肉体の取扱説明書

 

肉体は、愛の表現体。

愛を表現するために創造されたものだから

その目的以外の使い方をし続けると、当然故障する。そのひとつが病い。

 

肉体の取り扱い説明書付きで、生まれてくることができたらよかったよね。

 

 

 

 

 

 

〜〜肉体の取り扱い説明書〜〜

  

【使用上のご注意】

お使いになる人や他の人々への危害や損害を未然に防止するために必ずお守り下さい。

この肉体は、愛の表現以外にはご使用にならないでください。

 

 

 

 

【故障かなと思ったら、まずは誤使用チェック!】

次のようにご使用になっていないか、ご確認ください。

・自分の思い・言葉・行いで、怒りを表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、嫉妬を表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、妬みを表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、心配を表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、誹りを表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、不安を表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、恐怖を表現していませんか

・自分の思い・言葉・行いで、憎しみを表現していませんか

(2003.4.21up)

 

 

 

 

【修理に関するご相談】

 

こんなにも精妙に出来ている私達の肉体。

人間が作った物は人間にも修理できるけど、

これは神が創ったものだから

修理できるとしたら、それはやっぱり神だけだよ。

人間ができる修理(治療)は、軽い故障や応急処置的なもの。

 

そして――。

修理できる神は祀られている神ではなく、

一人一人の内に内在する神。

 

 

 

 

 

【メンテナンス=個我のケア=】

 

本質とプロセスは異なる。

プロセスはあくまでプロセスで、大切なのは本質をみること。

勿論、100%実感が伴うようになれば特別なメンテナンスは必要ないのかもしれないけれど、

それまでは、個我の自分の心身のケアもするとよいと思っている。

個我の身体の不調や心の傷が、本質をみることを邪魔することがあるから。

でも、個我の自分のケアが終わってから、本質をみようとするのでは時間がかかり過ぎる。

だから、本質をみることと、個我の自分のケアとを同時進行でしていけばいい、

バランスをとりながら――。

それは、目に見えないものと目に見えるもののバランスをとることでもあるのだから。

 

個我のメンテナンスをするうえで、『仮相・幻想』と知っているのは、とても大切なこと。

仮相・幻想だと知らないで、一生懸命自分の心身のケアをするのと、

仮相・幻想だと知っていてそのうえで、個我の自分のケアをするのとでは、

天と地ほどの差があると思っている。

 

 

 

 

 

 

 

<1> プロセス―人と合わせるということ―

 

自分に無理させて、人と合わせていると苦しい。

それに気づいてきた人達から、

無理して人と合わせることをやめていく――。

その時

これまでたくさん自分に無理をさせ続けてきた人は、それまでの反動で

〈全く人とあわせる必要はないんだー〉っていう感じになって

中には、人と全く合わせようとしなくなってしまう場合もある。

だけど、全く人と合わせようとする部分がなくなってしまったら、

自分の感情だけを大切にしていってしまったら、

それは不調和になってしまう気がするのだ。

だから、自分に無理をさせない範囲で人とあわせていく。

自分も大切にし、人も大切にする。

調和というのは、そういうものなのかもしれないなと思う。

人に合わせて自分が無理をして苦しんでいる姿は、調和とは言いがたいから。

大切なのは、バランスだもの。

 

 

無理しない範囲というのは

どこの部分までが「無理すること」で

どこの部分までが「無理しないこと」か

というそれぞれの線引きの違いによって、範ちゅうが著しく違ってくる。

今の自分に無理しない範囲でやりながら、

同時に、自分に無理ではない範囲をどんどん広げていくことが

自分のこだわりや執着をなくしていくことでもあり、

自分の意識を拡大するということなのではないか。

自分と違うものに、あわせてみようとする部分が全くなければ、

いつまでたっても、自分のこだわりや執着はなくならないもの。

今の自分に無理をさせずに

自分に無理ではない範囲を広げていく――それは魂を育てるということ。

 

 

そして、「人とあわせなくてはならない」 という気持ちから、人と合わせようとすると

それは自分を縛り付けることになるけれど、

もし「皆が楽しく過ごせるように」という気持ちから、合わせようとするならば、

それは愛の表現。

私は、そんな気がしている。

 

 

 

<2> プロセス―自分の感情を伝えること―

 

「自分の気持ちは押さえない方がいい。外に出した方がいい」と言ったら、

「じゃあ、言いたい事は何でも言った方がいいのね」と言われたことがある。

そう。言いたいと思ったことは、何でも言えばいいと思うよ。

思ったことを何でも言うのとは違う。

「思ったこと」は自分の感情そのまま。

「言いたいこと」は思ったことを何かの理由があって、相手に伝えたいということ。

 

 

伝えるということ。

それは、感情をぶつけることとは違うこと。

混同されていることも多いけど、本当は違う。

相手にわかってもらいたい・・・・だから言うのよね。

ならば、感情をぶつけるというは、とても上手くない方法だと思う。

ぶつけるって、勢いがあるでしょう?

感情もエネルギー。

ポジティブなものならいいけれど

ネガティブなエネルギーが勢いよく自分にぶつかってきてはたまらない。

感情をぶつけられた方は、自分を守るためにパッと心を閉じるから、

結局気持ちをぶつけても相手の中まで届かないことも多い。

堅く閉じた心の扉にぶつかって、自分に跳ね返ってくるだけ。

 

 

伝えるということ。

それは、「言葉を選ぶ」という作業が伴うもの。

伝えた内容で相手が傷つくのは仕方がないけど

伝え方・使う言葉で相手を傷つけるのは、得策とはいえないよ。

そのときはスッキリすることもあるかもしれないけれど

人を傷つければ、それはいずれ自分のところにかえってくるのだから。

それに、目的は、相手を傷つけることではない。

自分の気持ちをわかってもらうことが目的なのだから・・・。

 

 

伝えられた内容でついた傷は、癒えるのが早い気がする。

それは意見の食い違いや誤解、価値観の相違が原因だということも多いから。

たとえ、その時はグサッときたり、ガーンときても、

冷静に考えてみれば、

<言われてみれば、その通りかもしれないな>

<相手の立場ならそう思うかもしれないな>と思えることも多いからなのだと思う。

だから、相手を傷つけるからという理由で、

言いたいことを必要以上に我慢しなくてもいい気がする。

それに、我慢すると自分が傷つく

自分が自分に我慢をさせて、自分の気持ちを蔑ろにしているということが、

自分を傷つけるのだと思う。

相手を傷つけないようにすること、自分自身を傷つけないようにすること――。

うまくバランスをとれるといいな。

 

 

 

自分の気持ち、伝えよう。

相手のために言葉を選んで、必要以上に傷つけることのないよう心配りして、

そして自分自身の気持ちも大切にして。

 

 

 

<3> プロセス―何のためにそれを言うの?―

 

自分のことを思い返してみても

感情をぶつけてしまった時には、たまっていたことが多い気がする。

我慢して押さえつけていた時が多い気がする。

必要以上に相手を傷つけないよう心配りをする余裕が自分にない状態だ。

 

だから、長いこと我慢して言いたいことを言わないできた場合ほど、

我慢してきたものが大きければ大きいほど

「自分を大切にする・自分を愛する」なんて言葉に出会うと、

今までの反動で、

何でもかんでも自分の思ったことを、ものすごい勢いでぶつけやすいのかもしれない。

抑圧された力が大きければ大きいほど、それを解放したときの勢いは強い。

それは、自然なことのような気がするので、それが悪いとは言わない。

 

でも、何でもかんでも思ったことを言うと、人を傷つけてしまうこともある。

感情をぶつけた場合は勢いがある分、更に負傷者は増えるだろう。

そのあり方は、自分へだけの小さな小さな愛ではないか。

 

 

抑圧していたエネルギーを一旦解放したら、

次のプロセスとして、「愛」を意識していけるといいね。

何のために言うのかを意識するのだ。

ただ自分の不満を解消するためなのか、

それを言うことは相手のためになるのか。

どんなに相手にとってキツイことでも、

どんなに自分にとって言いにくいことでも、

相手のためを思って言うのなら、それは、の表現だといえると思う。

そして、同じことを言っても、使う言葉や言い方によって、別のものになる。

 

 

言い方といっても、スキルではない。

自分の不満を解消するために言うのだとしても、どういう気持ちからいうのか。

「もう、これ以上我慢できない!

なんで私がこんな思いをしなければならないのよ!」

という相手を責める・攻撃する気持ちならば、

同じ言葉でも、言い方はすごくきつくなる。

「この人は、私が嫌な思いをしているということは知らないのかもしれないから、

伝えよう」

という気持ちからなら、わりと穏やかに冷静に言える。

 

 

長く溜めておくほど、言い方がきつくなる傾向はあると思うから、

言うつもりなら、やっぱりあまり溜めておかないほうがいいかもしれないね。

   ・この人は私が嫌な思いをしていることは知らない。

   ・この人は私がこんなに嫌な思いをしていることは知らない。

溜めておいた時間が長くなるほど、

こんなに嫌な思いをしているという部分に力がこもってくるから。

 

 

言いたいと思ったことは、言ってみればいいよ。

無理して感情を押さえると結果的に余計ややこしくなるから。

でも、何のために・どういう気持ちから自分はそれを言おうとしているのか――。

言う前に、もう一度自分の心を見つめてみよう。

そこで、自分のエゴを見つけることが出来たら、

我慢して感情を押さえつけなくても、相手に何も伝えなかったとしても、

自分の気持ちがスッキリする。

感情をぶつけるよりも、きっと何十倍も何百倍もスッキリするよ。

 

 

 

<4> プロセス―自分で自分を受け止める―

 

感情を押さえつけないというと、

人に感情をぶつけること・感情を吐き出すことだと思われがちだが、

別に人に言わなくても解放できることもある気がする。

感情を押さえつけない・閉じ込めないようにしようと心がけているが、

それは人に対してではなく、むしろ自分自身に対して。

 

 

自分に対して感情を押さえないというのは

自分で自分にウソをつかないということ。

それは、自分で自分を正面から受け止めてあげること。

例えば、怒りが出た時。

往々にして、自分が傷ついていることはみないで、

相手が悪いから腹が立つ(相手が悪いから自分は腹を立てている)と思っているが、

何で怒るかといえば、そのことで傷ついている自分がいるからってことも多い。

その時、自分は傷ついているんだということを自分が受け止めてあげると

傷ついた事実は何も変わらなくても、

その傷ついた感情は落ち着く。

自分が傷ついていることを、自分がしっかり見てあげないと

自分の傷を自分が無視していると、

私は傷ついているんだよー!」と傷が自己主張をし始めるよ。

 

 

その時にはただ『私は傷ついている』と見るだけ。

「傷つく自分はダメだ」とか

「傷つくのは自分が弱いからだ」とか

そういう余分なものは一切つけない。

 

 

カラオケで発散、スポーツジムで発散という方法は傷から目をそらすこと。

傷を忘れて痛みを感じなくする方法。

その方法も悪くはないけど、

心の傷口に直接手当てをするわけではないから、傷口はそのまま。

 

 

転んで出来た傷も

まったく何もせず、汚れたままにしておくと膿んで長引いちゃうでしょう?

特別な治療などしなくても

傷口やそのまわりについた血や砂をきれいに洗い流しておくだけでいい。

傷口は「私は傷ついた」という事実。

傷口から出た血は、怒りや、悲しみやモロモロの感情。

見るのが怖いからと、自分の血(感情)から目をそむけない。

そして、流れ出た血(感情)ばかり見るのではなく、

どこから、どうやって血が出ているのかと傷口を見つめる。

 

 

その怒りの前に、その悲しみの前に、自分が傷ついていたってことを認めてあげようよ。

あなたの気持ちを受け止めてくれる誰かがいれば、勿論それはとても幸せなこと。

でも、もしそういう相手がいなくたって、大丈夫。

あなたの気持ちをあなたが真正面から受け止めてあげれば、

あなたの心は安心し、納得するのだから・・・。

 

 

 

<5> プロセス―みたくない自分をみる―

 

何で自分は傷ついたのか――。

何が自分を傷つけたのか――。

傷口を見るのは、慣れないうちはキツイことかもしれないけど

血や砂を洗い流して傷口を見つめることを続けていたら、きっとみえてくる。

それは、”こうあるべきだ”とか”こうでなければならない”という

自分の持っている考え方や観念が

自分を、自分のプライドを傷つけていたのだということが・・・。

例えば、横柄な態度の店員に腹がたつのも、

『店員は客に対して丁寧に対応するべきだ』という自分の持っているその観念が、

自分のプライドを傷つけるのだ。

 

 

自分をみつめる。

自分がみたくない自分の姿、

自分の心の中の嫌な部分・弱い部分・ずるい部分も

目をそらさずに、ありのままにみる。

ちょっぴり厳しい。。。

だけど、それができる強さこそが”光”。

自分の心の中の影(闇)に光をあてよう。

光が強ければ、より明確にありのままを観ることができ

光が弱いと、自分に甘く都合よく自分を観る。

 

 

自分の汚い部分や弱い部分はみたくない。

出来れば、気がつかないフリをしたいよ。

でも、そこから目をそらしていては、

自分の過ちを正すことができないではないか。

過ちに気づいたからこそ、過ちを正すことができるのだもの。

身・口・意を整えるというのは、

自分のありのままをみることなしには成り立たない。

 

 

自分のみたくない部分を自分がしっかりみつめると、

次に同じ出来事が起こったら、自分はどうするのかということにも

しっかりと向き合うことが出来る。

みたくない自分を直視することは、

エゴの自分でいることは

何よりも自分が心地悪く感じているということを、

自分がはっきりと認識できるからだ。

 

エゴの自分と向き合って、

その痛みや心地悪さを充分に感じて味わえば

同じ過ちは犯さない。

その出来事から充分学べば、

私達はまた同じ出来事を体験する必要はないのだから・・・。

 

 

みたくない自分の姿をみる時に、ちょっとしたコツがある。

それは、間違いを犯したエゴの自分を裁かないこと。責めないこと。

それさえしなければ、

ありのままの自分をみることはそんなに難しいことでもないんだ。

 

 

 

<6> プロセス―親との関係―

 

自分と親の関係を見つめ直すのは、

心の奥底に閉じ込めてきたネガティブな思いを解放させるためのもの。

我慢したり、押さえ込んできたりして大人になってきたけど、

なくなっているわけではないそのネガティブな感情を、ただ解き放つため。

例えば、頭では

「そういう時代だったから」

「みんなそうだったから」

「自分のためにやってくれたことだから」

「自分は姉だったから(妹だったから)、仕方がなかったんだ」

とわかっていて、自分ではそれで納得しているような気になっている。

でも、それは頭で、そう思い込もうとしているに過ぎなくて、

意識的にケアしていなければ、心の傷はそのまんま。

 

 

だけど、子供の頃の心の傷を思い出しても、

自分を傷つけた親を責める必要はないの。

親との関係でできた自分の心の傷に気がついて

「親のせいで、そのトラウマで、私はこうなってしまったんだ」

と当然のことのように自分を”被害者”の位置に据えてしまい、

親を責めている姿を見かけることもあるのだけれど、

親との関わりでついた心の傷は

親を責めたって、ホントのところは癒されないよ。

だから、自分を被害者にして親を責めている人は、いつまでたっても本当に苦しそう。

 

”自分が悪かったわけではない。親の側に原因があったんだ”

って知ることで、自分が縛られていた鎖から解き放たれることはある。

だけど、それは親を責めることとは違う

 

 

ただ、自分が自分の傷ついた気持ちをわかってあげるだけでよいの。

あのことで、こんなに傷ついてたんだね、私は・・・・と。

 

 

自分の親が<自分を傷つけた>ということや

自分の親が<あまりいい育て方をしていなかったようだ>ということを認めなければ

始まらないのに、それを認めたがらない場合もある。

それは特に、親のいうことをよくきいてきた人に多いような気がする。

親の過ちを認めてしまうと、

その過ったことをしていた親に従ってきた自分自身というものに

直面しなければならないから。

それが辛いから、目を背けたいのかもしれない。

 

だけど、私は、親との間で傷付くことって、特別なことではないと思うんだよね。

別に自分の親がひどい親だったから、子供である自分を傷つけたということじゃなくて、

思い違いや誤解から傷つくこともあるし

インディゴと呼ばれなくても、どの時代もいつも子供の方がより進んだ魂

自分より未熟な魂である親・大人のすることに子供が傷つくことは、つきものだと思う。

未熟である魂は、より粗い波動の考え方や行為をしてしまうから。

それに

家族になる魂同士は、学びあうのに一番効果的な相手を選んでいるはずだから、

今の地球レベルでは、前世で敵同士だった魂が家族になることも珍しくないし。。。

 

 

親の姿をありのままにみて、自分の心をありのままに感じて

長い間、押さえ込んで伏せてきたネガティブな思いを解放してあげようよ。

当時の親の事情や都合を頭で考えて、物分りのいいフリはナシ!

自分の心の中での作業だもの、自分のことだけ考えればいい。

<いつもこう言われて嫌だった>

<こんなことされて、すごく嫌だったんだ>

って、ただ、ただ単純に自分が感じたこと(感じていたこと)を認識してあげること。

こんなこと言うなんて、うちの親はなんてひどい親なんだろう――

――なーんていうのは、なしだよ。

それは、裁くことになってしまって、ありのままにみることとは別物だから。

 

 

 

<7> プロセス―声―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルな世界を知る前、声がボロボロになった。

いつも喉に異物感を感じ、吐き気がする。

声はかすれた感じになり、痰がからみかけているような変な感じ。

このまま、声が変わってしまうのではないか。

自分の声がでなくなるんじゃないかって恐くなった。

そのことも原因のひとつで、大きな声を出す仕事を辞めた。

 

喉にいつも何かがつまっている。

吐き出したくても吐き出せない。

それは、喉のチャクラがめいっぱいつまっていたのだと、あとで気がついた。

 

スピリチュアルな世界を知り始めた頃も、異物感からくる吐き気はひどくなった。

子供に対して怒りにまかせ罵倒し、後で、こんなことを続けていてはよくないと思いつつ、

また、怒る――その繰り返しで、行き詰まっていた頃のこと。

真っ黒な怒りの波動を吐きまくっていた。

”こんなことのために、この声を与えられたのではない”

と気がついたのは、学び始めてしばらくたってからのことだった。

 

 

そんなわけで、声には関心がある。バロメーターの一つとして。

声もエネルギー。

声にはその人の意識状態がそのままあらわれていると思う。

 

 

 

<8> プロセス―ヒーリングボイス―

 

ヒーリングボイスという言葉に抵抗があった。

〈声が美しくないとだめ〉ってことみたいで。

それって〈美人じゃないとだめ〉っていってるような気がしたから。

 

実際、顔が似ていると、声も似ていることが多い。

顔のパーツというより、骨相が似ていると・・・ということ。

共鳴させる部分が似ているからなのだろうか。

つまり、その骨格だから、その声になっているということだ。

 

 

知り合いに、何千人もの人をヒーリングをしている人がいるが、

その人が「癒される〜〜」と言って、

”癒しの歌姫”と呼ばれている人の歌をいつも聴いていた姿を見ていて

私は違和感を感じていた。

この違和感は何だろう。。。

自分の病気を治せるのは、自分だけ。

医者も薬もヒーリングもその他様々な方法も、道具の一つにしか過ぎない。

ヒーリングボイスといわれる人の声も同様で、それは道具の一つであるが

自分の癒しに一番効果的なのは、自分の声なのではないか・・・。

『この骨格だから、この声』ということは

それぞれ自分の体に、ぴったりの声が与えられているということ。

自分に一番影響を与えるのは、それぞれの自分の声ということ。

――という答えが出てきた。

 

 

自分に与えられている声を、正しく使いこなす必要がある。

 

 

 

<9> プロセス―怒りの声―

 

自分の声の出し方に意識をしてみると、

怒って声を出す時は、喉を使っていることに気がついた。

喉をしめつけている感じ。

喉に力が入る。

 

怒りの言葉を発した時、誰がその影響を一番受けるかというと、それは自分だ。

相手に怒りの波動が届くより先に、自分自身が影響を受ける。

身体の内側に即、共鳴するバイブレーションとして。

そして、自分の発した声は、自分の耳から、音として再び一度自分の身体に入ってくる。

そう考えてみると、

なんて恐ろしいことを自分に対してしていたのだろうか・・・。

『自分がしたことは、何倍にもなって自分自身にかえってくる』の法則が

気がつかないうちに、既に働いているのだ。(宇宙法則恐るべし。)

 

素晴らしくよく響く声で、怒りの声を出したりしたら、

自分の身体の細胞が、一番やられてしまうではないか!

喉をしめつけている感じがするのは、

身体の内部にマイナスの波動が出来るだけ響かないように

自分の身体を守ろうとしている必死の防衛反応だったのだ。

 

――それに気がついて、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。

 

 

 

<10> プロセス―自分を変えようとすること―

 

あなたは、自分を変えようとしていませんか?

 

私は自分を変えようとしていました。

この自分を変えて、愛そのものの自分になろうって。

でも、自分を変えるなんて、なかなかできないのですよね。

だから、とても苦しかった・・・。

 

 

タイトルも覚えていないけど、その頃読んだ本の中に

”行動の仕方をかえて、そのままの自分でいればよい”

という一文を見つけて、

<なーんだ、 自分を変えようとするから、難しいんだ!

自分は変える必要はないんだ。自分の行動の仕方をかえるだけなんだ!>

と気がついたのです。

 

 

例えば、朝なかなか起きられなくて、いつも遅刻ギリギリ。。。

それを早起きできる自分に変えようとするから、難しい。

でも、朝に弱い自分はそのままでいいから、

『目覚まし時計が鳴ったら、とにかく布団から出てみよう』

と自分の行動を変えることに焦点をあてるのです。

行動を変えようとすることは、

早起きできる自分になろうとするよりは、ずっと簡単。

それはエネルギーを効率良く使うので、効果的です。

自分を変えるのではなく、

自分の行動を変えればよいのです。

 

 

自分を変えて、愛になろうとしていた時は

こんなにすぐ怒ったり、落ち込んだり、傷ついたりする私を変えて愛になろうだなんて

絶望的だと思われました。

どこから手をつけていいのか、わからなかった。。。

知識で頭で、一生懸命、〈愛になろう、愛にならなければ・・・〉と思っていた頃です。

それを自分自身については、”そのままでいいよ”と認めて

自分はそのままでいいから、ただ、自分の行動を変えようという

自分と自分の行動を分けてとらえる方法に気がついてから

ずい分といろいろなことが進みました。

 

 

自分を変えるのではなく、自分の行動を変える――

”怒る自分”を”怒らない自分”に変えようとするのをやめました。

 

”怒る自分”を”怒らない自分”に変えようとすると、

結局、怒りを我慢する・押さえ込むことになってしまっている自分に気がつきました。

それは、怒らない自分になったのではなく、

怒りを溜め込んでいる自分になっただけでした。(これは、なお、悪い・・・。)

<怒る自分はそのままでいい。

 でも、怒ってもこういう言い方はやめよう。

 怒っても、いつもつい口から出てしまうこの言葉を使うのはやめよう。

 まずは、そこから始めてみよう。>

怒りの感情を出てこない自分に変えようとするよりも

まずは、怒りの感情を怒りにまかせて、ぶちまける行動を変えることにしたのです。

すると、例えば、怒りのままに怒鳴ると、その自分の怒鳴り声に怒りの感情があおられて

ますます自分の腹が立つことに気がついたのでした。。。

怒ってしまう未熟な自分は、まぁいいことにして

とりあえず、怒りを表現するのに使う言葉を気をつけるところからはじめたら、

結果的には、怒りの感情が少なくなったのです。

 

 

自分を変えようとすることは、

往々にして今の自分の否定が動機であることが多いのです。

<この自分ではダメ。だから、変わらなくちゃ>

と思っていることが多い。

だから、苦しいのです。

ホントは自分は神そのものだから、

自分を変えようとするのは神じゃなくなろうとしていることで、

でも、すべてが神なので、

神じゃなくなるなんてできない――。

無意識のうちに大矛盾が生じています。

この無意識下の葛藤に、多大なエネルギーが消耗されており、

エネルギーが生産的なことにつかわれていなかったのです。

それに、神はすべてを許していらっしゃるのに

こういう自分はダメだと否定する行為は

神の御心とは異なる行為だから、これまた苦しくなって。。。

 

 

 

 

自分は変えようとしなくていいから、自分はそのままでいいから、

自分の行動を変えることだけに焦点をあてる・・・。

その方が、ずっと現実的で効果的なのです。

そして、変えた行動が身についてきた頃には

いつの間にか、自分が少し変わっている――そんな感じです。

 

 

 

 

<11>健康に注意するわけ

 

仮相だから・・・と大切にしてなかった自分の身体を、

もっと大切に扱おうと思うようになった。

何のために大切にするかというと、愛の表現体として。愛をあらわすために。

 

病気になりたくないから・・・と、自分のために健康に気をつけるのではない。

道具として使っていただくためには、この肉体がないことには始まらない。

何の手入れもしていなければ、ベストの状態で神に使っていただくことはできない。

――それに気がついたから。

 

 

 

<12>心臓だけ?

 

「動脈硬化かなり進んでいて、心臓の血管が潰れていたり、こぶが出来てつまりやすく

なっていたりしているので、手術をした方がいい」

身内のことで、病院の先生から説明を聞いていた時、ふと浮かんだ私の疑問は、

〈動脈硬化って、心臓の血管だけじゃないのではないの〜?〉

ということだった。

心臓の動脈だけじゃなくて、体中の動脈が同じ状態になっているのではないか?

そうだとしたら、心臓だけバイパス手術をして、心臓だけうまく血が流れるようにしても

あまり意味がないような。。。

それどころか、動脈硬化によって心臓の血管の血液の流れる量が少ないことは

体中の血管がボロボロであることと、つりあいがとれているのではないか。

心臓のバイパス手術をすることによって、スムーズに血が流れるようになったら、

動悸や息苦しくなることは解消されるのかもしれない。

だけど、心臓はそれでよくても、心臓以外の場所の血管は

今までより勢いよく流れる血液に、結局、耐えられなくなるのではないか――と感じた。

 

 

動脈硬化の心臓から送り出される少なめの血液の量は

動脈硬化の進んだ体中の弱い血管達と案外うまくバランスがとれているのではないか――

――そんな気がしている。

 

 

p.s もちろん、お医者さんが彼の観念の中で”よい”と思う治療を勧めてくださっていることはよくわかっていて、

   そのことは感謝です。

 

 

 

<13>手術

 

”手術”が悪いというわけではないのだが、

手術をする時には、病んだ部分が病気の原因だと思っていることが多く、

自分の意識の方に実は原因があるということに思いがいきにくい。

 

病気の根本の原因は心なのだけれども、

体の一部分が病むと

そこの部分の細胞達は身を呈して、ネガティブなエネルギーを一手に引き受けてくれて

他が病まないように他の部分を守りながら、

本人の心(意識)が変わるのを待っていてくれていたのだと気がついた。

それなのに、そういう細胞達を切り取ることで病気が治ったと考えてた。。。ごめんね。

 

 

 

<14>手術 (2)

                                            2004.5.6up      

自分の心の使い方が病気の原因なのだから

手術をして病んだ部分を切り取ったら、今度は別の場所が病み始めるよ、

心の使い方が変わらないかぎり・・・。

例えば、転移という形で。併発という形で。合併症という形で。再発という形で。

薬を飲んで、症状を一時的に押さえることはできても、

心が変わらなければ、本当に治ることはないから。

手術をしたり治療をしたりする過程で

今までの生き方を見つめなおしたり、気づきがあったりして 

心の使い方が、今までの使い方と変わった時 治るのだと思う。

だから、手術や治療が必要のないものというわけでもない。

〈手術や治療で治る〉のではないけど

手術や治療という体験が深い気づきのきっかけになる可能性はあるから。

 

 

 

<15>レントゲン

                                     2004.5.6up

私が子どもの頃に比べて、健康診断が盛んになったような気がする。

健康診断の種類も増えている。

病気の早期発見にこだわりすぎて、放射線を浴び過ぎていないか。

病気を早期発見しようとして、放射線を浴びているつもりが

傷つき病んではいたけれど、おとなしくしていた細胞たちが、

検査で放射能を浴びたことによって、急に活動を活発化し始めるということはないのかな。

 

自分の心の使い方が病気の原因なのだから

健康診断など受けなくても、

自分の体に不調があるはずか・ないはずかは、自分が一番よくわかる。

 

 

 

<16>神経を抜く

                                          2004.5.6up

虫歯の治療で、歯の神経を抜くという行為がある。

子供の頃、初めて『歯の神経を抜く』という言葉を聞いた時は、びっくり仰天。

〈神経を抜くなんてできるの?〉

〈そんなことをして、体にとって何の影響もないの?〉

だけど、いつの間にか 疑問に思った気持ちも薄らいでいった。

だって、まわりの大人達は何の疑問も感じずに、

ひどい虫歯の治療にはそうするものだと思っていたみたいだったから。

 

どうして他の部分が病んでも神経を抜いたりしないのに

歯だけは、簡単に神経を抜いてしまうのだろうか。

そんなことをして、

こんなにも精密に緻密につくられている肉体のバランスは崩れないのかな?

 

 

 

<17>長生きor短命            

                                       2004.5.6up

今のこの世界では

長生きがよくて、短命が悪いことのように思われていて、

”長生きをしたい”と願う人が多いように思う。

それは”死”というものに対して恐怖や

死んだ後どうなるかがわからない――という自分が知らない世界への不安感からなのか。

 

 

『魂を磨くために生まれてきたこと』を知っている人にとっては

長生きをするということは、

学ぶ時間がたくさんあるということ。

   だけど、時間がたくさんあるからといって

   たくさんのことを学べるとは限らない。

   多くの体験をしたからといって

   たくさんの気づきがあるとは限らない。

   たとえ少ない体験でも、多くの気づきが得られれば

   この世で長く生きている必要もないってことなのかもしれないなーと思う。

 

『魂を磨くために生まれてきたこと』を知らないで生きている人にとっては

長生きをするということは、

苦しむ時間が増えるだけなのかもしれない。

   でも、生まれてきた理由も何も知らずに エゴを積み重ねて生きていても

   死の瞬間その時までは、気がつく可能性はあるということだから

   やっぱり長生きすることは、

   気がつくためのチャンスが多く与えられているということになるのか。

   だけど、生きるということは

   自分がしたことが自分にかえってきているという過去の結果でもあり

   今、自分がしていることが未来に自分にかえってくるという未来の原因でもあるので

   そのことを知らずに

   好き勝手にやりたい放題をしているのならば

   長生きをすることによって

   いずれ必ず自分に返ってくる苦しみの原因をいっぱい創ることになるから、

   長生きじゃない方がよいのかもしれない。

 

長生きがよいとも、短命がよいともいえないんだよなぁ。

 

 

 

<18>頑固な人の細胞は。。。

                                  

心の使い方によって、なりやすい病気があると言われる。でも、それだけじゃなくて

例えば、頑固な人の細胞は、病気になったあとも頑固だということがあるのかも。

治療や薬に対して激しく抵抗するっていうか、

治療のために体に入ってきた薬に対して、

”絶対に負けないぞー”って病んだ細胞たちが意地を張って頑張っちゃう・・・とか。

その人の意識が変わらないと、

指令を受ける細胞たちも変わらない。

司令塔であるその人の意識が変わった時、細胞たちも変わる。

 

 

 

<19>自分が気になること

 

なにも自分がやらなくてもいいのかなと思うことでも

自分が気になったことは、やることにしている。

自分が気になったことなのに、気がつかなかったことにして

あとで何か問題が起こった時に

自分が気がついた時にやってたら、こんなことにはならなかったのに・・・と思うのが嫌だから。

見て見ぬフリをすることは、一見するとラクしているように見えるけど、

自分の心の一部に穴があいて

そこからエネルギーがどんどんもれてしまっているようなもの。

心に棘がささって、ちくちくする。

それなのに、その自分の心に気がつかないフリをするのは、自分に嘘をつくことでもあるので

実はとてもエネルギーを消耗してしまう。

自分に嘘をつくことを続けていると、

自分が自分にOKを出せなくなって、自分が嫌いになってしまうから。

 

 

自分の中で流せることは

そのことが気になる他の人に、お任せをする。

何でもかんでも気にしていたら、大変だもの。

むしろ、一人一人の気になることが異なっている方がよいのだと私は思う。

だって、その方が全体が網羅されるでしょう?

きっと、一人一人の気になることが異なっていて

一人一人が自分の気になることを行動にうつしていけば、

素晴らしくなるんだろうなぁ、この世界は・・・・

と思いながら、

私は自分が気になること(部分)をやる。

 

 

 

<20>プロセス―気持ちの整理の仕方―

 

 
(段階1)自分の心の内を人に言えず一人で思い悩む ―――→(2)愚痴を言う
                                            
      ↓                              

(段階2)人に話す

   ・人に話すことで自分の心を整理する。

  ・人の意見をきくことで自分の心を整理するヒントを得る。

  ・自分の気持ちの持ち方をどう変えればよいかを
   意識しながら、人に話す。

      

(段階3)エゴの助けを借りながら ―――――→(4)(5)エゴに騙されたまま  
                                  自問自答で 自分に甘く  
  
     ・自分の心を整える。                自分に都合よい答えを出す。 
                              ・そのことに自分では気づかない。
     ・自分の心の動きをみる。             

     ・善悪で判断することをやめる。

      ↓

(段階4)エゴに騙されずに

     ・自分の心の動きをみる。

     ・ありのままをみる。

      ↓

(段階5)自問自答で 答えを出せる。


                       ☆

 

(1)「自分の悩みを人に話さない」  と  「自分の悩みを話せない」 は違う。

  プライドが邪魔したり、人にどう思われるかを気にしたり、

  自分だけがこんなひどい目に遭っているという自己憐憫から抜け出せずに

  悩みを話せないのなら、それは自分を苦しめること。

  そういう段階なら、まずは人に話せることが一つの成長だと思う。

 

(2)「人に話す」  と  「愚痴を言う」   は違う。

 

(3)初めは、落ち込みから立ち直るために エゴの力を借りることもある。

  例えば、なんでもかんでも『この苦しみは神からのプレゼントだ』という言葉で

  自分を立て直そうとする。
  
  勿論、苦しみを乗り越えるところに成長があるのは、確かだが

  そんなに苦しみばかりがやってくるのは、自分が原因をつくっている

  というところには、目を向けられない。

   貧しき者は救われる、貧しい者だけが救われると解釈するようなところ。

 

(4)初めはエゴの力を借りるけれど、

   いつかはそれを手離さないと次の段階には進まない。

 

 

 

<21>愚痴を言うこと

 

【愚痴】 言っても仕方がないことを言っては嘆くこと       岩波国語辞典


        

人に話して、

人に意見やアドバイスをもらっても、自分の考え方を変えようとする姿勢がなければ

「言っても仕方がないこと」に 自分がしてしまっているのではないか。

つまり「言っても仕方がないこと」にするかどうかは、自分次第。

 

〈愚痴の場合〉 

 ○吐き出しても吐き出してもキリがない。
   ・あの人にもこの人にも同じ話をしたくなる。
   ・何度でも同じ話をする。

 ○人のしたこと、言ったことに焦点をあてて話している。
   ・悪いのは自分ではないと思って話している。
   ・ひどいの●●(例えば「夫」)だと思っている。
   
 ○自分の中だけに溜めてはいないが、人に自分の心のゴミを吐き出すだけで
   自分の努力で状況を変えようとする気がない。

 

〈愚痴ではない場合〉

 ○人に話すことで自分の心を整理しようとしたり、

   人の意見をききながら、自分の心を切り替えるきっかけにしようとしている。

 ○自分の気持ちやモノのとらえ方に原因があることを知った上で、話している。

 ○●●(夫)のしたこと、言ったことに反応している自分に 焦点を当て話している。

 

 

単なる「愚痴」にするかどうかは、自分次第。

 

 

 

<22>作り笑い

                                               2006.7.30up

心休まらない人の輪のなかで、

興味のない会話に対してする自分の作り笑いを意識するようにしよう。

あなたにとって窮屈な、不自然な筋肉の動きは、

そうすべきと感じて無理におこなう肉体的な不快感である。

あなたが経験するこの内部の感覚は、内なるエネルギーを多大に浪費するのだ。

             『あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法』  コリン・ターナー

 

 

 

“笑顔の効用”という考え方の中に、

作り笑いでも笑えば免疫力が上がるというものがあるが

社交上の笑い――つくり笑いや愛想笑いなどは、私はエネルギーを浪費するように感じる。

人に対する作り笑いは

「鏡の中の元気のない自分に微笑みかける」のとは、別物のように思う。

お客さんに気持ちよく過ごしてもらうために・・・というところからずれないで

笑顔でいられれば、それはすごいこと。

笑顔、笑顔という人ほど、

頑張って無理して、本当の自分の気持ちと向き合っていない感じがする。

 

作り笑いをしないでいられる人と過ごしたい。

 

 

 

<23>病気はない

                                               2007.10.13up

病気はない。

あるのは、神が備えてくださった自然治癒力だけ。

集団食中毒というものを考えてみると―――。

体にとって害のある菌が入ってきている時は

誰も気がついていない。

食べた瞬間に

「今、サルモネラ菌が体に入った!」と、気づく人はまず、いないから

皆が菌入りものを食べて、集団で食中毒が起こるのだと思う。

そして、体は、この入ってきた菌を体の外に出そうとする。

嘔吐・下痢・発熱などの方法で・・・・これが自然治癒力。

だから、自然治癒力が働いて症状が出る前の方が

実は体にとっては危険な状態なのだ。

それなのに、

体に有害なものを体から排除しようと

自然治癒力が働いている状態のことを

誰かが“病気”と名付てしまった。

そして、本人が自然治癒力が働いていると見ないで

病気と見た時に、それは創造される。

 

自然治癒力が働いている時は、確かに苦しい。痛い。

でも、それに焦点をあてない。

 

 

 

<24>痛み

                                              2007.10.13up 

痛みがあるのは、

今、自然治癒力を働かせているのだから

『あまり動かないで。無駄にエネルギーを使わないで。』

というサインである。

 

 

 

<25>頭で食べない

 

『ビタミンをとらなきゃいけないから、果物を食べる』というのは、

頭で食べていること。

なんとなく、みかんが食べたいなーと思って食べるなら

身体の声をきいていること。

頭で食べるものは、身体にとって害になる場合もある。

 

戦後入ってきた栄養学の影響だが

栄養素のことを考えて食べるのは、頭で食べることで

とても不自然なこと。

頭で栄養素のことを考えたりして食べなくても

自分の体の声がききとれるようになれば

必要なものを必要な時に

ちゃんと食べたくなる・・・・というように出来ている。

 

 

 

 

 

 
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                                                                                                最終更新日 : 2007/10/13