9月26日(木) 


 倉探索の3日目は、鎌倉宮からスタートです。その前に、ここからはしばらく歴史のお勉強をしましょうか。
 100年あまり続いていた鎌倉幕府も、文永・弘安の役(元寇)以降、その統治機能の随所に綻びが見え始めていました。幕府の仕組みは簡単に言って、土地を仲立ちとした所謂、『御恩と奉公』の関係によって成立していました。御家人は所領を鎌倉殿(将軍)に安堵してもらったり、戦の恩賞として土地を与えられたりしていました。これを鎌倉殿の御恩といいます。これに報いるために御家人は、御所の警護にあたったり戦に出陣しました。これを奉公と言います。

 
 

 家人たちは自分の所領を守るために命懸けで鎌倉殿に忠誠を誓いました。『一生懸命』と言う言葉がありますが、本来は一つの土地に命を懸けるということから『一所懸命』と書いたのです。また、若い人はもう使わなくなりましたが、『いざ鎌倉!』という言葉があります。これは、何か事件があったときにすぐさま現場に駆けつけることを意味しますが、本来の意味は将軍のいる鎌倉に一大事が起こったら何をおいてもすぐに駆けつけることを言ったのです。(ちなみに、源氏の将軍家が3代で滅んだとしても鎌倉幕府滅亡まで、ちゃんと将軍はいましたよ。)
 このように将軍と御家人の間には土地を仲介として主従関係が成立していました。ところが元寇以後この関係に綻びが生じ始めたのです。元寇に勝利したのは良いのですが、ただ単に追い払っただけで領地を獲得した訳ではありません。つまり、命懸けで戦ってくれた御家人たちに御恩の恩賞としての土地を幕府は与えることが出来ないのです。当時、戦に出陣する際の支度は全て御家人の自己負担でした。負担しても戦に勝てば恩賞として土地をもらえます。ところが戦に勝ったのに恩賞が出ない。これでは、御家人たちは幕府に忠誠を誓おうだなんて、だんだん思わなくなりますよ。しまいには、幕府の傘下から離れてしまう御家人も現れます。このように幕府の統制から離れた新興武士たちを『悪党』と呼びます。別に悪さをしてるから悪党と呼ぶんじゃないですよ。れっきとした歴史用語です。このような悪党の代表的な人物が大楠公・楠木正成です。
 ここでちょっと視点を変えて、鎌倉時代の朝廷の様子も見ておきましょう。鎌倉時代中期(1260年頃)以降、天皇家は二つの皇統に分かれていました。一つは持明院統、もう一つは大覚寺統です。なぜこんなことになってしまったのか?その頃朝廷で権力のあった後嵯峨上皇が、御位に即いていた息子の後深草天皇に対してこう命令したのです、「そなた、帝の位を弟の恒仁親王に譲るのじゃ!」。まだ17歳の後深草天皇は譲位などしたくありませんでした。しかし、父の命令には逆らえず、弟に譲位して恒仁親王が亀山天皇として即位します。おもしろくないのは後深草上皇です。上皇は自分の皇統からも天皇を出すために幕府の力を借りることにします。そして、幕府の仲裁により、以後亀山天皇の系統(大覚寺統)と後深草上皇の系統(持明院統)から交互に天皇が即位することになりました。これを”両統迭立”といいます。こういう状況の中、大覚寺統の尊治親王が後醍醐天皇として、文保2年(1318年)に即位します。後醍醐天皇は、『自分の血を受け継いだ者こそが天皇になるべきだ』という強い信念を持った人でした。しかし、幕府の介入により両統迭立の制がある以上、自分の次の天皇は他の系統の人物が立てられてしまう。そこで、後醍醐天皇は考えます。『自分の子孫が皇位に即くためには、両統迭立の制度が邪魔である。そもそも、幕府が皇位継承にまで口を出したために両統迭立などという制度があるのだ。幕府が無くなれば、もはや皇位継承に口を出す者はいなくなる。それならば、いっそ幕府など倒してしまえば良いのではないか・・・』。こうして、後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕運動が始まるのです。
 さきほどの記述のように元寇以後、幕府を見限る御家人が増えて、幕府は既に武士をまとめる求心力を失っています。新しい政治を望む武士たちの気持ちと、自分の子孫に皇位を伝えたい後醍醐天皇の野望が一つとなり倒幕運動は急速に進展していきます。そのような中で活躍したのが悪党・楠木正成や、源氏の直系亡き後の清和源氏の名門・足利尊氏です。天皇が倒幕を志して15年。ついに1333年、141年にわたり世の武士たちを統率してきた鎌倉幕府はついに滅亡するのです。
 幕府が滅亡すると、後醍醐天皇はすぐさま親政を開始します。これを”建武の新政”といいます。天皇が理想としたのは、天皇親政が正しく行われた平安時代の醍醐天皇の時代を再現させることでした。だから自分の諡号も後醍醐と自分で決めたのです。(ちなみに、○○天皇という諡号(しごう、おくりな)は後世の人が付けます。生きて天皇として在位しているのは常に一人の訳ですから、在位中の天皇には○○天皇という諡号は必要ないのです。ただ、「お上」とか「主上」とかお呼びすればよいのですから。しかし、退位したりして上皇となった元天皇や崩御された天皇はたくさんいるわけですから、それらの方々を個々に区別するために諡号というものが必要になってくるのです。)。後醍醐天皇が目指すのは天皇を中心とした昔ながらの政治です。その政治には武士というものは参加させません。なぜなら後醍醐天皇は武士というものは本来、政治を行う主体ではなく政治を行う者に仕える客体でしかない、という認識の持ち主でした。武士のことを侍ともいいますが、その語源は高貴なものにさぶらう(=つかえる、従う)ということから侍という呼称が生まれたのです。しかし、鎌倉幕府を倒し建武の新政を現出させた原動力は武士の力です。それなのに、新政権で優遇されるのは公家などの貴族たちです。当然、武士たちの不満は高まります。そこで、武士たちを統率するために、後醍醐天皇は自分の皇子の護良親王(もりながしんのう)を征夷大将軍に宣下します。護良親王は幼いときに比叡山に入り、大塔に住んだので大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)とも言われます。ところが当時、武士たちの尊崇を集めていたのは源氏の名門・足利尊氏です。尊氏は、自分こそが源氏の棟梁であり、征夷大将軍になるのは自分しかいないと考えていました。また、当時の武士たちもそうなるのが当然と考えていました。そこで、尊氏は護良親王を征夷大将軍から引きずり落とすために、後醍醐天皇に次のように讒言します、「護良親王は帝を廃し、自分が御位に即こうと考えています。」、と。まあ尊氏が直接に天皇に言ったわけではなく、天皇のお気に入りの女性の阿野廉子に言わせたのですが。この言を信じて、天皇は護良親王を捕らえ、尊氏の弟の足利直義のいる鎌倉へ流して、幽閉してしまいます。ちょうどその頃、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児・北条時行が新政権から鎌倉を奪い返そうと、鎌倉を目指して信濃国を進発していました。この軍勢と護良親王が結びついてはマズイと考えた直義は、幽閉していた護良親王を殺害してしまいます。時に親王28歳。

 時は流れ明治二年、明治天皇は非業の最期を遂げた大塔宮護良親王の御霊を後世に伝えるために、親王終焉の地に神社を造営することを決めました。そして、勅命により神社造営の詔が発せられ神社が創建されます。神社の社号は『鎌倉宮』。明治天皇自らが社号を決めたと言われています。

 
        鎌倉宮
 
        護良親王が幽閉されたと伝えられる土牢
 
        土牢脇に立つ木札
 

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 倉宮で遠い昔の権力闘争に想いを馳せたあとは、静かにお寺を巡って心を落ち着かせましょうか。