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2005年3月20日、神戸大学文学部新館3階351教室にて、第2回大会が開催されました。

12:30−14:20 ワークショップ「メディアとしての名前:作家と匿名性」
 発表:香月祥宏、西山史子、皆本智美

 司会:竹下幸男(京都府立大学非常勤講師)、西山史子
14:30−15:15 研究発表1:「小説の語りと映画の語り―James Joyce, "The Dead" の場合―」
 発表:榎 千恵(神戸市外国語大学非常勤講師)
 司会:真鍋晶子(滋賀大学)
15:15−16:00 研究発表2:「『機械が止まる』に見るE.M.フォースターの文明観」
 発表:西川 和佳子(神戸大学大学院博士課程)
 司会:坂田薫子氏(京都教育大学)
16:15−17:30 講演: 講演「ロリータとの出会い――小説、映画、劇」
 講演:若島正(京都大学文学部教授)
18:30− 懇親会






12:30〜 ワークショップ「メディアとしての名前:作家と匿名性」(クリックすると発表要旨が開きます)

発表:香月祥宏(大阪市立大学大学院博士課程)[運営委員により代読]、西山史子(神戸大学非常勤講師)
    皆本智美(京都大学大学院博士課程)
 司会:竹下幸男(京都府立大学非常勤講師)、西山史子
 


14:30〜 研究発表@「小説の語りと映画の語り―James Joyce, "The Dead" の場合―」
 発表:榎 千恵   司会:真鍋晶子



 小説は音楽、絵画、建築等の他の芸術よりも映画と密接なつながりを持っており、互いに影響を及ぼしあいながら発展してきた。小説で語られること―物語内容―のほとんどすべてが映像化できるが、その表現方法をそのまま映しとるのは不可能である。
 その原因は言うまでもなく両者の伝達手段の違いによる。すなわち小説が言葉による叙述であり、読者は読むことによって(含意された)作者のメッセージを受け取るのに対して、映画の観客は聞くと同時に見るという行為によってメッセージの受け手となる。小説と映画の語りについて考える場合、この差異は常に念頭におかれねばならない。
 James Joyceの処女作Dublinersは15編の短編で構成されているが、すべてに共通するのは登場人物の無気力、自嘲、幻滅であり、語り手の彼らに対する皮肉で辛らつな姿勢である。しかしDublinersの最後に位置する"The Dead"は、中篇と言ってもよいその長さは別にしても他の作品とは少々趣を異にしている。(含意された)作者は登場人物と語り手の距離を微妙に操作することによって、アイロニーの変化を描写する。
 今回はこのアイロニーの変化が小説でどのように表現されているのかを分析し、それがどのように映像化(John Huston監督)されたのかを考えてみたい。

15:15〜 研究発表A「『機械が止まる』に見るE.M.フォースターの文明観」
 発表:西川 和佳子(神戸大学大学院博士課程)
 司会:坂田薫子氏(京都教育大学)



 1909年に執筆されたE.M.フォースター(E.M.Forster)の短編小説「機械が止まる」("The Machine Stops")は、彼の作品の中では唯一のサイエンス・フィクションである。長編・短編共に異国への旅や異文化との出会いをテーマにした作品が多い中、異彩を放っているこの短編は、フォースターの文明化に対する見解が随所に感じられるという点で、大変興味深い。
 この物語の中で描かれているのは、すべてが機械によって支配されている未来の世界であり、その機械文明が進化の果てに崩壊していく様である。この作品の主題が、急激な文明化や近代化に対する批判であることは明らかであるが、フォースターは具体的に文明化のどういった側面に対して、批判的な見方をしているのだろうか。
 作品の中に描かれる機械文明の世界においては、機械を崇拝するヒロインのヴァシュティ(Vashti)と、人間的な感覚の重要性を訴える息子クーノ(Kuno)の対立を通して、人間性の欠如が強調されている。
 本発表では、「機械が止まる」の中に描かれる非人間性の表象に注目し、人間性というものがフォースターにとってどのような意味をもっていたのか検討するとともに、文明化に対する彼の姿勢を考察してみたい。

16:15〜 講演「ロリータとの出会い――小説、映画、劇」
 若島正氏



18:30〜 懇親会