだ」
またしても意外であった。
先ほどもそうだったが、どうやら自分の思いが顔に表れているらしい。今まではなかったことだ。
自分自身の変化に戸惑うゼツであったが、それよりもサーラの言葉が気にかかった。
彼女は雨の空を眺めつつ、口を開いた。
「わたしね……雨の日はとにかく笑っていようって決めてるんだ」
「なぜ?」
「雨は……涙だから」
そう言う彼女の顔は、ややかげりを帯びているように見えた。
「むかし、お母さんが言ってたの。雨が降るのは空が泣いているからだって。この世に悲しいことが溢れているから、空が嘆いているんだって……」
「空が泣く……のか?」
なんとも突飛でロマンチックな発想だった。
そんなゼツの思いを察したのか、サーラは小さく笑う。
「おかしいと思うでしょ。でもね、わたしにとってはウソでもなんでもなかったの……」
そこで彼女の顔が再び、藍色の影に染まる。
「雨の日には決まって悲しいことが起きたわ。お父さんも、お母さんも、親しかった友達もみんな雨の日に死んでしまった。だから雨が憎かった時さえあったの……」
「それは……」
単なる偶然だろう、と言いかけてゼツは言葉を飲みこんだ。
少なくともサーラにとって、雨は単なる気象現象ではないのだ。そのことが彼にもおぼろげながら理解できたからだ。
不思議なものだと思う。少し前ならそんなことは微塵も思わなかったに違いない。
黙りこんだ彼のほうを見てサーラは続けた。
「でも、すぐに憎むのはやめた。だってどう考えたって、そんなのはただの偶然だしね。だからその代わり、笑うことにしたの」
「なぜだ?」
「この世に悲しいことがあって空が泣くのなら、笑い続けていれば、雨はきっと晴れると思ったから」
そこでサーラはにっこりと微笑んだ。それは先ほどまでの無理な笑いではなく、霧の闇を晴らす光のような、強さと暖かさに満ちた笑顔であった。
「もし、つらいことや苦しいことがあっても、笑顔を忘れずに過ごしていれば、かならず幸せはやってくる。空は泣かなくなるはずだよ。だから、雨の日には笑うの。わたしは平気だよ、だいじょうぶってね」
ゼツの心の中に広がっていくものがあった。
それは砂漠を潤してゆく水の優しさを感じさせた。こんな感覚は初めてだった。
心臓の鼓動が早鐘のようになる。彼は思わずベッドに伏した。
サーラが慌てて駆け寄る。
「どうしたの? だいじょうぶ?」
「ああ……べつになんでもない。気にするな」
言いながらゼツは顔を背けた。
なんとなく、今の顔をサーラに見られたくなかったのだ。
「悪いが、すこしひとりにさせてくれ」
「う、うん。わかった」
すこし不安そうな瞳をしつつも、サーラは奥のほうへと歩いていった。
(俺は……どうしてしまったんだろう)
彼女と過ごすようになってから、自分の中に生まれた微妙な変化。
それにわずかな戸惑いをおぼえながら、ゼツは再び雨に煙る空を見やった。
サーラのところに来て、一週間が過ぎた。
ゼツの身体はほぼ全快し、問題なく動けるようになっていた。
彼は任務を遂行しなければならないと感じていた。
請け負ってから、あまりにも時間が経ちすぎているのだ。もはやこれ以上の猶予はない。
「そっか。行くんだね……」
話を終えて、身支度を整え始める彼のそばで、サーラは残念そうに言った。
「ああ。世話になった」
なぜか荒涼とした風をゼツは心に感じた。
だが、ここで留まることはできなかった。
サーラは首を振って微笑んだ。
「ううん。いいんだよ。ゼツにはゼツのやるべきことがあるんだしね……わたしもお仕事に戻らなきゃいけないし」
「仕事?」
そういえば彼女が普段、なにをして暮らしているのか、ゼツは知らなかった。
「うん。わたし、ある人にお仕えしてるの。今まではちょっとお暇をもらってたんだけど、そろそろ行かないとね。こうしてゼツも元気になったんだし」
「そうか……」
さらりと言ってのけた言葉。だが、その本当の意味に気づいて、ゼツは動きを止めた。
サーラは自分のために、己の生活を犠牲にしていたのだということに。
「サーラ……」
「ん? なに?」
「……ありがとう」
考えるよりも先に言葉が出た。
「え? ど、どうしたの……急に?」
突然の彼の礼に、サーラはびっくりしたように目をみはった。
驚いたのはゼツも同じであった。
至極、当たり前のこと。それをなんの違和感もなく口にできたのが意外であったのだ。
思わず口ごもる彼に、サーラは言った。
「ゼツ……すこし、変わったね」
「変わっ……た?」
「うん。なんていうのかな。最初の頃より苦しそうじゃなくなったみたい」
なんとも曖昧な言葉だった。
しかし、不思議と彼女の言いたいことが、ゼツにはわかった気がした。
「そうだな……そうかもしれん」
だが、それは自分にとって良いことなのだろうか?
いまだに彼にはわからなかった。
「どうかした?」
「いや……なんでもない。そろそろ行く」
内心の疑問をかき消すように言うと、ゼツは外に出た。
「ねぇ……ゼツ」
サーラのためらいがちな言葉が、うしろから飛んでくる。
「なんだ?」
「また……会えるよね?」
振り向いた彼の目に、はかなげな微笑みが映った。
暗殺者たる自分が、これ以上普通の人間の生活に関わるわけにはいかない。
そのことがわかっていても、なぜかゼツはうなずかざるを得なかった。
「そうだな……いずれはな……」
「うん……きっとだよ。待ってるからね」
けなげな少女の思いを背にして、ゼツは再び暗闇への道を歩き出した。
だが、この時ふたりはまだ、自分たちに襲いくる運命を知ることはなかった。
イーストブルグの街の東側にある小高い丘。そこに大きな屋敷が建っている。
建物自体はかなり古い。しかしデザインの洗練さと、住んでいる人間たちの努力によって、小汚いという印象は受けなかった。むしろ、威厳さえ感じられる。
穏健派貴族、エルモ伯爵の屋敷。ここがゼツの目的の終着点だった。
(警戒はさほどでもない……)
ざっと周囲を調べたあと、彼はひそかに息をついた。
屋敷の見取り図は、頭に入っているので問題はない。
しかし、山での事故で装備の一式を失っていたため、準備万端とは言い難い状況だ。警備が薄いのはある意味、ありがたかった。
空はどんよりと曇っている。微妙に雨の気配もした。おそらく夜には降り出すだろう。
(好都合……というところか)
ゼツは天の配剤に感謝しつつも、またつまらぬ失敗は犯すまい、と気を引き締めた。
夜が訪れた。
すさまじい雷鳴が辺りにとどろき、降りしきる雨は激しく大地をたたく。
予想以上の荒れた天候となった。
ゼツは屋敷のそばの林に、身を潜めていた。
彼は正体を隠すため、顔に黒い布を巻くと、周囲の様子をうかがいつつ動き始めた。
この天気では警備などあってなきがごとしといったところだが、油断は大敵であった。
塀を乗り越え、庭の物陰の間を縫って、建物の近くにそびえ立つ巨木によじ登る。
そこから二階のバルコニーに侵入した。
ここまでは予定通りだった。あとは記憶を頼りに、エルモ伯爵の居場所を突き止めるだけだ。
一息ついたところで、彼は滝と化した暗闇の空を眺めた。
ふっとサーラの顔が思い出される。
彼女は今夜もあの愛くるしく、優しい笑顔を浮かべているのだろうか?
『この世に悲しいことが溢れているから、空が嘆いている』
だから笑うのだと彼女は言った。そうすれば空は泣かなくなるのだと。
だが今、自分はひとりの人間の命を奪おうとしている。それは新たな悲しみを作りだすことだ。
ならば、この雨は自分が降らしていることになるのだろうか?
ゼツは一瞬、暗澹とした思いに駆られた。
(バカな! 俺はいったいなにを考えている?)
頭によぎったその思いを振り切るかのように首を振る。
自分は暗殺者なのだ。仕事の前に余計なことを考えてはならない。
彼は己の心に強く言い聞かせると、再び行動を開始した。
いくつかの部屋を探ったあと、ゼツは標的となるエルモ伯爵の姿を見つけた。
見取り図の位置からすると、場所は書斎ということになる。彼は窓際によると、中の様子をうかがった。
話し声が聞こえる。
「……ろうだったね。……は……休み……」
「はい。……ございます。……様も……つめられ……」
どうやら相手は女のようだ。
言葉の使い方から察するに使用人といったところだろうが、この位置からは姿まで確認できない。
狙いはあくまで伯爵ひとりである。他の人間には気づかれたくなかった。
ゼツは静かに待ち続けた。
やがて、扉の閉まる鈍い音が聞こえてくる。
どうやら相手の使用人は出ていったようだ。
懐から反り身の短剣を取り出し、いつでも飛び出せる準備を整えると、彼はさらにタイミングを待った。
やがて伯爵は立ちあがると、机にあった本を棚に戻し始める。
背を向けた今がチャンスだった。
窓をこじ開けるようにして、室内に飛び込んだ。
気配を察した伯爵が振り向くよりも早く、ゼツは彼に詰め寄ると、背後から羽交い締めにする。
「きっ……きさま、なにも……んぐぅ」
口をふさがれた伯爵の喉元に、短剣の刃が当てられた。その目が大きく見開かれる。
「エルモ伯爵だな……その命、いただく」
ゼツの無感情な声が、殺意を告げた。
エルモ伯爵は最後の抵抗を試みる。その必死の膂力は、ゼツの病み上がりの力をわずかに圧倒していた。
殺そうとする者と殺される者との激しい接戦が繰り広げられる。
本や燭台が床に落ち、椅子が音をたてて転げた。
だが、所詮は素人のあがきに過ぎない。ゼツの短剣はついに伯爵の喉をかき切った。
吹き上がる鮮血が辺りを真紅に濡らす。
血だまりの中、動かなくなった伯爵の身体を捨て、ゼツは大きく息をついた。
思ったより手間取ってしまった。とにかく急いでこの場を離れなければならない。
物音を聞きつけた誰かがやってくるのは時間の問題であろう。
そう感じたゼツが動こうとしたまさにその瞬間であった。
「伯爵様! どうかなさいましたか?」
扉の外で激しく戸を叩く音がした。
(先ほどのメイドか!)
ゼツは舌打ちした。もはや一刻の猶予もなかった。
急ぎ窓のほうへ走りかけた彼だったが、なにか引っかかる感触がして、その足を止めた。
見ると彼の顔を覆っている黒布の端が、エルモ伯爵の指にからみついていた。
焦りに駆られた彼は、覆面の布を引きちぎるようにして取り去った。
だが、そのわずかな一瞬が運命の分かれ道となった。
扉が雷鳴と共に開いた。
「ゼツ……?」
「サーラ……か……?」
暗殺者と使用人。
顔を合わせたふたりの男女は、互いの名を口にしたあと、同時に言葉を失った。
望んだ再会であった。
しかし、それは望まぬ再会でもあった。
互いの瞳は相手を映していたが、それは温かみのあるものではなく、単なる鏡のような光の反射に過ぎなかった。
凍りついた時の中で、ただ雨の音だけが激しく、空しく響いていた。
まるで永遠に続くかと思われた一瞬。
しかし次の瞬間、ゼツの身体は彼の意志とは無関係に動いた。生粋の暗殺者としての血
が彼を突き動かしたのだ。
標的は殺す。そして目撃者も消す。
それはもはや彼の潜在意識の中に染み込んだ、消せない衝動であった。
(なにをする! やめろ!)
彼の心は叫んだ。
だが、彼の身体は止まらない。
無意識の衝動の前には、わずかばかりの心の抵抗など無力に過ぎなかった。
血にまみれた手が少女の自由を奪い、冷たく光る刃がその首筋に滑りこんだ。
音もなく銀色の輝きが閃く。
宙に広がる紅の華。その生命の散華の中で、少女はゆっくりとその手を男にさしのべる。
わずかに頬に触れる指。そして彼女は優しげに、悲しげに微笑んだ。
その瞬間、男の胸の内でなにかが弾け、砕け散った。
「ううわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ……!!!」
すべてを揺るがすかのように響いた絶叫。
それは、感情という名の産声であった。
それから自分がどうしたのか、彼は覚えていなかった。
ただ、心の内から湧き上がってくる激情にまかせて走り続けた。
とどろく雷鳴も、騒ぎ立てる兵士たちの声も耳には入らない。
身体を傷つける木々の枝も、ひんやりと染み入ってくる水の冷たさも、なにもかもが感じられなかった。
ひたすらに走り、走り、そして力尽きて崩れ落ちた時、彼は自分が無人の荒野にたたずんでいるのを知った。
降りしきる雨は、いまだにやまない。
ゼツは幽霊のように顔をあげると、再び激しい咆哮をあげた。
雨が降っていた。
天が落ちてきたかのように。
荒野にたたずむ男は、全身にその洗礼を受けながら、嘆きの空を眺めていた。
それは彼の悲しみの雨であった。
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