カステラの話 (2002.08「公楽荘友の会2002」Lodging Guide Vol.2掲載)

 我等の宿・公楽荘といえば、思案橋の電停から公楽荘へ向かう途中、思案橋通りを抜けたところに所在するカステラ「福砂屋」本店のどっしりした店構えと、店内に焚き込められた香の匂いを思い出す人も多いだろう。
 カステラはいうまでもなく長崎を代表する銘菓のひとつである。福砂屋だけでなく文明堂長崎堂松翁軒など名の知られた店も数多い。
 ご存知のように戦国時代末期にポルトガルやスペインからの船が日本に来航するようになり、1570年に長崎はポルトガルとの貿易港として開かれた。そしてポルトガルとの交易によって様々な南蛮文化がもたらされたのだが、そのひとつとして金平糖やカステラ、カセイタといった南蛮菓子も伝来した。
 特にカステラを初めとする鶏卵を使った菓子が数多く伝来し、やがて長崎から各地(主に九州・四国)に伝播して、むしろ長崎以外の地で名産となったものも多い。鶏卵素麺は福岡(のちに大阪・京都にも伝わる。「公遊会」Vol.11で片野艦長が触れた「屯所餅」の京都鶴屋・鶴寿庵でも鶏卵素麺が名物のひとつ)、タルトは愛媛、カスドース(一口大のカステラに卵黄をまぶしシロップで味を調えたもの)は平戸の名産となって現在に伝わっている。菓子ではないが、鶏の水炊きや天麩羅もポルトガルから長崎に伝わり各地で名物になっている 代表例のひとつ。鶏の水炊きはむしろ博多名物だし。

 ところで、「カステラ」という名の菓子は(少なくとも現在の)南蛮には存在しない。平戸名物のカスドースは明らかに「カステラ」の頭を取って日本で付けられた名前だというし。かつてスペインに"Castella"という王国が存在し「カステラというのはカステラ地方の菓子という意味」という説が最有力。この"Castella"は英語の"Castle"にあたるラテン語"Castellum"の複数形で、「城の多い地方」という意味で使われたらしい。

 こんにち日本で「カステラ」と呼ばれている菓子のルーツはポルトガルのパウン・ド・ロー(Pao de lo)や、スペインのビスコチョ(Bizcocho)といった菓子だろうとされている。
 パウン・ド・ローは昔は主に修道院の尼僧によって作られていた。16〜17世紀はまだ砂糖も卵も高価な物だったので、パウン・ド・ローを食べられるのは貴族や宗教関係者など裕福な人々が口にできる贅沢品で、一般の人々が口にできたのは復活祭やクリスマス、結婚式くらいのものだったらしい。18世紀頃に卵黄と卵白を分けて攪拌する製法が開発されて広まった(地方によっては従来の製法のまま現在に伝わるものも存在)
 ビスコチョは当初は航海用の保存食として2度焼きされた乾パンのようなものだったのが、やがて砂糖や卵をふんだんに使い2度焼きもしないふっくらしたものが修道院などを中心に作られるようになった。ポルトガル同様、18世紀頃から卵黄と卵白を分けて攪拌する製法が登場して広まったという。
 現在ポルトガル各地に伝わるパウン・ド・ローやスペイン各地に伝わるビスコチョだが、その多くは日本で作られるカステラのような角形ではなく円形を基本としたものが大半で、ぱっと見た目にはあまり似ていない。材料は鶏卵、小麦粉、砂糖などで、基本的にはカステラと共通な原材料を使い、同様に泡立てて作るから、スポンジ状組織や色などには流石にカステラと共通点がある。
 日本にカステラが伝わったのは、ポルトガル人が初めて種子島に漂着した1543年からそれほど遠くない時期と考えられている。フランシスコ・ザビエルが来日したのが1549年で、この頃にカステラの原型になる菓子を含めた南蛮菓子も伝わってきたのだろう。となると、まだポルトガルやスペインではまだ卵黄と卵白を分けて攪拌する製法が登場する以前のことで、つまり日本のカステラは生まれ故郷の南蛮でもまだ進化段階にある途中から枝分かれして、その後の鎖国政策で南蛮との交流を絶たれた後は日本国内で独自の進化を遂げたことになる。

 長崎カステラの老舗のひとつ松翁軒の主人が1993年秋にマドリードの菓子店を訪ねた際、自家の製品を土産に持参したことがあった。すると、試食した店の主人らから「旨い。何故こんなにしっとりしているのか?」と質問攻めにあい、ぜひ作り方を教えてほしいと頼まれたのだそうだ。原材料として必要な水飴を持っていき、これは澱粉から作られるのだという説明をしたが、ポルトガルには水飴がないのだそうである。
 つまり、現在我々が口にしているカステラは確かに南蛮渡来の菓子ではあるが、その味は日本において和菓子の技術などを取り入れつつ洗練されたものと言ってよさそうだ。しかも長崎には複数のカステラの名店・老舗があり、互いに切磋琢磨してきた歴史も本場でも評価される美味しさを生み出したのだろう。翌年夏、この主人はスタッフをマドリードに派遣して製法を伝えたという。いってみれば里帰りである。

 こうした例は他にもあり、たとえば愛媛・松山名物のタルト(一六タルトが特に有名)は現在の洋菓子でいうタルトとは異なりカステラ生地で餡を巻き込んだ菓子なのだが、これは長崎探題職にあった松山藩主・松平定行が自ら長崎から製法を持ち帰った際に、中のジャムに代えて餡を詰めることを自ら考案したという。伝わったそのままでなく独自のアレンジや改良を加えていく辺りがいかにも日本らしいと思うのだが、どうか。
 もっとも鶏卵素麺についてはほとんど伝来時のままで今に伝わり、同様にポルトガルからタイに伝えられた鶏卵素麺は現在でも結婚式などの席で出されるお菓子として喜ばれているそうだが、見かけも味も日本で生産されているものとほぼ同じだという。これは製法が非常にシンプル(溶いた鶏卵を沸騰させたシロップに細く流し込んで引き上げる)で、アレンジや改良の余地があまり無かったせいだろうか。

 さて、カステラについて延々と書いてきたから、凄く食べたくなってきたぞ。(^^;)