File No.026 伝説または逸話

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『筥根山火金の地蔵にて、火の車を見る事』-奇異雑談集より-

ある人の語った話である。
伊豆の国箱根山の権現の傍らに火金(ひがね)の地蔵と言って霊験いちじるしいお堂があった。
権現の参拝の人は必ずこの地蔵に参るほどだった。
駿河の府中に、屋形衆朝日名孫八郎殿という人がいたが、その隣に地下人左衛門という人がいた。
天文五、六年(1740、41年)の頃、伊豆の三嶋に、所用があって出かけていたが、四、五日逗留しても所用が済まなかったので、まず箱根の権現へ参拝して、そのついでに火金の地蔵にも参った。
仏前に看経して、しばらくすると女性がひとりで入ってきた。
見れば、自分の隣の朝日名殿の奥方であった。
顔色が蒼白く、やせ衰えて、姿見苦しく、まるで幽霊のようであった。
大家の奥方ゆえに側近や家来が多くつくはずなのに、只一人とは不審である。
ことに自分が仏前にいるのに気付きもせず、一目も見なかった。
なおも、不審な事に地蔵の錫杖自然に振る声がたかく聞こえているのに仏のそばには人はいなかった。
これもまた不審な事だが、晴れ上がっていた空が俄かにかき曇り、黒雲そらにみちて、震動雷電し、光だした。
黒雲が地に落ちて雲の中から火車が出てきて、かの女性の後ろにやってくると、空に「ひひひひ」と鳴る声が聞こえた。

何物の声とも分からず、雲の中から鬼神が現われて、女性をつかんで火車にのせて去って行った。地蔵堂の前に無間の谷という谷があり、火車がここについたと思う時分に、大きな響きにてどうと鳴る音が聞こえて、雲が晴れ上がった。
かの左衛門は、仏前にあって恐れ、肝魂を失えども、気を静めてよく見ていた。
地蔵堂を管理する僧官に聞いた。
「今不思議な事が起きたが、こんな事は前にあった事があるのか」と言えば、
僧官は「かくのような事が常に有るゆえ、私は驚きません。
或いは雨の振る日、或いは日の暮れる時姿は見えないけど行く足音が聞こえたり、或いは無き悲しんでいく声が聞こえ、或いは馬に乗って行く音が聞こえたりする。
この無間の谷だけではなく、この山の奥に地獄谷と言って熱湯が沸きかえり、硫黄が出てかたまる所が多い場所を地獄と伝え聞く」と言った。

左衛門はさらに「僧官どのも先の女性を知ってらっしゃいましすか」と聞けば「中々よく見たりするお方ではありません。
魂魄幽霊である事は間違いないでしょう」といえば左衛門は「さては、朝日名殿の奥方は死去なされたか。
いたわしい事かな。僧官どの見られたとおりですので、弔わせて下さい」といった。
また、三嶋の里に行って、四、五日あって所用が済んで、府中に帰った。
自分の家に帰ると妻が「朝日名殿の奥方が亡くなられていま中陰です」と言った。
それについて自分が見た不思議な事を話すとみんな驚き、家族の者は涙した。
その中にはその話を疑う者もいたが、幽霊を見た日と亡くなった刻限と同じであったのでみな更に驚いたと言う。
『猟師の母親が鬼となる話』-今昔物語より-

今は昔のこと、ある国のある郡に、鹿や猪を取るのを習いとする二人の兄弟の猟師があった。
いつも山にはいって鹿のあとを追っていたから、兄弟がいっしょのことが多かった。
待という方法を用いた。
それは、高い木の股のところに、横ざまに太い棒を結びつけて陣取り、鹿がその下を通るのを待ち受けて射るのである。
そこで四、五段ばかり間を置いて兄弟が向かい合って二本の木上にいた。
九月の下旬のころで、月もない真っ暗闇、何一つ見えない。
ただ、鹿の来る足音を待って、耳を済ませているが、夜がしんしんとふけて行くばかり、鹿は来ない。
そのうちに、兄のいる木のほうから、何物か、手を差し伸ばして、兄のもとどりをぐいと掴み、上へ引き上げる者がある。
兄はぎょっとなって、もとどりを掴んだその手を探ってみると、骨と皮ばかりのやせ衰えた人の腕である。
これは鬼が自分を食おうとして掴んで引き上げるのだ、と気がついたから、向うにいる弟に知らせようと思い、その名を呼んで、弟が答えたので「仮に、俺のもとどりを掴んで引っ張り上げる者がいたとしたら、お前はどうする」と尋ねてみた。

「見当をはかって射止めてやります」と弟が言う。
「ところが実は、現に俺のもとどりを掴んで引っ張り上げる者がいるんだ」
「それなら、兄さんが声をかけてくだされば、その見当で射止めましょう」
「それじゃ、やってくれ」と言う声を目当てに、矢じりが二股にわかれた雁股矢を切って放したが、兄の頭の上に矢が飛んでいったと思うまに、手応えがあったから
「どうです、当たったようですよ」と弟が声をかけたから、兄はもとどりの上を手探りしてみると、手首のところから切り取られた手がぶら下がっていた。
そこで弟に「鬼の腕は確かに切り取った。
俺がここに掴んでいる。
しかし今夜は、これでもう帰ろう」と言えば「それがいい」と弟も賛成して、二人とも木から下り、つれだって家路についた。
夜中すぎに、家に着いた。
ところで二人の兄弟には年をとって立居も不自由な母親がいたから、それを壺屋(物置のような部屋)に住まわせて、兄弟はその壺屋を囲むように、左右の隣り合った部屋に住んでいたが、夜中に帰ってみると、壺屋の中で、いつになく母親のうめく声がする。
「お加減でも悪いのですか」と二人が聞いても返事もしない。

そこで灯を点して、切り取った手を見ると、どうも母親の手に似ている。不思議に思って よくよく調べてみると、まごれもなく母親の手らしいから、急いで母親のいる壺屋の潜り戸を開いてみると、母親はむっくりと起き上がって「お前等は」と飛びつこうとする。
「これは貴方の手ですか」と言って、部屋の中に投げ入れ、戸を閉めて逃げ出した。
その後、この母親は間もなく死んだ。
兄弟が近寄って見ると母親の片手は、手首のところから射られてなかった。
そこで、やはり母親の手だということが知れた。
これは母親がひどく年をとって、鬼になり、子供を食おうと思って、あとについて山に行ったものである。
人の親のひどく年をとったのは、必ず鬼となって、このように子供を食おうとするものだ。
この二人の兄弟は厚く母親を葬ったが、なんともきわめて恐ろしい話である。
『耳切れうん市が事』-曾呂利物語より-

信濃の国、善光寺の中に比丘尼寺があった。また越後の国にうん市と言う座頭がいた。
常にこの比丘尼寺に出入りしていた。
ある時病におかされて、半年ほど訪れなかった。
少し治ってから、この比丘尼寺に行った。主の老尼は「うん市とは久しぶりだな。一体どうしていたのですか」と言えば、「久しく病気をしておりましたので、お顔を出す事ができませんでした」と答えた。
ともかく、その日も暮れてきたので「うん市は客殿で泊まられよ」といって老尼は方丈に入っていた。
ここに“けいじゅん”という弟子の比丘尼がいたが、三十日ほど前に亡くなっていた。
このけいじゅんがうん市の寝ているところへ行って「お久しぶりです。さあ、我々の寮へ一緒に行きましょう」と言った。
うん市は死んだ人間とは知らずに「そこへ参るのは別にかまいませんが、あなたお一人の所へ行くのはどうかと思いますが」と言った。

「いやいや、別にかまいませんよ」と無理矢理に引き立てて行った。
寮の戸を中より強く閉ざして、明くる日は外へも出さずに、一日が暮れていった。
うん市は気詰まり、どうしようかと思いながらもするべきことも無かった。
どうにかして外へ出ようとして辺りを探したがいかにも厳しく閉ざされていて出て行く事が出来なかった。
夜が明けてけいじゅんは帰っていった。
このようにして二晩過ぎたが、そのうちに食べ物も無くなり三日目の暁に寮の戸を激しく叩いた。
直ちに寺中の者が出てきて扉を蹴破って見るとうん市がいた。
「何でこんな所にいるのだ」と尋ねると「ここに居ろと言われていたのだ」と答えた。
見れば、肉はほとんど無く骨ばかりでさも恐ろしい姿であった。
「一体どうしたんだ」としつこく聞けば「しかじかの事で・・・」と答えた。
「けいじゅんは三十日ほど前に亡くなっているのですよ」と言えばいよいよ興ざめてきた。

一つはけいじゅんの弔いの為、もう一つはうん市への怨念を払う為に寺中寄り合い百万遍の念仏を唱えた。
各々鐘打ち鳴らし誦経している時に何処とも無くけいじゅんが姿を現し出てきた。
うん市の膝を枕にして眠っていた。
念仏の功力によって寝入った居る隙にうん市は枕をはずして「はやく国に帰ってしまいなさい」といって馬を用意して送り出した。
道すがら、いかにも身の毛がよだち、後より取りつかるように覚えて、行き悩むように思いある寺に立ち寄り、長老に会って「しかじかの事があって困っております。お頼み申します」と言った。
「さらば」といってそこの寺に居た僧が寄り合って、うん市の体に尊勝陀羅尼を書き付けて仏壇に立て置いた。
その後けいじゅんがさも恐ろしき有り様にて、この寺にやって来た。
「うん市を出せ、うん市を出せ」とののしりて走り回ったがうん市を見つけて
「ああ、可愛そうに、座頭は石になってしまった」と撫で回して、耳に少し陀羅尼の足りない所を見つけ出して「ここにうん市が切れ残っている」といって引きちぎって帰っていった。
さて、命だけは助かって本国に帰ったが、耳切れうん市として越後の国では有名になった。
『安部宗兵衛が妻の怨霊の事』-諸国百物語より-

豊前の国速水の郡(大分県速見郡)に安部宗兵衛というものがいた。
常々、女房に邪見にして、食べ物も満足に与えずに、女房はこれをくやしく思って、患ったが薬も与えずになおも辛く当たった。女房は十九歳の春についに亡くなった。
すでに末期と言う時に、宗兵衛に向って今までのつもりつもった恨み言を言い「いつの世ににかは忘れ申さん。やがて思い知りたまえ」と言って亡くなったが死骸を山に捨てて、弔いもしなかった。
死して七日目の夜半のころこの女房が腰より下は血潮にそまり、長い髪をさばき、顔は緑青のようでお歯黒をつけ、鈴のような眼を見開き、口は鰐のようで、宗兵衛の寝間にやって来た。
氷の様な手で宗兵衛が寝ている顔を撫でれば、宗兵衛も身をすくめてしまった。

女房はからからと打ち笑い、宗兵衛のそばに寝ていた新しい妻を七つ、八つに引き裂き、舌を抜いて懐へいれると「それでは、帰ると致しましょう。また明晩参りましょう。長年の恨みをはたしましょう」と言って消え失せた。
宗兵衛は驚き、貴僧、高僧をたのみ、大般若を読み、祈祷をし、あくる夜は、弓、鉄砲を門や戸口、窓口などに防備をかためて待ち構えていると、夜半頃かの女房がいつのまにかやって来た。
そして、宗兵衛をつくづくと眺めていた。
宗兵衛はなにやら後ろ寒く覚えて、振り返ってみるとかの女房、きっと見つめて「さても、用心ぶかいことであるな」と言って、宗兵衛の顔を撫でたかと見えたが俄かに凄まじき姿となって、宗兵衛を二つに引き裂き、あたりに居た下女を蹴殺して天井を蹴破って、虚空にあがって消えていった。
『生きながら地獄に落つる事』-片仮名本・因果物語より-

肥前の国、雲仙岳へ三人で一緒に参詣した。
一人は、豊後の町人、一人は出家した僧で肥前の人、もう一人は浪人であった。
出家していた僧の寺に宿を借りていた。
この坊主、地獄(温泉地などで熱湯がたえず吹き出している所)湧き出ている所へ少し指を差し入れて「そんなに熱くないなぁ」と言って指を引き出したら、彼の指は熱くてかなわず、また指を入れると熱さがやんだ。
これで心地よいと指を引き出すと、いよいよ熱さ増して耐えかねて、また指を入れてとにかく引出す事が出来なくなった。
次第次第に深く入れていき腕がみんな入ってしまった。
また引き出してみれば、いよいよ熱くて耐えられず、終いには体すべて入って、頭だけ出して一段と心地良くなった。
去っていきながら「下に強く引かれていく」と言って、最後には目を大きく見開いて、恐ろしい事だと悲しみながら入っていってしまった。
二人の同行者はあきれて、泣く泣く帰っていったという。
『狐、産婦の幽霊に妖(ば)けたる事』-平仮名本・因果物語より-

寛永二年のころ、京に上って、逗留した時に二村庄二郎が語った事にはこの頃気の毒な事があったという。
立花町と云う所に、白かね屋与七郎と云う者の女房が難産して亡くなってしまった。
その夜より、かの女房の亡魂、産新婦(うぶめ)となって、裏のかたなる窓のもとへ来て赤子を泣かせていた。
その凄まじさはかぎりなかった。
あたり、近所の者達、若い女の子達は恐ろしがって、日が暮れると戸を固く閉めて、顔も出さなくなった。
与七郎、口おしく思い村の長老にたのんで、仏事を行い、山伏を呼んではいろいろ祈祷を行なったが少しも効果が無かった。
毎夜来て泣いている時に、与七郎は隣に回って、垣根の隙間より伺い見ると、本物の産新婦ではなく大きな古狐であった。
憎く思って、半弓を持って射ると、狙いを外して狐の後足に当たった。
四、五日ほどしてから、かの狐、与七郎にとりついて口ばしり「いかに我が遊ぶ所を、弓で射るとは腹立たしい事よ。それが良い事かこれが良い事か」と言いながらさまざまに狂った。
後に与七郎は死んだと申された。
『小笠原殿家に、大坊主ばけ物の事』-諸国百物語より-

慶長年中(1596-1615)に、小笠原の何がしの内儀、年齢四十四、五にて疱瘡にかかったが重大な事になって、小笠原殿も、次の間にて薬の相談などをしている時に、奥の間より奥方付の老女、腰元たちが「恐ろしい事がおきています」と駆けつけてきた。
小笠原殿が奥の部屋に入って見てみると、屏風の上より、真っ黒な大坊主がお内儀を見て笑っていた。
小笠原殿は、刀を抜いて、切り払うとこの坊主は消え失せた。

あくる夜もまた来るだろうと思って、侍どもを奥へ呼んでおいて、侍どもが待ち構えている所へ、案の定、昨夜の坊主がまた屏風の上より頭を出した。
「何物なれば、このように化けてでるのか」とかの坊主、内儀を引っつかみ、天井を蹴破ってあがろうとしたところを侍たちは御内儀に取り付いて引きとめようとした。
坊主は上へ引き上げようとした。
この勢いで、御内儀を二つに引き裂き、首を引きちぎって取って消え失せてしまった。
その後一年ほどの間は、殿が雪隠へ行くと冷ややかな手で、腿を撫でられたり、雪隠の掛金を、外から掛けられたりと色々の不思議な事が続いたという。
『恋ゆえ殺されて、その女につきける事』-平仮名本・因果物語-

伊勢の国、かとりと云う所に、浅原七右衛門という牢人がいた。一人娘を持っていた。
その姿かたちは麗しかった。
召抱えている者のうちに、猪之介という二十四、五の男がいて、この娘に想いをかけていて他人が見ていない隙にいろいろと言い寄ったが、彼女は彼になびかなかった。
かくして、猪之介は患って、床に臥すまでにはならなかったものの、物も喰わず、顔色も悪く、痩せ衰えていった。薬をつけて、治療すれどもどのような病気か不明だった。
日をかさねてのちに、猪之介はひそかに、傍らの下女に語った事には「それがしの患いは、別の事ではなく、このように秘めた恋がかなわなかったためである。
このままならばきっと死んでしまうだろう。後の世こそ悲しく思う。
私が執念深く迷ってしまったら、むすめ子にも不幸になるに違いない」と涙を流して、語った。

下女はそれを聞いて、大いに驚いて、娘の母に語れば、その母も肝をつぶして、七右衛門に語った。
七右衛門は大いに腹をたてて「代々仕えてきた奉公人が、主の娘に想いにかけてその望みがかなわないからといって、わが娘の一生を呪うとはなんと憎い事か」と臥している猪之介を引き出して、首を刎ねてしまった。
その夜より、かの娘の目に猪之介の亡霊が現われ見えて恐ろしい事かぎりなかった。
さまざまに弔いをし、門にも窓にも寺社の御符を貼っても防ぐ事は出来なかった。
後には、夜昼なく側についてはなれなかった。亡霊は娘のみに見えて、他の者には見えなかった。
それゆえ、娘も患い、最後には亡くなってしまった。
『女の一念、来て夫の身を引きそひて取りてかへる事』-善悪報ばなし-

丹州の田辺(京都府舞鶴市)にある商人がいた。
毎年越前の福井に下がり、半年ばかりづつ居ては、京に戻っていた。
ある時から田辺にいた妻を見限り捨てて、福井に住み続けた。
いつも一緒に遊んでいた友人がある女性を紹介した。
この男、この女にほだされて、国元の事を露も思い出す事もなくなってしまった。
然るに田辺にいた女房は、夫がいつまでも帰って来ないばかりか、便りもないので「一体どうしたのだろう」と案じて患っていた所に、
ある人が来て「その方は福井での様子はよくは聞いていないが、過ぎた春の頃、さる方より、お似合いの妻を持たれた、と聞いた。然らば便りがないのも当然だ」と言った。
女房は、この事を聞いて、大いに驚き「このような事とは思いもよらず。今日は音信があるだろう、明日には便りが届くだろうと明け暮れて暮らしていた。
心のほどの愚かさよ。
さても世の中に、女の身ほどはかない物はない。
たとえ福井にとどまっていても、それは夫のある事なり。
さりながら我は、このように捨てられるとは夢にもしらず。
ああ、くやしい腹だたしい」と起き臥しごとに、激しい怒りを思い焦がした。

そして、一念の悪鬼となって、福井へ行って、夜な夜な夫を責め続けた。
この霊の来た時は、大きく屋鳴りして、いずこともやって来ては夫の前にひざまづいて、血の涙を流して、ひたすら恨みを言っては、つく息を見るとまさしく炎を吐いていた。
夫はどうしようもなくて、巫女や山伏を呼んで、祈らせても効果はなかった。
ある徳のある僧が言うことには「そのような霊がきた時には、経帷子(経文を書き入れた帷子)臥していれば、なんの事もあるまい。それがしが書いてあげよう」といって即時に書いて渡した。
日が暮れて、この帷子を取って打ちかずき伏した。霊が来ても、この帷子に恐れて、近づこうとせずに遠くに控えて、ただ恨めしく眺めては、はらはらと泣いて帰った。
夫は嬉しく思ったが、ある時油断して、臥した上に軽く引っかけて寝てしまった。
件の霊が来て、恨みをかずかず言って「ああ、にくい」と聞こえた。
はっと思って見るとあたりに血が流れていた。
「これはどうしたことか」といって我が身を見ると、左足の腿を引っかかれていた。
はじめは何ともなかったが、次第に痛み出して暫くして亡くなってしまった。
『尼が崎伝左衛門、湯治してばけ物にあひし事』-諸国百物語-

摂州尼ケ崎(兵庫県尼崎市)に伝左衛門という人が居た。
有馬に湯治に出かけた時に何処ともなく美しく若い女が一人でやって来た。
「わらわも湯に入れてくださいな」云ったので、女であればと伝左衛門もゆるして入れてやると、この女は伝左衛門の背中の垢を掻いてあげましょうといったので背中を掻かせてやると、いかにも気持ちよく、垢を掻かせながらとろとろと寝入ってしまった。
すると、いつのまにか、背中の肉が少しもなく、骨ばかりになって、女はいつのまにか消え失せてしまっていた。
『生きながら女人と成る僧の事』-片仮名本・因果物語-
其の一
武州江戸、ある山の学徒、実相坊は、無類の学者にして、高慢であったが、江州坂本真清派に入って法談を語りだすと、僧や俗人はこれを尊ぶ事限りなかった。
それより信州に行って、ある家に一泊した。亭主が御馳走してくれて、留まっていたら傷寒(チフスなどの激しい熱病)を煩って、七十日ほどして回復して行水をすると、男根が落ちて女人となってしまった。
それより学んだ才智、文学などをみな忘れて愚人となってしまった。
力を無くして酒屋の婦と為った。
その後、彼の山の宗徒が街道を通っていた時、酒を飲もうと四、五人でその店に立ち寄ると彼の女が涙を流して悲しんだ。
僧衆が不思議に思って尋ねるとありのままに語ったという。

其の二
上州藤岡から武州秩父へ経帷子売りに行く僧が山家の町に入ってある酒屋へ入って見ると、この前に会った僧に似た女房がいた。
この僧を見て隠れてしまった。
不審に思っていたところに暫くして酒売りに出かけていったが、顔を隠して直には見せないようにしていた。
このときに「あなたは私が知り合いの僧に似ていますが、もしかして其の姉か妹ですか」と聞くと、黙って涙を流して奥に入っていった。
あたりの人にこの女の来処を尋ねると「上野筋から来たと云っていたが、親類は知らない」と答えた。
また帰りに立ち寄って、彼の女を呼び出して訪ねると「私はあなたの旧友の何某ですが、何となく煩って、ふと男根が落ちて女となりました。もはや、子供が二人います。無念の次第です」と泣く泣く語ったと言う。
『天狗の鼻つまみの事』-曾呂利物語-

三河の国に道心という坊主がいて、すべてに付け、恐ろしいという事を露ほども感じた事が無かった。
平岡の奥に一軒の神社があったが、ここは人が訪れずに深山幽谷であれば、いつしか神主も何処とも無く消え失せて、跡をとどめていなかった。
しかるに、道心は社僧となって年月がたったが、糧料などがいつも乏しかった。
人家まで遠いとはいえども、こころざしある人にたよって、毎日の糧をもらっていた。
ある時在所に出て暮れ頃に帰っているときに、寺近くに死人があった。道のほとりであったので、腹を踏んで通るとこの死人が坊主の裾を咥えて引きとどめた。
立ち戻って腹を押さえると放した。
腹を踏むと口を開き、足をあげると口を閉じる。
これは、有り得ぬ事と思って通ったが、何者であればこのような事をするのだと不審に思い、まず夜が明けてから片付けようと思い、寺の門前の大木につよく縛っておいて、道心は中に入って眠ってしまった。

夜が更けて「道心、道心」と呼ぶ声がした。
例によってすべてに驚かぬ者であるので眠気もしたのでそのままにしておいた。
彼の者の呼び声が止まって「私を何で縛るのか解け、解け」と言い出したが、なお取り合わなかった。
「ならば、自分で解こう」といって縄をぶつぶつと切って寺に入り、戸を開けて入ろうとする時に「何者だ。まて」と太刀を抜き斬りつけた。
右の腕を肘のところからぶっつり切落とした。
「あっ」という声がして消えてしまった。
程なく夜も明けてきて、彼の社に毎朝、詣でにくる老女がいたがいつもと同じ様に来て「今夜、お坊様は恐ろしい事にあったと聞いたが、本当ですか」と言った。
「いやいや恐ろしくは無いが、昨夜にしかじかの事があった」と語ると老女は「その手を見せてください」と言ったので、取り出して見せると「私の手だ」といって自分の手にさし接ぎ、門の外に出たかと思うと、またもとの暗闇となった。
この時に初めて驚き、気を失ってしまった。
次第に夜が明けて、いつもの老女が来ると気を失っている坊主に驚いて、在所に行って人を多く呼び寄せて手当てをすると気がついた。
それよりこの坊主は、普通の人のように臆病になって、この場所からも去って行った。
常に自慢する者は天狗の鼻をつままれるといわれる。何事によらず高慢な者は禍に逢うという。
『安部宗兵衛が妻の怨霊の事』-諸国百物語-

豊前の国、速水の郡に、安部宗兵衛という者がいた。
つねづね、女房に邪見にあたっていて、食物も喰わせなかった。
女房はこれを悔しく思って患ってしまったが、薬を飲ませようともしなかった。
なおなお辛くあたっていて、女房は十九歳の春についに亡くなってしまった。
すでに息絶えようとした時に、宗兵衛にむかって年月つらかった恨みを言い、「いつの世になろうとも、忘れる事は無い。やがて思い知りたまえ」と言って亡くなったが死骸を山に捨て、弔いもしなかった。
死して七日目の夜半頃、かの女房、腰より下は血潮にそまり、丈なる髪をさばいて、顔は緑青のようで、お歯黒を黒くつけ、鈴のような眼を見開き、口は鰐の如く、宗兵衛の寝間に現われて、氷のような手で、宗兵衛の寝ている顔を撫でると、宗兵衛も身をすくめてしまった。
女房はからからと打ち笑い、宗兵衛の側に寝ていた新しい女房を七つ、八つに引き裂き舌を抜き、懐に入れて「もはや帰りましょう。また明晩参り、年月の恨み果たしましょう」と消えるように去って行った。

宗兵衛驚いて、貴僧高僧を頼んで、大般若を読んでもらい、祈祷を行ない、あくる夜は、弓、鉄砲を口々にかまえて、防備をかためてまちかまえていたが、夜半頃、かの女房いつの間にか来ていた。宗兵衛の後ろに現われ、つくづくと眺めていた。
宗兵衛はなんとなく、後ろが寒く感じて、振り返ると、かの女房、きっと見て「さてもさても用心きびしき事かな」と言って、宗兵衛の顔を撫でたかとみえたが、俄かに凄まじき姿となって、宗兵衛を二つに引き裂き、あたりにいた下女を蹴殺し天井を蹴破って虚空にあがっていった。
『女の生霊の事』-諸国百物語-

相模の国に信久という身分の高い男がいた。
この人の奥方は土岐玄春という人の娘であった。
かくれなき美人にて、信久は寵愛していた。
腰元に常盤という女がいて、これも奥方に劣らぬ美貌の持ち主であった為、信久はおりおり常盤の部屋に通っていた。
常盤はそれより、なおのこと奥方に奉公していた。
ある時、奥方が患って次第に病状も悪化していき、信久が不思議に思い 「もしかして、他人の怨みではではないか」と高名な僧を頼んで、祈祷をすると、僧は、経文をもって占い「この病は、人の生霊がついているからです。
依り憑けという事を行なえば、その生霊の主は、必ず現われるでしょう」と言った。

信久はこれを聞いて「よきようにお頼み申す」と言えば、僧は十二、三歳の女を裸にして身体中に法華経を書き、両の手に御幣をもたせ、僧百二十人集めて、法華経を読ませ病人の枕元に壇を飾り、蝋燭百二十丁をともして、いろいろの名香をたき、息もつかずに経を読み出すと、案の定、依り憑きの十二、三歳の女に生霊がついて、語り始めた。
僧はなおなお力を得て、経を読み出すと、そのとき、常盤が壇の上に現われた。
僧が「まことの姿をあらわせよ」と云うと、常盤は衣文をひきつくろい、打ちかけをして出てきて、小袖をぱっとおおうと、百二十丁の蝋燭が一度に消えると共に奥方も亡くなった。
信久は無念に思い、かの常盤を引き出して、奥方の追悼のために、常盤を牛裂きの刑に処した。
『夢争いの事』-曾呂利物語-

都にある男がいて、正妻を持たずに、腰元として二人の女を召抱えていた。
一人は出雲の国の者、一人は豊後の国の者であった。ある時、二人の女が昼寝をしていた。
二人の間は畳半畳ほどであった。然る所に、奥の座敷から女の声でうめく音がした。
不思議に思い、男がしのんで駈け寄れば、二人の女の身の丈ほどの髪が、空に向って生い上り、上では一つに乱れ合っては落ち、または両方へ分かれたりして、なかなかの凄まじさで口に表わせないほどだった。
そこで二人の女の枕元を見れば、小さな蛇が一尺二、三寸ばかりではあるが、二匹お互いに舌を出して、喰い合っては退きあっていた。
このとき一人の女が事の外歯ぎしりをしてうめいていた。
これを見て、男は肝をつぶして、あきれ果ててしまった。

しばらくして、男はいつものように声を出して女達を起した。
すると二匹の蛇はそのまま分かれて、女の胸に上がったかと思うとそのまま消え失せた。
長い髪はいつものように美しく、解いて結んだままだった。
そこで男は二人を一緒に起すと目を覚ました。見れば二人とも汗を流していた。
男は、「なにか夢でも見たのではないか」と尋ねると「いやいや、夢も見ていません」と答えた。
一人の女は「不思議な事に、人と争ったような気がします」と答えた。
そこで男は恐ろしく思って、それから二人共に暇をやり、その上に独り身で暮らしたと言う。
引用元
㊧伝説または逸話㊨
【左】続・伝説または逸話【右】
【左】続々・伝説または逸話【右】
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