忘れられない音楽家

今までに私はたくさんの音楽家と共演いたしております。

本当に素晴らしい音楽家がたくさんおいでになりすぎて書ききれないほどです。

その中で、もう二度と共演できなくなってしまった音楽家の思い出を記すことにしました。(2002.4.5)

指揮者

レナード・バーンスタイン

山田一雄

朝比奈隆

山本直純

 

バイオリニスト

数住岸子

 

ピアニスト

ルドルフ・ゼルキン

シューラ・チェルカスキー

 

ヴィオリスト

白尾とも子

 

 

 

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バーンスタイン

バーンスタイン氏のことは私のプロフィールの中にもたくさん書きましたが

今まで接した音楽家の中で一番感銘を受けた方です。

1981年夏、タングルウッド音楽祭で初めてお会いしました。

最初からオーラを感じられる方で、そこにいらっしゃるだけで何かが違いました。

幸運にも私はコンサートマスターをさせていただいていたので

一番近くで接することができて、この時の経験は私の一生の宝です。

私のプロフィールの中の文を抜粋します。

1981年夏、タングルウッドで。

 前半がバーンスタイン氏の指揮、後半が学生の指揮者2人が1曲づつ振ります。プログラムは前半にモーツァルトのピアノコンチェルト17番(バーンスタインの弾き振り)、ヒンデミットの金管と弦楽器のためのコンチェルト、後半がコープランドのアパラチアン・スプリング、ラヴェルのラ・ヴァルスでした。ドアを開け放しての演奏会で、アパラチアの春の時には小鳥の鳴き声が聞こえて来て、あたかも譜面に書いてあるがごとくでした。

モーツァルトのピアノコンチェルトの練習風景

 バーンスタイン氏はラ・ヴァルスの練習の時に いきなり指揮台に上がり 棒を振り出して、結局そのまま最後まで通して演奏しました。この時には本当に感動しました。「3拍子が わかってしまった!」気がしました。バーンスタイン氏の身体の中には、血でなくて音楽が流れているのではないかと感じました。また練習の後、寮にいらしゃったので、皆で取り囲みお話を伺いました。特に覚えているのは、「ヒンデミットは天才だ。素晴らしい作曲家だ。」と何回もおしゃった事です。ヒンデミットについて随分熱心に話されました。他に「学生を教えるのがとても楽しい」とか「初めて会った時のオザワは今の君たちよりもっと英語が話せなかった」と真似をして皆を笑わせていました。チェーンスモーカーで、練習の時でも たばこの匂いがしてくると後ろに来たんだとわかったぐらいです。

1989年、1990年、ミュンヘンで。

 バーンスタイン氏は2回バイエルン放送響を振りに来ました。1回目はベルリンの壁がなくなった時、壁の両側で記念の第九の演奏会があった時です。これはビデオにもなっていますのでご存知の方も多いのではないでしょうか。母体がバイエルン放送響だったので練習はミュンヘンでありました。素晴らしいの一言でした。第九ってこういう曲だったのか、ということと、歓喜の歌だというのが実感として伝わってきました。決してきれいな棒でもないし、わかりやすい棒っていう訳でもないし、どちらかというと乱暴な感じがする棒だったのですが、立っているだけで音楽が伝わってくるので棒は関係なかったのかもしれません。とにかく出てくる音が違うんです。そろそろ4ヶ月間くらいバイエルン放送響の音を聴き続けていた時でしたが、それまでの音と何かが違いました。オーケストラは生き物だなと感じました。

 2回目は次の年、1990年の5月でした。モーツァルトのc-mollミサでした。この頃にはもうお仕事をいただいていたのですが、さすがに編成が小さくて団員の方にも降番がありましたのでエキストラの出番はありませんでした。その事を知った時には残念に思ったのですが、曲を聴いたら、この曲を聴けたんだから良かったんだと思いました。あんな音は今まで聴いた事がありませんでした。よくモーツァルトは天上の音楽と言われますが、きらきらと上から振ってくるとしか思えないような音がしました。きらきらというのは説明が難しいのですが、きらびやかなキラキラでなく、強いて言うならば星のまたたきのようなきらきらです。もうお身体の調子があまり良くなくて、練習も途中でできなくなって、続きをお弟子さんのような方がしていたんですが、魔法がとけたように音が変わってしまって驚いてしまいました。本番はお身体の調子が悪いのがわからないくらい素晴らしい演奏でした。そしてこの年の秋に亡くなられました。

 (2002.4.5)

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山田一雄

「やまかず」さんの愛称で知られる山田一雄氏は愛すべき人でした。

エピソードは山のようにあります。

彼の書いた指揮法の本があるそうですが、

その中に「指揮者がしてはいけないこと」を書いたのに そのすべてをなさっていたそうです。

足の裏を客席に見せてはいけないとか、指揮台から落ちてはいけない、

というのも書いてあるというのを聞いて笑ってしまいました。

実際に見たことはないのですが (あぶないのは何度か拝見しましたが)

興奮のあまり指揮台から足をすべらせ客席に落ちて 棒を振りながら舞台に上がってきた ということもあったそうです。

もしかしたらこの話は脚色されているかもしれませんが、信じてしまいたくなる方なんです。

練習の時、くり返しの場所に来たら いきなりハンカチを出して振り回しました。

皆が くり返すのか 先に行くのかわからず 結局 止まってしまった時には

「ハンカチを振ったら先〜!」とおっしゃられ、オケ中 爆笑してしまいました。

ある本番の楽章の合間に、鼻水が出てしまったようで、コンマスにちっちゃい声で

「ハンカチ、ハンカチ」と言いました。

ハンカチを持っていらっしゃらないんだとわかって、コンマスがハンカチを差し出すと

「ちーん」と鼻をかんで、そのままそのハンカチをコンマスに返しました。

それだけでも可笑しかったんですが、

そのあとご自分のハンカチを出して 汗をお拭きになった時の 笑いを我慢するのの辛かったこと!

また、最後の録音になってしまったモーツァルトのレコーディングをしている時でした。

レコーディングの時には雑音が入らないようにすべてのドアを閉めます。

ところがファーストバイオリンの後ろのドアが開いたままになっていたので

ビオラの方が、やまかずさんが指揮棒を降ろそうとしていた時に

そのドアを指差して「先生、あそこが開いています。」と声を掛けました。

すると何を思われたのか、自分のズボンをチェックなさって

「開いてないわよ〜」と言われた時には またまた オケ中 大爆笑。

指をさした角度が問題だったんでしょうね。

* * * * *

亡くなられたと伺った時には悲しくて辛くて、辛くて悲しくて御葬式にも伺えず

その録音したCDをかけて泣きながら 偲び 弔いました。

大好きでした。

そのCDは人柄が偲ばれる演奏で柔らかなモーツァルトです。

よろしかったらどうぞお聴きになってみて下さい。

モーツァルト 山田一雄(FOCD3137) Fontec 1990年夏録音

(指揮:山田一雄、新日本フィルハーモニー交響楽団)

モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」K.551

モーツァルト:オペラ「偽の女庭師」序曲 K.196

モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調「セレナータ・ノットゥルナ」K.239*

*(Vn:豊嶋泰嗣、戸松智美、Va:白尾偕子、Cb:牧田斉)

 (2002.4.5)

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朝比奈隆

朝比奈先生はいつまでもいつまでもお元気でいらっしゃると思っていました。

若い頃に先生はバイオリンを弾かれたそうなので、特にバイオリンには注意がたくさんありました。

ボーイングやフィンガリングなどもずいぶんチェックされました。

先生の注意書きが書かれたパート譜もたくさんあります。

そして私達には先生から指摘された、たくさんの注意すべきことが残っています。

「その指はあぶない!」

「長い音を弾く時には早く返して!」

「弓のスピードが早すぎる!」など

先生が振られるとオーケストラから出てくる音が良い音になるんですね。

暖かくて厚い流れのある大きな音楽です。

演奏会が終わった時の充実した疲れが心地よかったです。

最後の数年は具合が悪いのではないかとお見受けすることも度々ありましたので心配しておりました。

でもひとたび指揮台に上がられると とてもそういう風には感じられず

九十を越えられてからも溌溂と颯爽と指揮されていました。

まだ亡くなってから日が浅いこともあるでしょうが

そのうち「おう!」っとおっしゃってまた練習においでになりそうな気がしてなりません。

 (2002.4.5)

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山本直純

まさか、こんなに早く直純さんのことをこの場所に書くことになるとは思ってもみませんでした。

私がまだ学生だった頃に始まった「オーケストラがやって来た」。

この番組で直純さんのことを知りました。楽しい番組でした。

「ひげのおじさん」は最後まで同じキャラクターでしたね。

遺影も生前のイメージ通りの明るい写真で涙がこぼれました。

いくらなんでも早すぎました。

才能が溢れ出て、いろいろな面で天才だったと思います。

あまりに天才で、閃きがあるとすぐ実行したくなる方ではありました。

「オーケストラがやって来た」でもその天才さと才能を十二分に発揮しておられました。

番組が放映されていた時は、日本中どこに行っても

「『オーケストラがやって来た』のオーケストラです。」と紹介されると

お客さまが「おおっ」って反応して下さいました。

さすがに最近は「生まれた頃にはもう番組が終わっていた」と言う人が増えて時代の流れを感じますけど....。

映画音楽でもコマーシャルでもドラマの音楽でもご存知のように素晴らしい作品をたくさん残されています。

「男はつらいよ!」のテーマは日本の映画史上にずっと残ることでしょう。

あの前奏を聞いただけで ほとんどの日本人が「寅さん」ってわかるのは本当にすごいことですよね。

編曲も本当に素晴らしかった。

同じ曲でもアレンジャーによって曲の表情が全く変わってしまいます。

直純さんはオーケストラの楽器の特徴、特性をよくご存知でしたから、音に厚みが出ます。

直純さんが編曲した曲を演奏するのは愉しみでした。 

日本の才能ある音楽家をまた失ってしまって残念です。

そしてあの直純さんにもうお会いできないのかと思うと淋しさで一杯です。

(2002.6.25)

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数住岸子

本当に素晴らしい大好きなバイオリニストでした。

あまり表立って有名にならなかったのが不思議なくらい素晴らしい演奏をたくさん聴かせていただきました。

「練習魔」と言っていいほど練習なさってました。

毎日10時間も楽器を持っていたそうです。

そんなに上手なのに...と言うと「さらわないと下手になっちゃうから」

と明るく軽く答えられて言葉を失いました。

ソロの他に室内楽でも大活躍されていましたが、もっともっと活躍して欲しかった。

もっともっとたくさん演奏を聴かせて欲しかったです。

あまりに早く逝きすぎてしまいました。

残念です。

 

全くの余談ですが、かの「さだまさし氏」が九州のコンクールで絶対に勝てなかった相手が数住さんだと後から知りました。

演奏は勝ち負けではありませんけれどコンクールでは勝敗がつきますので、そういう意味では数住さんに勝てる方はどこにもいらっしゃらなかったことでしょう。

本当に素晴らしい、本当に本当に素晴らしい大好きなバイオリニストでした。

 

 

 (2002.4.5)

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ルドルフ・ゼルキン

この方と一緒に演奏したベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」は忘れられません。

素晴らしい演奏でした。

特に3楽章の6/8のリズムの取り方は絶対に忘れられません。

味のある演奏、という言葉が当てはまるのかどうか、とにかく一度聴いたら忘れられない演奏でした。

先日、井上ひさし氏とご一緒した時に

形に残る「本」と形に残らない演劇や演奏などの「瞬間芸」の違いについて皆で話をしていました。

その時に井上氏が

「演奏や演劇はその瞬間で消えてしまう、残らない、と皆さんおっしゃるけれど違いますよ。

そのものは残らなくても人の記憶にちゃんと刻まれています。

その時のことを思い出すと、その場の空気や雰囲気、感動までよみがえってくる。

それはすごいことです。」とおっしゃられました。

ゼルキン氏の演奏を思い出して、その言葉を実感として納得できました。

 (2002.4.5)

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シューラ・チェルカスキー

この方のロマンチックな演奏も一度聴いたらファンになってしまいます。

80才を越えても なお 確かなテクニックと色気のある演奏。

この年でも「枯れる」演奏にならず、常にエネルギッシュで艶のある音と演奏は憧れです。

演奏が終わった後の恥ずかしそうな表情も魅力でした。

オーケストラの中にもファンがたくさんいました。

もう一度ご一緒したかった。

 (2002.4.5)

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白尾偕子

このページに来られる方でしたらご存知ないはずありませんね。

新日フィルの首席ヴィオリストでした。

室内楽やソロ、また新日フィルでも数々の名演を残されました。

もう偕子さんが亡くなってからもう一年が過ぎようとしています。

本当に衝撃でした。

学校は違っても同い年で学生時代に新日フィルでエキストラ同士で知り合ってニ十年以上のおつき合いでした。

彼女と同じオーケストラにいられたことを誇りに思います。

身近にいた 本当に素晴らしい音楽家、ヴィオリストでした。

 (2002.4.5)

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