子育ては自分育て

 

「子育て」っていうけれど、本当は子供を通して自分を育てているのだと思うのです。

自分と親との関係、

知らず知らずのうちにはめ込まれた観念、

自分が受けた心の傷、

そういうものと直面して、自分を見つめなおさざるを得ない。

ちゃーんと、子供が問題提起をしてくれて

立ち止まらざるを得ない状況をつくり出してくれる。

もっとも

気がつかない人も、目をつぶってみないようにして通り過ぎようとする人も、

たくさんいるけれど・・・。

今までの時代なら、それも出来たでしょうが、この時代は、そうもいかないだろうな。

”今までの総決算”って感じで、光が強くなっているからみんな炙り出される――。



だからといって、子供がいないと学べないってことではない。

その人はその人なりに、別の方法を使って学んでいるだけのこと・・・。

 

子供を育てるって結構、傲慢な言葉。

親になった人は子供に育ててもらっているのです。

もっとも子供だけに限らない。

部下でも後輩でも

誰かを育てるということは

自分が成長する機会を与えられているのです。

(2002.10.26up)

 

 

(41)女性性への否定  

 

下の子どもが少女から女性へと、少しずつ変わっていこうとしている。

その姿を見ていて

娘への、今の私の気持ちと全然違う扱い方だったなと思い、

私はこの変化の時に、母親から女性性を否定されて育てられたことに初めて気がついた。

変化に戸惑って不安定な時に

手を貸してくれないばかりか、その変化を忌み嫌うような言動。

例えば、一番わかりやすいのは

生理が始まったことを誰にも言うな、友達にも言うなと口止めされたこと。

6年の三者面談の時に担任の女性教師に生理が来ているかどうか訊かれた時も

母親は嘘を言った。

隣にいた私も自分が嘘をついたようで、ずっと苦しかった。

なかなかブラを買ってもらえなかったり、その他にもいろいろ。

心身の大人への変化を喜ばしいものとしてではなく、卑しいものとして扱われた。

そういうことが、妹や私の状態につながっていたのだと気がついて、

心の中に黒いものがわいて来る。

消そうとしても、なかなか消えない。

 

だけど、

自分がしてもらいたかった思春期の手助けを

自分の娘にすることで、自分が癒されていくような気がする。

子ども時代を生き直しているような気がする。

 

 

 

(40)第一子の高校受験         08.8.16up 

 

以前の日記にも書いたけれど

自分の高校受験の時、不本意な高校を受験した。

中学時代は体調が悪く、いろいろな病院を回った時期でもあり

秋になって丁度、志望校を決める頃に成績が下がった。

それで、面接では志望校を変更させられることになった。

体調が悪いため、偏差値よりも“家から近い”という基準で選ぶことになり

志望校は、かなり下げることになった。

自暴自棄になっている時期でもあり、担任の意見に逆らう気力がなかった。

すべて投げやりで、すべてどうでもよかった。

でも、そこで踏ん張って自分を押し通せなかったのは、担任の説得ではなく

親に背中を押してもらえなかったから。

「成績も持ち直しているんだし もともとの志望校を受けていいよ、

万が一の時は私立があるんだから・・・」と

親に背中を押してもらいたかった。

背中を押してもらわないと決断できなかったのは、私の弱さだけど

当時の私は心身ともにとても弱かったから。

でも、親からは「私立には行かせない」としか言ってもらえなかった。

結局志望校を下げて受験したが、当日の入試は行きたかった高校も楽勝の点数だった。

 

そして、私は心のどこかで恐れていた。

子どもの高校受験で、自分と同じ状況になった時、

子どもがチャレンジする方を選ばせてやることができるのか。

私は子どもの背中を押してやることができるのか・・・。

自信がない。できれば、そういう状況を体験したくない。直面したくない。

―――でも、神様はちゃんとその状況をつくってくれた。

 

 

子どもは、私が成績を落とした時と同じ時期に成績を落とした。

この成績では危ないと最終面接で言われる。

面白いくらいに、自分の過去と重なる。

私の時と違うのは、受験生である息子自身は健康で、

丁度、息子が成績を落とした時期に

彼の叔母(私の妹)がガンと診断され、家の中が落ち着かなかったということ。

例えば、学校の進路説明会の日に

妹のセカンドオピニオンの診察日と重なり、私が出席できなかったりしたのだ。

でも、

結局、息子は自分の意志を通し、第一志望を変えることなく受験して合格した。

始めは不安に負けて

「万が一、落ちたら

附属中から行く人はほとんどいないかもしれない××高校に行かなきゃいけないんだよ。

でも、志望校を一つ下げて公立の受験すれば、合格の確率も高いし、

あの高校なら受ける友達もいっぱいいるでしょ。」

と、息子のチャレンジを邪魔しそうになったこともあったけど、

これではやはり自分の親の二の舞だと、ぐっとこらえて。

子どもの勇気に助けられ、なんとかクリアできた気がする。

 

 

 

(39)思考や態度に影響を与えるもの 

 

毎晩どれだけの時間を、新聞を読み、テレビでニュースやコマーシャルや、

バイオレンス番組をみているかを考えてほしい。

私たちは毎日当然の如く、自らを恐怖や痛みや絶望や破滅や苦悩にさらしているのだ。

平均的な人は、家でくつろいでテレビを見ながら、一晩で三件の殺人を目撃している。

それは年間1000件の死に値する。すべて勘定される。

それは、あなたの思考や態度に影響を与えるだろうか。もちろん、与えるのだ。

                『あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法』コリン・ターナー

 

 

以前はサスペンスドラマが好きだったけど、

だんだん観るのが、きつくなってきた。

アニメの『名探偵コナン』も子供と一緒に観てると面白かったけど

こう毎週毎週、殺人事件が起こり、アニメといえども死体を見ていると

子供に刷り込まれないかと思って、積極的に見ることをやめた。

ホラーものなどは、特にその波動の影響を受けるような気がしていたが

やっぱり気がつかないうちに自分の思考や態度に影響を受けているのだとしたら

吸収しやすい子供時代は、大人たちよりも もっともっと影響を受けやすいだろう。

もっと積極的に意識的に

大人達は子供の目に入るものを選ぶことをした方がいいと思う。

 

 

 

(38)立派な社会人って?                  

 

懇談会での先生のお言葉。

「立派な社会人を育てなければなりません。

(自分の子供が)ニートとかなったら、困るでしょ」って。

 

立派な社会人って何?

『歯車の部品、規格にあったよい部品をつくりましょう』と言われてる気がした。

ニートと呼ばれる人たちを生み出したのは社会だし、

そういうふうに育てたのは大人だし

もしかしたら、その先生の教え子の中にもいるかもしれないのになぁ。。。

 

 

 

(37)チューインガム一つ           

 

人は、 誰でも 清らかな部分を持っていて

過ちを犯した時に、誰にも見つからなくても、誰に罰せられなくても良心が咎める。

悪いことをしてしまった時、それが過失であっても

ちゃんと自分の心の痛みを感じることが大切だと思っている。

例えば、子どもに謝らせないで、親が代わりに謝ってしまったり

「うちの子供は悪くない」とヘンにかばってしまったりすると、

子どもは自分のしたことに対しての自分の心の痛みを感じる機会を失ってしまう。

過ちを犯した時に、心の痛みを感じることをしないことを積み重ねていくと、感覚が麻痺して、

人を傷つけたり、殺めたりすることすら、あまり何とも感じなくなってしまうのではないか。

チューインガム1個の万引きで(実際に自分が万引きしたわけではなくても)ここまで苦しむ

ということを体験していれば

この先、悪いことはしないだろうなと思った。 

「善いことと悪いことの区別をつけさせる』のではなくて、

自分の中の清らかな部分が痛みを感じるかどうかーー

そういう基準を持てたらいいのではないかな。

子どもに、ここまで直面させた大人たちもすごい。

大人にとっても勇気がいることだから。。。

我が子の姿で、自分を見つめ直す。

自分の育て方に原因があったと認めるのは、とてもきびしいことだから。。。

 

 

            『チューインガム一つ』
                          灰谷健次郎  理論社

是非、“大人から子供に読んであげてほしい”と思っている本の一冊です。

 

 

 

(36)「お名前は?」                         

 

 子供と出会ったとき、大人はまずあいさつをします。ここまでは大人としての当然で対等な

態度です。しかし、次の瞬間から対等でなくなります。「名前は?」と子供の名前を聞きます。

もう少していねいに「お名前を教えてくれる?」と言うこともありますが、どちらでも大差ありま

せん。本当なら相手の名前を聞くときには、自分の名前から名乗るのが常識ですし、

相手が大人の場合は、たいていの人はそのようにしています。ところが、子供だと

対等感を失うので、このような失礼なことをするのです。

 

 私たちの場合は、子どもに名前を聞くときには必ず自分のほうから名乗ります。

そのときに、「私は東山紘久といいます」と言うのか、「ぼくは、ひろちゃんです」というのか、

「ぼくはみんなからひがしやま先生といわれています」と言うのかは、その子どもの年齢と、

今後どのような関係でその子どもに会っていくかによって変わります。

 興味深いことに、自分のほうから先に名乗りますと、子どもは自分の名前を自発的に

教えてくれることが多いのです。子どもは実存的で、対等感をきちんともっていることに

いつも感心させられます。「ぼくは、ひろちゃんといいます」と名乗ると、「ぼくは健ちゃんです」

とそれに対応する呼称を教えてくれるのです。アメリカで大人同士の自己紹介のしかたと

同じです。愛称で呼んでくれと言うと相手も愛称になります。次から「ひろちゃん」「けんちゃ

ん」で、友だちになれるのです。これが子どもと仲良くなれる最初のあいさつです。

 対等感を失う第二の原因は、必要のない質問をすることです。いちばん多いのが

「あなたはいくつ」と年齢をたずねる質問です。子どもですから、だいたいは見ただけで

わかります。三歳か四歳か五歳かといった厳密なことは、知能テストでもするときでない

かぎり必要ありません。年齢を聞くのは、よほど必要でないかぎり失礼にあたります。

大人にいきなり年齢を聞くような失礼なことをする人はまず いないでしょう。

子どもだって同じです。

 子どもをよく観察していますと、歳を聞かれたとき、一瞬躊躇したり、怪訝な表情をしている

のですが、これを見逃す大人は多いようです。

                            「プロカウンセラーの聞く技術」 東山紘久

 

 

ぴっぴは、自分が初めて会う人に自分の名前をきかれた時に、抵抗感を示していた。

歳を聞かれても困ったような顔をしてあまりはっきり答えないので、

無理に答えさせる必要もないと思って、私がかわりに答えていた。

そうかー。そういうことだったんだ。

確かに自分は名乗らず、人に名前を尋ねるなんて、なんて失礼なことだろう。

そういえば、子どもに名前を答えさせておいて、自分は名乗らない大人も多いと思う。

親も先生も"知らない人に話しかけられても、付いていってはいけない"と教える。

同時に、初対面の人に、名前や歳を聞かれたときに、はっきり答えることも子どもに求める。

親の知り合いであっても、子どもにとっては 知らない人なわけだから、

初対面で名前を聞かれたり、歳を聞かれたりして、躊躇しても当然なんだなと思った。

 

自分は名乗らないまま名前を聞いたり、歳を聞いたりしないよう、

同等の存在としてみることを私自身も気をつけようと思う。

 

 

  

(35)告げ口                   

 

低学年までは、何でもかんでも先生に言いつけるけれど

だんだん大きくなってくると、友達との関係を優先させるのか、先生に言った方がよいのか

子供自身も迷うようになってくる。

友達間の意地悪もトラブルも、子どもたちは皆結構知っていて

教師だけが知らないことも多い。

でも、友達のことを何でもかんでも教師に告げ口するようでは、

友達との信頼関係は築きにくいと思うし

でも、黙っていたことで大きなトラブルに発展してしまったら・・・・。

 

本でこんなようなことを読んだ。

告げ口――知らせることにより、誰かを困らせるだけなら 言わなくてよい。

報告――知らせることにより、誰かが困ったことや危険から救われるなら 言う。
      知らせることが相手のためになると思うならば 言う。

   

これを基準にすれば、わりと判断しやすいと思う。

学校帰りにコンビニによって買い食いしていることは、別に言わなくていいってことだ。

 

 

 

(34)親の姿                    

 

精神的な本をたくさん読んでいるから、言葉は前向き。

でも、それは身についていないから、実際の行動は後ろ向き。

人が落ち込んでいる時には、本で読んだ前向きな言葉をいっぱい並べて励ます。

でも、自分にとって都合の悪い事が起こると、人のせいにばかりして

自分がそのことを引き寄せていると、認めようとしない。

 

言葉が前向きなだけでは、大人同士では誤魔化しあえても子供には通用しない。

子供は、親の言葉を真似するのではない。

親の生きている姿そのものを真似ていく。

 

 

 

(33)まわりくどい表現           

 

たとえばため息、しかめっ面、こみあげる笑いをこらえる笑い、声の調子、

いろいろあるでしょう。

依存心の強い親は、子供にこのような子ミュニケーションをするのです。

「そんなことをしてはいけません」というかわりにため息をつくというまわりくどさ。(略)

依存心の強い人間が、机をいかにも重そうに運んで、独り言であるかのように

「重いなあ」と言うときは、手伝ってくれという意味です。

「おまえはこんな私が苦労しているのにそんなところに座って」と、責めているのです。

しかし、自律性を獲得した人間が、重そうにして机を運び、「重いなあ」と言うときは、

本当に重いのであり、その意味しか含んでいません。

手伝ってもらいたければ「手伝えよ」といいます。

                               「アメリカインディアンの教え」加藤諦三

 

 

幼稚園や小学校では、こういう表現をする先生が結構多かったような気がする。

「何々しなさい」という命令の言葉を使うのはよくない という考え方があるためか、

子供が察して動くように、遠まわしの表現をする。

でも、やっぱり思い通り動かそうという思いが根底にあるのだもの、

いやらしい表現だと思う。

 

自分の話す言葉は、言葉の意味しか含まないよう心掛けたい。

 

 

 

(32)呪いの言葉
日頃、あまり面倒をみないので、夏休みくらい・・・と子供の勉強をみたのだけれど、

つい口をついて出る自分の言葉の表現は、とてもひどかった。

そして、それは、自分が子供の頃に親からよく言われていたことだった。

例えば、子供の姿勢が悪く、ノートに目が近い状態の時に

「姿勢が悪い!」

と言ったり、

「そんなことしてると目が悪くなっちゃうよ」

と言ったりしている自分がいた。

言葉が実現するとしたら、

これは呪いでしかない。つくづく反省した。

無意識に出る言葉が自分が親からかけられた呪いの言葉だとしても、

いつまでも親のせいにばかりしていられない。

親からかけられた呪いは、私のところで断ち切りたいと心から思う。

 

 

 

(31)友達

      

低学年の学年末の懇談会に出た時、

どのお母さんも友達が増えたとか、友達とよく遊んでいるとかいうことを

一年間の成果のように言っていた。

『友達と遊ぶこと』『友達がたくさんいること』がよいことのように大人達から言われることが、

自分の気持ちにウソをついてまでも友達と付き合うってことにつながっていくような気がして、

切なかった。

 

 

 

(30)ゆとり教育      

    

矛盾

                          無子

世の中が急変している

まるで 女性が働くことが

当たり前のように

世界が動き始めている

 

でもその一方で

子どもを「家庭に返す」という

ゆとりの教育が始まって

 

誰もいない家に帰された

子どもたちは

一体どうするのだろう

 

 

ゆとりの教育が始まって、手探りだった先生方も少し慣れた頃だろうに

学力低下だとかで、また、御上の方針が変わることになった。

変えるつもりならば、よい機会だから

教科書は、私達の子供の頃のような教科書に戻した方がいいと思う。

教科書に問題の解き方の説明も、練習問題も書いてあったから

参考書がなくても、教科書さえ読んでいれば、充分理解できた。

今は、絵ばっかり、空白ばっかりで、中身がない。

経済のために塾や教育産業を繁盛させようとして、わざとしているのかなーと思うほど

教科書を読んでもわからないように、つくってある。

減らすという名目で、内容を抜き過ぎてしまっているから

ますます理解しづらいようになっている。

だから、”教科書を理解するための参考書”のセールスの電話がよーくかかってくる。

 

こんなにひどいカリキュラムにするってことは

子どもの能力を低下させようとする意図があるのではと思うほど。

でも、他国より悪い結果が出て、あわてて方針を変えようとしているってことは

作意はなかったのかな???

 

 

 

(29) 自分の気持ちを伝えるクセ               05.1.30up 

 

親子喧嘩

                            無子

 

憎らしい と本当に思っているわけではないけれど

どうしても ナマイキな態度に腹が立つ

気が強くて 男勝り どうしょうもなく短気で

気がつけば 私自身の子供時代とそっくりで

思いっきり 喧嘩して

親子ともに負けず嫌いで

お互い 言いたい事はちゃんと主張し通してすっきりさせる

 

子供のことは しつこいくらいに遠くからでも目を光らせて

ちゃんと 言葉にして向き合わないと 壁ができてしまう

コミュニケーションは大切だから

相手を尊重しつつ

自分の気持ちをしっかり伝えられるよう

クセをつけておく必要がある

 

 

自分の気持ちをしっかり伝えられるかどうかは、そういうクセをつけたかどうかなんだー。

なんだか、思わぬ方向からボールをなげられた感じ。ストンと心に落ちた。

子供にも自分の気持を伝えられるようクセをつける必要もあるけれど

まずは、私自身が自分の気持ちを子供にちゃんと言葉で伝えているかどうか・・・。

他人には、自分の気持ちを伝えるよう心がけていても

子供には――最近、指図する言葉ばかりだったかも。反省。

子供は鏡。みていて腹が立つ部分は、我が姿。

 

 

 

(28) 子供を守る方法                           05.1.30up 

 

大人も子どもも

やさしそうな言葉や見かけに騙される。

赤ちゃん時代には感じられたことが、大きくなるにつれ 感じられなくなる。

 

感受性豊かなまま育てること――子供を守る方法。

 

 

 

(27) 恥ずかしいという気持ち                       04.6.6up

 

生まれたての時は、多分、誰も持っていない恥ずかしいという気持ち――。

 

「そんなことをしてたら、恥ずかしいでしょ」

と 私はずい分、親に言われていたと思う。

例えば、「女の子なのに、こんな散らかった部屋で、恥ずかしいでしょ」というように・・・。

「別に恥ずかしくなんかないもーん」と心の中で言い返していた。

今思えば、

「必要なものをなくさないように片付けよう」「使い勝手がいいように片付けよう」

と言われた方が、きっと効果的だったよね。

 

 

 

恥ずかしいという感情は、人の目を意識することから生まれる。

『人にどう思われるか』を気にさせることで、

子どもの自由な行動を制限・制約しようという大人達の作戦だったのだと思う。

ところが、その効き目があり過ぎて

人目を気にして、あるがままで生きられなくなっている自分自身がいることを考えると

「恥ずかしいから、○○しなさい」とか

「恥ずかしいから、○○しないで」とかいう言葉は、

子供に対して、初めから使わない方がよい言葉なのかもしれないと気がついた。

そうすれば、実体があるような、ないような”人目”というものに縛られることなく

自由でいられるのかもしれない。

自分のことを思い返してみても、

人からどう思われるかを意識した時に、恥ずかしさを感じるように思うもの。

例えば、

家の中で自分一人の時にコケた時には、素直に痛みを感じることが出来るけど

街中でコケた時には、痛みよりも恥ずかしさの方が勝っていたりするように・・・。

 

 

この間、久しぶりにお出かけのスカートをはいたピッピに

「パンツが見えると恥ずかしいから、じっと座っているか、若しくは重ねばきをはくように」 

と私は言った。

何の疑問もなく、”恥ずかしいから”という言葉を使った。

だけど、”恥ずかしいから”という言葉は、親にとって 手抜きの言葉だなぁと気がついた。

恥ずかしいからという言葉の部分に、別の言葉を入れて話すことができるのだ。

”恥ずかしい”という言葉を子どもに使う時って、

「皆がおかしいと思うことをあなたはしているのよ」と脅かし、

自分の考えを押し付けて、子どもを自分の都合よく動かそうとしていたというわけ。

「それは恥ずかしい」と言われた側は、自分のものじゃない感覚だから、

はっきりとした反論はしにくく、丸め込まれるような感じになる。

「それは恥ずかしいよ」と多く言われながら育つほど、

人目ばかり気にする人間になるのかもしれないなー。

 

子どもの格好がヘンだったら、

「そんな恥ずかしい格好をして・・・」「そんな格好してたら恥ずかしいでしょ」と言わずに、

「その格好は、お母さんの好みではない」

「その格好は、見ていて不快に感じる」と率直に感想を言えばいいんだね。

 

 

”上手くいかなかったことからこそ学べる”という点から考えてみると

〈失敗したら恥ずかしい、上手く出来ないから恥ずかしい〉という気持ちは、不必要なもの。

”恥ずかしい”という気持ちは、もしかして、必要のないものだったのかな?

 

 

 

(26) 一人に一つずつの常識  

 

常識って時代によって異なるものだと思います。

戦前・戦中・戦後――つい5,60年前だけを見ても、常識は変わったのではないでしょうか、

それぞれの世の中にあわせて。

ならば、同年代なら全く同じ常識を持っているかというと

それもそうとは言い切れないような気がします。

同年代の人の集まりにも、「あの人、ちょっと常識がないなぁ」と思う人はいます。

そういう時には、大体

「あの人、ちょっと変わっているから」

と表現することが多いと思うのですけれど。

年代が同じであっても、育った環境によって常識が異なるのだと思います。

 

それならば、きちんとした定義のない不確かな常識に従うよりも、

自分の良心を大切にした方が間違いがないと思います。

 

 

『これくらいは常識だ』という考えを持っていると、

自分の思っている常識の枠からはみ出している人のことを腹立たしく感じたり、

「あの人は、常識がない!」

と裁いたりしてしまいます。

いつも自分が腹を立てていたり、不満に思っていたりしていなくてはならないので、

結局、自分が苦しくなってしまう・・・。

自分が常識だ、当然だと思っていることでも、

この人の常識の枠の中に入っていないからこういうことをするのだ――

自分の「常識」をふりかざしても人には効力がない――ということに気がついてから、

〈これくらいわかるのは当然だ、常識なのだから・・・〉

と、心の中で相手に要求することをやめて

自分の要望として、言葉で相手に伝えることにしました。

そのほうが断然関係がスムーズ!

 

私は、親から”常識”という言葉で縛られてきたけれど、

子供のことは”常識”で縛らないでいられるように

まずは、自分の縛られているものを解こうとしている真っ最中。

〈常識としてどうか〉より、〈人としてどうか〉〈神としてどうか〉ということを大切にしたい。

自分自身に問うて、答えを出していく力を――。

 

 

 

(25) 親の役割 

子供の頃は、何でもできそうな気がしてたと思う。

でも、自分の希望を大人に話すと

「そんな夢みたいなこと言って・・・!」

「そんなの、無理に決まっているじゃない」

と、ことごとく潰されていく。

私は、そうされてきた。

だから、よほど気をつけてないと無意識のうちに自分の子供にもそう言いそうになる。

 

「世の中、そんなに甘くない」という言葉で自分に言い訳しながら

あきらめて生きている大人は、無意識のうちに

子供にもあきらめて生きることを強いる。

自分のネガティブさで、子供の持っているモノを潰さずにいかにそのまんま育てていけるか

――私の学びである。

 

 

 

(24) 大人の務め
        (
大人の役割B)

 

狭い道でのすれ違いざま。

軽くよけて道をあけてくれるツッパリ風の少年もいる。

まったく譲る気配をみせない真面目そうな服装の少女もいる。

にらんだり、文句を言ったりする子もいる。

 

にらんだり、文句を言ったりする子って、

きっと自分より年上の人から、そうされた体験があって、

狭い道でぶつかりそうになった時には、

とにかく”先に文句を言ったモン勝ち”と学習したのかもしれないなーと、思った。

 

とても急いでいたのかもしれない。

嫌な事があって、気分がむしゃくしゃしていたのかもしれない。

でも、いずれは自分にかえって来るのだし、

大人の姿から子ども達は学ぶのだから・・・。

自分がされて嫌な気持ちがすることは、しない方がいい。

それは大人の務めでもあるような気がする。

 

 

 

(23) キレることの意味
           
大人の役割A) 

 

キレるのは、食べるものの影響だの、ゲームの影響だの、環境ホルモンの影響だの

磁気の影響だのといろいろいわれている。きっと、どれもそうなのだろう。

でも、どんなに「キレることはよくない」と言っても、キレるものはキレてしまうのだし、

キレる状態をつくった原因を今すぐ取り除くことは難しいのだから、

この「キレる」というものとうまくつきあっていくことを考えたらいいのではないかと思う。

”今の子供はキレやすいから、注意できない”などともいわれるが、

見方を変えてみてはどうだろう。

注意する必要はないのだ。

注意するということは、『正しい・間違っている』が基準になっている。

注意する人は、当然、相手が間違っていると決めてかかって注意するものだ。

注意される方は、(たとえキレなかったとしても)面白くない。

家族同士の間のことを考えてみれば、わかり易いと思う。

親の言うこと・夫の言うこと・妻の言うこと――それが正しいとわかっていても、

素直に「ハイ」と受け入れるのは、なかなか難しいもの。たとえ相手の言うとおりでも、

「そんなこと言ったって・・・」と反論したい気持ちがムクムク湧き上がってくる。

それを見ず知らずの人に言われて、なおさら、素直にきけるわけがないではないか。

 

キレるということ――それは、『正しい・間違っている』『〜〜するべだ』

というモノの見方への反発のあらわれであるような気がする。

”頭ごなしに、正しさをふりかざすこと”への反発であるような気がする。

だって、正しさをふりかざしている時って、愛がないような気がするんだもの。

もう、『正しい・間違っている』という価値判断はやめようと、

皆が気がついていくための現象なのかもしれない。

 

キレるって、「もっと、愛がほしいよー」っていう心のあらわれ。

『今の言葉には、愛が感じられないよ』という率直なフィードバック。

それを受け止めよう。

 

 

 

(22) 大人の役割  

 

「近頃の子供は(又は若いもんは)挨拶をしない」という大人がいる。

そう言う人は大体において、自分から挨拶をしない人。

”目下の者から先に挨拶するべきだ”

と子供や部下が挨拶をしてくれるのを待っている人だ。

 

子供が挨拶をしないのなら、子供から挨拶を引き出すように大人が先に挨拶してやればいい。

『挨拶をしなさい』と言葉で教えるより、ずっと効果的。

まずは、大人から先にやってみせること。

なおかつ、子供の中にあるものを引き出すということをほんの少し意識している。

子供に挨拶をさせたかったら、子供が思わず挨拶を返してしまうような声で、

大人から先に挨拶してやればいいんだよ。

引き出すためには、自分が相手より器が大きくないと、引き出せないのだと思う。

「近頃の子供は・・・云々」

と文句を言っているのは、子供から引き出す役割を果たしていない大人達。

子供から引き出すのは、自分の役割なのだと気がついてない人だ。

 

間違いがあった時、素直に謝る子供になってほしければ、

大人が素直に謝る姿を見せていることだ。

だから、大人達が子供達のため(よその子供にも)にしてやれることは、たくさんある。

特に、年長者の方が皆、そういう意識を持って下さったら、

すごい力になるだろうなと思っている。

 

 

 

(21) 「ただいまー」の声  

 

ふと気がつくと、外から帰ってきた時の子供の”ただいま”の声が暗くなっていた。

遊びから帰ってきた時も、暗めのこもった声で「ただいまー」と言う。

友達とケンカ別れでもして帰ってきたのかと思うほど。でも、訊ねるとそういうわけでもない。

どうして? いつの間に、こんな声で「ただいまー」というようになったのだろう・・・。

 

で、気がついた。

私が、そういう声を出していたのだ。

私が、そういう声で「おかえりー」と言っていたのだ。

面倒くさそーに。いかにも、生きていることがつまらなそうな声で。

 

小さい時は、はつらつとして元気な声でしゃべっていた子供達が

大きくなるにつれて、だんだん、口の中でモゴモゴと話したり

面倒くさそうに話したりするようになる。

あれは、家の中での親の姿を真似てそうなっていくのではないか。

皆、外ではそんな話し方はしないだろうけど、家の中では――。

例えば、

妻が話し掛けたときに、顔も上げずにめんどくさそーに返事をする父親の姿を

いつの間にか、真似するようになってたり、

何事も深く考えることもなく、ただ、流されていく――というぼんやりとした生き方をしている

親の話し方にだんだん似ていったり・・・。そういうことなのかもしれない。

 

まずは、意識して「おかえりー」の声を変えることからはじめた。

ちょっと時間がかかったけれど、子供の「ただいま」の声が変わってきた。

結局、原因は自分が(親が)つくっていた。

 

 

 

(20) 親と子の関係  

子供たちは様々なことをしでかしてくれて(?!)

親である自分がビックリしたり、ショックを受けたりして

どうしてこんなことになったのだろう・・・と

親自身が自分を見つめなおすための機会をくれている。

 

親っていうのは、自分の経験や体験などから子供によかれと思っていろいろする。

自分も親からそうされてきたと思うし、今は、我が子にそうしている。

だけど、それはいつも正解とは限らない。

この”正解とは限らない”ということを、心の片隅に置いておくことは大切だと思う。

正解とは限らないということを知っていれば、自分のしていることを省みることが出来て

過ちや間違いに気がつけば、すぐ改善することができるから。

 

子育て中の過ちって、

満員電車の中で知らないうちに人の足を踏んでしまうのと似ているような気がしている。

わざとしたわけではない。

だけど、人の足を踏んでることに気がついたら謝るし、踏んでいる足はすぐどけるでしょう?

子供に対しても同じで、親が未熟であるが故に過ちもある。

だけど、子供を傷つけようと思って、あえてそうしたわけではない。

あえてしたわけではないけれど、間違いに気がついたらすぐそれを認めて改善すればいい。

「あの時のあの言葉に、あの時のあの行為に、傷ついた」

と、もし子供に言われたら

「そんなつもりはなかったのだけれど、傷つけていたんだね、ごめんね」

と、子供の気持ちと自分の過ちを素直に受け止められるといいなー思う。

 

 

未熟ならば未熟なりの自分が今、出来ることを精一杯やればいいよ。

でも、それはずっとそのまま、未熟なままでいてもいいということではない。

この自分自身で子供に接するしかないんだけれど、

だからこそ、子供を成長させようとするより、自分自身を成長させることを意識している。

ちっぽけな自分で接するのと、少しでも大きくなった自分で接するのでは違うと思うから・・・。

 

 

 

(19) ”きちんと”&”ちゃんと” B 

 

”きちんと・ちゃんと”の曖昧さに気がついてから、

他の言葉の曖昧さにも気がつくようになった。

例えば、ノートの字。

「もっとノートをきれいに書きなさい」「字をきれいに書きなさい」

なんて注意したりするけれど、それもすごく抽象的だと思う。

どうすれば、ノートの字がもっときれいになるのかを具体的に言ってあげないと。

例えば  ・もっと小さく書くようにするといい

      ・マスからはみ出さないように書く

      ・もう少し筆圧を弱くしたらよい

      ・ゆっくり書いてごらん

      ・間違えた時は、消しゴムで消した字が全部消えてから書くんだよ

そんなことを子供の状態にあわせて具体的に言ってあげれば、

子供も直しようがあるのだと思う。

それをただ”きれいに”と言うだけでは

子供はどうすればきれいになるのかわからなくて、困っていたりするのだ。

 

 

 

(18) ”きちんと”&”ちゃんと” A 

 

自分と子供のものさしが違うということに気がついてから、

どうして、違っているのだろう・・・と不思議だった。

大人同士なら、育った環境が違うから当然だけど、

子どもとは同じ環境に生活しているのになって。

でも、考えたら当たり前のことだった。

子供は<無限>というものさしを持って、生まれてくるのだ。

ものさしを小さくしてしまったのは、私の方だった。

 

 

 

(17) ”きちんと”&”ちゃんと” @ 

 

例1 子供がこぼしたら、子供が自分で拭くのだが、きれいに拭いてない。

       母 「こぼしているのに、拭いてないじゃない。」

       子 「拭いたよ。」

       母 「まだぬれてるよ。ちゃんと拭いてよ。」

    子供は拭きに行ってすぐ戻ってくる。

    後で見ると、まだぬれている。

       母 「拭いてないじゃない。」

       子 「拭いたもん。」

       母 「全然拭いてないじゃないの!」

       子 「だってボク拭いたもん。」

       母 「ほら見てごらん! ココとココ!

          こんなにいっぱいぬれているのに、どうして拭いたって言えるの!」

 

例2 テレビを見ている子どもにむかって

       母 「自分の部屋、きちんと片付けておいで。」

    子どもは部屋に行く。ふと母が気がつくと、またテレビをみている。

       母 「部屋、もう片付けたの?」

       子 「うん。片付けた。」

    母、部屋をのぞく。

       母 「全然片付けてないじゃないの!」

       子 「片付けたよー。」

       母 「これのどこが片付けたの!」

       子 「だって片付けたもん。」

       母 「全然片付いてないじゃないの!ちょっと来てごらん!

          カードは散らばってるし、算数のテストは落ちてるし、

          ほら、なくしたって言ってた消しゴム、こんなところに落ちてるじゃない!

          あっ!何これ! 学校からの手紙、出してない!!」

 

毎日、毎日こんなことを繰り返してきた。怒ってばっかり。

怒りはエネルギーを無駄に消耗する。当然のことながら、自分がすごく疲れる。

なんでこんなことになるのだろう・・・と考えた時、まず気がついたことは

どうやら、子供の基準と私の基準が違うらしいということだった。

子供が「片付けたよ」という状態は、机の上に山のように物が積んである状態なのだが、

出しっぱなしになっていた自分の一番お気に入りのものを一つ、二つ、しまったことが

彼にとっての”片付けた”ということらしいと気がついた。

こぼしたところを拭く時も、自分の目に入ったところだけ拭いているのだ。

他にこぼれているところはないかと全体をみまわすことはせず、

ただ一番最初に自分の目についたところだけを拭いているのだと気がついた。

だから、本人はもう拭いたと思っているし、もう片付けたと思っているのだ。

だから、私が「拭いてないじゃない!」と言っても「拭いた」と言い張るし

私が「片付けてないじゃない!」と言っても「片付けた」と言い張るのだと気がついた。

そうか!

もっているものさしが違うから、それぞれの指している意味がちぐはぐなだけなんだ。

私の指している意味が、あの子にわからなかっただけなんんだ。

それで、

「あなたの『片付けた』は、片付けたと言わないんだよ。」

と始めは言っていたが、それでは、

<あなたのものさしと私のものさしは違う>と言っているだけで、どうもうまくいかない。

それじゃあ、もっと具体的に伝えればいいんだ!

「きちんと片付けなさい」ではなく、

「床の上に何も落ちてない状態にしてきてね。」

と言うことにした。

「ちゃんと拭いてないじゃないの!」と言うかわりに、

「柱のまわりが、まだぬれていたよ。」

と言うことにした。

そしたら、すごくスムーズ!

 

本人は、片付けているのに(1個か2個だけだけど)

「全然片付けてない!」と全否定され、つらかったろうなぁ。

本人は、片付け終わったつもりなのだから

「片付けてない!」と言われても、どうすればいいかわからなかったんだろうなぁ。

可哀想なことしちゃってた。

よく使われる言葉ではあるが、よーく考えてみると

「きちんと」「ちゃんと」という言葉は実はすごく曖昧なものだった。

人それぞれによって、いかようにも考えられる。

超きれい好きな人の”きちんと片付ける”と

片付け下手な人の”きちんと片付ける”は、きっと指している状態が違うだろう。

それ以来、”きちんと・ちゃんと”という言葉はなるべく使わず、

別の言葉で表現するように気をつけている。

 

スーパーなどで、お母さんが子供に「もう、ちゃんとしなさい!」と怒っている姿を見かけると、

かつての自分を思い出して切なくなる。

「具体的に言ってあげないと、わからないんだよ。

具体的に言えば、子供もどうすればいいのかがわかるから、結局は親も楽なんだよー。」

 

 

 

(16) 性教育

 

「性の情報源は何か、どうやって性のことを知るのか」と子供にきいてみると

答えが多いのが友達や雑誌から。

そして、その友達自身も雑誌から情報を得ていることが多い。

つまり雑誌の情報が大きなウエートを占めている。

ところがその雑誌は性行為をあおるような記述なのだ!

だが、子供達がこうした雑誌を手にとるのは、大人達が子供達に性を正しく教えていないと

いう背景もあるーー。

と新聞で用語教諭をしている方からのこんな内容の投稿を読んだことがある。

性教育って、難しい。自分だって、親からキチンと教えて貰ったわけじゃないから・・・。

だけど、雑誌やませた友達や先輩から、正しくない知識をインプットされる前に

せめてチキンと書いてある本を子供に渡しておいたらどうだろう。

 

―おすすめの本―

     ○あかちゃんはどこから?
                             ポプラ社      (幼児から・絵本)

     ○赤ちゃんの誕生 
            文 ニコル・テイラー     あすなろ書房   (とても美しい写真)   

         

     これだけは知っておきたい
          女の子のこころとからだ   
     ゆうエージェンシー

     ●これだけは知っておきたい
          男の子のこころとからだ 
       ゆうエージェンシー

 

この本には、12歳になったら読む本というサブタイトルがついているけれど

生理のことなどを子供が知り始めたら、12歳じゃなくてもかまわないと思う。

思春期の体の変化から性感染症まで、とても丁寧にわかりやすくまとめられている。

私は、男の子用・女の子用を是非セットで読むことをおすすめする。

自分の体のことを知ること同じくらい、相手のことを知ることも大切だと思うし、

知っていることで、うまれる思いやりの気持ちもあるから。

 (実は、自分と性の異なる子供に話をしようと思った時に

 よく知らない自分がいることに気がついて、愕然としたのだった・・・。)

子供達が自分で性の情報を仕入れようとすると、

どうしても性を商品化してみているようなものからの情報が多いと思う。

ならば、親の方から先に情報を提供してしまおう。

 

 

 

(15) 自由?放任?B 

 

子供の自由を尊重しようとしている人が、陥り易い――。

我が子の自由だけ、我が子の気持ちだけを尊重していないだろうか。

もし、そうならば、それは『自由』ではない。

 

友達の気持ちは?

親である自分自身の気持ちは?・・・抑圧しているだけならば、後で爆発しかねないよ。

 

 

 

(14) 自由に伴う子供自身の責任
             (自由?放任?A ) 

 

小さい子に一人で責任を取れといっているのではない。

自分のしたことの責任をとることを知り、責任のとり方を一緒に示してやればいいんだよ。

小さい子がジュースをこぼした時、

子供が自分のしたことを自分で受け止める機会を親が奪っていないだろうか。

親が子供のかわりに拭いてしまうのではなく、

子供に拭き方を教え、子供と一緒に拭けばよい。(外出先では臨機応変。)

責任のとり方は、こんな小さなことから。

 

公園で遊んでいても、時々いる。

子供が何かをしてしまった時、例えば友達のおもちゃを壊してしまった時、

子供のかわりに謝ってしまうお母さん。

(まずは、親が謝ったとしても、)子供のしたことは、子供が謝る。

子供が謝れるように励ましたり、傍についていたり、または一緒に謝る。

壊した子は、心の中が大嵐でいろいろな思いが渦巻いているだろう・・・、

中には自分の方が被害者のような顔をし、すねてしまう子もいる。

そういう子ほど、いつも親がかわりに謝っていることが多いようで、

自分のしたことを真正面から自分が受け止めることを学ぶ我が子のチャンスを潰している。

 

幼稚園っていう空間も、練習場としては一番かも。

登園中、お迎えの時、降園後。

例えば・・・。

遊びに夢中になって、誰かのお母さんにぶつかってしまったところを親がみていたら、

自分のしたことを子供が一人で謝ることをさせるには、よい機会。

うまく言えなかったとしても、幼稚園の友達のお母さんは、

きっと、優しく「いいよ」「大丈夫だよ」と言ってくれて、

気が利いた人なら、”子供が謝ったこと”を誉めてくれるから。

そうやって小さな自信をつけてもらいながら、繰り返していくうちに身につけられる。

幼稚時代のように恵まれた時期って、そうそうないと思うから、

そういうところで練習させてもらえばいいよ。

小学校はもう親の送り迎えはないし、

スーパーでぶつかったよその人には、「ごめんなさい」を言う前に、

もしかすると、にらまれてしまう可能性もあるんだから。。。

 

ジュースをこぼした時に、自分で拭いていれば、(そのうちに)

どうすれば、ジュースをこぼさないかを自分で考えるようになるだろう。

(親に怒られるから、こぼさないようになるのではなくて。)

何か失敗があった時にも、自分で何かをすれば

困った状況は変化させることができることを身を持って知っていれば、

失敗にボーゼンとして止まったり、落ち込んで動けなくなったりしないで、

失敗は失敗と認めた上で、

”じゃあ、この状況を変えるためにはどうすればよいのか”と建設的に考えていく。

(責任って、辞表を提出して後始末を人に任せて、その場から去ることではない。)

 

これは自由? ちゃんと、本人に責任が伴っている?

自由にやらせるつもりが、ただのやりたい放題させっぱなしになっていないかな?

そのつど、そのつど、省みる。

 

 

 

(13) 自由?放任?@ 

 

子供の気持ちを尊重しようと意識している人や

自分が厳しく育てられて、傷ついた体験から

子供には、そんな思いをさせたくないと思っている人に多いと思う。

自由への思いが強すぎるのか、

親は自由と思ってさせているつもりが、子供のやりたい放題になっている姿――。

 

自由には必ず、それに対する責任がくっついている。

だからこそ、時と場合で、自分の中からのブレーキも働く。

 

自由にして来なかった人は

自由と責任がワンセットなのを、体で知らないからなのかもしれない。

自分は縛られてきて、自由な人を見て、羨ましいと思ってきた人は、

その表面的な部分(おいしい部分)だけを見て、

我が子に真似させようとしてしまっているのかもしれない。

子供の思う通りにさせて、その結果起こってくる困った出来事の責任は

子供に取らせないで、親が後始末してしまっている場合が多い。

自由って、『自分の思った通りに行動することで、返って来る結果があり、

それは自分が受けるものだということを知った上で、

流されたり、縛られたりするより自分の思い通りにすることを選ぶ』

ことだというのを自分が体験してないからなのかな。

子供の分の責任まで、自分が引き受けている人は、いつもいつも子供に振り回されている。

我が子といえども、人の人生全部、背負い込んでいるのだもの。とても大変そう。。。

自分のしたことの悪い結果の方は、親が後始末してくれると子供が学習すれば

欲望だけに従って何でもやるだろう。

(だって、その責任は自分は取らなくてよくて、親がとってくれるんだもの。)

子供が小さいうちはいいけれど、

大きくなったら、子供がやりたい放題やることのすべてを背負い切れるものではないよ。

 

自分のしたことの結果は、いい事も悪い事もすべて自分に返って来る。

それが宇宙の法則だ。

そのことを実感として知っていれば、

かえって来る結果が、自分にとってすごく悪いことになるようなことは、子供はしないよ。

自由に伴う責任を教えることは、宇宙法則を肌で知るチャンスでもある。

 

 

 

(12) 『どうして○○するの!!』 

 

子供が何かをやらかした時に、「どうして○○するの!」と言うことは、よく見かけることだ。

私も何も考えずによく使っていた。

自分もそうやって育てられてきたし、

親として子供を怒る時の当然のセリフ・決まり文句のように考えていたような気もする。

だけど、そのうちに「どうして○○するの!」と言うと、子供が固まることに気がついた。

いつの間にか言い訳が多くなってきたことに気がついた。

 

よーく考えたら、

「どうして、○○するの!」

というのは、疑問形のようでありながら、質問しているわけではない。

そこに込められているエネルギーは『相手を責めるエネルギー』。

子供は言葉そのものよりも、

そこに込められているエネルギーを敏感にキャッチしているのだから、

責められっぱなしで、矢をグサグサ突き刺されて、辛かったろうなぁ。

だから、自分を守るために、盾を使うことを覚えた。

責めの矢から、自分の心を守るために――。

言い訳をしたり、人のせいにしたり、誤魔化したり・・・

とにかく、矢がまともに自分に突き刺さらないように、かわすようになる。

それは、責められることに耐えられなくなった結果の防衛手段。

 

子供だけに限らない。

身のまわりの人に、「どうして、○○するの!」と使ってないですか?

 

 

 

(11) 『何度言ったら、わかるのよ!』

 

「もう、何度言ったら、わかるのよ!」

真理の無理解さ加減を叫んでいることだと気がつくまで、

何度この言葉を子供にぶつけてきただろう・・・。

”何度言ったら”とは、私が過去にとらわれているということだ。

もう済んでしまった時間のことを、私がいつまでも手放していないということだ。

 

それは、私が、”今を生きていない”ということの証明だったのだ。

 

 

 

(10) 子供の横を歩こう  

 

親が成長しようとせずに止まっていると、子供が成長していった時、親は邪魔になる。

特に、親が子供の前を歩いていると――。

だから、初めから子供の横を歩こう。

学びのペース、成長のペースが子供の方が速かったとしても

横を歩いていれば、子供の進歩の邪魔にならないよ。

いつの時代も常に、子供はもともと親より進んだ存在だ。

親が子供の行く手を阻んでいては、子供は進むのに余計な時間がかかってしまう。

親の成長が遅ければ遅いほど、なおさら、子供は足踏みをしなければならない。

それなら、はじめから、横にいて道をあけていればいいよ。

子供はどんどん前に進むことができる。

 

 

 

(9) たかがスカートめくり、されどスカートめくりC  

 

”なぜその行為に至ったのか”という相手の気持ちを理解することも大事なことだ。

でも、自分の感情を大切にすることも、同じくらい大事なこと。

すべてはひとつにつながっているのだから、

相手の気持ちだけを理解しようとし、自分の気持ちは押さえ込み我慢する方法では、

片手落ちなのだ。その反対も然り。心の深い部分に傷を残す。

 

許すということは、”全部を受け入れなければならない”と誤解されていることも多い。

大体、私達は、自分に嫌な事をされると、その行為を行った人物そのものに対し、

嫌悪感を持ちがちである。でも、

『相手は愛す。でも、自分を傷つける相手の行為には、断固としてNOを出す』

そういう精妙な許しもあるのだ。

それは、相手にも自分にも愛を与えることなのだと思う。

 

スカートめくりをする子どもが悪いと言っているわけではない。

スカートめくりをする方も、される方も、それぞれ学びの機会を与えられたというだけだ。

それを”子どもの他愛ないいたずら”と流してしまうのは、もったいないことだと思う。

 

 

 

(8) たかがスカートめくり、されどスカートめくりB 

 

同じ出来事でも人によって感じ方は異なる。

自分の子どもであっても、自分とは感じ方が違うのだ。

「幼稚園や学校で、嫌なことや困ったことがあったら、話してね。」

と口では、頼りになりそうなことを言いながら、

実際に子どもが”その子にとって嫌だと思った出来事”を話したとき、

「そんな些細な事で・・・」と笑ったり、「そんな弱虫でどうするの!」と怒ったり、

「それくらいたいしたことない」と自分のモノサシでその出来事をはかり、

子どもの気持ちを受け入れずに、はねかえしていることの何と多いことか――。

その繰り返しで、嫌だと感じた自分の気持ちを閉じ込め、抑圧し、蓄積させていく。

嫌だと感じた自分自身を否定していく。

誰も自分の気持ちはわかってくれない・・・と孤独感を強めていく。

親になんか相談しなくなる。

自分のことを振り返ってみても、そうだった。

 

”嫌な気持ち”というものは、その時に、自分の心の外に出してしまうだけで、

消えていくものも多い。出さないから、しこりになるのだ。

子どもが自分でそのプロセスを理解し出来るようになるまで、

子どもの心にしこりができないように、

親は、ただ子どもの気持ちをきいて受け止めてやればよいだけなのかもしれない。

このとき、子どもの傷ついた気持ちには共感しても、

親は相手を責めないことは、大切なポイントだ。

親が人を責めてばかりいると、子どもはそれを学習してしまう。

人を責めることは、自分は”被害者になる”ということだ。

被害者意識を持てば持つほど、人は自分の人生に自分で責任を持たなくなる。

自分が不快と感じる原因を、すべて自分以外のもののせいにするようになるのだ。

それは自分の人生を放棄すること。

自分の人生を自分で創り出すことを放棄し、

他人に己の人生を明け渡す生き方をすること。

被害者意識で生きることを子どもに学習させないためにも、

くれぐれも、相手を非難しないように。

 

 

 

(7) たかがスカートめくり、されどスカートめくりA

 

スカートめくりをする側の子ども――仲良くしたいんだけど、ストレートに表現できない

っていうタイプの子がいるのはわかる。

好きだから、意地悪しちゃうっていう子、昔からいたよね。

もし、あなたの子どもがそういうタイプの子なら、

<スカートめくりは、男の子にとってズボンを脱がされることと同じだ>ということと

<好きな気持ちをストレートに表現すること>を、是非教えてあげてね・・・と思う。

好きな気持ちをストレートに表現出来ないことが、悪いというわけではない。

だけど、それはそのままにしておくのは、その子のためになるのかな。

好きという気持ち、仲良くしたいという気持ちをストレートに表現できるのと、

反対に意地悪しちゃうのと、

どちらのコミュニケ―ションの方法がより有効だろうか・・・。

どちらの方が自分の人生で自分の欲しいものをより手に入れることができるのだろう。

 

好きなのに気持ちと裏腹に意地悪してしまう――ということは、

あたかもそういう性格であるかのように片付けられてきたが

それは、

ただ単に”有効なコミュニケーションのとり方を知らない”ともいえるのではないのか。

本当は好きなのに、意地悪している姿を見かけたら

「そんなふうにするより、『一緒に遊ぼう』っていう方が、ずっとあなたの気持ちは

お友達に伝わるよ。だから、恥ずかしくても今度は『遊ぼう』って言ってごらん。」

そんなふうに、そのつど、大人がサポートしていったら

きっと、自分の気持ちを正直に伝えられるようになるよ。

 

大人の中にも、自分の気持ちを素直に表現できない人はいるし、

また、最近はその手のトレーニングも盛んだ。

だから、やっぱり大きくなれば自然に出来るようになるというものでもないらしい。

ならば、効果的なコミュニケ―ションのとり方の一つとして、

小さい時からまわりの大人達がほんの少し注意してサポートしていくだけで、

きっと身に付いていくはず。

(一番良いのは、自分の感情を素直に表現している大人の姿をみせていくことだろうけど。)

 

我が子がスカートめくりをしていることを知ったら、

”自分の気持ちをうまく伝えられるようになるコミュニケーショントレーニング”のチャンスです!

 

 

 

(6) たかがスカートめくり、されどスカートめくり@ 

 

以前、スカートめくりをされるから・・・とスカートをはくことを子どもが極端に嫌がった時期が

あった。子ども同士のたわいないいたずら。スカートめくりなんて珍しいことでもない。

スカートめくりくらいで・・・と流そうとしかけたが、思い直した。

スカートめくりくらいで、別になんとも思わない子もいるだろう。

でも、この子が”嫌だ”と感じているならば、それは、この子にとっては『嫌なこと』なのだ。

スカートをはかなくなるくらい嫌がっている気持ちは、私達が痴漢を嫌だと思う気持ちと同じ

ものかもしれないのだ。

 

スカートめくりをされて、嫌だと感じた自分の気持ちを話しても、「それくらいのことで・・・」

と流されてしまったら、もし、もっと困っためにあっても、話さなくなるのではないか。

スカートめくりは「気にするな」と子どもの”嫌だ”と感じた気持ちを否定しておいて、

「ヘンなことされたら、(痴漢にあったら)ちゃんと話すのよ」ということは、矛盾していること

ではないだろうか・・・。

 

それから、「ホントはあなたと仲良くしたいんだけど、その気持ちをうまく表現できないから、

スカートめくりをしちゃうんだよ」と相手のことを擁護するようなことを言うのもやめた。

だって、とても嫌がっている子どもの気持ちを考えたら、何だかそれはストーカーの気持ち

を理解して容認するようにと言っているような気がしたのだ。

痴漢行為やストーカー行為に対して

「あなたのことを気に入っているからだよ。まぁ、いいじゃないの。」

と言うのと なんらかわりない気がしたのだ。

もしかしたら、同じくらいの嫌な気持ちかもしれないのに、大人の女性の場合は受け入れら

れて、子どもの気持ちは「スカートめくりくらいのことで・・・」とないがしろにされている。

 

 

 

(5) みんなって、だあれ?A    

 

○○が欲しい。だって、みんな持ってるんだもの・・・」

 

あなたは、みんながしていたら、何でもするの?

みんなが万引きしたら、あなたもするの?

みんなが誰かに殴る蹴るの乱暴をしたら、あなたもするの?

みんなが誰かを乱暴して死なせちゃうようなことしたら、あなたもするの?

『みんながするから、自分もしたい』ってことは、そういうことじゃない?

 

 

屁理屈だと思いますか?

でも、

みんなが持ってるから、みんながするから・・・って、流されることが当たり前になると、

みんながすることには、疑問を持たなくなってしまうようになりはしないかな。

今の中高生が性交渉を持つ理由のダントツが

「みんながしてるから」「ただなんとなく」なのだそうだ。

”好きだから”ではないらしい。

 

自分が行動する時の基準は

『みんながしてるから、する』

ではなくて

『自分がしたいから、する』

そう判断できる力を育てていこう。

 

 

 

(4) みんなって、だあれ?@   

 

子供が、よく使う言葉。

「○○が欲しい。だって、みんな持ってるんだもの・・・」

「みんなって、だあれ?名前を言ってごらん。」ってきいてみる。

すると、かなり多くても4,5人かな。

 

4,5人は、”みんな”とは言わないんだよ。

 

 

 

 

(3)  一人遊び 

  

進級などで、環境が変わった時

我が子が「友達とうまく遊べないんじゃないか」ととても心配するお母さんがいるけれど

もし、気になるのならば

心配するよりも

その子が一人でも楽しんで出来る何かを見つけるサポートをしましょう。

 

別に友達と遊ばなくていいというわけではありません。

でも、友達と遊ぶ約束がうまく出来なかった時、遊びたかった友達に断られた時、

落ち込まなくても済む様に。

自分一人でも、楽しく時間を過ごせるようになっておくことは、とても大切な事。

「今日は、一緒に遊べる人は誰もいないなー。じゃあ、帰って、あれをしよう」って。

絵を描くこと、本を読む事、何かを作ること、将棋、手芸、楽器・・・・。

 

自分がやりたくないことなのに、友達に合わせていると

だんだん、そういう自分のことを嫌いになってしまうから。

本当はやりたくないことなのに、一人になることを恐がって

友達に引っ張り込まれて、ズルズル良くない事をしてしまうことにもならないように。

 

 

友達と過ごすことだけが良いことのように、大人達から思い込まされてきた気がします。

友達が少ないとよくない、暗い。

協調性がないのはよくないことだと言われたりして。

でも、一人の時間を充実して過ごせることは大切です。

それに一人の時間を持たないと、自分を見つめることは出来ないのです。

 

友達とも楽しく過ごせる。そして、一人でも楽しく過ごせる。それがベスト。

 

 

 

(2) 皆と仲良く?! 

   

仲良くすることを一緒に同じことをすることだと思っていると

自分は嫌なことなのに、相手に合わせるフリをするか、

自分の正しさを証明して

相手の考えを変えさせなければならない。争いの素になる。

(自分の考えから変えようとすることは、少ないから。)

育ってきた環境、価値観、考え方、様々だもの・・・違って当然。

だから、『皆と仲良くしなさい』なんて、とっても不自然!

そんなふうに子供達に教えても、実生活では、使えないことだと思う。

それより、

「自分と違う考え方の人はいるし、合わない人はいるよ。

だから、自分の心に無理して、その人と一緒にいなくていいんだよ。

でも、それは、自分と違う考えの人を間違っていると言って責めたり、

仲間はずれにすることとは、違うよ。」

っていう方が、ずっと役に立つと思うな。

だって、自分のことを考えてみたら、わかるでしょう?

自分が皆と本当に心から仲良くしているのかって。

職場にも、ご近所にも、「あの人、ちょっと合わない気がする」っていう人はいる。

表面的に、あわせて付き合っていても、心は無理していませんか。

そういう付き合いは疲れるし、疲れることにあえて時間を使うなんてもったいない。

 

本当に仲良くすることって、

自分と考えの異なる相手の領域を否定せずに尊重しあうこと。

お手々つないで一緒に同じことをすることとは、異なると思う。

例えば、キリスト教の人とイスラム教の人と仏教の人が同じ食事をするのは、

難しいかもしれない。

宗教上の理由で、食べられないものもあるんだから。

でも、一緒にテーブルにつきながら、別々のメニューの食事を一緒に取ることなら可能だ。

自分は、それを食べないけれど、人がそれを食べる自由は認める。尊重する。

 

小さい頃から、”仲良くすることは一緒に同じことをすることだ”

と教え込まれなかっただろうか・・・。

仲良くすることは、考えをそろえることではない。

仲良くすることは、同じことをすることではない。

自分の正しさを証明しようとしたりせず、自分との違いを否定したりせず、

お互いの違いを受け入れて尊重し合える関係を、すべての人とつくれたら――。

 

 

 

(1) 『近頃の若いモンは・・・?』

 

子供は親を乗り越えてこそ、一人前――。

そうやって大人になるんだっていうのは、古い世界の考え方。

でも、どうして子供は親を超えなければならないって言われてきたんだろう・・・。

きっと、大きな原因は、子供達の方がもともと進んだ魂であることを知らなかったことだ。

”子供は無知で何もわからない存在だから 大人が教えなければならない”

という誤った観念が、いつの時代も、大人より進んだ魂である子供たちを苦しめてきた。

子供が成長することの足を引っ張ってきたということである。

 

「近頃の若者ときたら・・・」と今言っている人達も

若い時には、当時の大人達に「最近の若いモンは・・・」と言われていたはず。

いつの時代であっても”最近の若者は・・・”というのは、

その時代のおとな達のつくった観念・概念ではおさまりきれない

新しい発想や考え、より自由な感性を、受け入れられない時に使うことも多いと思う。

 

進んだ魂の子供や若者たちを

(彼らからすれば)遅れた魂のつくった過去の産物に縛りつけようとして

それらに対する反発、反抗のために

彼らのもつエネルギーを使わせるのは、もったいない。

そんなことにエネルギーを費やさなくてもよい時代に、はやくできるといいなぁ。

 

 

 

 

 

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                                                                                                最終更新日 : 2008/08/13