先日、IWC(世界捕鯨委員会)の科学委員会で日本が発表した論文が大きな話題になっている。調査捕鯨による調査の結果をもとに算出すると、世界中の鯨類が餌として年間に消費する魚類の総量は、全世界各国の漁業による総漁獲量の合計のなんと3〜6倍にものぼる、という結果が報告されたのだ。更に、従来はオキアミ以外は食べないと考えられてきたヒゲクジラ類(シロナガスクジラ、ミンククジラなど)が、実はオキアミ以外にも相当な量の魚類(イワシ、サンマなど)を食べていることも分かったのだという。
鯨をはじめとする海生哺乳類は、海の中の生態系(食物連鎖)の頂点に立っている。従って、食糧資源として漁業を行う人類と食糧を争っている関係となっていることは今迄にも予測されてきたが、それは歯クジラ(マッコウクジラなど)に限られるものとされてきた。今回の発表はこの考えを根底から覆してしまうことになる。これだけ生物学を含めた科学が進歩した現在でも、まだまだ鯨の生態には謎な部分も多いらしい。
これを裏付ける発表も他国からあった。ノルウェーでは、1990年代初頭にニシンの漁獲高が激減したために、厳しい漁業制限を行った結果、1995頃には漁獲高も回復していたのだが、ここ数年、ふたたび激減している。この時期が、実は、ミンククジラの捕獲禁止が決まり、ミンククジラの頭数が禁止前の倍にまで激増した時期とぴたり一致するのだ。
つまり、鯨を保護することが海洋での食物連鎖のピラミッドの形を崩し、下層の生物数が激減する恐れもある、ということだ。特に最近、人口増加が続く発展途上国で新たな食糧資源確保のために漁業が注目されはじめてから、各国の漁場における鯨の生息状況と漁獲量の変化の関係が明らかになってきて、問題になりつつある。
当然、反捕鯨国からはデータの不備点を指摘する声や逆の見解を導き出す論文・意見が多数提出されたし、「南極近辺など南半球に生息する鯨はオキアミしか食べない」などの反論も出された。結局、鯨が生態系に与える影響については今後も継続して検討すべき優先項目として認められたが、反捕鯨国の勢力は大きく、日本が提案した商業捕鯨再開の提案はあっさり否決された(実際には提案の撤回)だけでなく、従来認められていた調査捕鯨の自粛までもが求められる結果となってしまった。
僕自身は鯨肉をひたすら食べたいと思っている訳ではないが(小学生の頃、学校給食で食べた程度だ)、かの「美味しんぼ」で海原雄山が語るところによると(笑)、魚肉と獣肉の長所を兼ね備えた食材であるという。「上等な食材」という意識が世間で薄いのは、むかし学校給食によく使われていた頃は、他の肉と比べると相対的に安価だったこと、捕鯨船内での冷蔵・冷凍方法が進歩していないために捕獲・解体から水揚げまでの間の保存方法が悪く鮮度が落ちるため、鯨肉の本当の旨さを知る機会がなかったことによるものらしい。
反捕鯨国の主張の多くは「鯨を殺す」ことに対する倫理観、人道的問題である。特に、伝統性や水産資源の有効活用といった観点が、感情論の根強い反捕鯨国の意見に「数」で勝てないことから、ここ数年、日本をはじめとする捕鯨国が科学的根拠を多用してIWCに臨み始めたため、反捕鯨国の主張(感情)はますます歪みつつある気がする。
しかし鯨が哺乳類であるから「殺す」ことが倫理に反するのであれば、牛は、豚は、羊や馬はどうなるのか。野生動物と飼育動物とで「命」の重さに差などあるのだろうか。そもそも、哺乳類と他の生物の「命」の重さに差があるのか?
かつてソウル・オリンピックの頃、欧米諸国(多くは反捕鯨国だが)が韓国伝統の犬を食べる風習をやめるように圧力をかけたこともあったが、これは単に食習慣の違いを「倫理」などという言葉に置き換えているだけではないのだろうか。人間だけでなく、生物が生き延びていく上で、他の生物の命を奪っていくのは避けられない「業」である筈だ。
また、反捕鯨は「ジャパン・バッシング」の隠れ蓑としても利用されていたが、その後の「ジャパン・パッシング」(日本を無視)を経て、日本経済の不振が世界経済(というか好景気に沸くアメリカ経済)の足を引っ張りかねない懸念から出てきた最近の「ジャパン・プッシング」(日本を後押し)の風潮の中でも、反捕鯨の雰囲気はいまだ厳しいものがある。この辺りには、反捕鯨国の多くが欧米諸国ということからも、おそらくはキリスト教の倫理観による基準を、非キリスト教国を含めた全世界に押しつけようとする意識が大きいのではないかと思うのだが。(これは捕鯨問題に限らずよく感じていることでもあるが)
既に人口総数が安定から微減に向かいつつある欧米諸国では、発展途上国のような食糧確保に対する危機意識も薄いだろう。そして、国連でもIWCをはじめとする各種委員会でも、会議をリードするのは先進国(主要国)であり、途上国の意見は吸い上げられないのだろう。だからこそ、さまざまな面で他の主要国とは異なる文化・倫理観・風習を持つ日本は、そういう場でもっと頑張らなければならない筈なのだが、現実には…。
そんな、ある意味「どうしようもない」状況下ではあるが、きちんとした科学的根拠をもって粘り強く主張していけば、理解してくれる国や国際機関も現れてくるのも確かだ。FAO(国連農業食糧機関)では鯨を「食糧資源として保護」するべきだと明言しているが、これは日本の主張をある程度受け入れてのものだという(捕鯨反対の立場ならば、鯨を「食糧資源」とは表記しないだろう)。
いまだ、発展途上国では人口の爆発的な増加が続き、遂に1999年中に地球総人口は60億を突破した。このままでは、世界大戦が起きて人口が激減したり、それこそ「ガンダム」の世界のような大規模な宇宙移民が空想でなく現実のものにでもならない限り、食糧生産が人口に追いつかなくなるのは目に見えている。
たとえば、「絶滅寸前だから」という理由で今は保護している希少動物や植物を仮に食い尽くしたとしても人類の食糧を賄いきれないかもしれない、というような時代が、目前に迫っているのは確かなのだ。(勿論「希少生物を保護するな」「全部食い尽くせ」というつもりでこの文章を書いているのではありません。念のため)環境保護は、地球を破壊し続けた人類がしなければならない当然の責任だが、同時に、人類の「平等な」今後の生存も考えていかなくてはならないだろう。とても難しい問題ではあるけど。
…うわっ、今回はかなり俺の私的見解が入った文章になっちまったな。ちとマズイかな?
…あ?
この感じって、もしかして相棒が書いた「こわいものみたさ」っぽいかも(笑)
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