C62


2 10.03.06
1 09.08.29
N 09.03.26


C621号機 小郡機関区にて(1969年.3月撮影)



 このページでは,C62の誕生から終焉までを扱います.私が本格的にSLの撮影を始めた1969年(昭和44年)以降の呉線,函館本線に於けるC62の動向に関しては,拙著「呉線」「函館本線」,特急「つばめ」,ブルートレインに関わるC62の動向に関しては「特急つばめ小史」,「ブルートレイン」をご参照下さい.


 な〜んだお前もかと言われそうであるが,やはり一番好きなSLはC62である.

 1969年(昭和44年)3月,大学に入学した春休み,初めて呉線を訪れた.糸崎機関区で実物のC62を初めて間近で見た時の「あの震えるような感動」は今でも鮮明に蘇ってくる.それまで,御殿場線のD52は何度か見ていたが,C62の迫力は全く違った.一目でC62に魅せられてしまった.以来,呉線は,69年7月,11月,70年3月の合計4回訪れた.

 1969年(昭和44年)3月頃,呉線では糸崎機関区の15,16,17,23,37,41,46,47,48号機の9輌のC62が,3輛のC59と共通運用で,急行「安芸」1往復,「音戸」2往復の運行に,函館本線では小樽築港機関区の2,3,32,44号機の4輌のC62が急行「ニセコ」1往復の運行に最後の活躍をしていた.

 以来,1971年(昭和46年)5月4日,長万部駅を発車して行くC62の姿を見送るまでの2年間は,正に青春そのものであった.食費を節約するためにパンの耳をかじり,宿泊代を節約するために夜行列車に乗り続け,撮影地に一日でも長く滞在しようとした.ひとつの事にあれだけ夢中になれた時は,これまでの人生の中であの時しかなかった.

 1971年(昭和46年)9月15日,最後に残った2,3,15,16号機による急行「ニセコ」の三重連運転を最後に,C62はこの世から永遠に姿を消した.1950年(昭和25年)の「つばめ」から1967年(昭和42年)の「ゆうづる」まで17年間にわたって特急を牽引したのは蒸気機関車として最長の記録である.

 現在,保存されているC62は,1号機,2号機:梅小路蒸気機関車館,3号機:小樽築港機関区,17号機:名古屋市東山動物園,26号機:交通科学博物館の5輛である.



C62の誕生
 1948〜1949年(昭和23〜24年)に新製されたC62は,さっそく,重幹線の東海道・山陽本線と幹線の東北本線の仙台以南に投入された.東海道本線には静岡機関区に1輛,浜松機関区に2輛,梅小路機関区に6輛,宮原機関区に4輛の合計13輛,山陽本線には姫路機関区に3輛,岡山機関区に5輛,糸崎機関区に6輛,広島機関区に7輛,下関機関区に7輛の合計28輛のC62が配置された.東北本線の仙台以南には宇都宮機関区に19,20,21号機の3輛,尾久機関区に45,46,47,48,49号機の5輛の合計8輛のC62が配置された.

 49輌のC62が揃う1949年(昭和24年)頃,東海道・山陽本線に配置されたC62のうち7,8,9,10,11,22,23,24,37,38,39号機の11輌が軸重軽減改造を施した後,東北本線の仙台以南に転属した.19輛の軽量車は,白河機関区に8,9,10,11,19,20,21,22,23,37,38の11輛,尾久機関区に39,45,46.47,48,49号機の6輛,平機関区に7,24号機が配属された.翌1950年8月〜9月にかけて尾久機関区の6輛は平機関区に転属し,平機関区のC62は8輛になった.
 49輌製造されたC62のうち,19〜21,45〜49号機の8輌は製造当初から軽量型で,1949年頃,7〜11,22〜24,37〜39号機の11輌は重量型から軽量型に改造された.その後,後述するように,1956年〜57年(昭和31〜32年)にかけて,2,3,27,30,32,42,44号機の7輌のC62が軸重軽減改造を施した後,函館本線の小樽築港機関区に渡った.

 東海道・山陽本線では,C62は,当初はC59と共通運用された.しかし,1950年(昭和25年)1月1日,特急「つばめ」の復活に続き,特急「はと」が誕生し,長距離急行も徐々に運転を再開したため,C62はその高性能を活かした別運用となり,30輛の重量型のC62は,以下に示すように,浜松,名古屋,宮原,梅小路の4機関区に集中配備された.1948〜49年(昭和23〜24年)の竣工から1971年(昭和46年)の終焉までのC62の配備を示す.
浜松:5,12,13,14,15,28,33号機,
名古屋:6,16,17,18,25,26号機,
宮 原:1,2,29,30,35,36,41,42号機,
梅小路:3,4,27,31,32,34,40,43,44号機


C59とC62
 鉄道車両は,車輪とレールの間の摩擦力(粘着力)によって加速・減速を行っている.摩擦力(粘着力)は車輪とレールの間の摩擦係数(粘着係数)と軸重の積で表わされる.鉄道車両ではこの摩擦力のことを,粘着牽引力という.動輪の回転力を粘着牽引力以上にしても空転を起こすだけである.
 C59とC62を比べると,C59の方が軸重が大きいため,粘着牽引力が高く,空転しにくい.空転しないと言うことは,機関士にとって実に心強いことであり,トンネルの多い呉線ではC62はストーカを装備しているためシンダーが多いこともあって,乗務員にはC59が好まれる傾向にあった.呉線では,平機関区から軽量型のC62が転入してきてからは,その傾向が一層強くなった.乙線に入線可能な軸重15.0 tの軽量型のC62の粘着牽引力は11,148kgで,C59の12,150kgに比べて,約10%低い.このようなことから,軽量型のC62は敬遠され,ついには重量列車(音戸1・2号)はC59に牽かせるという「C59限定運用」なる臨時措置がとられた.外見は同じC62であっても,粘着牽引力の異なる重量型と軽量型を共通運用すること自体に無理があった.

 蒸気機関車では,ボイラで発生した蒸気をシリンダ内で膨張させて動輪の回転力を得ている.動輪の回転力(=シリンダ牽引力)は,ボイラの圧力とシリンダ断面積の積に比例し,動輪直径に反比例する.出力の制御は加減弁とカットオフによって行う.加減弁はボイラで発生した蒸気をシリンダに送る開閉装置で,給気量の制御を行う.加減弁を全開にするとシリンダに供給される蒸気の圧力は,理論的には,ボイラ圧力と等しくなる.蒸気エンジンは,ピストンの行程のある比率のみ蒸気を供給し,残りの行程は蒸気の膨張を利用する.この給気する行程比率をカットオフと言う.カットオフ50%とは,ピストンの行程の50%の区間で蒸気を供給することを示している.C59,C62の動力性能を表1に示す.


表1 C59,C62の動力性能
C59 C62 C62(軽)
動輪上重量 t 48.6 48.2 44.6
ボイラ圧力 kgf/cm2 16.0 16.0 16.0
シリンダ 径x行程 mm 520x660 520x660 500x660
最大粘着牽引力 t 12.2 12.1 11.2
最大シリンダ牽引力 t 13.8 13.8 12.8
動輪周最大出力 PS 1290 1620 1620

 「大垣〜関ヶ原間の10‰の連続勾配ではカットオフ55%加減弁全開で連続運転を行った」などの記述があるが,電気機関車などでは電気の供給は無限であるが,蒸気機関車では大量の蒸気を連続して供給できるボイラの能力が必要となる.
 「つばめ」などの現車13輛・450t牽引の場合,10‰勾配で,C59の均衡速度は45 km/hであるが,C62では55 km/hである.C59・C62の性能曲線を参照.例えば,C62の場合,450t牽引,10‰勾配の場合,左の目盛で牽引重量450tを探し,その線に沿って右側に,10‰勾配の曲線と交叉する点に沿って下側に,均衡速度は55 km/hであることがわかる.この差がボイラの能力である.C62はC59に比べてボイラーが約10%大きく,カットオフ55%の連続運転が可能であるが,C59ではそこまで伸ばせない.



東海道本線におけるC62
 1950年(昭和25年) 「つばめ」復活,「はと」誕生
 当時,東海道本線は浜松まで電化されていた.非電化区間の浜松〜大阪間379.2 kmの「つばめ」「はと」の牽引は,下りは浜松機関区のC62が,上りは宮原機関区のC62が充った.C62の最も華やかな時代である.東海道本線最大の難所,大垣〜関ヶ原間の約20 km延々と続く10‰の連続勾配を,現車11輛450tを牽き,カットオフ55%加減弁全開で60 km/hを超える速度で駆け上がっていくC62の姿は圧巻だったに違いない.

 上り「つばめ」「はと」の牽引には,宮原機関区の1,2,29,30,35,36,41,42号機の8輛のC62が充った.その中で,2号機はデフレクターに「つばめ」のマークが取り付けられていた.1950年(昭和25年),鷹取工場でレ10000を新造した際に,内装用のステンレス板の残りで飛燕のマークを作り宮原機関区に送って取付けた.2号機の「つばめ」のマークはかなり大きく,最大長645 mm,最大幅225 mmである.
 宮原機関区では,C62の好調機,不調機を識別するために,ナンバープレートの色を好調機は赤,普通機は緑,不調機は黒に分類して,好調機を優先的に特急牽引に充てた.宮原機関区では29号機が調子の良いカマとして有名で,エースとして活躍した.

 一方,下り「つばめ」「はと」の牽引には,浜松機関区の5,12,13,14,15,28,33号機の7輛のC62が充った(33号機の転入は1951年).浜松機関区のC62で最も力が強いとされたエース12号機は,デフレクターに「つばめ」のマークを取り付けていた.12号機の「つばめ」のマークは,1953年(昭和28年)東海道本線の名古屋電化に伴い,広島第2機関区に転出する際に取り外した.

C6242号機のこと
 1953年(昭和28年)2月,宮原機関区の42号機に試験的に集煙装置を取り付け,3月17日から20日までの4日間上り特急「はと」などで効果を確認する実地試験が行われた.東海道本線は,山岳路線ではないが,京都を出ると東山隧道,逢坂山隧道の二つの長大隧道があり,隧道内の煤煙対策として,特急牽引機にも試験的に集煙装置が装備されたのである.しかし,当時の宮原機関区では,煤煙対策として,東山,逢坂山の二つの隧道で特急列車の無投炭運転を行っていたこともあり,顕著な効果は認められなかったようで,集煙装置の装備は42号機だけにとどまった.
 42号機は,後述するように,東海道本線の全線電化が完成した1956年(昭和31年),鷹取工場でボイラーの新製交換と軸重軽減改造を施した後,函館本線の小樽築港機関区に転属した.その後,1963年(昭和38年)4月,仙台機関区に転属したが,仙台での活躍は一年にも及ばず,1964年(昭和39年)3月に廃車されてしまった.

1953年(昭和28年)7月 名古屋電化
 名古屋電化に伴い,浜松機関区の7輛のC62は,全機,広島第2機関区に転出.下り「つばめ」「はと」の牽引には,名古屋機関区の6,16,17,18,25,26号機の6輛のC62が充った.その中で,18号機がデフレクターに「つばめ」のマークを取り付けていた.18号機の「つばめ」のマークは,2号機のそれに比べて,頭部が下がっているため,「下りつばめ」などと呼ばれた.18号機の「つばめ」のマークは,東海道本線の米原電化に伴い,梅小路機関区に転出する際に取り外した.

1955年(昭和30)年7月 米原電化
 米原電化に伴い,名古屋機関区の6,16,17,18号機は梅小路機関区へ,25,26号機は宮原機関区へ転出.「つばめ」「はと」の牽引は,上り,下り共に,宮原機関区のC62が充った.

1956年(昭和31年) 東海道本線全線電化
 C62が最も大きく移動するのは東海道本線の全線電化が完成した1956年(昭和31年)であり,C62も余剰を生じていた.山陽本線に充当する好調機の選に漏れた不調気味の保留車の中から宮原機関区の2,30,42号機,梅小路機関区の3,27,32,44号機の7輛のC62が選ばれ,1956年(昭和31年)9月から1957年(昭和32年)10月にかけて,鷹取工場でボイラーの新製交換と軸重軽減改造を施した後,函館本線の小樽築港機関区に転出した.



山陽本線におけるC62
 1953年(昭和28年) 特急「かもめ」復活
 1953年3月,京都〜博多間の特急「かもめ」が復活した(戦前の「鴎」は,東京〜神戸間の特急).編成は,スハニ35,スハ44x3,マシ39,スロ54x3,スハフ43の9輛,牽引定数が低いことから,牽引機は下り列車の京都〜広島間は梅小路機関区のC59が充ったが,所定外のC62が充当される場合もあった.この所定外充当が,梅小路機関区のC62の唯一の特急仕業であった.
 1953年7月には,東海道本線の名古屋電化に伴い,浜松機関区のC62が広島第2機関区に転属し,「かもめ」に運用されるようになる.下り「かもめ」の牽引機は,京都〜広島間は梅小路機関区のC59が,広島〜下関間は広島第2機関区のC62が充った.上り「かもめ」の牽引機は,下関〜京都の全区間を広島第2機関区のC62が充り,広島では機関車交換が行われた.上り列車のみ,広島〜八本松間に瀬野機関区のD52が後部補機として使用された.「かもめ」のヘッドマークは,牽引機の所属機関区の独自のデザインで,瀬野・八越えの後部補機に使用された瀬野機関区のD52のテールマークとあわせて,三区三様のデザインを競った.この頃,「かもめ」は現車13両,500t牽引の最も重い列車だった.
 1958年の山陽本線姫路電化時には,姫路〜広島間の牽引は広島第2機関区のC62が,広島〜下関間の牽引は下関機関区のC62が充った.

1956年(昭和31年)
 東海道本線の全線電化に伴い,大幅なダイヤ改正が行われ,東京〜博多間に特急「こだま」と共に特急「あさかぜ」(7・8レ)が誕生した.編成は,スハニ32,ナハネ10x3,ナハ10,ナハフ10,マシ35,スロ54,マロネ40,マロネフ29の10両,牽引機は東京〜京都間はEF58,京都〜下関間はC59,下関〜門司間はEF10,門司〜博多間はC59であった.上り列車のみ,広島〜八本松間にD52が後部補機として使用された.
 1957年(昭和32年)3月から,輸送力増強のために,京都〜下関間の牽引機を梅小路機関区のC62に換装し,1輌増結した.

1958年(昭和33年)4月 姫路電化
 山陽本線の姫路電化に伴い,梅小路機関区のC62は全て下関機関区に転出し,下関機関区は4,5,16,17,18,25,26,29,31,34,35,36,40号機の13輛のC62を有する一大基地となった.このうち,4号機は,1958年8月,事故のため廃車,36号機は9月30日付で広島第2機関区に転属し,広島第2機関区に1,6,12,13,14,15,28,33,36,41,43号機の11輛,下関機関区に5,16,17,18,25,26,29,31,34,35,40号機の11輛のC62が配備された.広島第2機関区のC62が姫路〜広島間の列車を牽引,下関機関区のC62が広島〜下関間の列車を牽引した.
 1958年(昭和33年)「あさかぜ」(7・8レ),1959年(昭和35年)「さくら」(5・6レ),1960年(昭和35年)「はやぶさ」(9・10レ),1963年(昭和38年)「みずほ」(7・8レ)が相次いでブルートレイン化された.

1960年(昭和35年) 倉敷電化
 広島第2機関区のC62が広島以東の列車を牽引,下関機関区のC62が広島以西の列車を牽引するという分担は変わらなかった.

1961年(昭和36年) 「かもめ」気動車化
 「かもめ」はキハ82系気動車に換装され,山陽本線の昼行の客車特急は消滅.C62特急の舞台は寝台特急に移行した.

1962年(昭和37年) 広島電化
 EF58は瀬野・八で補機D52との協調運転に無理があり入線できなかったため,実際には,151系特急「つばめ」,153系急行「宮島」のほか,一部の客車列車がEF61牽引になったにすぎない.ブルートレインは補機D52と協調運転が可能なことが確認されたので,EF58が広島まで入線した.
 非電化区間の広島〜下関間のブルートレインは,広島運転所(旧広島第2機関区)のC62が下りの「さくら」と「はやぶさ」,上りの「あさかぜ」と「さくら」を牽引,下関機関区のC62が下りの「あさかぜ」と「みずほ」,上りの「はやぶさ」と「みずほ」を牽引した.

1964年(昭和39年)10月 山陽本線全線電化
 C62が牽引していたのは,さくら(1・2レ),あさかぜ(3・4レ),はやぶさ(5・6レ),みずほ(7・8レ)の寝台特急4往復のみならず,東京発着分だけでも桜島(1031・1032レ),霧島(31・32レ),雲仙・西海(33・34レ),高千穂(35・36レ),筑紫・ぶんご(37・38レ)の5往復の急行があった.関西発着分の急行は定期列車だけでも7往復あり,膨大な数の列車がEF58に換装された.

 C62は,山陽本線の全線電化が完成するまでは,事故により廃車された4,21号機の2輛を除き,全機健在であった.しかし,山陽本線の全線電化完成により,下関機関区の18,25,26,29,31号機の5輛が広島運転所に転属,5,16,17,34,35,40号機の6輛は広島機関区に転属した.

1965年(昭和40年)2月
 広島機関区の5,16,17,34,35,40号機の6輛は糸崎機関区に転属した.

1966年(昭和41年)
 広島運転所のC62は10月に6,13,28号機が廃車,12月に36号機が廃車された.

1967年(昭和42年)
 広島運転所のC62は7月には1,29号機が,10月には12,31,33,43号機が廃車された.この時点で健在だった重量型C62は糸崎機関区の15,16,17,41号機4輛のみとなった.


東北におけるC62
 東京〜仙台間には,東北本線経由と常磐線経由の二つのルートがあるが,C62が配備された1950年(昭和25年)頃,東北本線は大宮まで,常磐線は取手までしか電化されていなかった.すなわち,上野〜青森間の長距離列車は全て蒸機牽引であった.
 その一つのルートである東北本線には,福島〜金谷川間,越河〜白石間に25‰の急勾配区間があり,旅客列車にも補機が必要であった.一方,常磐線を経由すると距離は長くなるが,急勾配区間がないので,補機は必要なく,所要時間は殆ど変わらなかった.常磐線経由の方が,機関車の使用台数が少なくて済むので,燃料費も節約され,運送効率が良かった.そのために,蒸機時代は,常磐線が直通列車のメインルートであった.1957年(昭和32年),上野〜青森間の直通列車は5往復の急行(みちのく,北上,十和田,北斗,おいらせ)が設定されていたが,全て常磐線経由であった.そのために,C62は東北本線では目立った活躍をしていない.東北本線が上野〜青森間のメインルートとなるのは,その全線電化が完成する1968年10月(ヨンサントオ)以降のことである.

1954年(昭和29年)
 7月〜12月にかけて白河機関区の8,9,10,11,19,20,21,22,23,37,38号機は,全機,尾久機関区に転属.

1958年(昭和33年) 東北本線,大宮〜宇都宮間直流電化
 平機関区の7,39号機が尾久機関区に転属,軽量型C62は尾久機関区に7,8,9,10,11,19,20,21,22,23,37,38,39号機の13輛,平機関区に24,45,46,47,48,49号機の6輛,19輛全機健在であった.

はつかり誕生 
 10月10日,常磐線経由で上野〜青森間を結ぶ特急「はつかり」(1・2レ)が誕生した.車両は東海道・山陽・九州の特急「さくら」がブルートレイン化され余剰となったスハ44系および新製されたナロ10の8輌,牽引機は上野〜仙台間は尾久機関区のC62,仙台〜青森間はC61,盛岡〜青森間にはC60が前補機に使用された.上野〜青森間の所要時間は,それまでの急行「みちのく」の所要時間を約2時間短縮して,12時間となった.
 10月10日,下り特急「はつかり,1レ」,上り特急「はつかり,2レ」の一番列車を牽引したのは,それぞれ,22,19号機であった.ちなみに,22号機は,1967年(昭和42年)9月30日,常磐線最後の上り急行「みちのく」(202レ)の牽引機である.
 上野〜札幌間の最速ルートの所要時間は,1レ〜1便〜1レの接続で23時間30分であった.「はつかり」の時刻表と編成を表2に示す.

表2 1958.10.10 「はつかり」(1レ)の時刻表と編成
上野 水戸 仙台 一ノ関 盛岡 尻内 青森
1220 1402 1526 1748 1918 2051 2243 020
C62,スハニ35,スハ44x3,マシ35,ナロ10x2,スハフ43


 今にして思えば,「はつかり」の牽引機はハドソンC60,C61,C62の揃い踏み,正に夢のような列車である.もし仮に,この列車に乗ることができたならば,気も狂わんばかりの興奮であろう.仙台駅では,「はつかり」を牽引するC61とC62のバトンタッチが見られたそうである.残念,もう少し早く生まれていれば!

 後年(1966年),初めて北海道に行った時,帰りの急行「八甲田」を牽引していたのは,本務機がC61,前補機がC60だった.これを見て,大興奮したのだが,既に真っ暗になっていて写真は撮れなかった.青森を発車すると,不覚にも寝てしまい,奥中山でのドラフト音を聞くことはできなかった.一体何たることか!四十数年を経た今もって残念でならない.

 この当時,上野〜青森〜北海道連絡のルートは実質的には,表3に示す,3つのルートのみであった.これらはいずれも蒸機牽引の客車特急・急行であった(特急は「はつかり」のみ).上野〜仙台間,函館〜札幌間の牽引機はC62であり,東北・北海道におけるC62の全盛期である.

表3 1958.10 本州〜北海道連絡主要ルート
本 州 青函 北海道
はつかり 1便 大 雪
北 上 3便 アカシア
北 斗 5便 まりも


1959年(昭和34年)
 東北本線,宇都宮〜黒磯間が直流電化,黒磯〜白河間が交流電化.「はつかり」は,スピードアップして,上野〜青森間の所要時間は11時間30分となる.


1960年(昭和35年) はつかり気動車化,東北本線,白河〜福島間が交流電化
 
12月10日,初のキハ80系気動車特急「はつかり」(1・2D)が誕生した.しかし,第2回アジア鉄道首脳者会議に間に合わせるために,短期間で開発を行ったために,新技術の問題点を洗い出す十分な作業が行われず,奥中山の連続勾配を登り切れず立ち往生するなど,エンジントラブルが続出した.余りのトラブル続きに,マスコミからは「はつかり,がっかり,事故ばっかり」などと揶揄された.
 その後,ようやく本来の性能を発揮し,上野〜青森間の所要時間は10時間25分に短縮された.それに伴い,上野〜札幌間の所要時間は,1D〜1便〜1レの最短ルートの接続で,約20時間に短縮された.1961年10月の「はつかり」(1D)の時刻表と編成を表4に示す.

表4 1961.10 はつかり(1D)の時刻表と編成
上野 水戸 仙台 一ノ関 盛岡 尻内 青森
1330 1455 1607 1817 1933 2049 2229 2355
キハ81,キハ80x4,キサシ80,キロ80x2,キハ81


1961年(昭和36年) 
 サン・ロク・トオの白紙ダイヤ改正.東北本線,福島〜仙台間,常磐線,取手〜勝田間が交流電化.

1962年(昭和37年) 常磐線,勝田〜高萩間交流電化
 これに伴い,EF80が量産され,1962年10月以降は上野〜水戸間の客車列車は全てEF80に置き換えられ,上野駅からC62の姿が消えた.尾久機関区の7,8,9,10,11,19,20,21,22,23,37,38,39号機の13輛は,全機,水戸機関区に転属.

1963年(昭和38年)5月 常磐線,高萩〜平間交流電化
 これに伴い,水戸機関区の10,22,23,37,38,39号機の6輛は平機関区に,7,8,9,11,19,20号機の6輛は仙台機関区に転属した.平機関区のC62は,10,22,23,24,37,38,39,45,46,47,48,49号機の12輛となった.

仙台機関区の7輛のC62
 
 仙台機関区にC62が配属されていたのは,1963年(昭和38年)4月〜1965年(昭和40年)10月までの約2年半で,7輛が在籍した.これには,以下に述べるような背景があった.1961年,東北本線の福島〜仙台間が電化され,牽引定数が1割アップした.仙台以北の東北本線もこれに対応して牽引定数を引き上げるために,山陽本線の電化完成に伴い余剰となるC62に重油併燃装備をして活用することが検討された.そのために,重油併燃装置付きの42号機を,1963年4月28日付で小樽築港機関区から転属させた.同様に,水戸機関区から,かつての「はつかり」,牽引機7,8,9,11,19,20号機の6輛のC62が転属した.
 しかし,この時点でDD51の量産機配置の計画が既に具体化してきたため,仙台以北へのC62の入線試験,重油併燃の比較評価試験などは実施されることなく,42号機は,転属から僅か8ヶ月後の1963年暮れには第一種休車となり,1964年3月30日,8号機とともに,早々と廃車されてしまった.8,42号機の廃車は,事故により廃車された4,21号機を除き,C62として初めての廃車であった.残された7,9,11,号機も,1966年1月20日,常磐線全線電化の2年前,「ゆうづる」誕生の直前に全機姿を消してしまった.
 優等列車牽引の機会が多い平機関区のC62に比べ,42号機を初めとする仙台機関区の7輛のC62は,運命の悪戯とでも言うか,貧乏クジを引いたようなものである.機関車も,サラリーマンも,その配属先によって運命が左右されることがままあるものだが,正に転勤ならぬ転属によってエリートコースから外れ,左遷されることがある.最後の最後まで人生によく似ている.

1964年(昭和39年)10月 はくつる誕生,山陽本線全線電化,東海道新幹線開業,
 急行「北上」(13・14レ)が格上げされて,東北本線経由で上野〜青森間を結ぶ初の寝台特急「はくつる」(3・4レ)が誕生した.編成は:カニ21,ナロネ21,ナシ20,ナハネ20x6輛,ナハ20,ナハフ20の11輛,牽引機は上野〜黒磯間はEF58,黒磯〜仙台間はED71,仙台〜青森間はC61,盛岡〜青森間にはC60が前補機に使用された.上野発19:00,青森着6:30、所要時間は11時間30分であった.

1965年(昭和40年)10月 ゆうづる誕生,東北本線,仙台〜盛岡間交流電化
 急行「北斗」(17・18レ)が格上げされて,常磐線経由で上野〜青森間を結ぶ寝台特急「ゆうづる」(5・6レ)が誕生した.編成は:カニ21,ナロネ21x2,ナハネ20x2,ナシ20,ナハネ20x6,ナハフ20の13輌,牽引機は上野〜平間はEF80,平〜仙台間は平機関区のC62,仙台〜青森間はDD51であった.上野発21:30,青森着9:15、所要時間は11時間45分であった.「ゆうづる」の誕生により,上野〜青森〜北海道連絡の主要3ルートの本州側は全て特急となった.

 「ゆうづる」の運転開始当初,東北本線の仙台〜盛岡間は電化されていたが,ED75の増備が遅れていたため,仙台以北はDD51が牽引した.盛岡〜青森間はDD51の重連運転となった.
 前年の1964年10月(昭和39年),山陽本線の全線電化でC62による特急牽引が消滅してしまったが,特急列車の先頭に立つC62が復活したのである.

 「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いた黒岩保美氏デザインの「ゆうづる」のヘッドマークは,同列車が恐らく最後の蒸気機関車が牽引する特急となるであろうことを念頭に置いて、C62形に装着した際に最も映えるように配慮してデザインされた.


C6222号機 平機関区にて(1967年5月撮影)


 「ゆうづる」の写真には23号機が多く見られるが,これは22号機である.22号機は,1958年(昭和33年)10月10日,下り特急「はつかり,1レ」の一番列車,1967年(昭和42年)9月30日の常磐線最後の上り急行「みちのく,202レ」の牽引機である.



 「ゆうづる」が誕生した1965年当時,上野〜青森間の直通列車は,特急3往復(はつかり,はくつる,ゆうづづる),急行8往復(第1・第2みちのく,第1〜第4十和田,おいらせ,八甲田)が設定されていた.これらのうち,東北本線経由は特急「はくつる」と急行「八甲田」の2往復で,残りの特急2往復,急行7往復は常磐線経由であった.気動車化されていた「はつかり」,「みちのく」1往復以外の7往復の客車列車はすべて平機関区の10,22,23,24,37,38,39,45,46,47,48,49号機が牽引した.新製時以来,大半を平機関区で過ごした24,45,46,47,48,49号機も,ようやく特急牽引機の仲間入りを果たすことができた.これにより,C62は全49輛が特急牽引機となった.「ゆうづる」の運転開始から1年は22,37,47号機が多く使用され,2年目は23,48号機が多く使用された.中でも23号機は「ゆうづる」牽引の機会が最も多く,平機関区のエースとして,「ゆうづる」と言えば23号機という印象が強い.1967年(昭和42年)9月30日,「ゆうづる」最後の牽引機となったのも23号機であった.


1967年(昭和42年)10月 常磐線全線電化
 平〜仙台間の電化に伴い,常磐線の列車牽引機はEF80に換装された.さよなら列車は,C6249号機が201レ「第2みちのく」を,C6222号機が202レ「第1みちのく」を牽引し,有終の美を飾った.実際のC62最終列車は,201レの折返し運転のC6249号機が牽引した210レ「第1十和田」(原ノ町〜平)となった.
 平機関区では,10,22,24,38,39,45,49号機の7輛が廃車され,比較的状態の良好だった(ゆうづる牽引指定機)23,37,46,47,48号機の5輛が糸崎機関区に転出した.これに伴い,糸崎機関区では,5,14,18,25,34,40号機の6輌が廃車された.その結果,C62は,糸崎機関区の重量型15,16,17,41号機4輛,平機関区から転属した軽量型23,37,46,47,48号機5輛,小樽築港機関区の軽量型2,3,32,44号機4輛を残すのみとなった.

1968年(昭和43年)10月 「はつかり」電車化
 東北本線の全線複線電化完成.ヨン・サン・トオの白紙ダイヤ改正により,貨物列車の最高速度は65 km/hから75 km/hに,客車列車の最高速度は95 km/hから110 km/hに,電車の最高速度は110 km/hから120 km/hにスピードアップされた.
 特急「はつかり」は583系電車に換装され,2往復に増発された.電車化に伴い,東北本線経由とすることで,上野〜青森間の所要時間は,従来の所要時間を約2時間短縮し,8時間30分になった.更に,寝台特急の「はくつる」「ゆうづる」各1往復も583系に換装された.「はつかり」・1便・「おおぞら」,「ゆうづる」・3便・「北斗」,「はくつる」・5便・「おおとり」の583系〜キハ82系の本州〜北海道間の特急連絡3ルートが完成した.「はつかり2号」・1便・「おおぞら」のルートでの上野〜札幌間の所要時間は17時間25分となった.



余談ですが,
 「はつかり」電車化の後,キハ81系車両は,奥羽本線の特急「つばさ」,1969年(昭和44年)羽越本線の特急「いなほ」,1972年(昭和47年)紀勢本線の特急「くろしお」に転用されたが,1979年(昭和54年)紀勢本線の新宮電化により廃車された.キハ81-3号機が交通科学博物館に静態保存されている.私の中では,キハ81系「はつかり」は短命だったというイメージが強かったが,東海道本線における151系「こだま」(1958年〜1964年)に比べて,遙かに長命(1960年〜1968年)であった.

 583系電車の出現は特急車両の運用に大きな変化をもたらした.上野〜青森間の所要時間は8時間30分から9時間30分である.これは,夜行特急で到着の後,数時間の車内清掃・整備の後,昼行特急として折返す運用が可能であることを示している.これを実現するためには,昼行特急のペアとしての夜行特急が必要で,昼行特急「はつかり」2往復に対して,夜行特急「はくつる」「ゆうづる」の2往復がそれにあたる.4M(ゆうづる)で上って(6:40着),約4時間後,2021M(はつかり1号)で折り返す(10時15分発),更に5時間後,6M(はくつる)で上って(9:10着),約6時間後,1M(はつかり2号)で折り返す(15時40分発)と言う運用ができる.車内清掃・整備は,通勤用車両が出払って余裕のある車両基地で余裕を持ってを行うことができ,当時の車庫不足の解消にも貢献することができた.表5に示す1968年10月の時刻表に基づき作ったダイヤをご参照頂きたい.何れの場合も,東京には昼間の数時間しか滞在していないことがわかる.
 しかし583系電車は,後年,この兼用車としての構造(昼間,対面4人掛け,シートがリクライニングしないこと)が特急車両としての設備に見劣りするものとされ,急速に凋落の道を辿ることになる.特に東北本線で使用された車両は厳寒地域を最高速度120km/hで昼夜運行しており、日車1,500kmを超すことも珍しくない極めて過酷な条件であった.このため、車両へのダメージは大きく、老朽化を早める一因となった.


表5 1968.10 583系特急時刻表と編成
列 車 上野 青森 列 車 青森 上野
2021M 1015 1847 2M 455 1325
1M 1540 010 2022M 905 1737
3M 1940 500 4M 2110 640
5M 2200 705 6M 2355 910
クハネ581,サロ581,モハネ582,モハネ583,モハネ582,モハネ583,サシ581,モハネ582,モハネ583,モハネ582,モハネ583,サハネ581,クハネ581の13両編成(8M5T)

 581系と583系の違いは,本質的には,電動車ユニットが60 Hz対応型のモハネ580+モハネ581であるか,50/60Hz対応型のモハネ582+モハネ583であるかによる.クハネ,サロ,サシなどはすべて581である.


 昼行特急「はつかり」と夜行特急「はくつる」「ゆうづる」は更に増発を重ね,「ゆうづる」は,1975年(昭和50年)には,最大本数を数えた.583系電車が3往復,20系客車が4往復,実に7往復もの「ゆうづる」が設定された.しかし,これは旅客動向を反映した結果ではなかった.1973年10月に勃発した第四次中東戦争に端を発するオイルショックの影響で客足は鈍り,青函連絡船は,1973年(昭和48年)をピークに,旅客を減らす一方であった.一方で,九州特急は,24系25形客車を導入し,車両のグレードアップが図られていた.それまで使用していた24系客車は余剰となったが,国鉄は膨大な赤字を抱えており,落成から10年も経たない車両を廃車する訳にもいかず,白羽の矢が立ったのが「ゆうづる」であった.1960年代後半の北海道連絡は,鉄道が主力という印象が強いが,1970年の時点で,既に,東京〜札幌間の旅客のシェアは航空機が78%を占めていた.鉄道は,所要時間でも輸送力でも航空機に歯が立たない状況であった.

 ヨン・サン・トオと共に,奥中山の三重連が消えた.1968年は浪人中だった.東京オリンピック(1964年)は高校受験の年,奥中山は浪人中.何の因果か,巡り合わせの悪いことである.



呉線におけるC62
 往年の急客機C59,C62の最後の働き場所だった呉線は,瀬野・八の難所を持つ本線のバイパスと軍需輸送を目的として建設された海岸線で,戦時中から軸重16.8tのC59が入線可能な特別甲線区間であった.私が初めて訪れた1969年(昭和44年)3月頃は,翌1970年10月の電化を控えて,既にポールが立ち始めていた.東京〜広島間の寝台急行「安芸」(37・38レ),新大阪〜下関間の「音戸1号」(301・302レ),京都〜広島間の「音戸2号」(303・304レ)は糸崎から呉線に入り,C59,C62が共通運用されていた.特に,「安芸」は,1968年(昭和43年)12月より,急行としては異例な,ヘッドマークをつけていた.



C6223号機 糸崎機関区にて (1969年3月撮影)


1965年(昭和40年)2月 山陽本線の全線電化
 広島機関区から5,16,17,34,35,40号機の6輛のC62が糸崎機関区に転入した.(35号機は1965年10月に廃車.)続いて,広島第2機関区から14,15,18,25,26,41号機の6輛のC62が転入した.(26号機は,翌1966年9月に廃車され,交通科学博物館に静態保存.)C62の転入に伴い,糸崎機関区では,131,175,190,196号機の4輛のC59が廃車され,残るC59は161,162,164号機の3輛のみとなった.

1967年(昭和42年)10月 常磐線の全線電化
 平機関区では,10,22,24,38,39,45,49号機の7輛が廃車され,比較的状態の良好だった23,37,46,47,48号機の5輛の軽量車が糸崎機関区に転属した.これに伴い,糸崎機関区では,5,14,18,25,34,40号機の6輌が廃車され,重量車は15,16,17,41号機の4輌のみとなった.

 その9輛のC62も,状態不良が目立ち,段階的に廃車されていった.1969年3月に47号機,1969年9月に46,48号機,1970年3月に41号機が廃車され,最後まで残ったのは重量車の15,16,17号機,軽量車の23,37号機の5輛のC62と3輛のC59であった.

1970年(昭和45年)10月1日 呉線電化
 全般検査まで1年以上期間が残っていた15,16号機は軸重軽減改造を施され小樽築港機関区に転属.17号機は名古屋市東山動物園に静態保存.23,37号機の2輌はC59162号機と共に1971年1月13日,広島工場に回送され,解体された.



函館本線におけるC62
 函館本線は,函館から小樽を経て札幌,旭川に至る,北海道の最主要幹線であるが,渡島半島の付け根を横断する長万部・小樽間140.3kmは,20‰の急勾配の連続する山岳路線であり,長い間,9600,D50さらにD51による苦しい山越えが続いた.戦後の急行「大雪」,「アカシア」,「まりも」3往復は,いずれも,D51の牽引であった.
 急勾配区間に貨物用のD51を使用し,急行列車牽引に充てた例は他にもあるが,長万部・小樽間は20‰前後の急勾配が連続し,半径300m以下の急カーブが多く,特に厳しい運転条件であった.急行旅客列車を牽引して高速で走行するD51は,動輪フランジの摩耗や動輪軸箱・主連棒大端の発熱が目立ち,保守の面での問題も多かった.さらに,動輪直径の小さいD51を高速で走行させるために,動揺が激しく,機関車乗務員の疲労が甚だしいなど,抜本的な改善が必要とされていた.加えて旅客輸送の需要は増える一方であったが,当時は未だ,急行・特急用の気動車は開発されておらず,この面からの輸送力強化も急務であった.こうした事情を背景に,東海道本線で勤めを終えて余剰になったC62の函館本線転用が実現したのである.



C622号機 長万部機関区にて(1970年2月撮影)


 1956年(昭和31年)9月15日
 鷹取工場でボイラーの新製交換と軸重軽減改造が終了した3号機が,第1号機として,小樽築港機関区に転属した.3号機による入線試験の後,翌1957年(昭和32年)10月までに,2,27,30,32,44,42号機の順に小樽築港機関区に転属した.C62は,1957年2月から急行「大雪」(1・2レ)の函館〜小樽間の1往復2運用に,同年10月のダイヤ改正から,急行「大雪」(1・2レ),「アカシア」(3・4レ),「まりも」(7・8レ)の函館〜小樽間の3往復6運用にあたった.これら3本の急行は,それぞれ上野〜青森〜北海道連絡の主要ルートである連絡船1便,3便,7便に接続する,食堂車を連結した,函館本線の看板列車であった.

 小樽〜長万部間では,これらの3本の急行を牽引するC62重連同士の交換が見られたと言う.蒸機王国北海道におけるC62の全盛期である.1958年(昭和33年)10月の時刻表を表6および7に示す.


表6 1958.10 1レ,3レ,7レの時刻表
函館 軍川 八雲 長万部 倶知安 小樽 札幌
1レ 大 雪 600 633 703 740 818 955 1108 1150
3レ アカシア 1135 1245 1402 1600 1725 1815
7レ まりも 1450 1526 1616 1651 1708 1843 1957 2049

表7 1958.10 8レ,4レ,2レの時刻表
札幌 小樽 倶知安 長万部 八雲 軍川 函館
6レ まりも 800 842 958 1135 1244 1351
4レ アカシア 1103 1146 1314 1501 1618 1728
2レ 大 雪 1645 1726 1840 2016 2048 2126 2232
*軍川は,現在の大沼

 長万部,倶知安,小樽は,それぞれ,函館起点で112.3km,193.3km,252.5kmであるから,A4の方眼紙があれば,表4および5の時刻表に基づき,ダイヤを作るのはそれ程困難ではない.私が作ったダイヤによると,1レと8レ,2レと7レが交換するのは倶知安付近,3レと4レが交換するのは黒松内付近である.ダイヤを作ると,7輛のC62の運用が想像できる.例えば,2レの前補機は長万部到着後,翌朝まで待機,1レの前補機で小樽に戻り,約1時間後4レの前補機として長万部まで,約2時間後,7レの前補機として小樽に戻る,などと想像するだけでも楽しくなる.思いもかけぬ楽しみとなるので,是非お勧めする.1958年,蒸機王国北海道におけるC62全盛当時の食堂車のメニューを表8に示す.C62重連が牽引する「大雪」「アカシア」「まりも」で旅する気持ちになり,ダイヤでも眺めながら,ごゆっくりお食事をお楽しみ下さい.


表8 1958年急行食堂車メニュー
洋定食
和定食
150
120
飲  物


プルニエ定食
ミート定食
お好み定食
幕の内
225
225
250
285
清酒特級1合
清酒一級1合
     大瓶
ビール 中瓶
     黒(小)
ウイスキー
 国産品 30cc
 舶来品 30cc
140
110
140
80
85

80
180
オレンジジュース
サイダー
レモネード
ジンジャエール
炭酸
コーヒー
紅茶
55
45
30
30
25
50
40
昼ランチ 225
一品料理 50〜225
 ちなみに,1958年当時の物価は:白米(10kg)850円,そば20円,あんパン12円,山手線初乗10円,大工の手間賃730円,教員の初任給8000円.


1961年(昭和36年)10月
 サン・ロク・トオの白紙ダイヤ改正で,蒸機王国北海道にも近代化の波が押し寄せた.すなわち,北海道初のキハ82系気動車特急「おおぞら」(1・2D)が誕生した.これにより,「はつかり」(1D)〜1便〜「おおぞら」(1D)と続く本州〜北海道連絡の最速ルートが特急接続となった.
 「大雪」は列車番号を1・2レから11・12レに変更,1D〜1便に接続する最速ルートから外れた.「アカシア」はキハ58系気動車急行に換装され,「オホーツク・宗谷・摩周」(13・14D)と改称,運転区間を函館〜網走・稚内・釧路間に変更した.これに伴い,「まりも」は列車番号を7・8レから17・18レに変更,C62の運用は「大雪」「まりも」の2往復4運用となった.

1962年(昭和37年)10月
 「大雪」(11・12レ)が7輛編成となったため,C62単機で運用されるようになった.これに伴い,C62は余剰となり,42号機は,1963年(昭和38年)4月,仙台機関区に転属した.42号機の仙台での活躍は一年にも及ばず,1964年(昭和39年)3月に,早々と,廃車されてしまった.

1963年(昭和38年)6月
 「大雪」は気動車化され「ライラック」(11・12D)と改称した.これに伴い,C62の運用は,「まりも」(17・18レ)1往復2運用と旭川・長万部方面に準急,各駅停車などの牽引に3運用となった.

1964年(昭和39年)10月
 上野〜青森間の急行「北上」(13・14レ)が格上げされて,寝台特急「はくつる」(3・4レ)が誕生.北海道内では,3レ〜3便に接続する,函館〜網走間のキハ82系特急「おおとり」(3・4D)が誕生した.これにより,上野〜青森〜北海道連絡の主要3ルートのうち2ルートが特急となった.

1965年(昭和40年)10月
 上野〜青森間の急行「北斗」(17・18レ)が格上げされて,寝台特急「ゆうづる」(5・6レ)が誕生,北海道内では,5レ〜5便に接続する,函館〜網走間のキハ82系特急「北斗」(5・6D)が誕生した.これにより,上野〜青森〜北海道連絡の主要3ルートは,表9に示すように,全て特急となった.
 唯一残っていた「まりも」は運転区間を札幌〜釧路間に,列車番号を27・28レに変更.新たに函館〜札幌間の急行「ていね」(105・106レ)が誕生した.

表9 1965.10 本州・北海道主要ルート
本州内 青函 北海道内
はつかり 1便 おおぞら
はくつる 3便 おおとり
ゆうづる 5便 北 斗

1967年(昭和42年)
 急行「ていね」(105・106レ)の1往復2運用,旭川方面の急行「石北」の1運用となり,6輛中4輛使用で運用されたが,1輛余剰となり,1968年2月20日付で27号機が,北海道でのC62廃車第一号として,苗穂工場で解体された.

1968年(昭和43年)10月
 ヨン・サン・トオの白紙ダイヤ改正で,「ていね」は食堂車を廃止して,「ニセコ1・3号」(103・104レ)と改称.また,小樽〜滝川間の電化により,急行「石北」の運用が消滅,30号機は同年10月25日付で廃車され,北海道のC62は2,3,32,44号機の4輛となった.

1970年(昭和45年)10月1日
 呉線電化に伴い,糸崎機関区の15,16号機は軸重軽減改造を施され小樽築港機関区に転属.これに伴い,小樽築港機関区の32,44号機は廃車された.

1971年(昭和46年)9月15日
 最後に残った2,3,15,16号機による急行「ニセコ」の三重連運転を最後にDD51重連に換装された.函館本線のDL化は1971年(昭和46年)10月1日に完成し,C62はこの世から姿を消した.2号機は梅小路蒸気機関車館に動態保存,15,16号機は廃車・解体された.15号機の動輪,メインロッド,サイドロッドは東京駅丸の内地下の「動輪広場」に保存されている.

 残された3号機は,1972年(昭和47年),ファンの要望に応えて復活運転を行った.更に,JR北海道をはじめ多くのファン・企業に支えられ,引退から実に17年の歳月を経て1988年(昭和63年)5月,「C62ニセコ」として復活した.しかし,「C62ニセコ」の運行資金は脆弱で,1995年(平成7年)11月3日の運転を最後に休止となった.C623号機は,今は,苗穂工場で静かに休んでいると聞く.



1999年夏
 「ドリームトレイン1999」と言うイベントで品川駅に来ているC622号機を,偶然見る機会があった.しかし,私が恋いこがれたC62とは異なったプラモデルを見ているようであった.とは言え,カメラを持っていたので,取りあえず写真は撮った.
 確かに,私は,C57山口号をはじめとする観光SLには全く興味がない.よくある話だが,初恋の人は思い出や夢の中に居るからこそ良いのだと思う.
C622号機 品川駅にて(1999年8月撮影)



参考文献
1)松本謙一,HUDSON C62,プレスアイゼンバーン,1969
2)松本謙一,C59 Life of a Pacific,プレスアイゼンバーン,1970
3)久保田博,懐想の蒸気機関車,交友社,1970
4)栄光の機関車C62,鉄道ジャーナル別冊,鉄道ジャーナル社,1971
5)佐藤正樹編,国鉄特急編成史,弘済出版社,1999
6)宇田賢吉,鉄路100万キロ走行記,グランプリ出版,2004
7)川端新二,ある機関士の回想,イカロス出版,2006
8)河上晋,皆川祐実,小池大輔編,はつかりの軌跡,宝島社,2009
9)佐藤美知男,河野真理子,特急燕とその時代,東日本鉄道文化財団,2009
10)国鉄時代,3巻4号,ネコ,パブリッシング,2009
11)国鉄時代,4巻1号,ネコ,パブリッシング,2010

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