攝提國>宮武府県史
近日、リニューアル予定!!皇紀2671年11月19日更新
宮武外骨
MIJATAKE Gaikocu
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(本日は番目のアクセスです。また昨日は人のご来場者がありました)
明治・大正・昭和期に活躍した、「過激にして愛嬌ある」文筆家である宮武外骨(みやたけがいこつ)。
ここでは、彼の著作のうち、道府県史に関するものを、夜学生時代興味を持ち、大学図書館蔵書の著作集をコピーしまくったものを、偶然見つけたので、まとめてみた。(新字、新かなづかいに修正。)そのうち、私なりの解説をつけてみたい。でないと、丸パクリになってしまうので。(あ、ちなみに漢字の下のローマ字は、エスペラントのつもりです。「や」が「Ja」になっているのはそのためです。)
宮武外骨著『府藩縣制史』より
徳川義軍府と甲斐府郡政
鎮守府、鎮将府、鎮台府、按察府などいう、明治初年に多くあった軍政上の府ではなく、官軍に反抗した私称の軍府。
慶応4年(明治元年)5月発行『新聞日誌』第2号に、「先月3日、下総板橋戦争の節、慈雲寺という禅寺の地先にて戦死の者2人あり同寺へ埋葬せし者の胴乱に張り付けありし脱走組の割付印の由」とあり、徳川義軍府之印(朱印)の上に、「軽兵第2大隊2番中隊、綿貫元吉、生年35。」とある、官軍に反抗した徳川方の忠臣軍団の名であったらしい。
『甲斐府有司便覧』という明治2年版の職員録に拠ると「知府事 滋野井侍従殿」が筆頭で判府事以下数名を列記し次ぎに「甲斐府郡政局、頭取鯉渕音次」とある。
YAHOO!検索したら、結構、「徳川義軍府」ってヒットしますね。
京都御政府と大阪政府
〔略〕
大阪人は明治40年頃まで府庁を政府と呼んで居た、それ故明治15年頃の写真に「大阪政府」と筆太に標記してあるも怪しまないが、明治12年頃の京都写真帖に、二条城内の京都府庁を「御政府」と書いてあるのを見て奇異に感じた。
関西人ならさもありなんか?
不平士族のため県庁変更
明治政府が断行した第二の維新たる廃藩置県は、関東各地の士族を最も強く憤激せしめたが、それが為めに当局者は士族の反抗を恐れて新県庁設置の予定地を変更した、(略)
埼玉県庁が浦和
太政官は、忍藩の忍県、岩槻藩の岩槻県、川越藩の川越県と従来の浦和県を合せて一県とし、県庁を埼玉郡岩槻町に置く事にして郡名を採った埼玉県と称したのである。然るに旧岩槻藩臣共は反感を起し、廃藩置県の上に、新政府の役人共が此処へ来て威張られてはタマラナイ、県庁を此岩槻町に置かせない事にせねばならぬと決議し、仮庁舎とする筈の香林寺住職を威嚇して、寺を県庁に貸させぬことにした、一方埼玉県知事野村盛秀は、強て岩槻に行けば士族達に暗殺されるかも知れない、イッソ此処に居るのが安全と決定して、旧浦和県庁の所在地たる足立郡浦和宿鹿島台に居据る事になったのである。
現在の県名43の中、意義をなさないのが二つある。一は埼玉県、一は三重県、埼玉県庁を埼玉郡岩槻町でなく浦和にするのであれば足立県とすべき所であった、三重県は三重郡四日市に県庁を置いたので三重県としたのであるに、其後阿濃郡津へ県庁を移転し、今尚三重県と称するのは、県名の意義を失っている。
そうなんです。現在、足立と言えば、東京都足立区が真っ先に思い浮かびますが、元々、足立というのは、足立郡というのは、南北縦に長かったんですよ、奥さん!それが、一番北は埼玉県中部までは確実。今でも、埼玉県北埼玉郡吹上町が存在します。南北に分かれた(ひょっとすると、東西にも分かれているかも。)南部分は、南足立郡として、東京府に、その他は埼玉県に分かれ、昭和の大東京市誕生の時に、旧南足立郡各村は、足立区になったのでした。
って言うより、さいたま市は、旧足立郡の町村を含むわけだから、さいたま市と同時にあだち市が候補になっていてもおかしくなかったのでは?
印旛県庁が加村
上総を木更津県と称した時、下総を印旛県としたのは、県庁を印旛郡佐倉町に置く筈で郡名を採ったのであるが、これも埼玉県同様、旧佐倉藩の士族が反対を唱えて妨害したが為、一時葛飾郡の南端行徳の徳願寺に置き、間もなく旧葛飾県庁跡同郡流山町の北方加村台(筆者注:現流山市加)へ移ったまま、木更津県と共に廃止されて現在の千葉県となった。
先程の足立とともに、葛飾も、東京都葛飾区を想像してしまいますが、千葉県にかかる部分が多いんです。ま、元々葛飾郡全体が下総に所属していたので、隅田川にかかる橋が、武蔵と下総にかかる「両国橋」という意味だったのが、近世以降、西側が武蔵に所属になったのである。柏市は、東葛飾郡の町村による、昭和の大合併後、2ヶ月程、「東葛市」と名乗っていたので、葛飾を侮るなかれ!
石川県庁が美川町
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドクなやまされた、金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町に置く筈であったが、不平士族が険悪の態度であったたが為め、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた、後に金沢の士族共が緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。
新川県が魚津町
富山藩の富山県を改めて郡名の新川県としたのであるが、此富山も金沢同様、旧藩の士族共が威張って居て、新県庁の役人をイヂメてやろうと談合して居たのを知り、それを避ける為め、県庁を富山へ置かず、同郡の魚津という海岸へ置いた、これも富山の士族が、魚津のような所では不便で困ると云って、県庁の移転を要求することになったので、後に富山へ帰ったのである。
分県運動の成功と不成功
明治初年には、置県廃県常ならずであったが、稍整理された後の分県運動には、成功と不成功の二つがあり、成功は悉く復県の分県で、旧県を復活したに過ぎない。
分県運動の成功であった地方
●阿波人の分県運動は成功して、高知県より分離した徳島県(徳島県名東県の復旧)であった(明治13年3月)
●越前人の分県運動は成功して、石川県より分離した福井県(福井県足羽県の復旧)であった(明治14年2月)
●因幡人の分県運動は成功して、島根県より分離した徳島県(鳥取県の復旧)であった(明治14年12月)
●越中人の分県運動は成功して、石川県より分離した富山県(富山県新川県の復旧)であった(明治16年5月)
●肥前人の分県運動は成功して、長崎県より分離した佐賀県(佐賀県伊万里県の復旧)であった(明治16年5月)
●日向人の分県運動は成功して、鹿児島県より分離した宮崎県(美々津県宮崎県の復旧)であった(明治16年5月)
●大和人の分県運動は成功して、大阪府より分離した奈良県(奈良県の復旧)であった(明治20年11月)
●讃岐人の分県運動は成功して、愛媛県より分離した香川県(香川県の復旧)であった(明治21年12月)
(略)
分県運動の不成功であった地方
明治10年頃より同23年頃までの間にあった分県運動で不成功に了った地方は十余であり、中には無理な請願らしいものもあるが、一括して東方より西方へ
●静岡県より伊豆国一円を割き、又神奈川県より相模5郡を割いて小田原に一県を置いてくれとて「足柄県再興建白書」と云うを明治19年3月、元老院へ提出した者があり其筋では詮議する程でもないとて問題にしなかった
●明治16年春頃、遠江人が駿河の静岡県より分離して浜松県再置を請願するという運動を起したが、一県を置くほどの国勢でないとして、これも不採用であり、其運動は敢えなく立消となった
●三河の額田県を廃して愛知県に入れたのであるが、明治17年頃より、これを旧に復して岡崎県を置いてくれとの運動が熱心に行われた、明治22年創刊の『三河旬報』という新聞は其運動機関として発行されたようであった
●山梨県や奈良県よりは三河国の人口が多い、鳥取県佐賀県高知県青森県よりも三河国の方が人口も多く耕地の反別も多い、政府は何故分県を許さないのかと気焔を揚げた、又帝国議会へも持出したが、其効はなかった
●信濃国の東南部と飛騨国一円が筑摩県であり、県庁は松本にあったが、其筑摩県を廃し、飛騨は岐阜県に、信濃数郡は長野県に合併されたのである、その復県運動を明治15年頃より明治23年頃まで続けたが不成功
●右(ママ=↑のこと)の筑摩県再置運動は、南信の有志者が強硬の主張で熱心に奔走した結果、元老院の議題となり、42対6の差で通過したのであったが、内務次官白根専一の反対で沙汰止めになったのである
白根専一何者ぞ?
●明治元年7月、伊勢山田へ度会府を置き、後に度会県と改称、廃藩置県後も姑息2県と共に度会県再置、それを明治9年4月三重県に合併、明治15年末頃、南勢地方の者が度会県再置運動を起したが、採用にならなかった
●和泉国は早く慶応4年6月に大阪府を割いて堺県を置いたのであり、又廃藩置県後には姑息3県と共に堺県を再置され、それを同(ママ=明治の誤り?)14年2月、廃県で大阪府へ合併、此復県運動を和泉国人が数年間続けたが無効であった。
●丹波国を京都府より割いて宮津県を置き、美作を岡山県より割いて北条県を再置されたしとの運動に着手した者ありと明治16年12月、同18年10月の新聞記事に見えたが、いずれも風説に過ぎなかったようである
●明治15年1月の『報知新聞』に赤浦道人の寄書「飾磨県再興の議」が載って居り、又翌16年5月の『有喜世新聞』に飾磨県再置の評判ありとの記事が出て居り、播磨に飾磨県再置の念願者は多かったようである
飾磨県については、後述の予定です。
合県運動と移管運動
今、盛んに議論されている、地方再編、道州制論議。それに近いことは、明治から起こっていました。それをちょっとご紹介しましょう。
(略)
福岡県会議員の風斗実という人が、明治16年3月28日、同県会へ「九州6県を合して1県となすの建議」というのを提出した。其の要旨は、近年地方税を多く徴収されるようになったのは、県の費用が増大したからである、今九州を6県にしたならば、経費が減少するという愚論であったが、賛成者少なく議案は握り潰しになった。
右(原文ママ)は東京のニ三新聞で報道された事である、当時九州6県と書いてあるのが不可解、明治16年3月には、福岡県、大分県、熊本県、鹿児島県、長崎県の5県であって、除外の沖縄県を加えねば6県にならない、佐賀県、宮崎県は同年5月に再置されたので右(原文ママ)の3月にはマダない。
●
勿論、多くの外骨フリークはわかっているとは思いますが、彼の文筆家としての真骨頂は、『滑稽新聞』に代表されるような、新聞、雑誌における、過激な表現だろう。そっちは、外骨フリークの先人に当方が追いつけるわけもないので、しばらくは、こちらでお茶を濁させてください。
作成者:水上攝提(みずかみ せってい)
鷲崎さんの口から外骨の話が出るとは思わなかった!
鷲崎さんも外骨フリークなのかな?
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