<キリシタン地名 1> |
レオン・パジェス著(吉田小五郎訳) 日本切支丹宗門史に登場する
キリシタン縁の地名 ー 特に中部地方 − 一覧表
トップ頁へ
|
本表は、レオン・パジェス(1814年パリ生れ、Leon Pages)著、吉田小五郎訳(クリセル神父校閲)日本切支丹宗門史(Histoire de la Religion Chretiennue au Japon dupuis 1598 jusqu'a 1651,
comprenant les faits relatifs aux deux cent cinq martyrs beatifies le 7
juillet 1867. 2 vols.Paris, 1869) (岩波書店刊 初版昭和13年、参照本は昭和35年第5版全3巻)に登場するキリシタン縁の地名(特に中部地方に限定)の一覧です。
本表ではカトリック名古屋教区内の地名を重点的に掲載致しましたが、この本には琉球から蝦夷に至る広範な地域での宣教師の活動とキリシタン達の所在が記述されております。なお、勝手ながら、ここに引用した文の仮名遣いや漢字は現代国語に準じさせていただきました。 作成者、寺尾總一郎拝 |
登場年 |
登場地名の文の引用 |
登場頁 |
<カトリック名古屋教区(愛知・岐阜・福井・富山・石川県)内の地名は赤系、他の地名は青系の文字で表示> |
1598-99 |
ヒエロニモ・デ・イエズス師(フランシスコ会)は、京都から程遠からぬ伊勢の信者の家に匿われていた。然るに、彼は1598年12月7日、捕われて家康の面前に引出された。家康は彼を優遇して、一切恐怖の念を捨てさせるようにし、剰え同会の修道服を着せて自由の身にしてやった。 |
上25 |
1600 |
宣教師達は、京都から美濃・尾張を訪問した。尾張には多数の受洗者がいたが、特に同国の大々名福島殿(福島正則、文禄4年尾張清洲城に入り20万石を食む)の家中の士10人の受洗があった。 |
上43-1 |
1600 |
美濃の要市岐阜は、信長の孫であり、同時に嫡嗣でありながら太閤様に天下を奪われた中納言殿(織田秀信、信長の嫡子信忠の長子にして慶長元年5月權中納言従三位に進む)の城下であった。彼は美濃の要地を領していた。此大名は17歳の時、既にキリシタンになったのであるが、但し太閤様には内密であった。今や、彼は何等恐れる所もなく名乗り出た。彼は天主堂を建てさせ、年金を出して神父10人の費用に宛てた。彼は又貧しい人々の為に、病院を建てたいと思った。岐阜では、実に夥しい改宗が行なわれた。 |
上43-2 |
1605 |
北国即ち北の地方の中、加賀、能登、越中の3箇国は、肥前殿に属していたが、この肥前殿は加賀の城下におり、宗門にはいたく好意を示していた。越前には公方様の子三河守(秀康)の領地で、丹波にもキリシタン大名がいた。司祭1人と修士1人とが、この年、金沢に行って逗留した。(高山)右近殿は、最近、そこに美しい天主堂と伝道所とを建て、必要程度の知行をつけておいた。修士は、大名を訪問したが、この大名(前田利長)は甚だ好意を寄せ、その重臣の1人を遣わして宣教師を訪問させた。この大名はまもなく越前に行って隠居した。 |
上170 |
1605 |
金沢の神父は、屡、能登のキリシタンを訪問した。そこの信者の大部分は、右近殿の譜代の臣と越前の家来であった。之等のキリシタンは立派なものであった。 |
上171 |
1607 |
ヨハネ・ロドリゲス神父は、巡礼者の相等多い信濃に行き、岐阜その他の地に、美濃の昔からのキリシタンを慰問して、京都に帰った。 |
上193 |
1607 |
フランシスコ・パエス神父(イエズス会日本管区長)は(江戸からの)帰途主として清洲の町にいた尾張のキリシタンを訪問した。毎年京都から、一神父が行っては彼等を訪問していた事とて、彼等は驚くべき堅い信仰の持主であった。 |
上193 |
1607 |
註4:北国3州の一である加賀の城下で、前々から好意を寄せていた、この国即ち加賀の領主肥前殿の居住する都市金沢には、司祭が1人と修士が1人いた。彼等は、なおドン・ジュスト右近殿の治下にあった能登の世話をも受けもっていた。成年者の受洗が90人あった。神父は越前の国を慰問した。 |
上211 |
1611 |
註3:北国3州の一なる加賀の城下町金沢には、1人の神父がいた。同地には、250人の成年者の受洗があったが、その中には大勢の武士がいた。領主は日を追うて好意を寄せるようになった。ジュスト右近殿は依然として、誠に立派な亀鑑であった。彼の聟(横山康玄)は領主の重臣の1人であったが、秘かに洗礼を受けて、公然宗教的の義務を守っていた。改宗者を助けるために、越前、能登の国々に出かけた。 |
上267 |
1610 |
註3:公方が尾張に来た時、1人の神父が信者の信仰を固め、激励するために遣わされた。この神父は将軍を訪問し、次いでキリシタンの要求に応じた。 |
上248 |
1610 |
註3: 最後に三河に第3の伝道があった。 |
上248 |
1610 |
註3: 又、駿河に伝道が試みられ、大いに効果があった。帰途、神父は三河のキリシタンを訪問した。 |
上248 |
1610 |
註3: 北国3州の一で、肥前殿の所領である加賀の城下金沢の伝道所には2人のイエズス会員がいた。此伝道所附近には、信仰心の強い若干の領主がいたが、就中、当時南坊と自ら名乗り、布施を以て神父達を支持していた、ジュスト右近殿が有名であった。 |
上248 |
1611 |
伏見には、司祭、修士が1人宛いた。神父は、関東の上野に行ったが、それはこの地に嫁いでいる有馬殿の女を訪問するためであった。彼は美濃、尾張、伊勢、三河、駿河、及び武蔵の諸国を歴訪した。この旅行を機会に、成年者で洗礼を受けた者が270あった。 |
上265 |
1612 |
浄土宗の中で、司教の位に相当する長老の位にあった、尾張の城下町名古屋の一仏僧と、紀ノ國の甚だ尊貴の大名とが、1人の哀れな盲人からキリシタンの教理を教わった。彼等は折も折、聖き洗礼を受け、よく耐えた。 |
上292 |
1612 |
同じくこの年、4年前にキリシタンになった美濃の大々名の1人の息子稲葉十兵衛(正貞)は一修士を招いたが、それは名門出の夫人に教を受けさせるためであった。夫人は、子供や家族50人余の者と共に、洗礼を受けた。 |
上293 |
1612 |
迫害が起こり始めた頃、ディエゴ小笠原(權之丞)は三河にいた。(中略)そこで将軍の名に於て、彼がもとの功労に免じて生命は免すが、財産は没収した上、追放する旨を記した駿河の奉行の報に接した。 |
上296 |
1612 |
北国諸州の一である加賀の城下金沢には、一つの伝道所があって、ここには司祭と修士が各々1人づつおり、その費用はジュスト右近殿が出していた。右近殿は、同国の大名肥前殿から弾劾された。すると彼は、自分は唯一の真理を信じている、この年になって今更変える訳には行かないと答えた。領主はジュストとその他のキリシタンを放任しておいた。 |
上293 |
1612 |
公方の常住の地である駿河には、司祭が1人と修士が1人いて、此2人は屡江戸を訪問した。 |
|
1615 |
京都にいたイエズス会の神父2人と堺にいた神父は、伏見、津ノ国、丹波、尾張、伊勢と北国、即ち越前、加賀、能登を巡歴した。 |
上401 |
1615 |
駿河では、11月1日、名門出のキリシタン6人が酷い拷問を受けた。熱鉄で額に十字架を烙印され、又その指先を切られ、腿の腱を切られた。これ等の中には、嘗て皇帝の鉄砲組頭で、3年前に14人の武士と共に追放されたヨハネ原主水がいた。 |
上405 |
1615 |
ディエゴ・デ・サンフランシコ師(聖パウロ管区会員1612年来日)は通路が開けると美濃に行った。彼は、2箇月其処に留まった。 |
上406 |
1620 |
同じその頃、ベント・フェルナンデス師(イエズス会員、1606年訪日)が、江戸に遣られた。彼は同所に行くため、近江、美濃、及び尾張を通過した。一ノ宮の新しいキリシタンは、領主から脅迫された、然し、この領主も彼等が命を投出す覚悟でいるのを知ると、立派な家来を失うまいとして黙認した。神父は、なお伊勢、三河、及び遠江の諸国を歴訪した。 |
中136 |
1620 |
ベント・フェルナンデス神父は、山賊のために甚だ危険な信濃を通り、道中ずっと危険な越後に行った。彼は越中に出て、加賀の城下町で3箇国の領主の居住の地金沢まで行った。彼は、伝道のために、同地に3箇月留まり、将軍の従兄弟(前田利常?)に洗礼を授けた。彼は、能登を旅程の最後とした。同所では、聖なる光に輝く有徳の一盲人が、自宅に礼拝所を設け、そこに大勢の新しい信者が集まっていた。 |
中137 |
1621 |
日本人の神父ディエゴ・結城は、近江、美濃、伊勢、紀ノ國、並びに阿波の諸州を歴訪した。 |
中177 |
1623 |
註6: 司祭が1人と、伝道士が2人で、武蔵と将軍の屋形のある江戸で働いていた。司祭は、隣接の諸州、沼田、三島、また駿河、能登、加賀の地方にまで、よく旅行をした。 |
中300 |
1623 |
京都の神父は、伏見のキリシタンや、山城、近江、尾張、並に、伊勢の地方のキリシタンを訪問した。 |
中300 |
1624 |
ある神父は伊豆、他の神父は尾張の地方を訪問した。註16 尾張の城下町、一ノ宮の異教徒たちは、棄教させるために、実に債務者たるキリシタン側の信用を得ようと相談がまとまっていた。キリシタン達は、互いに助け合い、借金を返すことができた。役人から威嚇されると、彼らは、イエズス・キリスト様のために死ぬ身であるから、浮世の品には何等用がないと言ってあるものは全部提供した。 |
中323-3 |
1624 |
美濃と近江で、キリシタン達は、酷い目にあった。 |
中323-4 |
1624 |
伊勢と備後では、北国の諸州とは違って左程酷くはなかった。 |
中323-5 |
1624 |
神父たちは、加賀、能登、越中、及び紀伊を歴訪した。 |
中323-6 |
1626 |
日本人の一神父が津ノ国、但馬、丹後、若狭、近江、美濃、及び尾張のキリシタン達を歴訪した。 |
下47 |
1626 |
同神父は医者の態をして越前に行き、そこから、更に加賀、能登、越中、及び佐渡の島に渡った。佐渡には銀山があって、夥しいキリシタンが来て働いていた。 |
下47 |
1631 |
註4: 尾張と名古屋に9人の殉教者があり、三会には3人、タカヤマもしくはタカギには9人。駿河には5人、三河には5人、御油に5人、吉田(現在の豊橋)に2人、牛久保に1人、マルヤマ(額田郡丸山村?−寺尾註)に1人、千々岩に2人の殉教者があった。 |
下201 |
|
|
|