ワークショップ概要・参考文献
「作家と匿名性」

 作品が匿名で発表されることにはどのような背景があるだろうか。作家がパトロンに作品を献上していた時代を経て、職業作家が現れ作品に市場価値が生まれてからは、作品と作家の個性とがより強く結びつけられるようになった。それとともに匿名の必要性は薄れたように思えるが、匿名あるいはペンネームの採用は現在に至るまで無くなっていない。それぞれの作家に固有の事情や時代の要請もあるだろう。あるいは匿名性とは時代を超えて作者―作品―読者の関係に必ず介入してくる要素なのだろうか。
このワークショップでは、まずブロンテ姉妹やジョージ・エリオットら19世紀イギリスの女性作家、そしてCatherine Lucille Mooreをはじめとする20世紀アメリカの女性SF作家をとりあげ、彼らが匿名やペンネームで作品を発表することになった背景を報告し、その共通点や相違点を考察してみたい。匿名やペンネームの事例は他にも多くあるはずなので、フロアからも意見を出していただき、作家と匿名性について議論を深めていきたい。

ブロンテ姉妹:皆本智美
詩集 Poems (1846) を出版して以来、シャーロット・ブロンテの身元が広く世に知られた後に出版された Villette (1853) まで、ブロンテ姉妹はペンネーム (pseudonym) を全ての作品に用いて出版した。シャーロット、エミリ、アンが用いたペンネームはそれぞれカラー、エリス、アクトンという各自の頭文字を取ったものだが、いずれも性別不詳の名前である。このペンネームを採用した事情について、シャーロットは、女性作家は偏見を持たれるという懸念を抱いているからと説明している。19世紀前半の文壇では、ペンネームや匿名で作品を発表することが通常の形態であったとはいえ、ブロンテ姉妹が匿名でなくペンネームを用いたことには、様々な理由があると推察される。幼少期から遊びでペンネームを用いていたというブロンテ姉妹固有の特徴も考え合わせ、性別の問題やペンネームの効果などを考察していきたい。

<参考文献>
1. Thormahlen, Marianne. "The Bronte Pseudonyms." English-Studies: A J. of English Language and Literature 75: 3. 1994. May. pp.246-56.
2. Judd, A. Catherine. "Male Pseudonyms and Female Authority in Victorian England." Literature in the Marketplace: Nineteenth-century British Publishing and Reading Practices. Ed. John O. Jordan and Robert L. Patten. Cambridge UP, 1995. pp.250-68.


ジョージ・エリオット:西山史子
Marian Evansは雑誌の編集、評論や書評の執筆など文筆業でかなりの経験をつんだ後、小説を書き始めるときにGeorge Eliotというペンネームを用いた。この偽装は、彼女自身、事実上の夫でありエージェントの役割も果たしたGeorge Henry Lewes、そして編集者John Blackwoodの三者の協力関係のもとに、作家と作品をスキャンダルから守るために維持されるはずであった。噂や憶測が大きくなったため、最初の長編Adam Bede(1859) を発表後はやくも身分を明らかにせざるをえなくなるのだが、その後も彼女は最後までペンネームを使い続けた。これは、Marian Evansとは別個のGeorge Eliot というアイデンティティーが小説を書く上で彼女にとって不可欠だったことを表しているといえる。また、論文や書評は、当時の慣例もあって、匿名で発表された。彼女は本名もMary Anne→Mary Ann→Marianとつづり変えており、それが人生の転機と結びついている。いくつかのアイデンティティーを使い分け、その間を渡り歩いたこの女性作家と彼女の作品について考察してみたい。

<参考文献>
・匿名性について
1.  Robert J. Griffin, ed. The faces of anonymity: anonymous and pseudonymous publication from the sixteenth to the twentieth century. Palgrave Macmillan, 2003.

・ジョージ・エリオットと匿名について
1.  Rosemarie Bodenheimer. The Real Life of Mary Ann Evans: George Eliot, her Letters and Fiction. Cornell University Press, 1994.
2.  Rosemarie Bodenheimer. "A Woman of Many Names." The Cambridge Companion to George Eliot. Ed. George Levine. Cambridge UP, 2001.
3.  Henry Alley. The Quest for Anonymity: The Novels of George Eliot. Associated University Presses, 1997.

1.は伝記。2.は1.と同じ筆者によるもので、1.の内容を簡単に書き直したもの。3.はエリオットが、なぜ、どういうAnonymityを求めたのかという観点から書いた作品論。


20世紀アメリカ女性SF作家:香月祥宏
 ジャンルとしてのScience Fictionの成立は、1926年、Hugo GernsbackによるSF専門誌Amazing Storiesの創刊以降とみるのが一般的である。この時期のSF小説は、宇宙や秘境を舞台とした冒険活劇が主であり、作者および読者の多くが男性であった。こうした状況の中、Weird Tales誌に"Shambleau"(1933)を発表した女性作家Catherine Lucille Mooreは、「性別が作品の評価に影響しないように」という編集部の配慮によって、本名の頭文字をとったC. L. Mooreという筆名を使用してデビューした。巧妙に性別を隠された彼女は、このデビュー作で高い評価を得る。ジャンルSF黎明期において、同じように性別を意識させない筆名で活躍した女性作家にAndre Norton、Leigh Brackettらの例がある。
 このようにSF界においては、女性作家は時として男性または中性的な筆名を使用することによって、性別を不明確にすることが少なくなかった。本発表では、そのような事例をまとめて報告する。

<参考文献>
・SF全般について
1.  John Clute & Peter Nicholls. The Encyclopedia of Science Fiction. Palgrave Macmillan, 1993.
2.  Edward James. Science Fiction in the Twentieth Century. Oxford Univ Press, 1994.
3.  Brian Stableford. Historical Dictionary of Science Fiction Literature. Scarecrow Press, 2004.

Science Fiction全般に関する基本的な資料。1は項目ごとの作家・用語解説、2、3は通史的な解説書。C・L・ムーア、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアなど、ペンネームを用いて活躍した女性作家たちに関する基本的な記述がある。

・SFと女性作家について
1.  Sarah Lefanu. In the Chinks of the World Machine: Feminism and Science Fiction. Indiana University Press, 1989.
2.  Joanna Russ. How to Suppress Womens Writing. University of Texas Press, 1983.
3.  小谷真理編訳『テクスチュアル・ハラスメント』(河出書房新社, 2001)

1は、SFにおける女性作家について分析した批評。2は、SF作家ジョアンナ・ラスが、文学史のなかで(SFに限らず)女性作家がどのように抑圧されてきたかを、いくつかのパターンに分けて解説した本。3はその邦訳に、訳者自身の評論を加えたもの。