長崎と京都の縁、唐寺 (2002.08「公楽荘友の会2002」Lodging Guide Vol.2掲載)

 今回で京都から長崎に向かうのももう11度目になるが、僕が初めて長崎に行った頃は、まだ長崎駅も京都駅も旧駅舎が健在で、改築工事が始まる前だった。京都駅は何の変哲もない2階建(3階だったかな?)の駅ビルで、2階の土産物売り場「京都観光デパート」がひなびた雰囲気を醸し出していた。いっぽう長崎駅は三角屋根が印象的で、はじめて改札を抜けて降りたときの印象は今でもよく覚えている。改札やホームでいきなり知り合いに再会することもよくある事で(笑)。
 今では両駅ともすっかり姿が変わり、京都駅は設計コンペ段階で高さ論議などを巻き起こした末に、ホテルと百貨店を併設し駅ビル内に大階段や広場、それを覆う大屋根による大空間を持ったまるでヨーロッパの空港ビルのような巨大建築に生まれ変わり、長崎駅も一昨年9月、やはり大屋根を駅前スペースに持つホテル併設の新駅舎が全面開業した。
 更に言えば、りょーかんの出身地である名古屋も数年前に京都駅同様ホテルと百貨店を併設する巨大なツインタワービルに改築されており、僕個人にとって馴染みの深い3つの大きな駅がこの数年間で大きく様変わりしたことになる。毎年利用している「ムーンライト九州」の九州側発着点で乗り換えや時間待ちに利用し馴染み深い博多駅も、九州新幹線のこともあり改築計画が具体化しているようだ。

 そういう理由からも(?)妙な親近感というか連帯感を覚えるのだが、長崎と京都といえば、ともに江戸幕府の直轄地だった歴史がある。平安遷都以来長い間、京都は常に新しい文化の発信地であったし、鎖国政策以後唯一の貿易拠点だった長崎はヨーロッパ・中国から新たな文化が流入してくる窓口であった。
 その歴史の中で、今回はちょっと意外な長崎と京都の接点を考えてみることにした。最初は長崎は勿論のこと京都にも意外と多い教会についても取り上げようかと思ったのだが、紙面の都合で今回は割愛。いずれ会報の方でやりましょう。

 長崎には唐寺と呼ばれる中国様式の仏教寺院がよく見られる。門前の自由飛行館でさだファンにはお馴染み、公楽荘からも程近い祟福寺はその中国風建築が国宝・重要文化財に指定されており有名だが、長崎最初の唐寺は寺町にある興福寺(1623創建)、ついで筑後町の福済寺(1628創建)で、そのあと祟福寺が1635年に創建された。
 そういえば、祟福寺や興福寺がある寺町通というのは幕府が強制的に寺院を移転させて集めたものだが、これは京都にも長崎にもあるんだよね。京都の寺町通の方は明治以後に更に寺が移転したり潰れたりでずいぶん抜けてしまい、今では修学旅行生のお約束:新京極通のすぐ隣で渋い味を見せている通りだったり秋葉原や大阪・日本橋のような電器店が立ち並ぶ街だったりと様々な顔を見せているけれど。(梶井基次郎の「檸檬」で有名な「八百卯」も寺町通二条にある)

 長崎にあいついで唐寺が建てられたのには勿論、長崎に居住した中国人の影響が大きいのだが、彼等の先祖の菩提を弔うためという理由だけでなく、自分たちがキリシタンでないことを示す目的もあったようだ。また、彼等は中国での出身地ごとに寺を建て、祟福寺の場合は福建省福建の出身者が資金を集めて創建されている。住持も創建から150年間近くは中国人僧によるものだった。
 当時の江戸幕府の体制下では基本的に新たな寺院の創立は認められず、その中で唐寺だけが増えていた。そして1654年に中国から高僧・隠元禅師が招かれて来日、興福寺での説法を皮切りに禅の一派である黄檗禅をこれらの唐寺に伝えた。隠元はこのあと大阪、さらに江戸に出て黄檗禅を拡め、1661年には京都・宇治に万福寺を創建、これ以後黄檗禅は急速に拡大し、それまで臨済・曹洞の二宗だった日本国内の禅に新たな流れを開いたのである(ただし黄檗派は江戸時代は臨済宗の一派として扱われ、明治に入ってから正式に黄檗宗となった)。1677年には長崎・玉園町に本山・万福寺の伽藍構成に倣った聖福寺が創建されている。
 一目でそれと分かる明・清時代の中国建築様式の建物だけでなく絵画・彫刻・書などにも目新しい独特の様式を持っていたことが時の権力者階層にウケたか、全国各地に創建された黄檗禅の大寺院の多くは藩主の菩提寺に多い。

 で、この黄檗禅の日本における総本山が、先程も書いたように京都・宇治にある黄檗山万福寺である。このお寺、京阪宇治線とJR奈良線を挟んで、京都大学の第2キャンパスである宇治キャンパス(学部はなく研究所などが配置)とお向かいだったりするので、一部の理系の京大生(院生に限られるが)にはお馴染みの寺でもある。
 京都のいわゆる洛中には、日本における臨済宗開祖の栄西が開いた建仁寺や京都五山の上に置かれた南禅寺、そのほかにも天龍寺・相国寺東福寺・大徳寺・妙心寺といった臨済禅の名刹が多く、江戸時代には臨済禅の一派としての扱いだった黄檗派が京都近郊に本山を置いたのもその辺りと無関係ではなかろう。ただ、洛中に本山を置かなかったのもまた理由が分かるような気がするのだ。

 禅と言えば精進料理。京都の懐石料理は禅や茶道の流れを汲んでおり、有名な料亭の跡継ぎは料理学校に行かされたり他の料亭に修行に出されるのでなく、禅の名刹に小僧に出される時代があったんだそうだ。湯豆腐が有名なのも、南禅寺や天龍寺(嵐山)の御用達として豆腐がつくられていたことに由来している。
 黄檗禅の精進料理は普茶料理と呼ばれ、万福寺近辺は勿論、長崎にも根付いている。肉・魚を使わず豆腐と野菜だけで構成されるのだが、一般の精進料理と違うのは揚げ物が許されていこと。是非いちど食べてみたいのだが…、けっこう高いのよね…。

 …って、今回は食べることばかりオチになってしまったような(苦笑)。