函館本線


N 2009.03.13
R 2021.10.23



C622+C6216号機牽引の104レ 塩谷〜蘭島にて1971年1月1日撮影


 このページでは,私が初めて函館本線を訪れた1969年(昭和44年)8月〜1971年(昭和46年)9月のC62の終焉までを扱います.それ以前のC62の動向に関しては,拙著「C62」をご参照下さい.

 私が初めて北海道を訪れた1969年(昭和44年)8月当時,函館本線には小樽築港機関区所属の2,3,32,44号機の4輌のC62が現役で活躍していた.

 C62の運用は,急行「ニセコ1,3号」の小樽〜長万部間の前補機に1輌,小樽〜函館間の上り急行「ニセコ 1号(104レ)」の本務,深夜から明朝にかけて上下の急行「すずらん6号」(1217,1218レ)を牽引して函館〜長万部間を往復する本務,翌日の函館〜小樽間の下り急行「ニセコ3号( 103レ)」の本務に2輌,予備1輌で使用されていた.すなわち,小樽〜長万部間の山岳区間は重連で,長万部〜函館間の平坦区間は単機で牽引していた.

 乗務員の運用は,急行「ニセコ3号(103レ)」の函館〜長万部間,長万部〜小樽間および急行「ニセコ1号(104レ)」の小樽〜長万部間は長万部機関区の乗務員,「ニセコ1号(104レ)」の長万部〜函館間は五稜郭機関区の乗務員が充った.機関車は小樽築港機関区の所属であるが,小樽築港機関区の乗務員は乗務しないと言う珍しい運用であった.
 長万部〜小樽まで急行「ニセコ3号(103レ)」に乗務すると,翌日,小樽〜長万部まで急行「ニセコ1号(104レ)」に乗務することになる.他区の乗務員が駐泊する時は出先の機関区では食事の面倒を見てくれないから,夜到着して翌朝出発する103レ〜104レの往復仕業の場合,長万部機関区の乗務員は二食分の弁当を持って行った.行き(103レ)が本務機乗務の場合,帰り(104レ)は前補機乗務であった.


 呉線のC62に何となく物足りなさを感じていた私は,函館本線のC62重連を初めて見て, その迫力に圧倒された.忘れもしない,1969年8月23日,翌日からの撮影のロケハンをかねて,札幌から倶知安まで104レに乗った.「呉線のC62は全力を出していないが,函館本線のC62は全力を出している」と感じた. ドラフト音が全く違うのだ!それ以後,北海道への撮影行は, 70年2月,7月,12月,71年5月の合計5回に及んだ.

 1970年(昭和45年)10月,呉線電化で余剰となり,全般検査まで1年以上期間が残っていた15 ,16号機が糸崎機関区から転属し,全般検査期限に達した32,44号機が廃車された. これは,全般検査まで期限の残る15号機(1970年2月7日全般検査済),16号機(1970年6月1日全般検査済)に軸重軽減改造,耐寒設備, 重油併燃装置などの北海道向けの工事を施して使用すれば,32,44号機に全般検査を実施する1/10程度の経費で済むためにとられた措置である. なお,苗穂工場で15,16号機に軸重軽減の改造を行った際,32号機の従台車,重油併燃装置,テンダーが16号機に,44号機の従台車,重油併燃装置,テンダーが15号機に流用された.さらに, 1971年(昭和46年)4〜5月に15,16号機の中間検査Aを行った際,動輪のタイヤを32,44号機のそれと交換している.

C622号機のこと
 C622号機のデフレクターには「つばめ」のマークが取り付けられていた.これは,C622 号機が東海道本線の宮原機関区に所属していた頃,特急「つばめ」を牽引していた事の名残である.1950年(昭和25年),鷹取工場でレ10000を新造した際に,内装用のステンレス板の残りで飛燕のマークを作り宮原機関区に送って取付けた.
 東海道本線の全線電化が完成した1956年(昭和31年),C62も余剰を生じていた.山陽本線に充当する好調機の選に漏れた不調気味の保留車の中から宮原機関区の2,30,42号機,梅小路機関区の3,27,32,44号機の7輛の C62が選ばれ,函館本線の小樽築港機関区に転属した.1957年(昭和32年),C622号機が小樽築港機関区に転入した際,宮原機関区の検査係の人が書いた「つばめのマークを大切に使って下さい.東海道本線を走っていた証しですから,この機関車がなくなるまで,つばめだけは磨いて下さい」と言う手紙が添えられていたと言う.



C622号機 長万部機関区にて1969年撮影


  C622号機は前補機として使用されることが多かった.これはファンサービスが目的ではなく, 長万部で折り返してその日の内に小樽築港機関区に戻る前補機は,長万部〜函館間の平坦線区間で高速運転を行う本務機と比べ,負担が軽いことが理由である.
 東海道本線時代から不調気味で乗務員から信頼の低い2号機を前補機として限定運用する事は検修側・運用側双方にとって望ましかった.一方,32,44号機は好調機として評価され,優先的に本務機として運用された.それ故に,走行キロ数が伸び,先に述べたように,1970年に全般検査期限を迎えることとなった.
 ちなみに,1971年(昭和46年)におけるC622号機の資産台帳の財産評価額は3,713万円であった.


C623号機のこと
 函館本線のC62の4輛のC62の中で,2,32,44号機はナンバープレートが写っている写真は数多くあるが, 3号機のナンバープレートが写っている写真は殆ど無い.1970年2月,目名・上目名間で撮影した写真がナンバープレートの長さから,3号機であると推測されるが,雪がべっとり付いてナンバーが見えない.
 偶然だが,函館本線では,C623号機とは縁がなかった.呉線ではC6215号機とC59161号機と縁がなかった.


C6232号機のこと
 32号機は4輛のC62の中で最も調子の良いカマであった.1970年10月,全般検査期限の迫った32,44号機を廃車し,糸崎区の15,16号機を小樽築港に転属させる事が決まった時,検査係の間では,ナンバープレートを交換してでも32号機を残せないか考えたという.なお,32号機の従台車と重油併燃装置,重油タンク搭載済みのテンダーは16号機に引き継がれた.


C6244号機のこと
 44号機は,動輪の軸受の発熱がひどく,乗務員の間では敬遠されて居た.車軸と軸受のクリアランスを0.5 mm以上にしないと発熱が収まらず,頭の痛い機関車だった. それが,1966年頃の全般検査から戻ってくると,ピタリと直ってしまった.それまでは,発熱故障で随分休んだので,「横着もの」と呼ばれていた.



104レの旅
 小樽〜長万部間の山線は約140 km.ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園を含む景勝の地であるが, 途中,20 ‰勾配のオタモイ,稲穂,倶知安,上目名の四つの峠があり,C62重連にとっても険しい道である.1969年当時の「ニセコ1号」(104レ)の時刻表と編成を表1に示す.以下,上り急行「ニセコ1号」(104レ) の足跡を辿る.
 北海道の駅名には珍しいものが多いが,殆どはアイヌ語を語源としているためである.調べてみると,それらのアイヌ語の大部分がその地方の地形を説明したものである.

 1970年前後,札幌・函館間で駅弁を売っていたのは:札幌,小樽,倶知安,長万部,森,函館の6駅,ホームに立ち食いそば店があったのは:札幌,小樽,倶知安,長万部,函館の5駅だった.

表1 1969.10 急行「ニセコ1号」(104レ)の時刻表と編成
札幌 小樽 余市 小沢 倶知安 ニセコ 長万部 八雲 大沼 函館
1010 1051 1114 1153 1213 1229 1356 1426 1505 1540 1610
C62,マニ,マニ,オユ,マニ,スロ53,スハ45x5,スハフ44


札幌:10:10発 
 札幌〜小樽間は,ED76が牽引.そのころ,小樽築港機関区では,下の写真のように,C62が出区の準備に余念がない. この日は,前補機がC622号機,本務機がC6216号機である.
 駅弁は:山べ鮭すし250円,石狩鮭めし200円,みそ汁50円.


札幌ラーメン
 札幌ラーメンのルーツは,屋台のラーメン店にある.その中の一つが後に「龍鳳」を開く松田勘七の店. 豚の骨でスープを取ったこってりスープが話題を呼んだ.西山仙治の「だるま軒」、 後の味噌ラーメンの開発者「味の三平」の大宮守人の店も屋台の一つだった. 中華鍋でスープと共に炒めた野菜を、麺を入れた丼にかけて仕上げるのが特徴.太めで歯ごたえのある縮れ麺は、 モヤシなどの野菜の具に負けない力強さがある.
 これが週刊誌などで「ラーメンの街・札幌」として取り上げられた. そして札幌ラーメンの人気を決定づけたのは「味噌ラーメン」の登場だった. 1954年に「味の三平」で初めてメニューに載った「みそ味で野菜がのった」 この新しいラーメンは札幌っ子に大評判を呼んだ. 1960年代末には,みそ味を代表とするラードが浮いた豚骨ベースのしっかりとした濁ったスープに、 太めで歯ごたえのある縮れ麺、そしてモヤシなどの野菜の具というラーメンが、 「札幌ラーメン」として日本全国に認知されるようになった.

 SLの撮影で北海道を訪れていた頃は,みそラーメン発祥の店「味の三平」が人気店であったが, 私は,薄野のスケートセンターの向かいにある「喜龍」のラーメンが好きだった.峰岸さんという知り合いの紹介で,札幌に行くと必ず「喜龍」に寄った.やがて,顔馴染みになり,「あんた,メンマ好きだったね」とサービスしてくれた.マスターは札幌マジック協会の会長とかで,鮮やかな手つきで麺をさばく姿が印象的であった.新宿の伊勢丹に出張販売したこともあった.
 その後,スケートセンターの一角はヨークマツザカヤ(現,ロビンソンデパート) に再開発され,喜龍は,地下の飲食店街の一角に移転した. 2009年12月,学会出席のため久し振りに札幌を訪れた際,地元の人に聞いてみたが,喜龍は閉店してしまったようである.


小樽:10:51発  「オタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)」が語源.
 ED76とバトンタッチ.ここから長万部までの140 kmはC62重連が牽引する.小樽〜塩谷間には20‰勾配のオタモイ峠がある.C62重連は小樽駅を発車すると,下の写真のように,猛烈な勢いで加速する.サミットのトンネル内で絶気し,蘭島までの20‰の下り勾配を駆け下りる.
 駅弁は:鳥めし100円,花園だんご100円.



小樽駅を発車し,猛然とダッシュするC62重連 1971年5月3日撮影



 小樽は,石川啄木や伊藤 整が親しんだ,函館と並び,坂の多い異国情緒の漂う街である.南小樽から小樽市内を横断して手宮に至る手宮線があった.手宮線は,北海道開拓史時代の1880年,手宮〜札幌間に開通した北海道初の官営幌内鉄道の一部である.「義経」「辨慶」「しづか」などが走った.現在,「義経」は大阪の交通科学博物館に,「辨慶」は鉄道博物館に,「しづか」は小樽市総合博物館に保存されている.
 私が訪れた1970年前後は,石炭需要の低下と北海道内の炭鉱の閉山、ロシア貿易の衰退により港としての機能は衰え、寂れた街だった.当時,山線区間では,セブンスターが手に入る唯一の街であった.
 NHKの朝の連続ドラマ,「旅路」(1967年放送,主演:日色ともゑ)は神居古潭と塩谷が舞台になり, 「北の家族」(1973年放送,主演:高橋洋子)は函館が舞台になったこともあり,親近感があった.特に「旅路」は,大正・昭和を生きる国鉄職員の物語で,オープニング画面に9633が登場したことが印象的であった.9633は,現在,梅小路蒸気機関車館に保存されている.


塩谷:「ショーヤ(岩いそ)」が語源.宗谷と同じ.列車の右手には,このページのトップの写真の塩谷海岸が見える.噴火湾,大沼付近と並んで,山線第一の景勝地.
 美空ひばりが歌った「乱れ髪」のなかで,♪髪の乱れに手をやれば,赤い蹴出しが風に舞う,憎や悲しや塩屋の岬♪と歌われている.

蘭島:「ラン・オシマック・ナイ(下り坂の後ろにある川)」が語源.かつては,ニシン漁で栄えた街.塩谷〜蘭島間の左手のなだらかな丘の中腹に,大きな石を楕円形に並べたストーンサークルが見える.青銅器時代の遺跡と言われている.
 1967年(昭和42年),鶴岡正義と東京ロマンチカが歌った「小樽のひとよ」のなかで,♪二人で歩いた,塩屋の浜辺,偲べば懐かし,古代の文字よ♪と歌われている.

余市:11:14発 「イオチ(蚊のおおいところ)」が語源.
 函館・小樽間では最も乗降客が多い駅. ここから然別までは平坦な直線が続き,C62重連は猛烈なスピードで走る. 駅前にニッカウヰスキーの工場があり,何度も試飲させて頂いた. 後年,訪れた時には,「おつまみ」まであり,隔世の感があった.

仁木:駅名は「この地を開拓した仁木竹吉氏」に由来.沿線にはリンゴ畑やブドウ畑が続く.

然別:「シカリ・ペツ(曲がりくねった川)」が語源.二番目の難所稲穂峠がある.銀山まで20‰の勾配が約7 km続く.300Rのカーブが連続する区間で,全編成の見渡せるS字カーブがあった.

銀山:「ルベシベ鉱山」に由来.サミットの稲穂隧道で絶気,小沢まで20‰の下り勾配を駆け下りる.

小沢(こざわ):11:53発  「サック・ルベシベ(夏になると越えられる山道)」を夏小沢と訳したことに由来.
 倶知安までの間に三番目の難所20‰勾配の倶知安峠がある.峠を登り切ると,倶知安駅である.岩内線の分岐駅.岩内線はカーブが小さいために,二つ目の9600が活躍していた.
 小沢は,銀山と倶知安の間の谷底にあたるところで,よく風が舞うので評判が悪かった.下の写真はほとんど無風に近く,煙がまっすぐ上に昇っている珍しい写真である.

 甘いものが苦手なので食べたことはなかったが,小沢駅には,「トンネル餅(¥100)」と言う名物があった. 駅前の武田旅館は,映画「男はつらいよ」の舞台になった場所である.




小沢駅を発車するC6232号機牽引の104レ 1970年3月10日撮影


倶知安:12:09着,12:13発.「クチャ・アン・ナイ(狩人の小屋のある沢)」が語源. 山線の中では一番大きな駅.胆振線の分岐駅.急行「まりも」の時代は,C62重連の交換が見られたそうである.
 4分間の停車中に,C62の足回りではカマ換え,足回りの点検が行われる.テンダー上では,本務機の給水と石炭のかき寄が行われる.そのうち,列車は一旦退行し,前補機の給水と石炭のかき寄が行われる.
 ホームには立食いそばのほか,「ニセコこわめし(¥100)」,「登山餅(¥100)」という駅弁があった. ホームの水は「日本一おいしい水」と書いてあった.


 倶知安はSL撮影のベースキャンプとなった思い出深い町である.駅に列車が着くと, 「くっちゃ〜ん,くっちゃ〜ん,胆振線乗り換え〜」と言う独特のアナウンスがあった. アナウンスを担当していたのは,青木さんと言う方で,私が改札口に着くと, 「なんだ,また来たのか〜」と荒っぽい歓迎の言葉をくれた.
 定宿は,倶知安町営ニセコYH.近くに,ニセコ酒造と言う酒蔵があったが飲んだことはない.裏山に,町営のスキー場があったので, 夜はナイタースキーをしていた.昼間は重たい撮影機材を背負い10km近く歩き,夜はスキーをするなど, 今から思うと,驚異の体力である.何よりも,体を伸ばして眠れる事と風呂に入れる事が有り難かった.町営スキー場には,40m級のジャンプ台があった.一度だけスタート地点に立ってみたが,とにかく怖い!駅近くに,ジンギスカン焼肉の店があり,500円程で腹一杯食べられた.

 倶知安から蘭越までの約30 kmは殆ど緩やかな下り勾配となり, 列車は尻別川に沿って快走する.
 左手には,車窓一杯に標高1898mの羊蹄山が見える. 羊蹄山は,別名を蝦夷富士と言い,美しい円錐形をしたコニーデ型火山である. 北は利尻富士から,南は薩摩富士まで,郷土富士をいくつも見たが,羊蹄山が最も富士山に似ていると思う. 日本百名山の一つ.倶知安町役場のHPから, 羊蹄山のライブ映像を見ることができる.

比羅夫:駅名は,659年(斉明5年),阿倍比羅夫がこの地に郡領を置いたと言う古事に由来する.列車は尻別川に沿って走り,左には羊蹄山,右には標高1308mのニセコアンヌプリが見える.倶知安から昆布までの区間は山線第二の景勝地.
 比羅夫駅の近くに羊蹄山をバックに104レを撮影できるポイントがあった.しかし,羊蹄山は,なかなか,晴れない山で,何度も挑戦したが,結局一度も晴れてくれなかった.どうでも良い時には晴れているのに, 列車が来る頃になると曇ってしまう.利尻富士と共に,私にとっては鬼門とも言える山であった.


ニセコ: 12:29発.開業当時の駅名は真狩,その後,狩太,ニセコと改名した. 日本で唯一のカタカナの駅名である. 「ニセ・コ・アン・ヌプリ」とはアイヌ語で「絶壁・に向かって・ある・山」の意味. 日本三百名山の一つ.尻別川を挟んで羊蹄山の北側に位置する.西側には,イワオヌプリ,ニトヌプリ, チセヌプリ等の山々がある.

昆布:「コンポ・ヌプリ(小さなこぶのある山)」が語源.海で捕れる昆布とは関係ない. ニセコの山々を見ながら尻別川に沿って走る.

蘭越:「ランコ・ウシ(桂の木の多いところ)」が語源.最後の難所上目名峠. 上目名まで20‰の連続勾配が続く.駅前の農協の「内地米より美味しい蘭越米」と言う看板が懐かしい.

目名:「メナ(支流)」が語源.近くを流れる目名川に由来.

上目名:駅構内で絶気.黒松内まで20‰の下り勾配を一気に駆け降りる.
 C62重連の撮影の名所として賑わった駅である.上目名駅はサミットにあるために,目名側には104レの撮影ポイントがあり,熱郛側には103レの撮影ポイントがあったために, 20人,30人のSLファンが押し寄せることも珍しくなかった.しかし,上目名駅で SLファン以外の乗客を見たことはなく,SLファンが時々購入する入場券以外,殆ど収入のない駅だったのではないか (SLファンは,皆,均一周遊券を持っていた).1984年(昭和59年)3月31日をもって廃止された.
 上目名駅は今風に言えば「秘境の駅」で,周辺に民家は一軒もなかった. 食料を準備して行かないと,丸一日何も食べられない. 駅で水をもらって,ラジウスでお湯を沸かし,紅茶を入れ,パンの耳を食べた.秘境の程度は西の大畑,東の上目名であった.


 目名側には,104レ撮影のメッカと言われた,151km地点があった.ここは,線路の右側に小さな斜面があり,そこから見下ろすように全編成を入れて撮影できる絶好の場所であった.しかし,151km地点は,北側に谷が開けて,風が吹き抜けるので,煙が流れてしまい,本務機のみならず編成も隠れてしまうことが何度かあった.ここまで行くためには,147.6km地点の上目名駅から,3km近くをただひたすら歩かなければならなかった.撮影機材を背負って,線路の間を歩くと,1時間近くかかった.
 下の4枚の写真は151km地点で撮影した写真である.同じ場所で撮影しても,季節によって,様相は大きく異なる.特に冬季は,ラッセル車によって雪の土手が作られてしまうので,足回りは殆ど見えない.前補機の出す蒸気と煙で,列車どころか,本務機も見えなくなることがある.吹雪で視界が悪く,真っ白で何も見えない写真を撮ったこともあった.






C622+C623牽引の104レ,1969年8月26日撮影



C623+?牽引の104レ,1970年2月撮影



 上目名で104レ(通過は13;00頃)を撮影するためには,倶知安9:58発の124レに乗った. 上目名着は11:13であった.124レは,網走〜北見間は各駅停車の1528レ,北見〜札幌間は急行「大雪6号」 (518レ),札幌〜函館間は各駅停車の124レとなるおもしろい列車で,しばしば,D51の重連が牽引していた.

 さらに上目名で103レ(通過は17; 20頃)も撮影すると,帰りは上目名18: 06発の123レに乗った. 倶知安に着くのは19:12であった. 123レは,函館〜札幌間は各駅停車,札幌〜北見間は急行「大雪6号」(517レ), 北見〜網走間は各駅停車の1527レとなる列車で,翌日, 石北本線の常紋信号所などで撮影するには好都合であった.しかし,丸一日,上目名で撮影して(と言っても,104レ,103レの2本しか撮影できないのだが),夜行で移動し,翌日も食料の調達のできない常紋信号所で撮影することは,かなりタフな日程である.
 

熱郛:「クンネ・ネップ・ベツ(黒い流木の集まっている川)」の一部をとったもの.
 上目名駅から二つ目の第一白井川隧道を超えた240RのS字カーブは103レの絶好の撮影ポイントであったが, 日の長い夏季しか撮影できなかった.

黒松内:「クルマツ・ナイ(日本人の女が居るところ)」が語源.蕨岱駅まで15‰の上り勾配がある.

蕨岱:駅名は,この付近一帯に蕨が繁茂していた事に由来する.駅がサミット,二股まで15‰の下り勾配を駆け下りる. 下り急行宗谷(305<D)と交換のため運転停車.

二股:駅名は,長万部川とチライ川が合流する場所に由来する.長万部まで緩やかな下り勾配となる.
 ゴールデンウイークの頃には,駅周辺の湿地には水芭蕉の花がたくさん見られた. 水芭蕉が生育する場所は,やせた土地らしく,地元の人には「やっかいもの」のようであった.



長万部: 13:50着,13:56発.「オ・シャマンベ(カレイの居るところ)」が語源.
 長万部〜函館までの112.3km,本務機は単機で104レを牽引する. 役目を果たした前補機はここで切り離され,水と石炭の補給をすませ,103レの発車16:45までしばらく休息する.


C622号機,長万部にて1969年8月26日撮影


 ホームには立食いそばのほか,「かにめし(¥200)」,「鮭めし(¥200)」,「ほっき貝めし(¥200)」,「特性もりそば折詰(¥150)」という駅弁があった.
 長万部駅の「かにめし(¥200)」は有名駅弁である.個人的には, 森駅の「いかめし」より「かにめし」の方が好きだった. 毎日,パンの耳をかじり,宿泊費を節約するために夜行列車に乗り続ける身にとって, 「かにめし」はこの上もないご馳走で,心のオアシスでもあった. 駅近くに発売元の「かなや」があり,ここで食べるとお吸い物が付いた.

 長万部は,ある年代以上の人には由利徹のギャグで知られているが, そうでなくても,印象的な地名で,長万部に列車が停車した時に北海道に来たと感じる旅人も多いことだろう.


 中ノ沢,国縫あたりからは,晴れていれば,噴火湾を挟んで駒ヶ岳の美しい姿を見ることができる. 小樽〜函館間では,塩谷付近,大沼周辺と並んで,最も風景の美しい場所である.

 小樽〜長万部間の山岳区間を重連で走るC62は確かに圧倒的な迫力があったが, 長万部〜函館間は平坦で,複線化された直線が続くので,C62は90 km/hを越える高速で疾走する. 咳き込むような独特のドラフト音で,往年の急客機を彷彿とさせ魅力的であった.

八雲:14:26発.
 旧国では,八雲は胆振,森は渡島であった.確かに,八雲と森では天候が変わることが多かった.長万部から八雲にかけては人家も少ない茫漠とした海岸を行くが,黒岩のあたりには荒々しい海岸線が見られる.

 北海道の天気予報では,渡島・檜山地方,石狩・空知・後志地方,胆振・日高地方などの地名で難儀をさせられる.札幌はどこかおわかりだろうか?

森:15:40発.
 駅弁の「いかめし(¥100)」は,信越線の横川駅の「峠の釜飯」と人気を二分する名物駅弁である.生イカの胴にうるち米ともち米を詰めて,甘辛のタレで炊きあげたのが特徴である.森駅を通る度に購入を試みたのだが,ホームで売っている光景を見かけたことは殆どなく,幻の駅弁である.ちなみに,東京・新宿の京王デパートで開催される全国駅弁大会では,1971年から2001年まで,30年連続売り上げ一位に輝いている.「いかめし」以外に「はもめし」もあるようなのだが,食べたことはない.

大沼:15:40発.
 観光地として有名な場所であるが,103レが停車する大沼公園駅の方が大沼には近い.上りと下りではルートが異なるため,104レは大沼駅に停車.


函館:16:10着.17:00発の連絡船4便に接続. 青森からは21:10発のゆうづる2号(4レ)に接続する.

 ホームには立食いそばのほか,「ほたてめし(¥200)」,「いかおぼろ弁当(¥200)」,「若どり弁当(¥200)」,「つぶ貝弁当(¥200)」,「みがき鰊弁当(¥200)」という駅弁があった.

 黒船来航の翌年,1854年(安政元年),日米和親条約の締結に伴い,下田と共に日本初の国際貿易港として開港された箱館は,坂の多い異国情緒の漂う街である. 元町から函館山のロープウェイ山麓駅の周辺は,旧イギリス領事館,ハリストス正教会,カトリック元町教会など, 歴史的な建物が多く見られる.標高334mの函館山の山頂からの夜景は,香港,ナポリと並び, 世界三大夜景の一つである.


函館ラーメン
 函館ラーメンのルーツは,広東系の塩味の湯麺であると言われている. 塩味の澄んだスープと細めのストレート緬との組み合わせが特徴である.スープは,鶏ガラ,トンコツ,昆布などをじっくりと時間をかけて煮込んで仕込まれる.ほんの少しでも煮立たせてしまうとスープは濁ってしまい,函館ラーメンの持ち味である澄んだスープにならないのだそうだ. ラーメン屋さんのメニューには,「ラーメン」,「醤油ラーメン」,「味噌ラーメン」などと出ていることが多い. 函館では,「ラーメン」と言えば,「塩ラーメン」を意味するようだ.
 函館駅の近く松風町にある滋養軒はカウンター3席とテーブル3卓の小さな店だが,ラーメンは絶品である.


1970年(昭和45年)2月某日
 その日は,大雪でダイヤが大幅に乱れていた. 小樽駅のホームから待避線に停車中のC62重連(C6244+C622)の写真を撮っていた.機関士と雑談をしていると, 「どうだ,マンベ(長万部)まで乗ってっか?」と言われた.半信半疑で聞き返すと,汚れても構わないなら, 長万部まで,本務機(C622号機だった!)のキャブに乗せてくれると言うことであった.
 やがて,小樽駅を発車し,オタモイ峠のトンネルに さしかかると,機関助士の方が,私の方を向き, 「トンネル!」と言いながら目の周りを手で覆い,顔を伏せた.バラバラと音を立てて,シンダーが降ってきた. キャブの中にまで煙が入ってきて,息苦しかった.
 長万部までの4時間は,正に,夢のような時間だったが, とても暑く,揺れが激しかった.とは言え,私の人生の中で最も密度の濃い時間であった.
 残念ながら,当時の日記を紛失してしまい,日付がわからない.手許に残っているYHの会員証を見ると, 2月26日から3月8日まで倶知安にあるニセコYHに宿泊しているので,この間の出来事には違いない.


 機関士はUさんという方であった.帰京すると,早速,礼状とともに, 長万部を発車する103レの写真を全紙のパネルにして送った. 後日,Uさんから,「何人もSLファンを乗せてあげたが, このような写真を送ってくれたのは,あなただけです.」 と言うご丁重な礼状を頂いた.Uさんは,長万部機関区の裏の官舎に住んでおられて,撮影に行った際, 何度かお宅を訪ねたことがあったが,いつも乗務でお留守だった.何年間か,年賀状のやりとりが続いたが, DL機関士に転向し,転勤されたようで,音信が途絶えてしまった. Uさんは,当時,40才位とお見受けしたから,お元気であれば,現在は80才位であろうか.

 SL撮影のため,日本全国を旅したが,キャブに乗せて貰ったのは,後にも先にも,この時だけである.C622号機に乗せて頂いて後,一度もUさんにお目に掛かる機会がなかったのは,返す返すも残念である.2009年3月13日,膨大な量のネガフィルムから,ようやく運転中のUさんを撮影した写真を見つけた.40年近くの歳月を経て,肩の荷が半分下りたような気がする.残り半分は,直接お目に掛かり,この写真をお渡しすることであろうか.

2010年のお年玉
 新年早々,1月6日,予期せぬメールが飛び込んできた. Uさんのご子息からだった.長万部機関区の人がこのページを見つけ, 近所のクリーニング屋さんがコピーを届けてくれたそうである.早速,電話でお話しさせて頂いた. ご本人,「HPには80才と書いてありますが,今72才です!」と強調しておられた. 失礼いたしました.私と一回り違いだったのですね.落ち着いた感じでしたので, 私より遙かに年上と思ってしまいました.
2009年12月初旬,学会出席のため札幌に出張していた. もう少し早くわかっていれば,お目にかかれたのに,残念!近いうちに必ずお邪魔する旨お伝えした. 正に,?,!!,涙,涙,涙の大感激であった.今年最高のお年玉である! このページを見つけて下さった方,本当にありがとうございます. 今更ながら,インターネットの威力を思い知らされた.本来,個人名を出すべきではありませんでした.ご本人と連絡が取れましたので,今後は匿名とさせて頂きます.

訃報
 2013年末,11月22日,Uさんが76才でこの世を去ったとの報を頂いた.これから,メル友になって頂こうと思っていた矢先で,残念.心よりご冥福をお祈りいたします.

103レの旅
 山線区間で103レの撮影ができる場所は,冬季は長万部まで, 夏季でも倶知安までが限界で,実質的には,熱郛〜上目名間に限られていた.「ニセコ3号」(103レ)の時刻表を表2に示す.


表2 1969.10 急行「ニセコ3号」(103レ)の時刻表
函館 大沼公園 八雲 長万部 ニセコ 倶知安 小沢 余市 小樽 札幌
1425 1457 1526 1606 1645 1803 1826 1842 1918 1942 2025



函館:14:25発.青森9:46着のゆうづる2号(7レ),14:00着の連絡船7便に接続.
 函館は,母の叔母が晩年を過ごしたこともあり, 何となく懐かしさを感じる街であった. 1966年(昭和41年)初めて北海道を訪れた時, 市内深堀町にある叔母の家に立ち寄った.お昼に寿司をとってくれた.生のエビが入っていたのには驚いた. 以来,函館の寿司が好きになり,駅近くの「ひさご寿司」には何回か通った. 毎年暮になると,叔母から「松前漬」が届いたことを懐かしく思い出す. 駅前広場では,北島三郎の「函館の女」が流れていた.



大沼公園:14:57発.104レとは異なるルートを通る.
 道南観光の中心地が大沼国定公園である.活火山である標高1,131mの駒ヶ岳と、 その山麓に点在する大沼、小沼、蓴菜(じゅんさい)沼の大沼三湖に代表される湖沼群の地域で、 山と水の変化に富んだ景観を誇る.下り列車は,大沼と小沼の間を走る.列車の右側には駒ヶ岳と大沼, 左側には小沼が見える.



C622号機牽引の103レ 大沼公園〜赤井川にて1969年8月25日撮影
手前に見えるのは小沼


森:15:26発.

C622号機牽引の103レ,国縫付近にて1971年5月2日撮影


 104レでは,C62の後に荷物車と郵便車が連結されているために,客車からはドラフト音は余り聞こえない. 103レはC62のすぐ後が客車なので,ドラフト音を聞くには都合が良い. 一度,函館から長万部まで,テンダーのすぐ後ろのデッキでドラフト音を聞いていたことがある. 90km/hを越える高速で疾走するC62の咳き込むような独特のドラフト音は正に圧巻であった. 小型のテープレコーダが未だ普及していない時代で,C62のドラフト音を録音することができなかったことは, かえすがえすも,残念であった.


八雲:16:06発.
 長万部までは,平坦な直線の複線区間が続く. C62は往年の急客機を彷彿させる90km/hを越える猛烈なスピードで走る.

長万部:16:45発.
 長万部から前補機を連結,小樽までは重連で牽引する.冬季,103レの撮影ができるのは長万部が限界であった.
 長万部で103レの発車を撮影するのは最終日にしていた.17:08発の函館行き急行「宗谷」(306D)に乗るために,あわただしく機材を片づけ,駅構内を急ぎホームに向かった(勿論,改札など通らなかった).19:20発の連絡船26便, 青森23:59発の急行「八甲田2号」(102レ)と乗りついで帰京するのが常だった.


C622+C6232号機牽引の103レ,長万部にて1969年8月26日撮影



長万部駅を発車する103レ,1970年2月撮影

 C62重連の本当の迫力を知ったのは,この写真を撮影した時である. この時は霧雨が降って,かなり気温が下がっていた.直前,前補機のC6244号機の安全弁が吹いたので, 辺り一面,煙と蒸気で真っ白になった.二台のC62のドラフトと汽笛は山間に咆哮し, 正に圧巻そのものであった.あの「足が震え, 鳥肌が立つ感動」は半世紀を経た今でも鮮明に蘇ってくる.

 103レの撮影ポイントに行くには,上目名駅から全長594mの第二白井川隧道, 231mの第一白井川隧道を超えなければなければならなかった. いずれのトンネルもカーブがあり,出口が全く見えず,真っ暗だった.トンネルの入口にあるスイッチで内部の電灯をつけて,薄暗いトンネルの中を早足で歩いた.
 

 103レを撮影した後は大忙しであった.上目名駅で103レと交換する42レ(上目名発17:30)が下って来るので, トンネル内で遭遇しないようにしなければならなかった.さらに,42レは熱郛で123レ(熱郛17:49発)と交換するので,急がないと乗り遅れるのだ.後ろから迫ってくる123レの気配を感じながら,トンネルの中を上目名駅に急いだ.
 上目名駅で103レ撮影の旨を告げると,カンテラを貸してくれた.トンネルの入り口の向かって左側に電気のスイッチがあるから,電気をつけて,カンテラを使って,トンネル内を歩けと言われた.トンネル内を歩いて撮影に行くなど,今では考えられない危険な行為だが,特に事故も無かったので,黙認されたのだろう.今から思えば,おおらかな時代であった
 函館本線山線区間の時刻表は時刻表復刻版をご参照下さい.






C6232+C623号機牽引の103レ
熱郛〜上目名の240RのSカーブにて,1969年8月24日撮影

ニセコ:18:03発

倶知安:18:26発
 103レの撮影ができるのは,夏季でも倶知安が限界だった.
 羊蹄山をバックに走るC62重連の写真を撮ろうと何度か挑戦したが果たせなかった.


倶知安駅構内には水銀灯が設置されていたので, コダックのトライXを4倍増感現像すると,冬季,倶知安駅を発車する103レをかろうじて撮影できた.増感現像用のトライXを入れたカメラは,夜間撮影専用となり,昼間の撮影には使えなくなる.

トライX
 SLの撮影で愛用したASA400のコダック製高感度フィルム. 学生の身分にはとても高価なフィルムで,当時,1本500円位した.新宿西口のフィルム問屋(現在のヨドバシカメラ)でトライXの100フィート巻を購入し,中古のパトローネに巻いて使った.数年後に,トライXの16mmフィルム(4X−7224)を使い,毎秒5000駒の高速度シュリーレン撮影を行うことになるなど,夢にも思わなかった.




C6232+C623号機が牽引する103レ,倶知安駅にて1970年2月撮影


小沢:1842発

余市:19:18発

小樽:19:43発
C62重連の役目はここで終り.札幌まではED76が牽引する.

札幌:20:25 286kmの旅は終了.

撮影旅行
 北海道に行く時は,復刻時刻表に示すように,上野12:10発の急行十和田1号(201レ)に乗るのが常だった. 青森23:45着.青森0:05-発の連絡船11便に乗り,函館3:55着.函館からは,4:40発, 千歳線経由札幌行き特急「おおぞら」(1D),4:45発,山線経由旭川行き特急「北海」(11D), 5:05発山線経由札幌行き急行「ニセコ1号」(101D)が待っていた.私が乗るのは, いつも,5:05発の「ニセコ1号」だった.長万部には6:46,倶知安には7:37に着いた.1M,1便,1Dの最速ルートを使えば,所要時間はもっと短いのだが,均一周遊券では特急には乗れなかった.
 帰りは,最後に,長万部16:45発の103レの発車を撮影し,17:08発の急行「宗谷」(306D)に乗った. 函館着19:00.19:20発の連絡船26便に乗り,連絡船の中で久しぶりにシャワーを浴びて, 青森着23:10.青森23:59発の急行「八甲田2号」(102レ)に乗るのが常だった. 均一周遊の期限最終日まで滞在するので,途中下車はできず,上野まで直行.上野着は11:20だった.


青函連絡船
 当時は,津軽丸,八甲田丸,松前丸,大雪丸,摩周丸,羊蹄丸,十和田丸(就航順)の7隻が就航していた.一番多く乗ったのは八甲田丸である.船内には,「鮭ずし(¥250)」,「新巻弁当(¥200)」,「えぞお重(¥200)」,「かにシューマイ弁当(¥200)」などの弁当があった.
 摩周丸は函館の旧桟橋,八甲田丸は青森の旧桟橋,羊蹄丸は東京お台場の船の科学館に係留され見学が可能である.後年,摩周丸を見学したが,内装は改装されており,当時の面影はなかった.



 函館本線のC62の撮影行は,69年8月, 70年2月,7月,12月,71年5月の合計5回に及んだ.

 
 1970年12月27日,急に思い立って,北海道に行くことにした.いつものように,上野発12:10の急行「十和田1号」に乗った.車内はもとより,通路にもデッキにも帰省客があふれていた.床に座ろうにもそのスペースすらなかった.「仙台に行けば少しはすくだろう」などと暢気に考えていたが,仙台に着いても誰も降りなかった.盛岡,三沢,誰も降りない.結局,青森に着く23:45まで11時間35分ずーっと立っていた.「青函連絡船では横になれる」と思っていたが,連絡船内も超満員.かろうじて座れたが,横になって寝ることは出来なかった.
 1971年1月1日,このページのトップの写真を撮影し,急いで千歳空港に行き,スカイメイトで羽田経由で静岡に帰り,元日の夕食に間に合った.往路の「十和田1号」とは違い,復路の飛行機はガラガラだった.
 後年,交通事故で亡くなった研究室の後輩の墓参のため佐賀県に行った.予約もせず新幹線に乗ったが,超満員だった.結局,東京から小倉まで立っていた.博多からの「かもめ」でも座れず,座ったのは小倉〜博多のみだった.青森〜下関,本州全て立ったまま旅行した事になる.


 1971年(昭和46年)4月28日(火)から5月5日(水)の北海道への最後の撮影行はC62との惜別の旅となった. 3号機のナンバープレートの拓本をとること,函館〜長万部間の平坦区間を疾走するC62,今ひとつは, 羊蹄山をバックに走るC62重連を撮影することであった.
 5月2日,国縫付近を疾走する15号機,2号機を撮影,5月3日,小樽築港機関区で3号機のナンバープレートの拓本をとった.しかし,羊蹄山は,撮影最終日まで,その姿を見せてくれなかった.四十年を経た今もって残念でならない.

 1971年5月4日(火),C62撮影の最終日.遂にその日は来てしまった.上目名で104レを撮影し, いつものように長万部で103レの発車を撮影し,通い慣れた「宗谷」,「26便」,「八甲田」 に乗り継ぎ,帰京するつもりだった. いつもファインダー越しにしか見ていなかったC62を自分の脳裏に焼き付けたいと思い, カメラバッグからカメラを出さなかった. 汽笛と共に長万部駅を発車して行くC62の姿を万感の思いで見送った事を昨日の事のように思い出す.



長万部を発車して行く103レ 1970年7月撮影


 最後に残った2,3,15,16号機による急行「ニセコ」の運用も, 1971年(昭和46年)9月15日に実施された三重連運転を最後に,DD51重連に置き換えられ, C62はこの世から姿を消した.2号機は梅小路蒸気機関車館に動態保存,15,16号機は廃車・解体された. 15号機の動輪,メインロッド,サイドロッドは東京駅丸の内地下の「動輪広場」に保存されている.
 3号機は,1972年(昭和47年),ファンの要望に応えて復活運転を行った. 更に,JR北海道をはじめ多くのファン・企業に支えられ,引退から実に17年の歳月を経て1988年(昭和63年)5月, 「C62ニセコ」として復活した.しかし,「C62ニセコ」の運行資金は脆弱で,1995年(平成7年) 11月3日の運転を最後に休止.翌1996年(平成8年)11月8日付で再び廃車となり,今は,JR北海道苗穂工場鉄道技術館に静態保存されている.



参考文献
1)国鉄札鉄局,駅名の起源,1962
2)松本謙一,HUDSON C62,プレスアイゼンバーン,1969
3)久保田博,懐想の蒸気機関車,交友社,1970
4)原 元,C62重連,1971
5)佐藤正樹編,国鉄特急編成史,弘済出版社,1999
6)鉄道ファン,39巻12号(1999)
7)国鉄時代,3巻4号(2009),ネコ・パブリッシング
8)国鉄時代,4巻1号(2010),ネコ・パブリッシング
9)C62重連の時代,ネコ・パブリッシング,2010
10)推橋俊之,松本謙一,函館本線C62,イカロス出版,2018

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