時々日記: 2003.11.1-11.15

 出発
 2003.11.7(金)
朝方にやっと発表用資料の最終直しが完成。そのあと久しぶりに?まとめて4時間ほど寝た。

大学に出掛ける前に、不在者投票のため区役所へ。けっこう混み合っていた。小選挙区・比例ともだいたい決めていたから、投票所に入る前に選挙公報をじっくり読んだのは最高裁裁判官の部分。ご存知の方も多いと思うが、最高裁の裁判官はキャリア裁判官が大半を占める高裁以下の下級裁判所と異なり、学者や民間弁護士などキャリア裁判官以外から数多く選任しているため、むしろ下級裁判所よりも世間常識的に納得できる判決を出すことが多い。で、そういう判決に反対意見を述べた裁判官を見てみるとこれがまたキャリア、ということがけっこう多いんだそうで。社会経験が少ないキャリアコース一直線の人が世間一般の感覚からズレていく好例というか。
 で、選挙公報で各裁判官がそれぞれ関わった判決でどういう判断をしているのかを確認したかったのだが、さすがに選挙公報のスペースでは全部の判決を訳にもいかず一部しか出ていなくて、しかもその大半は判決のあとに「全員一致」と出ているものばかり。これでは全然参考にならん(怒) この判決例をどういう基準で抜粋しているのか、おそらくは本人の申請だろうけれど、そういう時はやっぱ問題ありそうな処は隠すだろうしなぁ。日頃から問題のある最高裁の判決には一般人も目を光らせておかないということだろう。確かにこの国民審査で落とされた裁判官なんて居ないから無駄という考えもあるだろうけど。
 さて、総選挙の方の結果はどうなることでしょうね。結果は発表を終えた後にホテルの部屋で知ることになるだろうけど。

そのあと大学で最終仕上げと打ち合わせを行い、下宿で旅支度を調えてバス−地下鉄乗り継ぎで京都駅へ。初めてエクスプレス予約で新幹線の特急券を受け取る。たしかに便利だわ、これは。
 けっきょく新幹線の車中はほとんど寝ており、新横浜を過ぎた辺りで目が覚めたような。品川で下車。もちろん初めてだが、ホーム上に売店がまったく無いのね…。スペース上の関係と、特に上りホームは実質的に下車専用だからだろうけど。そのあと乗り継いでホテルへ。

 北へ
 2003.11.8(土)
例によって(?)ホテルの朝食バイキングをたらふく食べてから出発。山形新幹線は1時間に1本しかないので、上野駅で待ち時間が結構できてしまった。こういう時のために…と、あらかじめJR東日本の無線LAN実験のモニター登録をしておいたのだが、けっきょく設定をいろいろ試してもうまく繋がらなかった…。むーん。まぁ手数料を取られるものではないから損した訳ではないけれど。

発車時刻が近づいたので改札を抜けて地下の新幹線ホームへ。東北新幹線に乗るのは十数年ぶりで、その時はまだ東京乗り入れ前だから、当然ながら東京駅から山手線を乗り継いで上野からの乗車。
 あの時は現役の受験生の頃で、まさか落ちると思っていなかった前期日程の某大学を落ち、そのショックで暗い気分のまま新幹線を乗り継いで仙台に向かったのだが(…と書くと何処を受けたのかすぐに判るな(笑))、東京駅から山手線で上野駅に向かい、そこから地下の新幹線ホームに降りていく長いエスカレーターがものすごく長く感じられ、しかもホームの照明が暗かったせいか、エスカレーターに乗っている時に深く暗い闇に沈み込んでいくような気分になったことを覚えている。
 で、今回そのエスカレーターに乗ったところ、意外に短く感じたのと、ホームも思ったほど暗くなかった。まぁ改装もしているだろうし、気分的な問題もあるのだろうけど。

それにしても、ふだん東海道新幹線しか乗っていない身からすると、東北・上越新幹線系は実にカラフルである。異なる系列でも車体の塗り分け方を揃えているようで、長野新幹線「あさま」専用としてデビューし今は各方面に使われるE2系は上が白・下が紺のツートンに塗り分けられ間に赤ラインが入る。これが「はやて」用に導入されたE2系ではラインがピンクに変わり、「Max」用全2階建車E4系はラインが黄、開業以来の200系もこの塗り分けに改められつつありラインが緑。これに加えて秋田新幹線「こまち」E3系は上が白・下がグレーのツートンで間にピンクのライン、これから乗る山形新幹線「つばさ」用の400系とE3系は銀の濃淡で上下を塗り分け間に緑のラインが入るもので、たしか400系の登場当時は色こそ今と同じだが違う塗り分けだった記憶があるんだけど、塗り分けを統一しているんだろうな、やはり。
 思うに、東北・秋田・山形などは2方向の列車を連結することが多いので、色を変えても塗り分けくらい揃えてあった方が外見的に統一感があっていいだろうという発想なんだろう。この流儀に従っていないのは塗り替え前の200系(アイボリー地に窓周りとスカートが若草色のお馴染みの姿)と初代MaxのE1系くらいだが、このあたりは併結仕業のない編成になるのかな。この先、高崎でも分割併合作業ができるようになるそうなので、いずれ「とき」「あさま」併結が始まると12両編成で併結機能のない初代Maxは行き場を失いそうなのだが。
 東海道新幹線も300系以降、青のラインの位置が窓周り+スカートから窓下に変わってしまったし、JR西日本の500系「のぞみ」や700系レールスター、旧型車の塗り替えでは新しいコンセプトのカラーリングになったので、「新幹線」というとイメージするあの塗り分けは最早絶滅寸前なのだよなぁ。

もうひとつ気になったのがホーム転落防止柵で、最近は東海道新幹線の駅ホームで取り付けが進行しつつあるが、東海道新幹線の場合は全部16両編成で系列も3系列(300系・500系・700系)しか存在せず、扉の位置もだいたい統一されてほぼ同じ位置だから、扉の位置以外はきちんと固定柵を立てられるのだけど、東北・上越新幹線の場合は編成も8両〜16両まで多種の上、在来線に乗り入れる「こまち」「つばさ」はフル規格新幹線とは車両の大きさが違う(フル規格は1両25m、在来線は1両20m)ので、当然フル規格の「やまびこ」16両編成と「はやて」10両+「こまち」6両編成や「やまびこ」8両+「つばさ」7両編成では扉の位置も全然違ってくる訳で、これでは東海道新幹線のような固定柵を設置しようがない。で、どうなっているかというと、ホームの東京寄りには固定柵も存在するが、「こまち」「つばさ」が連結される八戸寄りではポールが何本か立っており、列車到着時以外はポールからテープを引き出して仕切りとする、なんだか遊園地の順番待ちのようなことをしていた。いざという時の転落防止用にはならないような…。

11:42発の「つばさ111号」(「MAXやまびこ111号」と併結)で上野を出発。この時はまだ車内はガラ空きだったが、大宮でどっと乗り込んできて満席になった。上野で乗車時に隣の席に乗っていた人が宇都宮で下車したので、窓側の席に移ろうかと思ったらすぐに入れ替わりで別の人が乗車してきた…効率良すぎというか。
 しかし東北新幹線はトンネルだらけ。雪対策でシェルターになっている箇所も多く、しかも東海道新幹線のような携帯電話対策工事も行われておらず圏外表示ばかり。iBook導入を機に買ったUSB接続で携帯をモデムに使うケーブルもほとんど意味ナシ。だってPPPで繋ぎに行っている間にトンネルに入てしまうからなぁ…。JALでは機内に無線LANを入れるらしいが、いずれ新幹線でも無線LANが入る時代が来るんじゃないだろうか。
 福島で「MAXやまびこ」と分離、高架を下って在来線へ入る。先程まで高架の柵やスラブ軌道が見える車窓だったのがいきなり踏切まで存在する在来線の車窓風景に一変するのはやっぱり妙だ(笑)。山形県内に入って気付いたのは車窓から見える民家の屋根。瓦葺きがほとんど存在せず、大半が鉄板葺きになっている。やはり雪対策なのだろう。板谷峠のあたりは物凄い霧で風景がよく見えず、峠駅が何処なのかもよく判らなかった。あ。「峠の力餅」買うの忘れた…。とはいえ実は新幹線内で売っているのは別物らしいのだが。

14:28に山形到着。列車を降りたら少しだけ寒く感じたが、慌ててコートを出す程でもない。ただ雨が降っているのは参った。改札を抜けて、歩いてホテルへ。それほど遠くない筈だったが、荷物と雨のせいか長く感じた。あとから100円巡回バスの存在を知り、それに乗れば良かったと思ったが…。ともあれホテルに到着しチェックインを済ませ、荷物を片付けていたら16時近くになってしまい、ガイドブックを見たら博物館その他の開館時間が16:30までとあったので今日は断念。おとなしく部屋で明日の練習をすることに(つ−かそれが本来の仕事だろ)
 夕食はホテル内の和食レストランで。ちょうど「地産地消」運動の一環で山形の特産物を使った料理のキャンペーン中ということで、山形牛のすきやき鍋がお手頃な値段だったので注文。いや、火を通しても柔らかいままの牛肉って久々に食べました(そんな肉高くて普段は喰えません)。野菜に白菜がなく牛蒡が入っていたのが意外。旨かったです。そのあと再び部屋で発表の練習。

 当日
 2003.11.9(日)
目覚めた後すぐに身支度。今日はまだこのあと1泊するので荷物をまとめなくともいいから楽だけど。コンビニで朝食を買い、ホテル前でタクシーを拾って会場へ。「東北芸術工科大学」と行き先を告げると運転手の女性はすぐに分かってくれた。「今日は日曜日ですけど何かあるんですか?」と訊かれ「学会で…」と答えると、「じゃ遠くからお越しに?」「ええ、京都から」と答えたら「京都!? だべか!?」と大袈裟に驚かれ(いやこっちが驚いたわ)。山形ってそんなに京都からの人間が珍しいんかいな。
「いや〜、今度うちのあんちゃんが修学旅行で京都に行くんですよ(注:この文脈から察するに「あんちゃん」とは息子さんの事と思われる。中高生の息子がいる年齢には見えない印象の女性だったが…)。だからもぉ今から楽しみらしくって、ちょっと反抗した時に「だったら修学旅行に積み立ててあるお金を取り崩して生活費に使っちまうぞ」と言ってやると急に大人しくなって肩揉んでくれたりするんですよ」…お母さん強いわ。

会場となる東北芸術工科大学は山形市内の中心街からタクシーで10分ほどの場所だが…、見事になんにもない場所であった。大学が出来てから開発が始まり、これから住宅街になっていこうかというような地域。で、タクシーを降りたところが大学の正面だったが、…でかい。正面の本部校舎と思われる建物は広い人工池に囲まれ、能舞台なんぞまである。なんだか建物が仰々しいなぁと思ったら、うちの下宿の近所にある京都造形芸術大学姉妹校なんだそうな(理事長が同じ人)。ものすごく納得してしまった(汗)

受付開始より少し前に到着したのだが、ロビーには既に人が集まっており、その中にうちの研究室の教授の姿を見つけて挨拶。ロビーに置いてあった巨木(虫害で枯れたものを引き取ったそうな。写真に見える瘤が虫害で出来たもの)についてあれこれ話しているうちに、ほどなく受付が始まったので手続きを済ませ、会場となる教室でPCの接続方法や手順をスタッフの方に確認。その教室での発表がまだ始まっておらず、実際に接続して確認させて貰えたのは有り難かった。
 自分の発表は午前中の部の最後なので、それまでは各教室を回って興味のある発表を聴いていた。中には国立大学の助教授ともあろう先生の発表が、ただ早口で述べるだけでOHPも表を並べただけで見辛く、発表後に教室前方に座っていた年輩の先生から発表の方法についてダメ出しを喰らっていたりで、なんだかリハーサルのようであったり(苦笑)。逆にこちらは「国立大学の先生でもあの程度のがいるんだな〜」と(←超失礼)ちょっとだけホッとしたりして。

11時近くになり自分の発表が近づいたので、会場の教室に入り出番待ち。その間にiBookを立ち上げPowerPointを開けてモニタに繋いで準備をする。で、直前の発表が終わりいよいよ出番。交代時間もほとんどかけず、スムーズに発表に入れたのだが、マイクを持って発表することになるとは想定しておらず、こちらは左手に原稿を持ち、右手にはマウスを持ってPowerPointのスライド動作を遠隔操作して、できるだけスクリーンの近くに立って説明するつもりだったので、マイクと原稿とマウスを持ち替えながら発表する事になり自分の想定よりも不格好になってしまった…。しかもその段取りのせいで時間オーバー気味になってしまったし。
 質疑応答では特に質問が出ず、座長を務めていた九州芸工大の先生から質問がされたが、どうも先生が質問の主点に置いたところがこちらの研究目的のメインではなかったためかどうも質問と回答が噛み合わず(答えていて自分でもそれが分かった/泣)、そのままタイムアップになってしまった。まぁうちの教授からは後で特にダメ出しも出なかったのでホッとしたけど。

発表後、バスの時間を待って会場を離れてホテルに一旦戻る。着替えてようやく観光気分。まだ昼飯を食べていないので繁華街に出て、冷しラーメンで有名な「栄屋」に行くことに。でもまさかこの時期に冷しラーメンは無いだろうと思ったら、しっかりメニューにあった。けど寒そうだし暖かいのがいいやと「薬膳山形ラーメン」なるものを頼む。
 そして出てきたのは…デカい。これ、「薬膳ラーメン」と「山形ラーメン」という二つのメニューの具を一度に放り込んだモノらしく、「薬膳」の具はたぶん中華の野菜、「山形」の具は山形牛と山菜らしい。味は醤油ベース、麺はストレートで中くらいの太さ。なにぶん量が多く食っているうちに汗がだくだく出てきた。一瞬なにか体内の悪いモノが一気に吹き出したのかと思ったが(それは筒井康隆だ)、単に暑くなってきただけで。これだったら冷しラーメンを頼んでも良かったかもしれない。ふと壁を見ると10年くらい前の日付でアルフィーのサインが。サインを見ると2人しか来なかったようだが、やっぱ来なかったのは高見沢さんかなぁ(笑/誰のサインか俺には読めない)

そのあと100円巡回バスで霞城公園へ。「霞城」とは山形城のことで、山形駅にほど近い場所にある。この周辺に美術館や最上義光歴史館があり、城の中に山形県立博物館がある。最初に最上義光歴史館へ。これはかなり新しい建物で、展示スペースもさほど広くないのだが、天下人でもない限りこういう一武将の名を冠した公共施設って珍しいような気が。
 ご存知の方も多いと思うが最上義光は伊達政宗の叔父(最上義光の妹が政宗の母)で、隻眼の政宗を忌み嫌い次男を溺愛した母に政宗は殺されそうになり追放したが、これも陰で最上義光が操っていたという説もある。たしか大河ドラマ「独眼龍政宗」では原田芳雄が演じてカッコ良かった印象が。親戚とはいえ最上と伊達の正直争いは激烈だったそうで、その決着が付かないまま豊臣の天下となり、関白秀次の失脚・処刑によって最上義光は秀次に乞われて嫁がせた15歳の愛娘・駒姫を処刑される悲劇に逢うが、彼自身も父親と長い権力抗争を繰り広げたり弟や長男を殺害したり、と、かなり…な人物だったようだ。
 関ヶ原の合戦の功績で加増され出羽その他57万石を得て、最晩年には病気を押して駿府へ参り家康に領地安堵を懇願したりするなど、最後まで領土的野心を持ち続けた政宗とは対照的な晩年だったようだが、彼の死後わずか2代で相続問題から最上家は混乱し、それを幕府に咎められて改易、近江で僅か1万石に没落してしまう。その後、最上家の領地だった地域は領地を細かく分割されて天領や譜代・親藩の管轄となり、しかも頻繁に国替えで領主が変わった為に山形は求心力を失っていく。もし最上家57万石のまま明治維新まで続いていたら今頃は山形も仙台と並ぶ東北の大都市になっていたのかも…という想像も地元にはあるのだろうか。
 そんなことを考えながら霞城公園へ。橋を渡って城内に入るのだが、この橋、堀を越えるだけでなく奥羽本線(山形新幹線)も一緒に越える。どうもこの区間では奥羽本線は城の堀跡を利用して建設されたように見えるのだが(昔の名鉄瀬戸線のような)
 公園自体はは無料で、ここに設置されている最上義光の銅像がすごくカッコイイ(兜など時代考証まるで無視の作品らしいが)。明治期にほとんどの堀が埋められ建物も完全に取り壊され、陸軍の駐留地になったのだが最近になって発掘調査が行われており復元工事にも熱心なようで、先ほど渡った橋の先にあった櫓や石垣もごく最近の復元らしく、本丸跡では大規模な発掘および復元工事の最中だった。そのあと博物館を見て、城をあとにして駅まで歩き、また100円バスで文翔館(旧県庁・県議会庁舎)に立ち寄る。バス停から歩いて文翔館へ向かう途中、昔ながらの模型店を見かけたのだが、ショーウインドーには船や鉄道、何だかよく分からないロボットらしき模型の完成品が並び、窓ガラスには最近のガンプラのポスターが。で、看板をふと見ると「ノーベル賞も模型から」…っていったい何のキャッチコピーなんですかこれ(笑)。ずいぶん昔に作られたものっぽかったけど。しかも煙草屋併設の模型店ってはじめて見た。
 文翔館のライトアップされた建物を眺め、それからホテルへ。すぐに外出して近所の蕎麦屋で板蕎麦を食べる。うまうま。けっきょく今日は麺類ばかり(笑)

で、部屋に戻ってから選挙速報をずっと見ていたのだが…、うーん、何だかなぁ。選挙前の世論調査で「自民圧勝」という予測が出ながら勝てない結果というのはこのところお馴染みになってきたが、これってアナウンス効果を折り込み済みでわざとマスコミ各社が狙ってやってんじゃないだろうな(苦笑)。  特に新党ブームでも何でもなく、投票率が低いのにさほど自民党が延びず民主党がそれなりに議席を獲ったのは、やはり都市部だけでなく地方でも「何も考えずに自民党に入れる」投票行動が減りつつある証拠だろうと思う。自民党が絶対、という地方の年輩の方に多い発想がそろそろ崩れてきたということで、この状態は民主党がよほどヘマをしない限り今後も続きそうだし、民主党だってかつての細川政権や新進党の苦い経験があるからその辺りは成長しているだろう(…と願いたい)。
 もっとも、180議席近く獲って二大政党に近づいた民主党だが、個人的にはもっと獲れてもおかしくなかったと思うし、そうでなければ合併した意味もないだろう。常に政権を取って代われるだけの体力と緊迫感がなければ意味はない訳で、その辺りまだまだ足腰が弱そうではある。個人的に期待している議員は自民党より多いし、党にもそれなりに期待はしてますけどね。(それなり以上にはしないけどさ)
 まぁ社民党・共産党についてはいいかげん賞味期限が過ぎたと言うことなのかな(いやそんなモンとっくの昔に切れてるという意見ももっともだが)。画期的な具体案もないまま護憲を叫んだって、北朝鮮があんな現実を突きつけている現状では説得力もなかろう。
 社会党−社民党もけっきょく9年前に自民党と連立を組んで次々と党是を一度覆してしまったところから支持を失い消滅への道を歩んでいる訳で、以前から自民党には連立した他党の力を絞れるだけ吸い尽くして自らは生き永らえるという怪物じみた部分があって、かつての新自由クラブやさきがけ、今回の保守新党がその犠牲になっている訳だが、社民党もいずれそういうことになるのだろうと思う(人材的には民主党に流れるんだろうけど)。公明党だっていずれ危ないぞ。今はキャスティングボードを握った気分になっているかもしれないが、既に自民党の集票マシーンとしてしか機能してないんだし。

ちなみに山形のローカルニュースでは、やはり加藤紘一の復活が最大のニュースになっていたのだが、…そうそう山形といえばNHKにスイカップで一躍有名になったキャスターがいるけど、彼女の出演は平日らしく、遂に画面で見ることは一度もなかった。

 オフに牛肉
 2003.11.10(月)
起きた後9時過ぎにホテルを出て駅の売店で土産を買い込む。内陸で昔はタンパク源の確保が厳しかった山形や米沢では鯉の養殖が盛んで、今も果物や牛肉と並んで鯉の甘露煮が名産のひとつ。…だが、昨今の鯉ヘルペス騒ぎの最中では誰も買わないだろうなぁ。お菓子の他、牛肉のスモークや「出羽櫻」の酒を買って、慌てて「つばさ」に飛び乗る。

30分ほどで米沢に到着して下車。米沢市は僕の実家がある愛知県東海市と姉妹都市提携を結んでいる。人口的には9万3000と10万2000で東海市がやや多く、工業生産的にも新日鐵名古屋工場やトヨタの船積み基地を持つ東海市の方が圧倒的だが、世間的には市制施行からまだ30年ちょっとしか経っていない東海市と違って古くからの城下町で市制施行から既に110年を越える米沢の方がはるかに知られた町だろう。かつては伊達政宗が生まれ育ち豊臣秀吉の命で岩出山に移るまで居城とし、その後蒲生氏の支配を経て、秀吉から会津120万石を与えられた上杉景勝の重臣で高名な(「花の慶次」でもお馴染み)直江兼続が米沢30万石を任されて都市設計を行い、関ヶ原のあと上杉家が米沢30万石に減封された際に上杉家の居城となった。このとき120万石時代の家臣団や関ヶ原の際に新たに雇った武士(前田慶次もその一人)たちを一人も解雇せず米沢に連れて行った辺りが義に生きる上杉家らしい所以だが、そのためにその後慢性的な財政難に苦しむことになる。
 更にその数代後には若い当主の急死により後継者がおらず断絶の危機に見舞われたが、上杉家の娘を正室にしていた吉良上野介義央と保科正之の尽力によって断絶を免れ、吉良義央のひとり息子(綱憲)が上杉に養子で入って当主となり吉良にはその次男(義周)が養子として行く(吉良義央にとって孫を養子にする形)ことで話がついたものの、石高は30万石から15万石に半減されてしまった。
 そして財政状態はますます悪化し9代重定の時には幕府へ領地返上を申し出ることまで考えたほど苦境に陥り、そこに現れたのが遠戚(綱憲の曾孫)から養子で入った10代当主の治憲(鷹山)である。行財政改革の先駆者として、また封建時代にあるまじき民主主義思想を説いたことで近年注目されている上杉鷹山だが、彼の少年時代の師であり、後に米沢藩が藩校・興譲館の設立にあたって招いた儒学者・細井平洲の出身地が東海市で、つまり姉妹都市提携を結んでいるのはその縁が理由。

そんな訳で、東海市の中学校の最近の修学旅行では、僕の頃の東京・箱根ではなく東京と米沢なんだそうな。で、その米沢に一体どれくらい見るところがあるのかと思いつつ米沢へ降り立ったのだが。その米沢駅ホーム、新幹線ホームが上下とも同じ。駅舎の改札口を抜けたところがホームなのだが、ホーム進入の際に曲線がなく高速通過ができる構造になっているせいもあるのだろうけど、在来線改造とはいえ新幹線ホームが上下とも同じ1本しかないのは流石にちょっと驚く。在来線の奥羽本線と米坂線のホームは跨線橋を渡った先の島式ホーム1本だけで、これじゃ東海市の太田川駅の方が大きいよな(苦笑)。
 駅前もガランとだだっ広い印象。バスも少なさそうなので歩いて城まで行くことにしたが、道には人通りも車も少なく、その割にはずいぶん牛肉店やすきやき店だの焼肉店が並んでいて「これで儲かるのか!?」と考えてしまった(←失礼な)。ガイドブックを見つつ、途中で米沢牛のステーキを食べさせてくれる店に入って昼食。これがまためちゃくちゃ旨かったのよ。さすが米沢牛。

お腹が満たされたところでまた歩く。米沢城の跡地には伝国の杜というホールと博物館を併設した大きな建物と、堀に囲まれた本丸跡地に上杉神社があり、その入口にあたる場所に物産館のような施設がある。ここで売っていた揚げたての米沢牛ビーフコロッケを食べつつ米沢市上杉博物館へ。いってみれば米沢市の歴史博物館で、上杉といっても半分くらいは上杉鷹山の紹介に割いていたような。館内には「鷹山シアター」という3連続スクリーンを使いドルビーデジタルまで導入した設備があって鷹山の映画まで見られる。あのナレーションはたぶん紺野美紗子だと思うのだが、さて。しかし伊東忠太が米沢の出身とは知らなかった。
 博物館を出て、上杉神社へ。その伊東忠太の設計で再建された建物だそうだ。米沢上杉家の祖である上杉謙信はその死後、鎧をつけた姿で瓶に収められて祀られ、上杉家が越後から会津若松、さらに米沢に移った時に一緒に移されて城内に祀られてきた。その霊は仏式によって祭祀されていたのだが、明治になってから神式に改められ、米沢城が取り壊された時に遺骸は上杉家廟所(後述)へ移され、城跡には上杉神社が建立された…という歴史だそうな。ここには一時期鷹山も合祀されたが、のちに別に松岬神社が創建されてそちらに直江兼続・細井平洲らとともに祀られた。ここの宝物館に、直江兼続の有名な「愛」の前立ての兜などが展示されている。
 その近くに、赤穂浪士の討ち入りのあと上杉家に降りかかった厄難を延々と恨む石碑があった。先に書いた通り吉良家と上杉家はほぼ同一といっていい程の血縁関係になっていたので、此処ではあまり忠臣蔵は人気がなかったのかもしれない。

城跡から更に歩いて上杉家廟所へ。途中でバスがあれば乗っていこうと思ったがダイヤを見たら1時間に1本もないので断念、ひたすら歩く。30分以上トボトボと歩いてようやく上杉家廟所にたどり着く。春先だったらまず俺には近寄れないであろう杉の古木が立ち並ぶ森の中に廟所はあり、上杉謙信の廟を中央にして、歴代藩主の廟が左右交互に外側に向かって立ち並ぶ。
 謙信の遺骸は先に述べたように明治維新までは米沢城内にあり、この地にはいざという時の為の避難所としての廟所として用意されていたもので、最初から此処に葬られたのは2代景勝から。その後、鷹山の意志から、早世した実子の顕孝(世子として特例で此処に葬られている)や義父である重定以降は火葬を止め土葬になり廟の建物の形式も入母屋から宝形造に変わったが、いずれにしても何の装飾もない質素なもので、かつて仙台に行った時に松島の瑞巌寺で見た伊達歴代当主の廟の漆塗り金箔押しの超豪華な建物とはとんでもなく違う雰囲気である。
 ただ流石に傷みが激しく、一部の廟では木造の柵などがかなり朽ちており、ちょうど綱憲の廟がすっぽり工事用シートに覆われて修復工事の最中だった。漆などで覆っていない素地の木材なので傷むと進行も早いだろうし、文化財としての保存がなかなか大変だろうと思う。

時間があれば直江兼続の墓がある寺にも行きたかったが余裕はなく、帰りは途中でタクシーを拾って駅に直行と考えていたのだが、タクシーすら通らない。結局ひたすら歩いて米沢城まで戻り、此処でようやくタクシーを拾って駅へ。米沢駅で土産を眺めつつしばらく待った後、「つばさ」に乗って東京へ。こうして帰路に就いた。東京からは「ムーンライトながら」。もう完全に爆睡。

 名古屋にて
 2003.11.15(土)
昨日から帰省してます。iBook G4を持って帰省したのでHarbotのイベントも確認できました。